第124話 穏やかな日々
「おかえりなさい。時人くん、バイトお疲れ様でした」
「ただいま。ありがとう。お腹すいたよ」
玄関の扉を開けると、リビングからぱたぱたとスリッパを弾ませて朱音が出迎えてくれた。ニコニコと笑うその顔を見るとアルバイトの疲れなんて吹き飛んでしまう。もっとも今日は忙しくなくてそこまで疲れていなかったけれど。
「……時人くん、今日は忙しかったのですか?」
「え、そんなことないけど。疲れて見える?大丈夫だよ」
朱音には違って見えたらしい。心配そうにこちらの顔を見つめるその視線がくすぐったかった。心配させないように朱音の髪に触れる。玄関先だしお腹も空いているが俺にとってはそんなことより朱音のほうが大事だ。
「時人くん、少し声枯れてます」
「あー。今日マスターの知り合いの客が来てて、せがまれたから少し弾き語ってた」
気づかなかったが多少声が変だったようだ。喉に違和感はないので問題はないと思う。だが、朱音は心配になったようだった。風邪とかの予兆もないし明日には戻っているだろう。
いや、朱音の表情がさっきとは違う気がする。心配じゃなくて、これは……きっと。
「もしかして朱音も聴きたかった?」
「……はい」
少し照れながら朱音が不満そうな顔を見せた。そんな朱音に思わず笑ってしまう。
「また朱音に歌うよ。それこそ今日でも」
「ありがとうございます。でも今日はいいです」
俺の言葉を聞いて朱音は微笑んだ。撫で続けている髪に触れる手に朱音も頭を寄せる。
「いつでも言ってくれていいから。朱音のために歌うの好きだし」
「えへへ。嬉しいです」
「……でも、そろそろあがっていい?ご飯食べたい」
ようやくここが玄関だってことに気づいたらしい。朱音がさらにクスクス笑った。準備できてますよ。と朱音がリビングに戻っていく。俺も手を洗ってから朱音に続いた。
「ありがとう朱音」
晩ご飯と片づけを終えて朱音とソファでお茶を楽しむ。今日はバイトもあって遅くなったからレッスンは無しだ。ゆっくりしたら朱音も自分の家に帰るだろう。
「いえいえ」
穏やかに笑って紅茶を飲む。朱音のそれはレモンティーらしい。ふわりと漂うレモンの香りが鼻を擽る。
「あのさ、今日の昼のことなんだけど」
少し話をしておきたかったこと。朱音は何も思ってないどころか煩わしそうにしている有村だがこれからもちょっかいをかけてくることは想定できる。
「あの方のことですか?」
「あの男子、有村って名前らしいんだけどこれからも何かしてきそうだから」
「……しつこいです。あの人」
心底鬱陶しそうに朱音が呟く。怒りが伝わる表情だがそれでも可愛いと思ってしまう辺り俺も相当かもしれない。
「次にもし何かあればすぐ言ってほしい。何でも」
気にしすぎかもしれない。だけど今日、朱音は気にしていなかった。友里が言って、稲垣が接触してこなければ俺は知ることがなかったのだろう。
ロッカーの前で声をかけられた時のことを思い出す。引き際は弁えていたものの、待ち伏せされていたり、有村の嫌な部分が目立った。
朱音が、俺の恋人である朱音が粉かけられていていい気分にはならないし、気にはしておきたかった。
……束縛。ととられるだろうか。
「はい。わかりました」
俺の心配をよそに朱音はクスクスと笑いながらこちらにしなだれかかる。
「時人くんはすぐに心配しますから」
「当たり前だろ。というか朱音もそうだし」
帰ってきてからの様子を思い出す。本人である俺すら気づかないほどの声の違和感に気づいて心配していた朱音。
俺の言葉の意味がわからずぽかんとしていた朱音に小さく笑って髪を撫でる。朱音は気にしないようにしたらしくそのまま嬉しそうに撫でられていた。
……有村のことはなんとなくわかったもののあの稲垣の意図がよくわからない。
昼には有村を諌めたらしいが、それなら放課後に声をかけてきたのも謎だ。わざわざそんなことで謝りに来るだろうか。部活前に時間を作ってまで。
それにあの笑顔がなんともうさんくさい。第一印象が悪かったせいか良い印象が彼に全く持てない。
竜と萩原にもそうだったし、いきなり声のかけ方が交際に関することだったのが気分が悪い。
俺がとなりにいるのがわかっていながら声をかけてきた有村といい二人とも軽く思える。
……読めないのが怖い。まだ有村の方がマシに思ってしまう。
「時人くん?どうかしましたか?」
「……なんでもないよ」
何かを察した朱音がこちらを見上げる。
俺が守る。とまで言い切ることはできないけれど、朱音には楽しく日々を過ごしてほしい。撫で続ける手を止めずに微笑み返す。
「そういえば今日マスターが文化祭のことを知ってて。朱音もしかして大須に教えた?」
「はい。ちょうど昨日大須くんとチャットしたところですね。マスターさんも大須くんから聞いたのでしょうか」
ふと思い出したマスターの茶目っ気の正体に気づいて朱音に問うとその通りだったようだ。マスターの悪戯っぽい笑みは朱音が関わっていたかららしい。
有村たちのことなんて楽しくない。そう思って話題を変えたが、朱音は不思議にも思わなかったようで安心する。俺から振っといて何だと思われるかと思ったがそうでもないようだ。
「あー多分そうだろうな。ってことは大須もしかして来たがってるんじゃないか?」
「さすがですね。その通りでした」
朱音がくすくすと笑って肯定した。俺たちが通っている高校の文化祭は完全招待制となっている。生徒が事前に招待する人の分チケットを申請しておかないと親でも学校に入ることができない。誘う人のいない俺には関係のない話だが。
「時人くんも大須くんとご一緒でもよろしいですか?」
だが、どうやら朱音は既に大須を招待していたようだ。まあ祭りなんてものを知った大須がせがむのは予想のつくことだ。
というより朱音の中で俺は既にいっしょにいることが決まっているのが少し嬉しい。
「しっかり手綱握っておかないとな」
はしゃいで騒ぎまわる大須の予想もつく。それも年相応で可愛らしいがまわりに迷惑もかけそうだ。
「よかったです。大須くんも楽しみにしてるそうですし」
「想像はつくな」
朱音は楽しそうに笑っていた。マスターさんと来るそうです。と朱音がスマホのメッセージの画面を見せる。昨日の日付で大須とチャットが続いていた。
「時人くんは誰か招待を?」
「いや、しないかな。……朱音は」
他に招待を?と言いかけて踏みとどまる。まだ俺は親とか招待送る先はあるが、朱音は地元も離れて唯一近くにいる親戚の祖父母も親しくない。
「?」
名前を呼ばれて止まった俺に朱音が不思議そうな顔を見せる。言いかけた言葉を察していないようで助かった。
「文化祭楽しみ?」
「……もちろんです」
俺自身、これから準備とかで忙しくなるのが若干憂鬱ではある。
よくはないが座学だと寝ることもできるし、座っているだけで終わるが準備となるとそうはいかない。
だけど隣で楽しそうにしている朱音をみると少しその気持ちも変わってくる。
だってきっと朱音はいつだって隣にいてくれるだろう。退屈に思えるそれも朱音と一緒なら楽しめそうだ。
「あ、月子さんも楽しみにしてるみたいですよ」
朱音がぶちこんだ爆弾で思わず真顔になる。母親と親しくしてくれるのはありがたいが、これは予想外だ。
思わず乾いた笑いが出るのだった。
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