だめだめくん・ばーさす・くいーんあみだら
この小説を沢木香穂里先生に捧げます……。
歩道橋をすっかり渡り終えたところで、部屋に帰っても食料がないことに気づいた。
たしか、冷蔵庫の中には、苺ジャムと、ピスタチオと、賞味期限の怪しいプレーンヨーグルトくらいしか入っていないはずだ。あたしは舌打ちして、県道の向こう側にあるコンビニエンスストアを睨んだ。
時刻は十時を少しまわったところ。ディナーを楽しむにはちょっぴり遅い気もするが、今日はお昼に社員食堂でチキンライスを食べて以来、何も口にしていない。
いや……、苦くて不味いコーヒーなら、3杯も飲んでしまったけど。
――とにかく今夜は、ちゃんと食べておこう。でないと、きっと潰れてしまう。
ついでに酒も飲んでやろうと思い立ち、あたしはマイクロミニのスカートをひるがえしてガードレールをまたいだ。夏の夜は、アスファルトの大河に湿気った空気が停滞していて、つい半身水に浸かったまま漕ぎ進んでいるような気分にさせられる。あたしは高級ブランドのパンプスを履く足に、ぎゅっと気合いを込めた。
道路だって、世間だって、きっちり渡りきってやる。
タイミングを見計らって県道の反対側へ駆けだしたとき、レゲエだかヒップホップだか知らないが、下品な重低音を垂れ流す日産エルグランドに、クラクションを鳴らされた。
「邪魔くせえぞ、こらあ! 死にてえのか」
「うるさいわね、轢けるもんなら轢いてみなさいよ! そんな度胸もないくせに」
スモークガラスのすき間から怒鳴り散らす茶髪のおっさんに向かって、思いっきり中指を立ててやった。今日のあたしに恐いものなんてない。おっさんは、憤懣やるかたないといった表情でまだ何か言おうとしたが、後ろから来たダンプカーにパッシングされ、しぶしぶ去っていった。
いい歳こいて髪染めんなバカ、ハゲて死ね。
コンビニの前まで行くと、今度は女子高生が三人、オーバーパンツをひけらかしたワカメちゃんスタイルで、ぺたんと座りこんでいた。携帯電話をいじくり回しながら、盛んにバカ笑いを連発している。
ああもう、いくら見せパンだからって……。
自動ドアをくぐるとき、あたしは、彼女たちの横すれすれを、わざとスカートの中が覗くよう大股ですり抜けてやった。今日のあたしは、Gストリングスの透け透けパンツを履いている。大胆にも薔薇の刺繍が入ったやつだ。セクシーランジェリーの専門サイトで買い求めた、乾坤一擲の勝負下着なのだ。一瞬、はっと息を呑む音が聞こえ、彼女たちのお喋りがぴたりと止んだ。
ふん、小便くさい小娘どもめ。あんたたちなんか、紙おむつでも履いてなさい。
自動ドアが閉まる瞬間、彼女たちの忍び笑いが聞こえたことは、このさい気づかなかったことにする。
コンビニの弁当コーナーには、もうろくなものが残っていなかった。しかし、豪華ディナーを食べ損ねたあたしの胃はすっかりふてくされていて、今さら何を食べたって同じですぜ旦那、と投げやりに訴えてくる。仕方がないので、あたしは、いかにも不人気そうなトンカツカレー弁当を無造作にカゴの中へ放り込んだ。
発泡酒は、カロリーなんか無視して、ピーチ・アンド・マンゴー味というやつを選んでみる。6缶入りを2パック――全部飲んでやるつもりだ。つまみだって、ふだんなら敬遠する塩分の多いスナック菓子を、よりどりみどり、好き放題に選ぶ。
今日は、なんだって好きなものを食べてやろうじゃないの。
キャッシャーに並ぶと、高校生だか大学生だか知らないが若い男女のアルバイト店員が、いちゃいちゃいちゃいちゃしながらレジを打っていた。
「ああん、レジ袋が小さすぎて入らなあい」
「何やってんだよ、おバカだなあ、ひとまわり大きい袋を使えばいいっしょ」
「あーっ、その言い方って、ひっどーい」
カウンターの中で夫婦漫才をやってるせいで、レジの前には行列が出来ていた。イライラしながら待つこと5分、やっとあたしの順番が回ってきたと思ったら、今度は、リップグロスをべたべた塗りたくったその女子アルバイト店員が、あたしの買った商品をぼとっと床に落とした。
「やだあ、落ちちゃった」
それを男の方が、頬の筋肉を緩めながら拾う。
「ダメじゃないかあ、落としちゃ……」
あたしの脳下垂体から、ぶちんと神経線維の断裂する音がした。
「五千九百六十八円になりまあす」
にこやかに告げるアルバイト店員に代金を払い終えるや、あたしはその場でレジ袋の中から発泡酒を取りだし、おもむろにプルトップを持ち上げた。ぷしゅっと炭酸が吹き出し、甘ったるい匂いが辺りにただよう。そして唖然と見守る二人を前に、あたしは息も継がずその缶酒を一気に飲み干してやった。
一瞬、店内が静まり返った。BGMがわりに流れている「今なら、おにぎり全品三十円引き!」というアナウンスが、なんだか間抜けに聞こえる。あたしは、空になった缶をカウンターの上にばーん! と叩きつけると、特大のげっぷをお見舞いして、堂々と店を出た――。
*******
部屋の照明をつける……。
自然にため息が漏れた。
「なんて、散らかりよう……」
ベッドの上に、ソファの上に、テーブルの上に、乱雑に脱ぎ捨てられた洋服の数々が、まるでお祭りの露店に並ぶビードロ紙細工ような賑やかさで華やいでいる。今朝、何を着て行こうかあれこれ悩んだ末の、無惨な痕跡だ。浮かれながら姿見の前に立つ自分の姿を思い起こし、あたしはじわっと涙が滲んでくるのをぐっと堪えた。
泣いてなるものか。
あたしは、その場で服を脱ぎ捨てると、素っ裸のままバスルームへと向かった。
顔面でシャワーを受けてみる。
設定温度は涙と同じくらいにしてある。これで泣いてることはバレまい。
別に、だれが見てるというわけでもないけど……そう思ったらやっぱり泣けてきた。
いったん泣き始めると、上りつめたジェットコースターが一気に急降下するように、次から次へと涙が止めどなく溢れてくる。
あんの……大ばか野郎。
ふつう、ひとを2時間も待たせたあげく、やって来るなり、いきなり別れ話を切りだすか?
じつは、奥さんがいるですって?
ふざけんじゃないわよ!
これ以上、君を不幸にしたくないですって?
寝言は、寝てから言いなさいよ!
あたしに向かって、手を合わせるんじゃないわよ!
ひとが見てるじゃないのよ、この、ばーか!
ばーか!
ばかばかばかばかばか、ばかおやじっ!
閉じた目から、ぽろぽろぽろぽろ溢れてくるのは涙なんかじゃない、ただのお湯だ。
と、自分に言い聞かせる。
ただのお湯が頬を伝って足下に落ち、排水溝にどんどん飲み込まれてゆく。
ああ、こんなにいっぱい泣いたらあたし死んじゃう、すぐに水分を補給しなきゃ。
――もう今夜はヤケ酒だあ。
ずいぶんと長い時間シャワーを浴びていたような気がする。
いいだけ泣いた後、あたしはお湯を止めて深呼吸してみた。空っぽの肺の中に、マイナスイオンが満ちてゆく。……あれ、何だろう? するとどういうわけか、急に泣いていることが馬鹿らしくなってきた。
あたしは突然、くすくすと笑い出した。笑いの衝動というものは、いったん堰を切って溢れ出すともう止めることが出来ない。あたしは、タオルで髪の水分を吸い取りつつも、肩をゆらしてケタケタと笑い続けた。
ああ、あたしとうとう気が触れちゃったんだ……。
いやいや、こんなことで精神に変調をきたしてなるものか。これは、恐らくニュートン力学でいうところの、作用反作用の法則っていうやつに違いない。
――女心は複雑だ。
なーんていうのは男たちの勝手な妄想。あたしたちの精神構造は、いたって単純に出来てたりする。上司に叱られさっきまであんなに泣いていた子が、気が付くともう鼻歌をうたいながら「明日どこ行く?」なんて友だちにメールを打っている。
元々感情のスイッチが、オンとオフの2種類しかない。男のように、複雑な同調回路はついていないのだ。ただし、そのオン・オフは、目まぐるしく入れ替わる。それはもう、ぐるぐるぐるぐる……。それが男たちの目には、まるで変幻自在のカメレオンのように映り、フランス映画に出てくるアンニュイなヒロインよろしく、まるで爆発物を扱うような緊張感と慎重さを彼らに強いるのだ。
*******
バスタオル一枚のあられもない姿で、あたしはワンルームマンションの中央にどっかりと胡座をかいた。ああ、この開放感がたまらない、女王様にでもなった気分だ。
「今日からあたしのことは、香織女王様とお呼び」
ベッドサイドのナイトテーブルに置かれた小ブタのぬいぐるみに向かって言う。すぐさま腹話術のような声が返ってきた。
「はい香織女王様、わたくしめは、あなた様の忠実な下僕です。なんなりとお申し付けくださいませ」
「うむ、苦しゅうないぞよ」
適度に気分が高揚したところで、さっそく一本目の発泡酒をあけてみる。ぷしゅっと炭酸がはじけ、甘い匂いがささやかな幸福とともに広がった。今、火照った体は猛烈に水分を欲している。さあ、飲むぞ……期待感で口の中がからからに乾く。でも、熱い唇が缶の飲み口に触れた瞬間、あたしは我知らず目を閉じてしまった。今夜、キスをしそこねた悔しさに、ちくっと胸が痛んだのだ。
えーい、めそめそするな。
なかば、やけくそ気味に、冷えた発泡酒を口の中へ流し込んだ。こくっこくっと喉が上下して、体中に、そして乾ききった心に清涼感が行き渡る……。
美味しいー。
缶の半分ほどを一気に飲んでから、あたしは酒臭い息をぷはーっとはき出した。お腹が空いていたのでアルコールの回りがとても早く感じられる。あたしの目は、すでに催眠術でもかけられたように、とろんとなっていた。
ああ、美味しいなあ……美味しくて甘い……うん、この甘さが今のあたしには必要なんだよね、そう、ぜったい必要。
なんだか幸せな気分になり、あたしはそっと目を閉じた。――ついうっかり、あいつと初めてデートしたときの事を思い出してしまった。
たしか割烹料理屋だったよなあ……ふふ、じじくさい。商談が上手くまとまったことへのお礼だなんて、見えすいた嘘つきやがって、ほんとは、ずっと前からあたしのこと狙ってたくせに。
あたしは、イカの珍味を一口頬張ると、缶酒の残りをぐっと飲み干した。
ぷはーっ。
その後は、どこへ行ったんだっけ? ホテル……? そうそう、ホテルのラウンジでカクテルを飲んだんだ。あいつがマスターに向かって意味ありげに目配せすると、綺麗なピンク色のカクテルがとんと目の前に置かれたんだ。君のイメージで作ってもらった特製のカクテルだよ、なーんて言って……、でも、あれを飲んだとたん、急に酔いが回って……、たぶん、きっつーい酒が入ってたんだね。それであたしのことを一気に酔わせてしまおうと……ちくしょー、卑劣なやつめ。
ええい、忘れろ忘れろ、あんな最低オヤジのことなんか忘れてしまえ。
コンビニ袋の中から、新しい缶を取り出した。
ぷしゅっ。
同じ酒なのに、二本目はちょっぴり苦く感じた。口直しに、ポッキーを一本かじり、また発泡酒をあおった。――そして、またうっかり、去年の夏、あいつと二人沖縄へ遊びに行ったときのことを思い出してしまった。
あの若作りオヤジ、けっこうイイ具合に焼けてたよなあ……小麦色の肌ってえの、むははは、きっと事前に日焼けサロンへでも通ったんらねー。見栄っぱりめー。きゃはは。…………、夕日が綺麗らったなあ…………海もすんごく碧くて……、東京じゃあんな景色ぜったい見られないもんねー……、ふにゃあー、もう帰りたくないよーなんて、本気で思っちゃったもん。なはは……あ、やばいやばい、どうして涙なんか出てくるんだろ?
あたしは、鼻水をずずっとすすり上げながら、スナック菓子をわし掴みにして豪快に口の中へ放り込んだ。それを、ばりばりかみ砕きながら、またコンビニ袋へ手を突っ込む。
えーい、三本目に突入らあ。
ぷしゅっ。
「おいこら、下僕。君もこっちへ来て一緒に飲みたまえ」
あたしは、ふらふらと立ち上がると、ベッドサイドから小ブタのぬいぐるみを抱き上げた。バスタオルが、はらりと床に落ちる。
「香織女王様、香織女王様、あのクソオヤジを悩殺した豊満ボディが露わになってますよ」
「ええい、うるひゃい。この玉の肌は、もうあのオヤジには指一本だって触れさせにゃいんだから」
あたしは、ぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。と同時に目の奥が熱くなり、涙がどっと溢れてきた。小ブタのぬいぐるみが心配そうに訊ねる。
「香織女王様、どうして泣いているのでございますか? ……ございまふかあ? どうして……うっうっ」
あたしは、ぬいぐるみに頬をすり寄せたまま、ベッドに突っ伏した……。
*******
夢を見た。
悪夢だ――。
あたしは、海の底にいた。
いや、違う……。ここは、あたしの部屋の中。
でも周りの壁が、強化ガラスで覆われたアクアリウムみたいに、海水で出来ていた。
暗い水――。その中を、まるで中世の騎士がまとう鎧みたいなウロコで体を覆った、古生魚が回遊している。
何匹も、何匹も……。見るからにグロテスクで不細工なやつらだ。ときおり、口からこぽこぽと気泡を吐き出し、あたしに向かってぎょろりと目を剥く。イヤなやつら……。
ああ、寒い……。
あたしは、肩胛骨のあたりから体ぜんたいへじわじわと染み入る冷気に耐えかね、細い肩を両手で抱きしめた。ぶるっと何度も震える……。
古生魚がいつの間にか人の姿に変化していた。どこかで見たことのある顔だな、誰だっけ?
あたしが懸命に思い出そうとしていると、そいつはいきなり水面からぱしゃりと顔を突き出した。跳ね上がった飛沫が、あたしの足にかかる。
ちょっと、冷たいじゃないのよ。
そう言って睨むと、そいつは両手を合わせてこう言った。
たのむ、俺と別れてくれ。
え……?
じつは、俺には女房がいるんだ。
え、え……?
ずっと内縁だったが、先月、説得されてとうとう籍を入れちまった。
な、なにを言ってるの……?
もう、浮気は終わりにしたい。
子供が出来たっていうし、だったら俺はもうパパになるんだ。
もう、浮気は終わりししたい。
彼女の両親が、一戸建ての住宅を用意してくれるって言うんだ。
もう、浮気は終わりにしたい。
君との関係だって、もともと長く続けるつもりはなかったんだ。
もう、浮気は終わりにしたい――もう、浮気は終わりにしたい――もう、浮気は終わりにしたい……。
「いやあ!」
あたしは、両手で耳をふさぎ、その場にしゃがみこんだ。ぎゅっと目を閉じる。しかし頑なに閉ざした瞼を突き抜けて、そいつの姿がありありと見えてしまうのだ……。
いつの間にかその男の横には、綺麗な奥さんが並んでいた。産着にくるまれた可愛い赤ん坊を抱いている。その美人の奥さんが、勝ち誇ったような目であたしを見下ろした。すると彼女の耳元に口を寄せ、あいつが何事か囁いたのだ。
あたしの、箸の使い方がちょっと変なこと。
あたしの、背中に変な形の痣があること。
あたしの、寝覚めのときの顔が少し腫れぼったいこと。
あたしの、盲腸の手術をした跡がかなり大きいこと。
あたしの、エッチのときの声がとても低くなること。
あたしの、あたしの、あたしの、あたしの、あたしの。
「止めてえっ!」
あたしは、たまらず絶叫した。それを見て、奥さんがケタケタと笑いだした。あいつも一緒になって笑っている。二人で腹を抱えて大笑いしている。
げらげらげらげらげらげらげらげら――。
止めてよう……、もう止めてよう。
閉じた目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。なんだかアルコールみたいな匂いのする涙だ。
誰か、誰かあたしのこと助けてよう。お願いだから助けに来てよう。
あたしは両手で顔を覆い、叱られた少女のように泣きじゃくった。
と、そのとき――。
不意に、クィーンの『ボーン・トゥ・ビー・フリー』が凄まじい大音量で流れた。それと同時に、目の前の情景がガラガラと崩れ始める。その様子は何て言えばいいんだろう、まるでミートソースで汚れた皿を一気に水で洗い流すときのような得も言われぬ爽快感をあたしにもたらしたのだった。
ああ、何だろう、この心地良い音楽は? いったい、どこから流れてくるの?
爽快なロックのリズムに合わせ、不愉快な情景が稲妻に打ち砕かれたように破壊されてゆく。あたしは、すっと胸がすくような思いがして知らず知らずのうちに微笑んでいた。
――あ、思い出した。
この曲は、あたしの携帯電話にセットされているアラームの音源なのだ。そう理解したとたん、涙とよだれでぐちゃぐちゃになった顔で、あたしはがばっと跳ね起きた。
朝だ……。
そうか、あたしは濡れた髪も乾かさぬまま、いつの間にか眠ってしまったんだ。どうやら素っ裸のままシーツの下へ潜り込んでいたようで、体中が冷え切っていた。そして、枕元には小ブタのぬいぐるみが転がっている。それは、やけに湿気ってしまって重たくなっていた――。
うーん、嫌な夢を見たなあ。えーと、あれ、どんな夢だっけ? えーと、えーと……。
今見たばかりの夢を思い出そうと懸命に頭を捻っていると、急に体がぶるっと震えた。
――くしゅん。
くしゃみが出た。
と同時に、手繰り寄せた記憶がすっかり消し飛び、あたしはそれ以上考えるのをあきらめた。
*******
うう、何だか体が怠いし、頭も痛い……。
あたしとしたことが、あの程度のお酒で二日酔い? なんて苦笑していたら、急に悪寒を感じ、背筋がぞくぞくしてきた。まさかと思い体温計をくわえてみる。やっぱり熱が三十八度もあった。やれやれ、どうやら風邪をひいてしまったようだ。
一瞬、熱冷ましの座薬を入れて根性で出社、とも考えたが、散らかった部屋の中を見回しているうちに気力が萎えた。まあ、仕事の方は一段落ついているし、今日は休ませてもらいましょう。
まだ時間が早いかな、と思ったが、一応会社に電話を入れてみる。案の定、うちの課長は出社していた。無遅刻無欠勤で朝早いことだけが取り柄の、万年課長だ。いつも一言多いやつで、あたしが休みたい旨を告げたら、予想通り「鬼の霍乱かね?」と訊いてきた。部下に言動を読まれているようじゃ、定年まで課長止まりですぜ。あたしは、心の中であっかんべーをしてやった。
休むと決めてしまったら何だか気持ちが楽になり、急に空腹をおぼえた。昨日買っておいたコーヒーゼリーを冷蔵庫から引っぱり出す。いくら体の具合が悪くても食欲だけは衰えないのがあたしのスゴイところだ。付属品の生ミルクをたっぷりとかけ、1パック3個入りを立て続けに平らげた。満足して、再びふとんの中へもぐり込む。去年、冬のボーナスで買った高級羽毛敷布団は、まだほんわかと優しい温もりを残していた。
目を閉じると、荒れまくっていた昨日の自分が頭をよぎり、何だか悲しくなってきた。
ええい、眠ってしまえ――、眠って、眠って、忘れてしまうんだあ。
そう一心に念じているうち、重力に引っぱられるように眠気を催してきた。あたしって、ほんと単純。
インターホンが鳴ったのは、まさにその時だった――。
誰だ、こんな朝早く? 新聞の集金かな? 宗教の勧誘? あ、分かったぞ、また下の階の木下さんだなー。この前、あそこん家の悪ガキを思いっきりひっぱたいたからなあ……。ひとのスカートめくりおって、あのぼーずだけは絶対に許さん。
無視していたらそのうち諦めて行ってしまうかなと思い息をひそめていたが、案外しつこく鳴らし続けるので、あたしは仕方なく布団から這い出した。さっき慌てて羽織ったパジャマは、よく見るとボタンを掛け違えて着ている。おかげで右の肩が少しはだけてしまって、だらしないなあなんて思いつつも、そのままの姿で玄関ドアを開けた。
「ああ、先輩、おはようございます」
予想に反して、そこに立っていたのは会社の後輩だった。
――ダメダメ君。
あたしが、そう名付けた。本当にドジで情けないやつなのだ。本名は、西島雄大というのだが、今では会社の誰もが、彼のことをダメダメくんと呼んでいる。背がひょろりと高い、もやしっ子で、顔はまあまあのイケメンだが何せ精悍さに欠けている。もう、依存心真丸出しの情けない顔をしているのだ。
「何よ、ダメダメ君。あたしは今日、風邪でお休みするんだからあ」
あたしがふくれっ面でそう言うと、ダメダメ君はなぜだか驚いたように目を瞠った。そして、あたしの顔をまじまじと見つめながらこう言った。
「せ、先輩って…………クイーン・アミダラみたい」
「何それ?」
「あれっ、スターウォーズ見てないんですか?」
ああ、そう言えば映画スターウォーズのエピソード・ワンから登場しているヒロインが、確かそんな名前だったな。演じている女優は……。
「えーと……、そうそう、ナタリー・ポートマンよね。あたしって、ああいう顔なのかなあ。この前は、取引先の部長さんから安達祐実に似てるなんて言われたけど……」
「違いますよ、先輩」
ダメダメ君がくすくす笑い出した。な、何が可笑しいというのだ、無礼者め。
「髪型が似てるんですよ、か・み・が・た」
「えっ?」
恐る恐る頭に手をやる。鏡を見るまでもなく、あたしの髪がえらいことになっているのが分かった。
「あーっ」
「ね、似てるでしょ?」
クイーンアミダラの髪型がどんなだったか憶えてないが、昨夜きちんと頭を乾かさずに寝てしまったものだから、あたしのへアスタイルは前衛的なオブジェのようになってしまっていた。クイーンアミダラというよりは、むしろパラボラアンテナに近いかもしれない。
「何よ、あんたってば、あたしをバカにする気ぃ?」
「い、いえ、そんな……」
恥ずかしさを隠すために、あたしが一睨みすると、ダメダメ君はとたんにしゅんとなった。ほんと気が弱いんだから……。この子って、絶対営業向きじゃないわね。あたしは、今さらながらそう確信した。
「ところでダメダメ君、こんな朝っぱらからあたしに何の用? 今日は確か新横浜電工の常務さんと仮契約を結ぶ日じゃない。こんなところで油売ってる暇なんかないわよ。もう一度、書類のチェックとかしておかないと」
ここでダメダメ君は、はっと我に返り、そして途端に泣きそうな顔になった。
「そ、そうでした、先輩、実は大変なことに……」
*******
「えーっ、見積もった商品がすでに製造中止になってたですって?」
「そ、そうなんですよ」
「あんた、ばっかじゃないのー? どうして、そういうことは事前に確認しておかないのよ」
「す、すみません。事務所にあったカタログが古かったもので……」
「言い訳しない!」
「……はい」
家電製品ほどではないが、あたしたちの会社が取り扱うOA機器も、日々目まぐるしくモデルチェンジを繰り返す。もちろん買い換えを促すためでもあるが、今や、オフィス内で使用する機械のほとんどがネットワークで繋がる時代、プラットフォームとなるソフトウェアの進化にともない、それに尻を叩かれる形でハードウェアも次々と造り替えられているのだ。その節操がないとさえ言えるニューモデルの登場ぶりに、我々営業スタッフとしても知識が追いついていないというのが現状だった。
ああ、でも契約する前で良かった……。
製造が終了してしまった商品で売買契約を結んだりしたら、それこそ大変なことになる。どこかに在庫が眠っていればいいが、商品が手に入らなければ最悪、多額の違約金を支払わなければならない事態に陥る。
この、おっちょこちょいめえ――。あたしは、ダメダメ君のスキンケアのゆき届いたうりざね顔を、きっと睨みつけた。
「で? なんで、それを課長じゃなく、あたしに報告しに来るわけ? まさか風邪で臥せっているこのあたしに処理させるつもりじゃないでしょうね?」
「ち、違いますよ。ただ、先輩なら、こんなときどう対処するかな、と思って……」
「そんなこと決まってるじゃない。先方に侘びを入れて、もう一度プランを作り直させてもらうしかないでしょ」
ダメダメ君は背を丸めて、はあっとため息をついた。
「僕もそう思って、昨晩は徹夜して代替プランを作製したんですよ……」
よく見ると、彼の目に下には寝不足による隈が出来ていた。
「ふーん、あんたにしては対処の仕方が素早いじゃない」
「ええ……。でも、それで再提案させて頂こうと先方に電話を入れたら、とたんに常務の雷が落ちて……」
あたしは、新横浜電工の常務、渡辺達三の気難しそうな顔を思い浮かべた。老舗電気工事会社の叩き上げ役員で、昭和一桁生まれの頑固者だ。
ふだんはとっても気さくな人なんだけど、ときおり妙に偏屈になるんだよね。まあ、あたしが新人だったときからお世話になっている人だし、一緒にゴルフをしたり、クルーザーで釣りに連れて行ってもらったこともある仲だから、気心は知れてるんだけど。
あたしが行って謝れば、間違いなく円満に解決するような話だ。ちらとダメダメ君を見る。背の高い彼が、しょんぼりとうなだれて猫背になっている姿は、ちょっぴり憐れで、あたしの母性本能をちくりと刺激した。
助けてあげようかな……。
だめだめ!
あたしは、首をふった。つられて変な髪型がぶんぶん風を切る。ここで甘やかしては、彼のためにならないのだ。
「ダメダメ君」
「は、はい……」
「根性よ」
「……は?」
「根性で、ねばってねばって、なんとか渡辺常務に会わせてもらって、そしてすべてを自分の器量で解決しなさい」
ダメダメ君は、しばらくうなだれていたが、やがて顔を上げあたしの目を真っ直ぐに見た。「はいっ」と元気よくうなずく。
あたしの胸がどきっと高鳴った。こんな風にきりっと引き締まったときの彼の表情は、すごく素敵に見える。
「先輩、アドバイスありがとうございました。ここへ来て良かった。先輩の顔見たら何だか勇気がわいてきました」
ははは、大げさなやつだ。
ダメダメ君は、ぺこりと一礼すると、足早に階段を降りていった。そのひょろりと背の高い後ろ姿に声をかけてやる。
「先方に、ようくお詫びをしてねー。がんばれー」
「はい、先輩も早く風邪治して下さいよ。ちゃんとご飯食べなくちゃ駄目ですよ」
何を言ってんだか……。自分の心配だけしていなさいっつーの。
あたしは、部屋へもどるとさっそく携帯電話を手に取った……。
「さてと……。まあ、仕方ないっか」
*******
――部屋の電話が鳴ったのは、お昼をちょっと過ぎた頃だった。
あたしは、いよいよ熱が上がり、ベッドの中でうつらうつらしていた。やっとの思いで受話器を引き寄せると、予想通りダメダメ君のはずんだ声が聞こえてきた。
「先輩、やりました! 代替案で仮契約いただきました」
「……ああ、ダメダメ君、よかったじゃない」
「はい、ありがとうございます。こっぴどく叱られるものと思っていたんですが、なんか、とんとん拍子に話がまとまって、狐につままれたような気分です」
あたしは、くすりと笑った。狐は、あんたの先輩様だよー。
「…………先輩? 大丈夫ですか? もしかして、だいぶ具合が悪いんじゃないですか?」
あたしは、熱のためぶるっと震えながら苦笑いした。
「そう思ったら、電話とか遠慮しなさいよ。ほんとにもう……」
「あ、あの先輩。仕事の帰りに寄らせてもらってもいいですか?」
「……え?」
「とっておきの病人向けご飯を作ってあげます。僕、こう見えても料理だけは上手なんですよ」
「え、いや、そんな……」
「楽しみに待ってて下さいね。それじゃ……」
「あ!」
そこで電話は切れた。ご飯を作りに来るですってー? 何考えてるんだろ、あいつ。あたしは再び羽毛布団にくるまると、ぶるぶる震えながら考えた。うーん、確かに気弱で情けないやつだけど、あれでも一応は男だしなあ。まさか、風邪をひいて具合の悪い女性に襲いかかったりはしないと思うけど……。
そんなことをあれこれ考えていると、全く眠れなくなってしまった。仕方なしにガウンを二重にはおって起き上がる。明らかに具合は悪いのだが「ご飯」と聞いてお腹が減ってきたのもまた事実だ。ああ、本当にいい加減な体だ。苦笑して頭を掻こうとしたら、指先があの前衛的なオブジェと化した髪にふれた。
やばい、この間抜けなヘアスタイルをなんとかせねば。シャワーを浴びるのはちょっと無理だけど、取りあえず洗面台で洗っておくか。そう思って立ち上がろうとするのだけど、全く足に力が入らない。うーん、困ったなあ……。
よーし、こうなったら仕方がない。ドーピングしてやれえ。
あたしは、昨夜飲みきれなかった発泡酒を冷蔵庫から取り出すと、ぷしゅっとプルトップを持ち上げた……。
「えーっ、先輩、もしかして酔っぱらってるんですか?」
ダメダメ君が、パチンコで大勝ちしたオヤジみたいに大きな紙袋を抱えてやって来たのは、7時を少し回った頃だった。あたしは、そのときには高熱も手伝ってもう、べろんべろんに酔っていたのだった。
「なによ、遅いじゃないのよう。もうお腹ぺこぺこで、死にそうなんだからー」
あたしは、ダメダメ君の抱える荷物を持ってあげようと一歩を踏み出し、とたんに足がもつれて前のめりに倒れてしまった。その体を、紙袋を放り出した彼が優しく抱きとめる。
「せ、せ、先輩、しっかりして下さい。具合が悪いのならちゃんと寝てなくちゃ駄目ですよ」
誰のせいで眠れないと思ってんのよ。アルコールで上気した顔を持ち上げ、ダメダメ君の顔をちょっとだけ睨んだ。なんか、いつもより彼の顔が凛々しく見えるのは気のせい? そう感じて、ぼやけた目でまじまじと見つめていたら、彼がぽっと顔を赤くして目を逸らした。
あれ、この子もしかして……?
三十年以上も女をやっていると、こういうの、――何となく分かってしまう。
ダメダメ君は、あたしの事が好きだったのだ。
今まで意識したことなんてなかったけど、彼のような年下の男の子だって立派な恋愛の対象になりえるのだ。そうか、そうよね。世渡りの巧みなおっさんばかりが、男ってわけじゃないものね。
急に世界がぐんとひらけた気がした。
よーし。
あたしは酔った勢いで、彼の首に両腕を巻きつけた。そして、有無を言わせず唇を奪う。
「むむっ…………」
何を隠そう、あたしはキス魔なのだ。昨年の忘年会でも、あたしは泥酔した勢いで支店長に絡んだあげく、その唇にぶちゅーっとやってしまったらしい。自分では全く記憶がないのだけど、頭の固いうちの課長が大真面目で嘆いていたところを見ると、どうやら本当の話みたいだ。あの仁丹臭い支店長の口に吸い付いたと思うとぞっとするが、小言の多かった彼が、以後あたしに一切クレームを付けなくなったことは、何やら愉快でもある。
薄目をあけて見ると、ダメダメくんは、初心な少女のようにぎゅっと目を閉じていた。
んもう、可愛いんだからあ。――ええい、舌入れちゃえ。
*******
翌朝、目が覚めると熱はすっかり引いていた。
わんだふる、爽やかな目覚め。あたしは、ベッドの上に半身を起こし、思いっきり伸びをした。
「うーん……、さすがの風邪ウィルスも、恋する乙女の純情パワーには勝てなかったようね」
あの後、ダメダメ君は、あたしのためにびっくりするほど美味しいリゾットを拵えてから、逃げるように帰っていった。ほんと、気が弱いんだから……。
さあ、今日も一日がんばるぞお。
がんばって、あのダメダメ君を超一流のセールスマンに鍛え上げねば。なんたって彼は、将来あたしの旦那様になるんですもの。
経費節減――と貼り紙された社員専用口のスチールドアを勢いよく押し開けると、あたしは、いつものように元気よく挨拶した。
「おっはようございまーす」
「おお、志村くん、相変わらず意味もなくテンション高いね。風邪のほうは、もう大丈夫なのかい?」
「はいっ、すっかり良くなりましたー」
いつも一言多い、ハゲ頭の万年課長に愛想笑いしてから、さりげなくオフィス内を見渡す。あたしの、愛しい愛しいダメダメ君……。
「あれっ? ダメダメ君……あ、いや、西島君は?」
「ああ、なんでも質の悪い風邪に罹ったとかで、休みたいと電話があったぞ。すっごいガラガラ声で――」
やばい、感染してしまった……。
お読み下さり、ありがとうございました。
初めて書いた恋愛小説なので、ちゃんと上手くいってるかすごく心配ですが……。とりあえず、沢木香穂里先生、お誕生日おめでとうございまーす。