動き始める運命
ウィラは徐々に明るくなっていく海色に興奮を隠せなかった。
ノアとヒルダのことを考えると気持ちが沈んでどうしようもなかったのだけれども、外を見れるという好奇心がそれを上回り、彼女は気持ちを新たに海面に上がった。
地上を照らす太陽はすでに落ちてるはずなのに、頭上にぽっかりと輝くものが浮かんでいた。
「……これが月というものなのね」
昼を照らす太陽と夜を輝かせる月。
外の世界の知識の多くは魔女から得ていた。ウィラは夜空を彩る月、そして輝く星々を眺める。
兵士はウィラの邪魔にならないように一人はかなり離れた海面、もう一人は海の中に潜んでいた。
「あれは何かしら?」
夜の海に何か島のようなものが浮かんでいた。
何やら明るい光が見えて、ウィラは近づく。
「船。これが船というものなのね」
魔女から人間が船という木製の乗り物を使い、海を渡ると聞いたことがあった。実際に、沈んだ状態の船も見たことがあり、彼女は全体を確かめようと船の周りを泳ぐ。
「人?」
すると、一人の人間が縁によりかかり、ぼんやりと夜空を眺めているのが視界に入った。
ウィラはもう少しよく見たいと、ゆっくりと近づく。
「……ノア?」
それはノアによく似た少年だった。
年頃はウィラと同じくらいで、ノアを少し子供っぽくした感じだった。少年はノアのように憂いを帯びた表情をしており、髪はノアと異なり短い。けれども夜風に吹かれ髪がそよそよと揺れていた。
彼は懐から細長い笛を取り出し、歌口に唇をつけると演奏を始める。それがまた物悲しい曲で、彼女は音楽に聞き惚れ、ノアそっくりの彼を惚けたように見つめていた。
「ウィラ様」
それまで離れていた兵士に背後から囁かれ、彼女は我に返る。
「もう時間なの?」
「いいえ、まだですが空模様が怪しいです」
王の娘達以外の人魚は海面と海底を行き来することが多い。兵士は防衛や訓練のために海面に上がることも多く、それを見て嵐を察知することができた。
兵士に言われ、ウィラが空を仰ぐと、いつの間にか月と星が雲に隠れて見えなくなっていた。夜風もかなり強くなっている。
「もう一度だけ」
ウィラがそう言い、船に顔を向けたがすでに少年の姿はそこになった。
「ウィラ様。さあ、戻りましょう」
兵士に強く促され、彼女は仕方なく海に潜る。しかし名残惜しく、何度も海面を振り返ってしまった。来たときはあんなに輝いていた場所が暗く淀み、心なしが揺れている気がした。
「急ぎましょう。嵐が来ます」
海底に潜んでいれば安全であり、兵士のウィラを呼ぶ声が急いたものになる。
同時に何かがはじける音がした。
海面が何度も光っている。
「あれは何?」
「雷です。さあ、ウィラ様お早く」
ウィラの脳裏にノアによく似た少年の顔が浮かんだ。
――どうして船が海に沈んでいるの?
――それは、嵐で壊されてしまい、海面に浮かぶことができなくなったからだよ。
――ノアは物知りね。
同時にノアと交わした会話を思い出し、彼女は兵士を振り切る。
「船が沈んで、あの子が死んでしまうわ!」
人間は人魚のように上手く泳ぐことができない。水中で息などもってのほかだ。
彼女は再び海面に戻ると、船が半壊しており、高波によって煽られていた。人魚であるウィラにとってもこのように荒れた海を泳ぐのは至難の技で、彼女は必死に彼を探す。
「ウィラ様!」
兵士が彼女を連れ戻そうとするが、彼女は抵抗しながら波間に目を凝らす。
「いたわ!」
「ウィラ様、駄目です。お戻りください!」
「お願い。助けたいの」
ウィラに請われ、兵士の一人が仕方なく頷く。
「レンデル。お前はウィラ様を。俺が連れてくる」
「ああ」
レンデルと呼ばれたもう一人の兵士がウィラの傍につき、別の兵士が彼を救出するために海に潜る。高波の抵抗を受けながらも、彼は泳ぎ切り彼の元に辿り着く。そしてすぐにウィラの元に戻ってきた。
「陸に返しましょう。私たちでは治療ができないわ」
「それでは俺がいきます。ウィラ様はどうぞ王宮へお戻りください」
「いいえ。私も行かせて。お願い!」
「しかたないですね」
「おいおい、シリ―」
少年を救助した兵士シリ―に対して、先ほどまで黙っていたレンデルが反論する。
「嵐から離れるのが先だ。レンデル。ウィラ様を連れて移動するぞ」
「わかった」
不服そうにいいながらも、レンデルは頷き、ウィラはほっとした。
シリーは人間の少年を溺れさせないように注意深く、レンデルはウィラを気遣いながら、陸へと泳ぐ。波が収まり、日が昇り始めたところで、ウィラたちは陸に辿り着いた。
「ウィラ様はこちらでお待ちください」
小さな岩礁にウィラを待たせ、二人の兵士は周りに誰もいないことを確認して、彼を引きずりながらも海岸線からかなり離れたところに寝かせる。そうして再びウィラの元に戻った。
「さあ、戻りましょう」
「誰かが彼を見つけるまで確認したいの」
「ウィラ様」
ずっと反対していたレンデルは顔を険しくさせたが、シリ―はため息をついただけだった。
「仕方ない。お付き合いしましょう」
「おい、シリ―!」
「しっ!」
三人がそんなやり取りをしている間に、海岸へ人影が現れた。
それは二人の少女で、一人は茶色に緑色の瞳で、面差しがウィラに似ている。
「ウィラ様みたいだな」
「ああ」
「そう?」
似ていると言われた少女はウィラから見れば魅力的に思えた。
髪は同じ茶色なのにふわふわと柔らかそうで、瞳はウィラのように海の藻ではなく、陸に生える葉のようで。
なので、二人に似ていると言われ悪い気がしなかった。
「あ、気づいたようですよ」
二人の少女は彼に小走りに近づく。
そうして、ウィラに似た少女ではないほうが、慌てて別の方向へ走っていくのが見えた。
「ウィラ様。もっと大勢の人間が来て、彼を助けるでしょう。さあ、行きましょう」
「……ええ」
本当はもっと見ていたい。
海ではなく、陸の空気、風を感じたいと思ったが、ウィラは首を横に振ると二人に従い海に戻った。