第四話 逃げる少女
年齢は父より年上のはずのハンスだが、若い頃は奴隷として魔窟で戦い続けていたらしい歴戦の勇士である、と言う話は聞いた事がある。
見た感じでは気の良い初老の紳士なのでとてもそうは思えないのだが、いざと言う時にはメーヴェを守る事もハンスの仕事であり、その実力があると言う事だ。
その片鱗は彼女も見たことがあるが、実際に戦うところは見た事は無い。
しかし温厚で冷静沈着なハンスがあの慌てようであった事を考えると、両親にも何か危険が迫っているのかもしれない。
だが、それこそ無謀な事だ。
街に住む市民や貴族、街にも住めない貧民達とは統治者である領主と比べてその実力に雲泥の差がある。
これまでの歴史の中でも、こう言う無意味で無謀なクーデターは起こされている事はあるのだが、その全てがことごとく失敗している。
生まれついた資質が違うのだ。
だから、大丈夫。この夜さえやり過ごしてしまえば、いつも通りの毎日がやって来る。
メーヴェはそう思いながら、ハンスから被せられたローブのフードを目深に被って、秘密の抜け道に向かう。
多忙な両親の事を接点が少なくても大好きで尊敬していたが、それでもやはり幼い頃には好奇心に負けてこっそり外に出ようとした事があったが、それはハンスに見つけられてしまった。
その時、ハンスに教えられたのが、この秘密の抜け道である。
屋敷に住む者の中でもハンスとメーヴェしかしらない抜け道なので、今この屋敷に殺到している無謀なクーデターを起こしていると思われる者達も、この道を見つける事はそう簡単には出来ないはずだ。
さらに、今彼女が身にまとっているローブは魔力を宿す品であり、夜陰に紛れて逃げる為の物と言うより、日中であったとしても彼女の姿を見つける事も難しい物である。
メーヴェは一人で心細くはあったが、それでもハンスに言われた通りに秘密の抜け道へ向かう。
認めるのは癪だが、メーヴェの持って生まれた能力は戦闘向きでは無く、そんな野蛮な事を身に付けるような無駄な時間は彼女には無かったので、戦力にならないのだ。
自覚があるだけに、腹が立つ。
秘密の抜け道を通っている間、メーヴェは憤怒によって高揚していた。
何を考えての事かは分からないのだが、この無謀で理不尽な暴力によるクーデターが成功するはずもない。
彼女の安眠を妨げるだけではなく、館に押し入ったのだから極刑以外に当てる刑罰があるはずがない。
それだけでは済まされない。
父に頼んででも、二度とこの様な理不尽を許してはならないのだ。
平服するべき下民、貧民が歯向かう事が許されないと言う事を教える事は貴族の義務だと思う。
そんな事を考えながら、薄暗い秘密の抜け道を抜けた時、メーヴェは自分の認識と事態の深刻さには大き過ぎる乖離がある事を思い知らされた。
館だけの騒ぎでは無かったのだ。
まるで街全体をひっくり返したような喧騒であり、普段平伏している下民達とは思えない者達が、それぞれに武器を手に喚き散らして、貴族や領主の館に殺到していた。
異常に殺気立つ民衆を見ていると、ここが魔窟になってしまったのではないかと言う恐怖さえ覚える。
彼女は直接魔窟を見た事は無かったが、今の街は話に聞く魔窟と何ら変わりがないと思われた。
恐怖で身が竦む。
ここなら気付かれないのではないか、と言う希望的観測がメーヴェの思考を占める。
事実、怒り狂う住民達の数人はメーヴェの前を通っていったが、彼女の存在にはもちろんこの通路の出口にすら気付いていなかった。
森へ行くより、ここでハンスが来るのを待つべきではないのか? 下手に動いたら、それこそこの魔物のような住民に見つかってしまうのではないか、と思う。
そうだ。この通路の隅の方で座って動かなければ、このローブの効果もあって見つかる事など無いはずだ。
彼女はそう考えて座り込もうとしたが、そう言うわけにもいかなくなった。
通路の向こう側、館側から声が近付いて来る気がしたのだ。
「ハンス?」
彼女は館側に向かって声をかける。
「女の声がしたぞ!」
館側からの返答は、明らかにハンスではない。
彼女は慌てて隠し通路から飛び出し、森に向かって走る。
飛び出した時に誰にも見つからなかったのは僥倖としか言いようが無かったが、今の彼女にはそれを喜ぶ余裕は無かった。
あの群れが、武器を手に訳のわからない雄叫びを上げた、人の姿をした魔物のような民衆が襲ってくる。
背後から足音が聞こえる気がする。
ローブは手放せないが、フードを深く被っている状態では視界も狭く、近付いて来る気配も分からない。
今すぐにでも肩を掴まれるのではないか、と言う不安に胸が潰れそうになる。
まともに呼吸も出来ないほど乱れ、膝が震えて立っていられない様な状態になるまで走り、一息つく時には街を抜けて森に入っていた。
足元は運動向きの靴ではなく、室内用のスリッパのまま。魔力のローブの下はガウンと寝巻きである。
それで生命の危機を感じながらの長距離を全力疾走なのだから、元々スタミナが豊富とは言えない彼女にとっては限界だった。
このまま倒れ込みたいと言う誘惑も感じたが、彼女はそこに座り込む事はせず、ハンスの言葉に従って森に住む者を探した。
単純に怖かったのだ。
ここまでくると恐怖の対象は街の怒り狂った住人だけではなく、森に住む獣や魔窟から出てきた本物の魔物さえも現れるかもしれない。
また、振り返る事も怖かった。
背後から追手が来ているかもしれないと言うより、後ろを見て街の状態を見てしまったら、ハンスが迎えに来てくれるかを疑ってしまう事になるかもしれない。
足は棒みたいに感じられ、このまま死ぬのではないかと思うほど息も苦しいのに、それを整える事が出来ない。
夜が明けてきたとはいえ光源として月明かりがあるのが、有難かった。
森の奥、と言うほどではないところに小屋が見えたのだ。
彼女の目にはとても人が住む様なところには見えなかったが、それでも身を隠す建物があったのは、奇跡的な天啓に思えた。
実際にハンスの情報だけで、この建物を見つける事が出来た事は奇跡としか言いようのない幸運だっただろう。
彼女は周囲の確認もほどほどに、その建物に急いだ。