第二十話 夢の世界の支配者
『ふっふ』
瞼を開けると、目の前に宙吊りの女の顔があった。
いいや、正確にはその背中に生えた(もふもふしていそうな)漆黒の翼をパタパタと羽ばたかせて宙に浮かんでいた、と言うべきか。
逆さの女の髪がだらりと垂れていた。キラキラと輝くは……プラチナ色、としか言いようがなかった。周囲に淡い粒子すら漂わせるという不可思議な髪の持ち主は社交場にて羨望の眼差しを一身に集めてきた『完璧な令嬢』たるシェルファと比べても異様なほどに美しく整っていた。
シェルファが現実としての最高峰ならば、謎の美女は空想としての最高峰とでも言うべきだろう。先天的、後天的にどうこうという次元ではない。そもそも彼女のような肉体を形作るには臓器や骨格から作り直さないと不可能なのだから。
世の女性が『こうなりたい』と願い、しかし空想として留めるしかない美の極致。そう、ファンタジーへと謎の美女は到達していた。
『はじめまして、かねえ。それともやっと逢えた、と言うべきかねえ?』
じっと。
ブラックで周囲を満たし、ゴールドで真ん中を彩った不可思議な瞳で見つめられたシェルファは微かに眉をひそめる。
「もしかして夢魔ミリフィアですか?」
夢魔ミリフィア。
異界の住人にして、上には後二つほどしかランクが存在しないとまで言われている高位の悪魔。
異界の超常存在の力、それも垂れ流しにされている残滓を魔法陣にて誘導、現実へと出力する魔導にて利用可能な超常存在の中であればれっきとした最強である。
そう。
彼女は人の身にてコンタクト可能な超常存在の中で、というピラミッドであれば頂点に位置するのだ。無意識に垂れ流される力の残滓すら最上位の魔導に分類されている、という事実を鑑みれば、『そのもの』がどれだけ強大かはわかるというものだ。
では、そんな怪物とシェルファとの接点は?
『二週間ほど前、二度も此方を召喚しようと試みたものねえ。そりゃあ察しはつくというもの、か』
「二度も、というのは誤りかと。はじめはわたくしですが、二度目は別の人間が召喚術を発動、失敗したはずですよ」
『その失敗は其方が一から十まで手取り足取り誘導した結果のはず。何せ、ふっふ、今の時代に召喚術を失敗できる人間なんてそう何人もいるわけないものねえ』
魔導に召喚術。それら超常は流動する。時や場所、術者の精神状態に魔力の質、その他様々な要素を加味した上で『調整』しなければならないのだ。
昨日は魔導の発動が成功した魔法陣でも、明日には失敗するということもザラである。ゆえに、魔導書に記されているのはあくまで式。その式に数字を当てはめ、計算し、適切な魔法陣を描けるだけの知識がなければそもそも失敗することすらできないというわけだ。
これこそが魔導が天才のみの秘奥とされていた理由であった。
ちなみに、現在魔導が一般にまで普及しているのは複雑にして流動する答えを固定し、特定の答えさえ用意できれば超常を出力可能な仕組み、すなわち魔道具が開発されたからである。が、魔道具にて出力できる魔導には限りがあり、そこで満足する者が増えたからこそ、魔導を浅く広くしか知り得ない半端者が増えたのだが。
とにかく、だ。
今の時代において高度の魔導を使える者は少なく、ましてや召喚術のような異界の超常存在に頼らず己が力のみで超常を発揮する力を持つ者となればより少ない。
……シェルファは召喚術失敗によるペナルティにこそ価値を見出していたが、失敗するにしてもある程度形にしないとならず、そこまでできる知識を持つ者は大陸でも数えるほどというわけだ。
『此方は其方に興味がある。この度の邂逅はそれだけが理由よ』
「はぁ、そうですか。こんなことしている時間はないのですが」
『……、ふっふ』
ぐるり、と美女が回る。
地面(というか、白とも黒とも言えない何か)に足をつける。そこでシェルファは周囲が白と黒、相反する印象を同時に抱かせる色をした空間に立っていることに気づく。
立っているといっても、足場の感覚はなく、地面やら壁やら天井やらといった区切りは視認できないので、本当に立っているのかすら不明だが。
『此方を夢魔ミリフィアと知って、何とも不躾な言葉ねえ。大物なのか、単なる馬鹿なのか、あるいは「壊れている」と言うべきかねえ?』
「……?」
『まあ今日のところは時間がないなんてつれないこと言わずに、ってことで。ふっふ、此方は其方に興味があると言ったはずよねえ。どうせならゆっくり食事でもしながら、楽しくおしゃべりと洒落込みましょうよ、ねえ』
瞬間、白とも黒とも表現不能な世界が、変質する。
ぐわぁぅばぁっ!! と強烈な閃光と爆音に世界が包まれたかと思えば──そこはかつて(といっても二週間ほど前)シェルファが住んでいた公爵家本邸にある、シェルファの自室へと生まれ変わっていた。
魔導書や魔道具で足場もないその部屋の中でも比較的無事だった椅子に腰掛けていた。目の前のテーブルの上には所狭しと多種多様な料理が置いてあった。
公爵令嬢として恵まれた食生活を送ってきたシェルファでさえも、思わず匂いだけで食欲をそそるほど、となれば相当腕の良い料理人によるものだろう。
──本来の自室と差異があるとなれば、魔導書の山の隙間やベッドの下などから光り輝く魔法陣が覗いていること、くらいだろう。
あの魔法陣は魔導のそれではない。魔導は模様を描き、超常を引き寄せ誘導する溝を作り、魔力の力にて異界の超常存在まで繋げることで超常を誘導するのだが……覗く魔法陣は数字や文字で形作られていた。
そう、召喚術を形作る陣と同じく。
「夢を操る夢魔の力、ですね。夢の中であれば、どんな理想も叶えられる、と」
『ふっふ。確かにこれらは夢の産物、しかして此方が形作る夢は五感さえも騙すものよねえ。どんな理想的な味や匂いだろうとも表現することが可能よ。どうやらお急ぎのようなれど、一口ぐらい堪能してからでも良いのではなくて?』
甘く、するりと滑り込んでくるようであった。
その囁きには魂惹かれる魅力があった。
だから。
だから。
だから。
「なるほど。料理を口にすれば、一生夢の世界の住人となる、というわけですか」
ガヂリ、と。
現実的な美の枠外、ファンタジーの世界に揺蕩う完璧な美貌に微かな軋みが生まれる。
「夢魔の力の一つに永眠に誘うというものがあることは判明していましたが、それが具体的にどういったものか、まではどんな書物にも記載はありませんでした。ですので、既に囚われた後なのではと危惧していましたが、どうやらそこまで深刻な状況ではないようですね」
『どうして、そう思ったのかねえ?』
「わざわざ料理を口にするよう誘惑してきた、とか理由をつけようと思えばつけられますが、答えはもっと単純です。悪魔とは誘惑する者。そんな悪魔の言葉の先には堕落があるに決まっています。そう、今この瞬間でさえも堕ちる『余地』があった、となれば、本当に単純な話となります」
『えー……此方の全てを疑ってかかっていたということ? ひっどぉい』
己が力の本質を見抜かれたにしては、余裕があった。こんなものは小手先であり、奥の手が控えているから、とも考えられるが……、
「もしかして、試していました?」
『ふっふ。人聞きの悪い。ああいや、悪魔聞きの悪いって言うべきかねえ? とにかく、そんな、試すだなんて。さっきも言った通り、此方は其方に興味があるってだけよ。興味があるからこそ、知りたいと思っただけ。まあこの程度で堕落するようなら、永遠なる夢に堕として、飼い殺しにしてやったけど』
「そうですか」
『とはいえ、悪魔や天使の力を分析、再構築したド級クソボケ……ごほん。賢者が生み出した召喚術をああも完璧に使いこなしているほどだもの。この程度の誘惑、跳ね除けてくれると信じていたわよねえ』
「まあ、何でもいいです。それより早く起こしてくれません?」
『ふっふ、ふははははっ! 本当、興味深いわねえ。普通の人間なら恐れるなり、怒るなりするものだろうに、ポーカーフェイスでも何でもなく他人事のように流すなんてねえ』
と、その時であった。
どろり、と。シェルファの自室を形作っていた空間が熱せられた鉄のように歪み、溶け、崩れる。
世界が崩壊していく中、夢の世界の支配者は笑う。
『簡単に堕ちてはつまらないもの。足掻いて、抗って、抵抗して──最後に甘く蕩かしてこそ、堕落の瞬間は甘美に熟成されるのよねえ。だから、ふっふ、これからも存分に楽しませてねえ』
「できれば、こういった誘惑はこれっきりにしてほしいのですが」
『先に干渉してきたのは其方よ? 自分は好きに触ってきたくせに、こちらが触ろうとしたら嫌がるなんて酷い話よねえ。というわけで、ふっふ、覚悟することよ。悪魔なんていう邪悪を利用しようと企んだこと、骨の髄まで後悔させてやるからねえ☆』
ドロドロに溶けていく世界の中。
最後の最後に、こんな言葉があった。
『そうそう。いかに此方とはいえ、誰彼構わずいつだって干渉できるわけじゃないのよねえ。こうして干渉できたのは、それだけ抵抗力が落ちていたから。此方に好き放題触られるのが嫌なら、精神的にも肉体的にも弱らないよう自己管理をしっかりすることねえ。いや、本当、無茶しすぎよ。召喚術もなしに此方が現世の生物に干渉できるほどなんてよっぽどなんだからねっ!!』
ーーー☆ーーー
全てが溶けて、崩れた、その後。
現実に浮上していく中、一人きりとなったシェルファはというと、不思議そうに首を傾げていた。
「わたくし、悪魔に心配されるほど疲れているんでしょうか?」




