第十九話 生まれた頃から刻まれた価値観
『魔沼』は沸点が低く、常温でも蒸発する。
ただし蒸発させたからといって成分が分離することはない。全て蒸発し、気化したそれを冷やせば全て凝縮、液体へと戻る。その際質量に変化がないことから、空気中の成分と混ざっているということはないようだ。
酸、アルカリ問わず様々な液体を混ぜようと試みるが、水が油を弾くように決して混ざることはない。
成分分析しようにも濾過、(シロの力を借りた)遠心分離、蒸留などの成分分離は効果がなく、試薬による識別、光の透過度による識別など全て不発に終わった。
結果が出なかった、ではない。
出た結果を照らし合わせると、ことごとく矛盾するのだ。
示されるは一つ。
既存の分析方法では『魔沼』を解析することはできない、ということだ。
……専門の施設で分析すれば結果も違うのかもしれないが、今のシェルファにそういった施設を利用するツテはない。いや、正確には専門の施設に成分分析を頼み、裏切られないと信頼できる手札がない、と言うべきか。
「……答えはあるはずです。この世に実在する以上、何かしらのルールに基づいているはずなんですっ。何もない、わからない、理解できないなんてものは限界値に到達する前に挫折した結果でしかありません。だから、だから!!」
二週間が経過した。
『魔沼』を何かに溶かし、薄めて、弱毒化する術は未だ見つからず。そもそも『魔沼』が何なのかすらも判明していなかった。
ーーー☆ーーー
「いやぁ、ここに珍しい薬草があって良かったっ。お陰で街で買い物する軍資金には困らないから、多少料理ができずとも即席料理が買えるもの!」
洞窟でのことだった。
缶詰や乾パンを組み合わせて、多種多様な『味』を生み出すレッサーによって、炎に立ち向かわずとも食事を済ませられるようになっていた。どうやら一から作るのは苦手でも、出来上がったもの同士を組み合わせることは得意なようである。
缶詰と乾パンを組み合わせた缶詰丼(?)を頬ばりながら、レッサーは外に視線を向ける。
「しかし、あれだね。あとちょっとで家もできそうだし、洞窟暮らしも終わりかぁ。こう、なんていうか、終わっちゃうとなったら名残惜しいものがあるの!」
「ワウ。レッサー、ハ、ナニモ、シテナイ、ケドネ」
「うっ!? あ、あたしだって何か手伝おうとしたけど、こう、正確な測量や真っ直ぐな線を引くなんてのできそうになかったし、木材を切ったり運んだりなんて重くて無理だし、釘打とうにも素手でなんてできるわけないじゃん!!」
ちなみにシロやキキは素手で、子犬たちは前足を叩きつけることで釘打ちしていた。基本ポンコツなメイドさんが入り込む余地なんてどこにもないのだった!
「く、くそう。あたしだってしっかり休めるように飲み物用意したり、紅茶用意したり……飲み物用意したりしたもん!!」
「ノミモノ、シカ、ヨウイ、シテ、ナイ、ネ」
「うわあん! キキが意地悪なのお!!」
二週間もあれば軽口を言えるくらいの仲になっていた。その仲の具合はナンダカンダで背中がバッサリ裂けたメイド服をキキが着ていることからも明らかだろう。
対してシロは買った服を着ることはなかった。服の必要性が理解できないどころか、動きにくくなるだけだと嫌がっていたのが一つ。もう一つは服を着ると、もれなくシェルファがめんどくさくなるからであった。
「…………、」
件のシェルファはメイド特製缶詰丼を口にせず、ぼーっと虚空を見つめていた。箸を持ってはいるが、それだけだ。心ここにあらず、というか、起きながらに眠っているような状態なのだろう。
それだけ疲労がたまっているとも言える。
「わうっ」
「ガウガウッ!」
そんな彼女を心配してか、子犬たちがじゃれつくように近づく。対してシェルファはといえば、軽く頭を撫でる『だけ』だった。
それ『だけ』で済ませるなんてらしくない。
らしくないほどに、前みたいに体当たりで触れ合おうと思えないくらいに、疲れているということだろう。
ーーー☆ーーー
早く家を完成させよう、とシロは決意する。
シェルファは言って聞くようなタイプではない。ならば、せめて生活環境を変えてやるのが一番だろう。
『外』には家というものがたくさんあった。
群れのボスの威厳を保つため困惑が顔に出るようなことだけは我慢したが、内心では驚きに溢れていた。
ともあれ、だ。
あれが『外』の基本であり、『外』から来たシェルファたちの生活環境なのだ。つまり、洞窟暮らしよりも、ああいった家で暮らすほうが心休まるというわけである。
──家づくりにもシェルファの助力が必要なのが口惜しいが、何もしないでと伝えても無駄なのはとっくに実感している。言って聞くような奴ではないのならば、負担を軽減するよう動くしかない。
幸運なことに家づくりは肉体労働。類い稀なる身体能力を持つシロたちが頑張れば頑張るだけシェルファにかかる負担は軽減される。
一歩ずつ積み重ねていけば、必ずやシェルファの負担は軽減できる。一人で意地になっている少女を助けることができるはずだ。
ーーー☆ーーー
深夜。
真っ暗な森の中、焚き火の明かりを頼りに荷馬車の上でシェルファは『魔沼』が入った容器を見つめていた。
これを何かに溶かし、薄めることで弱毒化すれば、大気中に漂う動植物に悪影響を与える残留魔力だけを殺す『商品』として売り出すことができる。
お金に関してそこまで執着がないシェルファではあるが、『問題』を解決した上でお金が手に入るのならばそのほうがいいに決まっている。
──ゆえに、分析する。
『魔沼』を分析、土地を浄化する『商品』へと加工、世界各地のどこだって希少素材が栽培可能な土壌へと変えることができるとして売りさばく。その真意は深刻な『問題』を解決するため、というわけだ。
──ゆえに、急ぐ。
おそらくシェルファはそういった理由がなくとも未知に対する探求をやめることはなかっただろうが、無理をすることはなかったかもしれない。こうして二週間もの間、寝る間も惜しんで『魔沼』の解析、及び何かに溶かし薄めるための溶液を総当たりで調べているのは、『先』を見据えてのことであった。
──ゆえに、我慢する。
疲労は確かにある。身体は熱く、頭の奥から痛みが走り、視界がぼやけているが、これくらいならば我慢できる。必須項目を完璧に出力する『令嬢』と鍛え上げるべく、魔導による傷を残さず致命傷時の痛みを与える教育装置を用いていた頃はそれこそ倒れようが吐こうが痙攣しようが叩き起こされて、課題を突きつけられていたほどである。その頃と比べれば、失神できるだけ恵まれているだろう。
……ただし、公爵家には無茶な教育を通すだけの医療設備や薬が揃っていた、ことまでは考慮していなかった。
だから、だろうか。
ふとした瞬間、限界を超えたシェルファの意識は途絶えた。




