第五十六話 女王
そこは白にも黒にも見える空間であった。
異界。魔導が引き寄せる超常の根源たる悪魔や天使といった高位命名体が住まう、現世と薄皮一枚境界を挟んだ先に存在する領域である。
「よお」
「な、なななぁっ!?」
そこに。
『賢者』が踏み込んできた。
「なっなん、なんでド級クソボケがここに!?」
「随分な言い草だな。ミリファごしにあんなにも愛の言葉を囁いてくれていたというのに」
「うっうるさいわねえ!! あんなのは気の迷いっ!! もう二度と其方みたいなド級クソボケにあ、ああ、愛の言葉なんて伝えないわよねえ!!」
キラキラと輝くはプラチナ色としか言いようがない人外の美しさを纏う長髪。周囲に淡い粒子を漂わせるそれだけでも空想の領域に足を踏み入れているというのに、プロポーションなど物理的に不可解なレベルで整っていた。
世の女性が『こうなりたい』と願い、しかし空想として留めるしかない美の極致、ファンタジーを極めた美女の名前はミリフィア。悪魔の一種たる夢魔の美女が顔を真っ赤にしてびしびしっと指を突きつけて叫んでいるというのに『賢者』はまったくもって気にした風でもなく、
「まあそんなことはどうでもいいとして、だ」
「どうでも!? ミリファごしに此方のことを散々弄んでくれたというのに、どうでもいいとしてってえ!?」
──どんな歴史書にも記されていないが、覇権大戦において観測された悪魔は七ではなく八であった。
大陸に侵攻してきた七の悪魔とは別に一の悪魔が夢ごしに『勇者』ミリファ=スカイブルーへと干渉していたのだ。
それが夢魔ミリフィア。
『勇者』ミリファ=スカイブルーの飛躍的な活躍に興味を抱いたからと時に堕落を誘発し、時に世間話に花を咲かせてと、夢の中で語らっていた。
そんな時だ。
七の悪魔に対する戦力不足を解消する手段を模索していた『賢者』がそのことを知り、利用しようと目論んだ。
『勇者』ミリファ=スカイブルーに夢魔ミリフィアへの言伝を頼み、関わり、仲を深めていったのだ。
手紙のやり取りだけでも人は愛を形作る。
であれば、『勇者』を経由したとしても愛を埋め込むことができるはずといった『賢者』の目論見はうまくいった。感情さえも数値化、予測演算にてコントロール、望んだ通りの感情を相手に誘発させることで信頼を得て、様々な情報を引き出した。
その中で『女王』のことを知り、結果として召喚術や封印術のような魔力のみを軸とした技術のデメリットとして悪魔化する法則を世界に埋め込ませることに成功した。
……夢魔ミリフィアを利用するだけした後、異界からは居場所がわからなくなったド級クソボケがいきなりシェルファのもとに現れたかと思えば、こうして不可侵のはずの異界へと現れたものだから夢魔ミリフィアの感情は爆発していた。
「ド級クソボケ!! 其方にはどうでもよくても、此方は良くないのよねえ!! 言いたいことが山ほどあるんだからねえ!!」
「あ、どうせ気づいていないだろうし教えておくが、これってば夢に干渉するという一点を突き詰めることで現世に干渉するお前の能力を参考にしたものでな。あらかじめ伝えたいことを登録、垂れ流す影のようなものだけを異界へと送り込んでいるだけだから、何を言おうが俺様にゃあ伝わらないぞ」
「なっ。卑怯者よねえ!! 此方から逃げてからにい!!」
「いやあ、面倒な展開になるのはわかってるんだから逃げるのは当然だろ」
「本当にあらかじめ伝えたいことを登録しているのよねえ!? 会話成立しているんだけどっ」
「お前が何を言うのか予測するのなんて楽勝だから、会話を成立させられるってだけだ」
「くうう! 見透かされている感がムカつくよねえ!! っつーか、あれよ、なんで此方がド級クソボケの話を聞かなきゃいけないわけ!? せめて本人が出てこないと話聞いてやらないんだから!!」
「そう言うな。あらかじめ登録しておいた音声でお前と会話が成立するくらいにお前のことを考えていたんだ。そのことに免じて話くらい聞いてくれよ」
「ぶっ!? なんっ、なに!?」
「流石にここまで高精度で会話成立させるのは俺様でも難しいんだ。それができているってことは、それだけお前が俺様にとって特別なわけなんだし」
「う、ぐ」
と。
夢魔ミリフィアが予想外のアクションに言葉を詰まらせている間に押し通さんがばかりに『賢者』の影は言う。
「夢魔ミリフィア、どうせお前がシェルファに目をつけたせいで『女王』がシェルファに興味を持ったんだろう?」
「へ? なっなんでそれを!?」
「ったく。運悪く目をつけられていた、なんて話よりもタチが悪い。『確実に』死ぬだけで済む道を示してはみたが、シェルファってば自力で道を切り開いてしまったからな。せめて『女王』が興味を失っているなり、偶然見ていなかったなりすれば、と運に任せてはみたが失敗だったようだ。どうするんだ、お前の悪癖のせいでシェルファが普通に死ぬより苦しむことになるぞ」
「なんでよねえ!?」
「なんでってお前、あの『女王』の性格からしてあんな呆気ないオチで満足するものか。ラスボスが地味だなんだとか言い出して、ド派手な展開を楽しむために『女王』自ら襲いかかるに決まっている」
「ッ!?」
「あーあ、どこぞの夢魔のせいで未来ある女の子が惨たらしくいたぶられるぞー。『女王』のことだ、肉体的に死のうとも魂をいたぶって手慰めとするだろうし、向こう千年は死んで逃げることもできず神経を直接千切るのなんて生易しいほどの苦痛を味わい続けることだろうなー」
「そ、そんなこと言ったって法則を操る我らが邪悪なりし女王様ならいざ知らず、『賢者』が異界と現世との繋がりとなる魔粒汚染を浄化したから夢を軸とした現世への干渉はできなく──」
「『抜け穴』用意しているから、さっさと例の新人兵士でも依り代に現世に干渉することだな。自分の失態くらい自分でどうにかしろってな」
「もおーっ! その通りではあるけど、でも! 全部見透かされている感がすっごくムカつくのよねえ!!」
ーーー☆ーーー
「……、なんなの、これ?」
レッサーが頃合いだろうと洞窟から出ると、満足そうに頷いているキキの横で頭から湯気でもあげるのではと思うほどに真っ赤な顔のお嬢様が目についた。
なぜか。
そんなの人目につきまくりだっつーのにシロに熱烈に抱きしめられているからに決まっていた!!
「シロ、見られっ、見られていますっ」
「ダカラ?」
「だからって、うう。なんでタルガやルシアお兄様がここに、う、うう、そんなに見ないでくださいよ恥ずかしいじゃないですかあ!!」
と。
(なぜか両手を背中に隠している)ルシアが口を開く。
「妹が幸せそうで良かったよ、うんうん」
笑顔だった。
それはもう仮面を貼りつけたようなものであったが。
「あ、あはは、あはははは……。略奪愛もアリじゃね? アリだよな、な?」
タルガの笑顔は取り繕う余裕もなさそうだったが。
そんな彼らの後ろでは臓物でデロデロな男爵令嬢が髪についた肉片を摘み取りながら、
「どうでもいいけど、闘争は終わりですわよね。だったら早く帰ることですわ! うふふっ☆ もちろんわたしの活躍を評価して、豪華絢爛ハッピーライフが送れるほどの地位と報酬を与えてくれるですわよね!!」
「その辺は事実確認が終わってからな。シェルファ、弟が襲いかかってきたと思うが──」
黄金の剣を隻腕に握った現国王が何事か言いかけた、その時であった。
ドッゴォンッッッ!!!! と。
彼の身の丈ほどの拳が国王の脇腹に突き刺さり、真横へと薙ぎ払う。
「う、ふ? なん、なんですわ!?」
慌ててバックステップで距離を取る男爵令嬢。その視線の先には、
「一つ目の、バケモノですわ!?」
そう。
そこに君臨していたのは一つ目の異形であった。
それは三メートルを超える巨大な球体に触手のように唸る巨大な腕と、針のように細く硬質な足を持つ生物であった。
それの皮膚は濃い紫と黒をかき混ぜたマーブル模様であり、その模様は見た人間の心を不快に刺激するものであった。
それは三メートル以上の球体正面のほとんどを一つの目玉で占めており、下のほうには幼児が雑に切ったように歪な断面の口があった。
それはシェルファを殺しかけた悪魔であり、シロの手で殺された後に埋葬されたはずの死肉であった。
それが。
口を開く。
「くふふ☆ こうして顔を合わせるのは初めてだのう、シェルファよ」
違う。
声は一つ目悪魔のそれであるが、どう聞いても先の一つ目悪魔とは違う。
まるでその通りだと示すように一つ目の異形の死肉がどろっと溶ける。溶けて、つむじ風のように螺旋を描き、そして新たなる肉体を形作る。
ルビーにも似た燃えるような赤熱のツインテール、エメラルドにも似た鮮やかな深緑の瞳、サファイアにも似たきめ細やかな蒼き肌、アメジストにも似た薄く透き通るような紫の四対の翼、黒翡翠にも似た先端がハートの形の漆黒の尻尾。
そう。
夢魔と同じく現実ではあり得ないファンタジーの領域に位置する美女へと、だ。
「さあ、シェルファよ。呆気なく終わったVS大悪魔など霞んで潰えるほどに濃密な殺し合いを始めようではないか」
声さえ蠱惑的でありながら死を突きつけてくるような女のそれへと変化していた。
肌が透けて見えるほどに光り輝くダイヤモンドにも似た羽衣を雑に巻きつけただけの彼女が口の端を淡く動かす。笑みを作る、その瞬間であった。
ゴグシャアッッッ!!!! と。
シェルファに危害を加えるつもりだと分かれば十分だと言わんばかりに死角から猛スピードで迫っていたルシアとタルガが見えざる『何か』に薙ぎ払われ、洞窟の奥まで吹き飛んだ。
「ルシアお兄様、タルガ!?」
「チッ! キキ、コイツラ、マカセタ!!」
「あっ。待ってください、シロ!!」
シロがシェルファから腕を離したと共にであった。その白い身体が消えたと錯覚するほどの速度で一つ目の異形から謎の美女へと変異した何者かの懐へと飛び込んだのだ。
「オマエ、キケン!!」
「だから立ち向かうと? くふふ☆ 己が能力以上の成果を得ようとしても潰えるのみと理解できぬものかのう」
シロは強い。それは確かだろう。
純粋な暴力であればかの一つ目悪魔とさえも対等にやり合えたほどなのだから。
だから、しかし。
ガンッ!! と美女の頭上へと振るわれた爪は繊細な人差し指一本で受け止められた。
「ッ!?」
薄皮さえ、切り裂くことできず。
そして、美女は言う。
「此度の遊戯の主役にして玩具はシェルファのみ。付属品風情が水を差すでない」
肉と骨が砕ける音が炸裂した。
女が適当に人差し指を振るっただけで、それだけで、全身から鮮血を噴き出しながらシロの身体がシェルファの足元まで吹き飛んだのだ。
「……、う、そ」
足から力が抜ける。
指の先すら動かず血を噴き出し続けるシロの目の前で崩れ落ちる。
白き毛並みが赤黒く染まっていく。
切り傷、刺し傷、打ち傷、擦過傷、咬傷、火傷に凍傷にと多様なダメージが至る所に刻まれており、そのどれもが内臓にまで達するほどに深いものだった。
あの一瞬で。
いかにシェルファの知識や森に生えた希少な薬草があろうともどうしようもないと一目で分かるほどの損傷が刻まれていた。
「そんな、やだ、なんで、こんなの嘘です……」
思考が散り散りとなる。
シロがこんな状態であれば同じように薙ぎ払われたルシアやタルガも重傷なのだと、そんなことさえ考えられないほどに。
そっと、赤黒い塊に手を添える。揺さぶる。
そんなことしても何にもならないと分かっていても、それでも。
「起きて、ください。こんな、やだ、です。だってようやく好きを受け入れることができて、だってようやくシロとツガイになれて、だってこれからじゃないですか。それなのに、なんで、やだです。やだ、やだやだ、こんなのやだあっ!!」
冷静に、なんて無理だった。
先程までの暖かな涙が冷たいだけの涙で押し流されるのを止めることができなかった。
だから。
謎の美女が興ざめだと言いだけに目を細めたのに気づく余裕なんてあるわけなかった。
「吾が期待しすぎただけかのう。暇潰しの遊戯くらいにはなるかと思っておったが……この程度で折れるなどとは興ざめじゃ。せめて魂が潰える痛みで悲鳴を奏でて吾を笑わせることじゃ」
だから。
だから、だ。
「ったく。つまんねえ真似してるな、『女王』」
声が響く。
シュパンッ! とシェルファを庇うように人影が出現する。
『賢者』、それに『冥王ノ息吹』をシェルファたちが『魔沼』で打ち消した際にルシアと行動を共にしていた新人少女兵士が、である。
そう。
あの時と同じく新人少女兵士に夢魔ミリフィアが憑依しているのだ。
「ほう。夢魔ミリフィアよ、『賢者』についたのかえ? まあ利用されていたと分かってもなお惚れ込んでおったようじゃし、当然なのかもしれぬがのう」
「うっ。こっこれは此方のおもちゃであるシェルファに我らが邪悪なりし女王様が手を出すからよねえ!! べっ別にド級クソボケのためじゃないんだからねえ!!」
「そう取り繕わずとも構わぬよ。この世全ては単なる娯楽、吾を楽しませてくれるならばなんだってのう」
「随分とまあ余裕かましているな、『女王』」
割って、吐き捨てる。
ボサボサ頭の『賢者』が珍しく表情を歪めて、どこまでも低く。
「その余裕たっぷりのすまし顔、苦痛に歪めてやるから覚悟しやがれ」
「くふふ☆ そそる言葉ではあるが、所詮は最上級魔導でさえも第二位相で留まる夢魔ミリフィアと同ランクの悪魔の力を引き出すのみ。その上の位相に位置する悪魔の力を引き出す魔法陣など開発すらできなかった『賢者』ごときが悪魔を統べし頂点、第零位相に位置する女王なりし吾に敵うわけなかろう」
「かもな。だからこそ、こんなクソッタレな場面のためにと用意しておいたのは俺様と夢魔ミリフィアだけじゃないわけだ」
「なんじゃと?」
「大悪魔エクゾゲートの呪法の応用で仕込んでおいた隠し球にして過去の伝説の最高峰だ。『女王』をそれはもう楽しませてくれると思うぞ」
ぶぉんっ!! と『賢者』が腕を動かし、数字や文字で構築された複雑な陣を描いたと共にであった。
「出番だ。ぶちかませ、ミリファッ!!」
ゴッッッ!!!! と。
猛烈な速度で肉薄した黄金の光纏いし隻腕の『少女』の聖剣が『女王』めがけて振り下ろされる。




