第六十話 法則を読み解くことさえできたならば
(まじ、かよ)
目に見える現象だけならば、なんの変哲もないものだった。女悪魔の放った閃光が外れた、たったそれだけのことである。が、そこに至るまでの過程こそが常軌を逸していた。
(『女王』は自転や公転に干渉したとしても説明がつかない現象を引き起こしたんだ。既存の物理法則では説明のつかない、まさしく超常現象でもって座標を狂わせ、確実に攻撃が当たるよう細工した。俺様が学問として確立した魔導は夢魔ミリフィアや大悪魔エクゾゲートのような第二位相領域の力までしか引き寄せられず、呪法だって俺様の扱えるレベルだと第二位相領域の悪魔どもの力には劣る程度。つまり『女王』の力に抗う術はなかった)
だというのに、だ。
結果として『女王』の一撃は外れた。
偶然なわけがない。そんなもので片付けられるほど『女王』は半端な存在ではない。
つまり、つまり、だ。
『女王』の一撃が外れたのは外部からの干渉があったから。『女王』と同じように座標を狂わせた何かがあったからだ。
そう。
『女王』と同じ領域に立つ誰かによって。
(それを、あの女っ、『女王』と同じ力でもって座標を狂わせ、閃光を外させただと? ははっ、何が『賢者』だって話だよな!!)
一メートルという極至近。
一歩踏み込めば間合いをゼロとできるだけの必殺の距離。あの『女王』を前にそれだけ近づき、なお、普段と変わらぬ様子でシェルファは言う。
「さあ、どうします?」
「く、ふふ」
初めは小さなものだった。
綻び、そして、決壊する。
「くふ、くははははっ!! 吾が呪法を模倣したというのかえ? 見たまま真似るだけでは実現は不可能であろうに!!」
「まったくの一からであれば流石に厳しかったですが、これまでの闘争でサンプルを得ることはできていました。そこから法則を読み解き、応用するだけでいいのならば単なる学問の話となります。複雑にして難解だろうとも、解けないことはないと貴女がすでに証明している以上、わたくしに解けない道理はありません」
「簡単に言いよるのう」
「土台があるとはいえ、必要なだけの効果を発揮する治癒系統呪法を編み出すほうが難解でしたもの。何せそこは未知の領域。誰かが果たしたことがあるかもわからない高みを目指すことに比べれば、貴女『でも』到達できる領域へと足を踏み入れることは、そうですね、簡単に言える程度のことだったんでしょう」
「くははっ!! これは僥倖、嬉しい誤算というヤツじゃのう。よもや暇潰しの玩具が吾と真正面から対峙できるだけの力を示すとは。そんな、くふふっ、そんな顔をされてはそそるというものじゃ」
つまり。
だから。
瞬間、それは炸裂した。
目で見える範囲としては両者ともに文字や数字で構築された陣を描いただけなのだが、人の目では観測できない深奥、世界そのものへと凄まじい勢いで干渉が始まったのだ。
距離が歪み、重力が歪み、座標が歪み、摩擦が歪み、遠心力が歪み、大気成分が歪み、時間が歪み、時空の壁ともいえる何かが悲鳴をあげる。
一秒、一分、それとも一年と長期に渡ってであったか。そもそもその激突を目撃した者たちの感覚など歪んだ世界ではアテになどならないので正確なところは不明だが、とにかくいつかの時、女悪魔は苦笑を浮かべた。
「なるほどのう。吾と対等なりし力持つ者とぶつかれば決着はつかぬものだのう」
果たしてその言葉はどこまでが本音だったのか。己が馴染んだ力を振るえばいい女王と違い、シェルファは相手の力を観測、分析、使用する必要がある。それも女王の力が発動すると同時に同等の力をぶつけなければならない。そうでなければ女王の力を無力化できず、それができない段階でシェルファの死は確定するのだから。
こうして決着がつかないということは、シェルファはそれを果たしたということ。それすなわち女王の陣が完成する前に法則を先読みしているということ。
途中経過だけで穴埋めでもするように式を獲得し、その上で獲得した式へとパラメータを入力して計算を終える。スタートダッシュで遅れに遅れているというのに、最後には追いついているからこその相打ちであるのだ。
それを一度ではなく、何度でも。
このままでは決着がつかないと思わせるほどに続けたというのだ。
それは。
そんなのは、女王よりも──
「くふふ☆ こんな感覚は初めてじゃ。なるほどのう、これが命を脅かされるということ、誰かに追いつかれるかもしれないという感覚。くははっ! よもやそのようなことをカケラほどとはいえ考えることがあろうとはのう!!」
ならば、と。
あくまで女王は笑う。笑って、君臨する。
「こういうのはどうじゃ?」
パチン、と女王が指を鳴らしたと共にであった。これまで女王が構築していた陣で歪められていた世界が正常へと戻った。
陣を構築するのではなく、解除する。
そう、この場にあるものではなく、異界に揺蕩っていた頃に異界で構築した上で現世に干渉していた陣であれば、いかにシェルファといえとも観測できず、ゆえに対応もまた不可能。
では、女王が此度の闘争以前から歪めていた法則はなんだったのか。そして、その歪んだ法則が元に戻ると何が起こるのか。
「召喚術や封印術、不遜にも魔力だけで呪法を再現せんとする行いが失敗した際、術者は悪魔と同質の肉体へと変異するという法則は吾が世界を歪めたがゆえのもの。正常へと戻せばほれこの通り、お主は単なる人の子へと戻り、呪法発動のためのエネルギーを失うのじゃ。くふ、くははっ! いかに技能があろうとも、基となるエネルギーがなければどうしようもなかろう?」
「…………、」
ほんの一歩踏み込めば距離をゼロとできる間合いにて、女王は笑っていた。そう、いかにシェルファが女王と並ぶだけの技能を持っていようとも、呪法を構築するエネルギーそのものがなければ宝の持ち腐れでしかない。
シェルファは失った。
『魔沼』に踏み込むためとして意図的に召喚術を失敗したことで魔力を失う代わりに手に入れた呪法構築用のエネルギーを。
ゆえに、届く。
今ならば、単なる人の子であれば、わざわざ世界を歪めずとも腕の一振りで粉砕できる。
「中々楽しい娯楽ではあったが、それもこれまで。何事にも終わりというものはあるものじゃよ」
「ああ、怖いんですね」
「なん、じゃと?」
軋む。
戦場の中心に君臨していた女王の笑みが、ほんの僅かにだが音を立てて歪んでいく。
「あれだけ余裕ぶっておきながら、ちょっと同じ土俵に相手が立ったならば慌てて真っ向勝負から逃げるだなんて情けない限りです。何やら自分は特別だと、頂点に君臨しているのだと思い込んでいるのが言葉の端々から伝わっていましたが、なんてことはありません。貴女もまた特別なんかじゃなく、貴女が君臨している『そこ』は決して頂点なんかではなかったということですね」
「く、くふふ。これは吾の不手際じゃのう。少しばかり遊んでやっただけでそうも調子に乗るとはのう。分かっておるのかえ? お主は、今、丸腰だということを」
「貴女こそ分かっているんですか? 今、この瞬間こそ、運命の分岐点だと。選択するならば今この時において他はありません。逃げるならば今のうちだと思いますが」
「くふ、くははははっ!! では選ぼうかのう。生意気な人の子を粉砕し、此度の娯楽を終結させることを!!」
そして。
そして。
そして。
「サセル、カァッ!!」
ゴッドォンッッッ!!!! と。
黄金の毛並みから放たれる蹴りが女王の胸板に突き刺さり、薙ぎ払う。
「ぐ、ぬう!?」
ザ、ザザッ、と足の裏で地面を削りながら女王が大きく後退する。
黄金の毛並み。
純白が変じたそれは、まさしく、
「シロ!? なんですかそれ!?」
「トンデキタ、ハヘン、タベタラ、コウナッタ」
「破片、食べてって、ええ!?」
「ゴセンゾサマ、ノ、イウトオリ、ダッタ、ナ。アレ、ガ、『セイケン』、ダト、ワカッタ、ゾ」
「いや、あの、ええと、ちょっと待ってくださいっ。だって、そんな……っ!!」
黄金の毛並みを靡かせ、シロが振り返る。
瞳まで黄金に染まっており、いつもの純白とはまた違った雰囲気を纏っていた。
だから、だろうか。
頬が熱く、直視なんてできないシェルファは今がどういった状況かも忘れて、こんなことを言っていた。
「ふ、ふはあ。豪勢なシロもありです。ありありですう……」
「? ヨク、ワカラン、ガ、イツモトオリ、デ、ヨカッタ」
どこか呆れたように、それでいて安堵した様子でシロは小さく笑みを浮かべる。一度は完膚なきまでにやられた女王へと突っ込んでいくだけの理由があるからこそ、その理由たる人が無事であれば安堵するに決まっていた。




