第三十四話 目を逸らしたその先に
「嫌……」
完璧な令嬢としての側面はいつもながら完璧な答えを導き出していた。反論の余地はない。正しさだけがそこにある。
だけど。
小さく首を横に振り、駄々をこねる幼子のようにシェルファはこう続けていた。
「やめて、そんなの、違う……だって、ルシアお兄様は、すごく強いんです。わたくしなんかより、ずっと、強くて……歴代最年少で軍部の頂点になって、だって、そんな、違う、ルシアお兄様は、だって……」
正しさから、目を逸らしていた。
そんなことをしても、現実が変わるわけがないと頭のどこかでは分かっていて、それでも。
「違う、ん、です……」
認められなかったから。
認めたくなかったから。
家族というものは幻でしかなかった。知識としては知っていたが、そんなものは知識以上の何物でもなかった。
古びた家。五メートル四方の箱庭がシェルファの全てであった。周囲に蔓延るは無理難題を押しつけてくる『家庭教師』たちだけ。物心ついた最初期はともかく、『教育』の中盤頃には『家庭教師』に教えられることはないもないほどにシェルファは完成していた。
ゆえに、無理難題を押しつけてきた。
各々が夢想する『理想』を完璧にこなしてみせろ、と。
到底不可能と『家庭教師』たちが考える課題を幼き子供に押しつけて、達せられなかった場合は致命傷を擬似的に再現することでお仕置きとする。そんな理不尽を押しつけても、シェルファはそのことごとくを乗り越えてみせた。『家庭教師』たちがもうこれ以上はどうしようもないと屈するほどに、シェルファは完璧に磨かれたというわけだ。
そんなシェルファが望んだのは自分以外の誰か。どんな無理難題を達しても得られることのない温もりだった。
ルシア=バーニングフォトンは、兄としてそばにいてくれた。勘当されるような不出来な妹に対して、あり得ないとは思うが失望でもされては耐えられないと今まで目を逸らしていたが──シロに背中を押されて、また己の願望を抑えられず、こうして駆けつけた。
手を伸ばせば、すぐそこにいるはずなのだ。
あの白と黒の絶望の中に取り残されているはずなのだ。
足掻いているはずだ。待っているはずだ。ルシアがその腕で妹を抱きしめてくれたあの日のように、今度はシェルファがその腕で兄をすくい上げないといけないのだ。
だって、生きているから。
生きているに、決まっているから。
死んでなんて……死んでほしくなんて、ないから。
「ルシア、お兄様……お兄様ぁ!!」
「待ってお嬢様っ。何しようとしているの!?」
ふらふらと、誘われるように足を前に踏み出したシェルファを後ろからレッサーが抱きしめることで止める。
完璧な視点は、それを当然のことと眺めていた。
それ以外の何かが邪魔をしないでと叫んでいた。
お願いだから。
現実から目を逸らさせて、と。
「はなして、ください。いかないと、わたくしが、今度はわたくしがルシアお兄様をっ!!」
「だから待ってお嬢様っ。あの中にルシア様がいらっしゃるとして、今もまだ生きているものなの? 万が一生きていたとして、あたしたちがあの中に入って無事で済むものなの!?」
「なんとかします。だから、だから!!」
「じゃあなんですぐに何とかしようとしなかったの?」
「……ッ!?」
ぎぢり、と。
シェルファの身体が、軋む。
「本当に何とかなるなら、すぐにでも飛び出していたはずなの! いつもみたいに的確な指示をしてくれたはずなの! それをしなかったってことは、できなかったってことは、ここまできて自分の足で進もうとしたってことは!! もうどうにもならないってお嬢様自身が認めているようなものなの!!」
ルシア=バーニングフォトンの生死はひとまず置いておくとして、だ。『冥王ノ息吹』は魔導によって導かれる超常ではない。召喚術と同じく一から十まで魔力で構築された魔力の塊である。ゆえに一つ目野郎との戦闘の時のように異界に揺蕩う超常存在の未知の力を操作する『だけ』の魔法陣で力の流れを変えることはできない。
受け流しが不可能ならば、そのまま押し潰されるのは明白だ。表面上はどうであれ、深層に存在する完璧な視点はそう判断したからこそ、レッサーやシロを巻き込まずにシェルファ一人で飛び込もうとしたのだ。
──現実から目を逸らすためだけの無謀な特攻なんて、完璧な令嬢らしくない。完璧の奥に『何か』があるからこそ、シェルファは最善の道から外れようとしていた。
完璧な令嬢であればこのような暴挙に走ることはなく、しかしそれ以外の何かこそがシェルファをただの肉と骨で出来た人形ではなく、一人の人間として形作っているのだ。
「うる、さいんですよ」
わかっている。
本当は無謀な特攻を仕掛けて、現実から目を逸らした先に何もないことなんて、シェルファ自身が一番よくわかっている。
だけど。
それでも。
「わたくしは、わたくしは!!」
だんっ!! と。
シロは荷馬車を反転させる。そう、ゆっくりと、だが確かに迫り来る白と黒の竜巻から逃げるように。
「シロ、何を!?」
「オレ、ニハ、ムズカシイ、 ハナシ、ハ、ワカラン、ガ、アレ、ガ、キケン、ナノハ、ワカル」
「だからこそ! あそこに取り残されているルシアお兄様を助けないといけないんです!!」
「ドウヤッテ? ホウホウ、ガ、ナイ、ナラ、オレ、ハ、エラブ。オマエ、タチ、ダケデモ、タスケル、コトヲ!!」
「そんな話はしていません!! 戻って、離してっ。わっわたくしっ! ルシアお兄様を見殺しになんて、したくないんですっ!!」
シェルファの叫びに、しかしシロもレッサーも従うことはなかった。全力で白と黒の竜巻から遠ざかり、主の身体を抱きしめて身動きを封じる。
シェルファの気持ちは痛いほど伝わっていたけど。
だからといってシェルファを見殺しにできるわけがなかったから。
ーーー☆ーーー
ザンッッッ!!!! と。
白と黒の竜巻が、縦に両断された。
ーーー☆ーーー
「……、あ」
竜巻自体はその程度で霧散することはなかった。すぐにでも元に戻ろうとするが──開かれたそこから男女が飛び出してくる。
一人はレザーアーマー姿の少女。ふわふわしていそうな羽を背中から生やす彼女は男の腕に両手を絡めて、数字や文字で描かれた陣から滲む、淡く光る『何か』を男や彼女を覆うように展開していた。
そして、もう一人。
大将軍や公爵家長男という立場ながら、シャツにズボンというラフな格好の彼は──
「る、しあ……おにいさま?」
なぜ、だとか、そんなものはどうでもよかった。
そこにいるのならば、生きているのならば、何でもよかった。
「ルシアお兄様ぁ!!」
「なっ。なんでシェルファがここに!?」
兵士らしき少女にくっつかれた状態でルシアが驚いたように目を見開く。急停止した荷馬車へと慌てて駆け寄ってくるその様子は幻でも何でもなく、確かに本物の兄の姿であった。
もう、我慢なんてできなかった。
兄が荷馬車のそばまで駆け寄ってきてくれたその時には、レッサーがその両腕を離してくれたその時には、思いきり荷馬車から飛び降りていた。
「おっと」
パタパタと背中の羽を羽ばたかせて少女が離れた次の瞬間には、そのまま妹は兄に抱きついていた。じわり、と。感情のままに瞳を濡らして。
「お兄様、良かったです。ほんとうに、生きていて、よかったっ、です……ッ!!」
「シェルファ……。すまない、どうやら心配かけたようだな」
「いいんです、お兄様が生きていてくれたならば、それだけでっ!!」
背後では二つに両断されたはずの白と黒の竜巻が完全に一つとなり、侵攻を開始していたが──今だけは、そんなもの、どうでもよかった。
その腕の中の温もりだけが全てであったのだから。
ーーー☆ーーー
パタパタと、背中の羽を羽ばたかせていた少女──そう、新入りの少女兵士という『ガワ』を纏う彼女は一つ息を吐く。
細切れのようにしか覗けない現世の様子を観察するだけだったつもりが、気がつけばこうして介入したばかりか、仕込んでいた『嘘』まで晒してしまった。普通の人間が相手ならともかく、シェルファ相手だとすでに『嘘』がバレている可能性は高いだろう。
せっかく『嘘』でもって意識の隙を作り出していたというのに全て台無しだと思いながらも、抱き合う兄妹を見て、まあいいかと済ませていた。
甘い、と。
どこぞの女王に評されている理由はこういった所なのだろうとわかっていた。わかっていて、直す気はなかったが。




