第12話 聞こえてきた音
「マスター、梅雨明けっていつになりますか。」
「まだしばらくは雨が続きそうですね。静かですがもう少しお客様に来ていただけるとたすかります。」
客のいない喫茶店内で声は雨音に消えていく。帰り道で余計な事をしてしまったとため息をついた。俺にしては踏み込みすぎた。
「逃げていくとは言いますが、もう逃げるだけの幸せも無くなってしまいますよ。」
「そんなにしてました?」
「時人くんにしては珍しく。」
クスクスとマスターは楽しそうに笑った。
「何があったのかは存じ上げませんが、がんばって悩んでください。」
そう言ってマスターはコーヒーを一杯淹れてくれた。いい香りだ。
いただきます。と一言告げて味わう。落ち着く味だ。
バイト終わりまで客はほとんど来ることがなく、マスターと話しただけで今日は終わった。
「時人おはよ。」
竜が眠そうな顔をしていた。昨日は遅くまでバイトだったようで疲れている顔をしている。
「店長がなかなか帰してくんなくてさー、もうあそこは駄目だ。やめる。」
どうやら最近始めた飲食店が合わないらしい。高校生になってまだ日は浅いが既に何件かバイトをやめていた。続けたくなる職場に出会うまで諦めない。と固く誓っているのを前に聞いたのを思い出して今回も駄目だったかと笑った。
「ドンマイ。次はいいとこ見つかるよ。」
「ほんと適当だなー。」
竜はカラカラと笑った。
「時人のそういうとこあるからなー。……長月さんもそう思うだろ?」
「え、あ、はい。そうですね……。」
いつの間にか来て席についていた彼女に唐突に振った。相変わらずだ。
「急に振られても戸惑うだろ。悪いな長月。こういう奴なんだ。気にしないで。」
「こういう奴って何だよ。」
長月が苦笑いしているのをみて更に竜が笑っていた。
どうやら梅雨明けはもうすぐらしい。テストの返却から数日たってようやくの晴れ間だ。久々に外に洗濯物を干すと取り入れるのを忘れていた。夜になって思い出してベランダの窓を開けて洗濯物を取り入れる。と、ピアノの音が聞こえた。どうやら隣人が練習しているようだ。
たどたどしい和音が聞こえて自分も最初の頃はそうだったなと、微笑ましい気持ちになる。
ちゃんと練習しているようで何よりだ。そう思って部屋に戻ろうとしたときだった。
指いっぱい広げて鍵盤を叩いたような音が鳴ったかと思えば
「ぜんっぜん弾かれへん!なんなんこれ!」
と彼女の叫び声が聞こえて思わず笑ってしまった。どうやら思い通りにいかなかったようだ。
すると隣の部屋の窓が開く音が聞こえた。笑ったのが聞こえたようで隣人もベランダに出てきたらしい。
「水樹くん、なに笑ってんの?」
ベランダには緊急避難時には蹴破れる壁がついているが、外に乗り出せば顔を見ることができる。彼女はこちらを睨んで笑ったことを非難した。
「ごめん、うまくいってないみたいで面白くて。」
「面白くなんかないんやけど?……ちょっと待ってて。」
そう言い残して彼女は部屋に戻った。あの帰り道以降はなんとなく気まずくて長月とはしても挨拶程度であまり話すことはなかった。竜や桐島が話しかけているのを何度か目にしたものの盛り上がっているのは見ることはなかった。
待ってて、と言われた以上仕方なくベランダで待つと数秒たってチャイムが鳴った。
宅配便を頼んだ記憶もないしタイミング的に誰の来訪かはわかるが一応ドアスコープを覗くと、薄手のグレーのパーカを着た隣人がそこにいた。
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