第106話 嫉妬と感情の制御
「先、お風呂入っていいよ」
帰り道の途中、朱音が泊まりたいとねだったので二人揃って俺の家にいる。といっても時間的に後はもうお風呂に入って寝るだけだが。
ありがとうございます。と、朱音が風呂場に向かった。既に湯は張ってある。夏でも湯船派の朱音が好みの入浴剤を使うので朱音の後だと風呂場はいい匂いがする。
朱音が居なくなったのでリビングはテレビの音しかしなくなった。流れている音楽番組を何となく見ながら時間が過ぎるのを待つ。
聞き覚えがある曲が流れた。今日のカラオケで桐島が歌っていたそれの本家本元を聴くことになったが既に違和感がある。桐島の歌に慣れてしまっているらしい。
相変わらず最近のチャートは知らない曲が多い。アーティストも様々で知らない人のほうが多かった。
音楽番組は好きだ。自分の知らない曲を知る機会になる。サブスクで聴いていると同じジャンルで固まってしまうので新しいジャンルの開発のきっかけになりえるのもあってなんとなく見ることが多い。
母親の風呂は長かった気がするが朱音はそんなに長く入らない。いや、俺の家だから気を使っているのかもしれないが。
音楽番組が終わる頃にドライヤーの音が聞こえた。朱音はお風呂から上がったらしい。
着替えを準備して待っていると朱音がタオル片手にリビングに戻ってきた。
「すいません。お待たせしました」
「全然待ってないよ」
ホカホカと湯気が立っているような朱音は十分温まったようだ。頬を上気させて髪の毛がしっとりとしている様が艶っぽい。
「じゃ、俺もシャワー浴びてくるから」
「はい。いってらっしゃいです」
しゃくしゃくと朱音の髪を雑に撫でて風呂場に向かう。リビングから出た廊下は朱音の残滓の湿気と熱気があった。脱衣所は特に暑い。何度もリビングですればいいと言ったのに朱音はここでドライヤーしてから出てくる。よく耐えれるな。なんて思いながら服を脱いだ。鏡は綺麗に磨かれている。なんとなく筋肉が落ちた気がする。夏休みに学校に通っていないだけでそんなに変わるだろうか。気のせいってことにしておこう。
風呂場に入ってシャワーから水を出す。朱音がさっきまで使っていたこともあってすぐにそれはお湯に変わった。
さっと浴びて全身洗い終えた俺は脱衣所に出る。やはり暑い。体をさっと拭いて寝巻きを着る。ここで髪を乾かす気になれずドライヤーをもってリビングに戻った。
朱音はソファでウトウトしていたようだ。リビングの扉の開く音で肩をがくっとびびらせてゆっくりと振り返った彼女は少し瞼が重たそうだ。
「ごめん。起こした?」
「……いえ、そんなことないです」
「寝るだけなのに、泊まらなくても」
「……ダメですか?」
「そんなことないけど。嬉しいし」
空いているコンセントにドライヤーを繋いで髪を乾かす。リビングはエアコンがしっかりと効いていてとても涼しい。ただでさえ暑い風が出るのに暑い空間でやってられない。
ふいにドライヤーが奪われた。いつの間にか後ろに来ていた朱音が髪を乾かす。
「時人くん、鏡見ないと変なクセが付きませんか?」
「んー。朱音ほど髪も長くないしもともと強めの直毛だからなあ」
あちこちからドライヤーの熱風を当てられる。ドライヤーを揺らしながら髪に当てるのがいいらしい。ダメージが少ないとか前に朱音が言っていた気がする。
「そうですね。綺麗な髪してます」
「なにそれ」
くすくすと笑っているのが遠くで聞こえた。ドライヤーの風の音でかき消されながらも朱音は楽しそうに話していた。
しばらく経って終わったようで朱音がコンセントを抜いた。それを預かって洗面所に戻す。
リビングに戻ると朱音はもうソファに帰っていた。ひとまず隣に腰掛けようとして朱音のグラスが空になっているのが見えた。
「朱音何かいる?」
「いえ、もう大丈夫です」
朱音はグラス片手に立ち上がってキッチンに向かう。俺も何か飲もう。冷蔵庫を開けて物色する。コーヒーや紅茶の気分ではない。
「時人くん、牛乳のむならちゃんとグラスに注いでくださいね」
「……飲まないって」
一瞬牛乳に伸びた手が止まった。グラスを洗っていてこちらを見ていなかったはずなのに朱音は察していたらしい。
なんとなく悔しいので箱買いしている炭酸水のペットボトルを一つ開けた。強めの炭酸が小気味のいい音とともに少し抜ける。
半分ほど一気に飲み干す。強い刺激で喉が焼けるようだ。でもそれが心地よい。
「……炭酸水の美味しさだけはわかんないです」
「俺も最初はそうだった」
「んー悔しいです。一口ください」
「いいよ」
グラスを洗い終わって手を拭いた朱音にそのペットボトルを差し出す。おずおずと口をつけた朱音が一度ごくりと喉を動かして口を離した。
「……苦いです」
「あー。水なのにちょっと苦味感じるよな」
そもそも朱音はそんなに炭酸が好きじゃなかった気がする。炭酸飲料を飲んでいるところをあまり見ない。
朱音から帰ってきた炭酸水をそのままもう一度飲む。風呂上りだというのもあって残りは僅かだ。
「美味しいですか?」
「美味しいというか、炭酸って感じ」
「意味わからないです」
困り顔に眉を下げる朱音に思わず笑ってしまう。正直自分も美味しいと思って飲んでいない。喉越しっていうものを味わっている感覚だ。
朱音の反応に笑っているとソファにおきっぱなしのスマホがなった。絶えず鳴っているそれは着信のようだ。残り僅かのペットボトル片手にソファに向かう。画面には萩原の名前が写っていた。
『はい?』
『あ、水樹?お疲れ様。今一人かしら?』
俺のスマホにかけたのなら俺がでるはずだが。一人と聞かれてちらりと朱音に視線をやる。
『……いや。ちがうけど』
『え。……あー、もしかして朱音ちゃん?あなたたちまだ帰ってなかったの?』
萩原は朱音が俺の家で泊まるという予想はつかないようだ。もっともばれたくもなかったが。
『いや、俺の家でゆっくりしてる』
『……そう。いいわね』
『で、どうした?』
『あの、ちょっと水樹だけに聞きたいんだけど』
『あーちょっと待って』
だけ。と言うからには朱音には聞かれたくないのだろうか。話の内容的に今日の誰かだと察した朱音が不思議そうにこちらを見ていた。残り僅かなペットボトルをテーブルに置いてから、朱音の髪を軽くなでて寝室に向かう。扉さえ閉めれば聞かれることもないだろう。
『一人になったけど』
『悪いわね。お楽しみのところ』
『構わない。お楽しみではあったけれど萩原も用事があるんだろ?』
スマホ越しに萩原の笑う声が聞こえた。少し耳がくすぐったい。ベッドに腰掛けて会話を進める。
『お楽しみだったのね。……あのね、竜くんのことなんだけど』
萩原はゆっくりと語り始めた。
竜との関係性について。あらためて今日思うところがあったらしい。未だに桐島には話していないらしく俺に助言を求めているようだった。
『……やっぱり私って、あまり意識されていないのかしら』
『あー。どうだろう』
以前、俺の家で朱音と竜と三人で話したことを思い出す。
『全く意識していないというわけではないとおもう。ちょっと前に竜は萩原のこと美人だって言ってたし』
『そ、そう。……え、なんでそういう話に?』
『えー。たまたま?』
あまり詳しく話すわけにはいかない。いや、萩原とは想像つかないと言っていたと全部語ってしまってもいいのだろうか。想像がつかないだけで否定の言葉ではないと思うし。
桐島に対しては色々思うことがあると、いいなとは思っていると言っていたが、それを萩原に告げるのは違う気がする。
『……そう。たまたまね』
萩原は俺が言わないと察してくれたのだろうか。
『ねえ水樹。今度また今日のメンバーで遊びに行くじゃない?』
少し声が小さくなった萩原が言っているのはここの近くの祭りのことだろうか。友里が日付を調べてくれていてグループチャットに情報が乗っていた。もちろん皆で参加する。
初めての友だちとの祭りに少しわくわくしていたので日付もしっかり頭に入っている。
『祭りのこと?来週の』
『そう。その日に……竜くんと二人きりにしてほしい。って言ったらダメかしら』
『ダメではないと思うけど。そういう雰囲気というか能動的に二人っきりにするには俺には荷が重いと思う。それでもよければ』
グループで遊んでいてその途中に二人だけにする方法なんて思いつかなかった。なんとかなるだろうか。
『……いいの。私自身なんとかするから。背中だけ押してもらえれば』
『それは……かまわないけど。萩原は……その、竜に想いを告げるのか?』
『ええ。もうあまり悩むのも嫌だし。はっきりしたいなって』
告白。萩原はそうするつもりらしい。
純粋にすごいな。と思った。よく考えれば俺も想いを告げたのは朱音がそういう場所をつくったからというのもある。俺の周りの女性は強い。
それでも竜がどう応えるかわからない。想像つかないだけで萩原がそう行動することで何か始まるかもしれない。
あの日、竜は桐島のことがいいなとは言っていたけど好きとまでは言っていなかった。
俺は竜とも友だちだし、萩原とも桐島とも友だちと思っている。
竜が萩原を受け入れるのか、桐島への想いに確信を持つのかわからないけど決めるのは竜だから俺は何かするわけもない。ただ萩原が行動を起こしたいと思っているなら応援したいとも思う。
『わかった。俺にできることがあれば何でもする。微力ながら応援させてもらう』
『あら、微力なんて。頼りにしてるわよ』
『できることあればいいけど。萩原強いから』
またも萩原がくすくす笑う声が耳元で聞こえた。
『褒められてるのかしら?それは。まあ悪い気はしないけど』
『褒めたつもり』
『なら受け取っておくわ。ありがとう。……ごめんねお楽しみのところ』
ふと枕元の時計を見た。それなりに話していたらしい。
『そうだな』
『ほんとすぐに認めるの水樹らしいわ。じゃ、おやすみ。朱音ちゃんにもよろしくね』
『おー。お疲れ』
スマホを耳から離して通話を切る。
告白か。結局俺は萩原の背中を押しただけで何もしてないけどいいのだろうか。
体育祭からの萩原の想い。知ってはいたけど萩原の態度に変化は俺にはわからなかった。旅行でもいつも通りだった気がする。
はあ。とため息をついた。せっかく萩原が相談してくれていたのにもっと何かできたのかもしれない。自分のスキルの低さに自嘲した。
とはいえ決めるのは二人だ。気持ちを入れ替えてベッドから立ち上がる。朱音も待っているだろう。リビングに戻ろう。というかそろそろ寝る時間だ。
寝室の扉を開けると朱音はソファで膝をかかえて座っていた。机の上に眼鏡を置いて顔はしっかり埋まって見えない。眠たいのだろうか。
「ごめん。おまたせ」
となりに腰掛けて朱音に声をかける。
「いえ、待ってませんよ。……誰とだったんですか?」
隣の朱音は顔を伏せながら返事をした。
「あー萩原」
「萩原さん?何の話だったんですか?」
桐島にも言っていない萩原の気持ちを俺から朱音に言うわけにはいかない。なんて答えようか迷っていると朱音は先に口を開いた。
「……時人くんって萩原さんと仲良いですよね」
「え?まあ普通に仲がいいとはおもうけど」
「勉強もずっと教えてるみたいでしたし」
「それは得意教科の関係だろ?」
「今日も二人は二人だけの距離感ありましたし。夜ご飯のときも二人で冗談言ったりしてました」
「朱音?」
朱音は顔を上げない。でも口調と雰囲気から朱音の気持ちが伝わってきた。朱音が悲しんでいることがわかる。
「萩原さんは美人ですし、スタイルもいいですもんね」
段々と早口になる朱音。萩原に嫉妬しているようだった。
脳裏にまた依存の文字が浮かぶ。頭を左右に振ってそれをふきとばす。
「朱音、聞いて」
「時人くんカッコいいですから。桐島さんだって時人くんに想いを寄せてますし。でも私は」
ソファから立ち上がって朱音の顔の位置に合わせて少しかがむ。動いた気配を感じた朱音が顔を上げた。涙で少し滲んだまっすぐな目が俺を貫く。
「朱音。俺の話聞いて。萩原とは何もないから。なんなら今からもう一度電話して話を通してもいい。それに桐島の件も竜が言っていただけだろ?俺の好きな人は、恋人でずっと一緒にいたい人は朱音だけだよ」
朱音は言葉に詰まっていた。何か言いたい気持ちと涙を堪えているのか。
「ごめんな朱音。そんな不安にさせて」
そう思わせたのは俺の責任だ。
皆と別れてからの帰り道、夏休みが終わる寂しさを口にして、それで俺の家に来たのに。更に寂しくさせてしまったのだ。俺の気の回らなさに辟易する。
朱音の不安を、寂しさを取っ払わないといけない。涙目でいまだ見つめる朱音の顎に手をやって口付けをする。
「朱音。好きだよ」
一瞬口を離して想いを伝える。もう一度近づいてさっきよりも深く、長く。離さないように朱音の頭に腕をまわした。
朱音もそれに応えた。お互いの気持ちを確認してより高めあうように俺たちはそれを続ける。朱音の表情を確認しながら間違いがないようにより良い方向へ誘う。目を閉じたままの朱音から全てを受け入れて自分のものにするような必死さを感じた。
少し経った朱音からうっすらと限界を感じて躊躇いがちにゆっくりと口を離す。お互いの唇から銀色の糸のようなものが繋がって千切れる。それは朱音のパジャマに濡れた跡を残した。
朱音が潤ませた目を開いてこちらを見ていた。時間も経って湯冷めしているはずなのに俺たちの体は顔は熱い。お互い熱くなった体温を分け合ったかのようだった。
「時人くん……」
真っ赤に染まった顔の朱音に名前を呼ばれて頭の中で何かが千切れた。
それは押さえてたもの。俺の中で留めていたもの。
もう一度朱音に顔を寄せる。またも深く朱音の全てを飲み込むように。朱音の耳に手を当ててその穴を封じる。僅かな外の音すら聴かす気はない。
目を閉じて耳も塞がれた朱音には、俺との触れている感覚しかないはずだ。朱音の今は全てを俺で埋めつくされているはずだ。
不安も嫉妬も全て俺が塗り替える。俺だけ感じてくれていればいい。それが依存でもいい。
カタン。と音がして机のペットボトルが倒れた。蓋は閉まっていたので炭酸水が溢れることはなかったが、その音で一瞬冷静さを取り戻す。
だが、それはほんの一瞬だった。俺は朱音を抱えて寝室に移動する。
結局俺たちが寝たのはその何時間も後だった。
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