侍女のお仕事
ウィラの部屋から離れ、朝の騎士団での訓練を終えた後ノアは自室に戻った。
侍女たちを部屋から追い出し、一人でのんびりと湯あみを行う。
こうして水に触れていると、ノアの気持ちは澄んだ。
「今は少し寒いが、もう少ししたら泳ぐのもいいかもしれないな」
ノアは海を好むようだった。
海で命を落としかけたはずなのに、おかしいと彼自身も思うのだが、海への想いは特別のようだった。
記憶を失うまでの最後の想いは、生きたい。
それだけだった。
船上で何者かに襲われ、海に投げされた。激しい痛みの中、生きたいと願った。
――生きたいか?
しゃがれた声でそんなことを聞かれたような気がする。
思い出そうとすると頭に霧がかかったように、それ以上なにも考えれなかった。
(失った記憶に何があるのか)
湯あみを終え、彼はタオルで体を拭いた後、ふと戸棚に目をやる。
そこには小さな箱があり、ぼろぼろの腕輪があった。
海藻で編まれた粗末な腕輪。
捨てられたそうになったそれをノアは慌てて取り戻した。
(大切なものだ)
それの想いしかない。
でも恐らく、ウィラがくれたものだとノアは予想していた。どんな顔かもわからないけれども。
失われた九年で、彼はウィラと過ごし、彼女に恋をしていたのだろう。
(恋人同士だったのだろうか?)
そんなおかしな疑問をもってしまい、ノアは失笑する。
(馬鹿なことを。失われた九年よりも今のことだ。俺はこの国を持ち直す義務がある。父上は王妃の操り人形と化してしまった。そして、王妃は……)
九年前のあれは事故ではなく、暗殺だ。
証拠がない今、ノアは事故と思われているなら、それでいいと思っていた。
「俺には今力がない。なので目立った行動を取るのは危険だ」
王城に戻ってきてまだ三週間。
九年分の知識、そして信頼を取り戻す必要があった。
「ローネか……」
言葉の話せない可愛らしい少女。
(王妃のたくらみはわからないが、犠牲にするわけにはいかない)
侍女にしたのは、二人への当てつけか。何か良からぬ企みをしているに決まっていた。
(守らなければ)
ノアはそう固く自身に誓い、腕輪を箱にしまう。
☆
ウィラが昼食を終えると、ノアが迎えに来た。
それから二人は王妃の間に向かう。
言葉は話せないことがこんなに助かることだと思ったのは初めてだった。
ウィラも人魚の王女であるが、王妃という存在に対して畏怖を覚えるのは変わらない。しかもノアとイーサクの話からすれば、あまりいい関係ではないようで、ウィラはとりあえず頭をずっと下げておこうと態度を決める。
こんな風に思ったのは初めてで、ウィラは本当に違う世界にきたのだと改めて実感した。
けれども、毅然として前を歩くノアを見ていると、海底でひっそり暮らしている彼よりはずっと良いことだと思えた。
「ローネ。大丈夫だ。俺たちが守るから」
(「俺たち」……。そうよね。イーサクも気にしてくれるもの)
ノアだけに守ってほしい、そんな卑しいことを考えてしまう自分を叱り、彼女は顔を上げる。
(ノアはこんなに背が高かったのね。長い黒髪でよく見えなかったし、どことなく頼りない感じだったもの。そうイーサクとよく似ている感じだったけど、今のノアは全然違うわ)
「着いた。入るぞ」
ウィラが頷いたのを確認して、ノアは扉を軽く叩いた。
「カスぺルです。ローネを連れてまいりました」
「入っていいわ」
媚びたような高い声が中から聞こえ、扉が開かれる。
部屋の中は花々があふれており、息苦しいくらいの香りに漂っていた。ウィラは思わず鼻を押さえたくなる気持ちを抑え、少しだけ顔を上げノアに続き部屋に入った。
「あなたがローネ。可愛らしい子。あなたを侍女に出来て嬉しいわ」
金色の巻き毛に、灰色の瞳。
ぽってりした唇は真っ赤で、乳房が溢れんばかりで、目のやり場に困りそうなドレスを身に着けていた。
人魚はドレスを着ない。胸当てだけを身に着けるので、彼女より露出は高い。けれども服を着ている彼女のほうが露出が高い気がして、不思議な感覚に囚われる。
「王妃。彼女は言葉を話せません。もしかしたら無礼があるかもしれませんが、何卒良しなにお願いします」
ノアに請われ、王妃は満更でもないと微笑みを浮かべる。
(何か嫌な気持ちだわ。どうしてかしら)
ウィラはそんな気持ちが表に出ないように、俯いた。
「勿論よ。あなたとイーサク二人の可愛いお嬢さんですもの」
☆
一通りの挨拶を終えると、王妃は侍女頭を呼び出す。
年頃は三十歳程度で、眼鏡をかけ茶色の髪をきつくてっぺんで結んだ厳しそうな女性だった。
ノアにきちんとした別れもできないまま、ウィラは侍女頭に連れられ王妃の間を出ることになる。連れていかれたのは侍女の休憩室で、そこで苛立ちまぎれに仕事の内容を説明された。
「あなたは何も知らないと聞いているし、言葉が話せないことから、王妃の間の掃除を担当してもらいます。あとは王妃様の衣服の洗濯。お世話は他の侍女がしますから」
(よかった。王妃のお世話はしなくていいのね。掃除は匂いで鼻がおかしくなりそうだけど、あの方と二人っきりにならなくてよさそうだからいいわ。洗濯ってどうするのかしら?)
「今日と明日は人を付けますから、それで覚えてくださいね」
(よかった……)
習う人がいればその人に聞けばいいとウィラは安堵したが、それが間違いだった。




