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懐かしい名前

 ノアは何度も寝返りを打ったがとうとう諦めて、体を起こす。

 目から離れないのは昼間の娘の泣き顔だった。


 九年間の記憶がないノアは、城に戻ってきてから取り返すように様々なことに取り組んだ。事故に合った八歳の時点の知識までしかなかったのだが、驚くことに数学や地理などは失った九年で独自に学んでいたようだった。

 

「この九年、俺は何をしてたんだろう」


 思い出そうとすると霧がかかったように思考があやふやになった。


 ただ覚えているのは、ウィラという名前。

 海岸で発見され、王城に運ばれるまで預かってくれた漁師によると、彼はその名をうわごとで言っていたらしい。

 そう聞かれて、その名を呼ぶと何やら温かい気持ちになり、失った時間中で過ごした大切な人の名前であると思われた。


 四日前、イーサクが海岸からある娘を連れてきた。

 彼自身も三週間ほど前に船が難破して海岸に打ち上げられた。その時に助けてくれた女性のことを探して、イーサクはよく海岸に散歩に行くことが多かった。

 彼が発見した娘は助けてくれた女性によく似ていたらしく、そのまま捨ておくこともできず城に連れて戻ってきたらしい。

 それから、イーサクに請われ、彼女と対面して、おかしな思いに囚われた。自分を見た時の顔、駆け出してくる彼女。どれもこれも懐かしく、倒れそうな彼女に駆け付けてその身を支えてしまった自身に驚いたくらいだった。

もしかして、彼女はウィラなのかと何度も思ったが、弟が好ましく思っている相手に懸想するほど、ノアは自分を失っていなかった。

なので用事がある以外は、彼女を避けた。

しかし、イーサクの彼女への特別扱いによって陰口の対象となっていることを知り、それを牽制することくらいはした。


昼間たまたま、中庭を通ることがあり、二人を見かけた。

見つめ合っている二人を見ると、思わず声をかけてしまった。あれはわざとだった。

まさか、泣かせてしまうとは思わず、ノアは反省していた。


「二人は想いあっていないのか?」


からかうつもりはなかったが、二人の仲を指摘するとイーサクは本気で否定して、その隣の娘も同様の反応だった。


「……泣かせてしまったな」


 

 声を出せない娘はその緑色の瞳から大きな滴をただ静かに流すだけだった。

 ノアは立ち上がるとバルコニーに出る。

 彼の部屋からは海を眺めることができない。海を見ると心が落ち着くため、海を見える部屋を希望したいところであったが九年前に己が使っていた部屋を今更変えることができなかった。

なので、ノアはゆっくり夜空を見上げた。

 月夜ではないので、星だけが瞬く空。

 静かな夜。闇が完全に辺りを覆っている。

 まるで海底にいるようだと、ノアは懐かしく思った。


「懐かしいか……」


 そんな感情をおかしく思ったが、今の彼の気持ちはそれ以外で表すことはできなかった。


 


「陛下。あのローネという娘はまだ身元がわからないとか。言葉も話せないらしいではないですか。街で仕事と探せるのも酷でしょう。私の侍女にしたいと思っているのですが、いかがですか?」

「ディオーナ。お前はなんて優しいのだ」


 王の寝室で、ディオーナはさぞも善意に満ちた微笑みを浮かべていた。王はその真意に気が付くことなく、彼女の申し出に感激する。


「私の侍女にすれば、カスペル様もイーサク様もこれまでと同様に自由に会うこともできるでしょう。また今のような不安定な立場から解放され、周りの目も穏やかになるはずです」


 ローネ(ウィラ)への特別扱いに不満を抱いている者は少なくない。カスペルの牽制で押さえられているが、見えないところではまだ彼女への悪意を口にする者もいる。

侍女にすることで、立場が明確になり、その不満が直接彼女に届きやすくなるのだが、王はそこまでの考えに至らなかった。


「それでは明日、私からカスぺル様とイーサク様にお伝えしてもよろしいかしら?」

「勿論だ。ディオーナ」



 王の寝室に焚かれる甘い香。

 ディオーナの笑みが慈愛から扇情的なものに変化して、王を誘う。

 今宵もこうして王はディオーナに惑わされる。

 最初の王妃がなくなり、王は完全に王妃の操り人形のようになっていた。


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