第三話 その日の少女
彼女は基本的に早寝朝寝坊を常に志し、それを実践していた。
この街において貴族であったとしても統治者に逆らうような愚か者は存在せず、その統治者の至宝である一人娘に歯向かう者はもちろん、意見出来る者さえ街の領主であり統治者である両親以外には存在しない。
そんな幼い暴君の資質ある彼女だが、それでも自分なりに淑女であろうという努力はしているつもりだった。
淑女である自分が、他者の前であくびするようなはしたない真似は出来ないと考えていたので、睡眠は充分に取るように心がけているのだ。
そんな彼女の安眠を妨げる事は、それだけで万死に値する蛮行である。
それはこの家では絶対のルールとして知られているだけでなく、彼女の部屋も魔力によって無音に保たれていると言うほどでは無いにしても、最新の防音技術を駆使された部屋になっている。
だが、この日はそれでも騒々しい音が聞こえてきて、彼女の安眠を妨げる事になった。
彼女は苛立ちと共に目を覚ます。
時計を見ても、まだ真夜中である。
もしかしたら父が宴会を催しているのかもしれないが、それでも父は宴会などの酒の席であっても貴族の所作を大事にしろと言っていた。
それでもこれだけ騒ぎになっていると言う事は、成り上がりのエヌエル家の、父の言葉を借りていうなら『ボンクラ』か、アルコールが入った途端に人格が変わる、ダメ貴族代表と言えるエヴィエマエウ家の連中だと思われる。
しかし、エヴィエマエウ家の輩はあまりにも目に余るとされて、先月から格を下げられた為、この領主館への立ち入りは禁止されていたはずだ。
とは言え、それにしても騒ぎ過ぎではないかと思う。
ここまで大騒ぎになる前に、そう言うところに厳しい父は何かしら手を打つのではないかと思うのだが、もしかすると父が不在の時に何か騒ぎになったのかもしれない。
そう思いながら、彼女はナイトガウンを纏う。
彼女が何事か確認に行こうとした時、部屋の扉が乱暴に叩かれる。
それはノックと言うにはあまりにも強く、思わず彼女の身は竦んでしまった。
「メーヴェお嬢様。お休みのところ、申し訳ございません」
扉の向こうから聞こえてきたのは、彼女の世話係である初老の男、ハンスの声だった。
元は奴隷出身だったそうだが、誠実な人柄と非常識なほど正確無比な記憶力を高く評価され、今では彼女の世話役まで務めている。
父からの信頼と言う点では、並の貴族より遥かに上の人物だ。
「ハンス、何事なの?」
いつもは朗らかなハンスの声が彼らしくない切迫した緊張を含むものだったので、メーヴェも不安になって扉を開く。
そこには緊張した面持ちで、ところどころに怪我をしているハンスが立っていた。
「お嬢様、コレを」
メーヴェが何か言う前に、ハンスは彼女の頭からローブを被せる。
「うわっ! は、ハンス? 何事なのよ?」
「逃げて下さい。秘密の抜け道は知っていますね? そこを抜けて、森へ逃げて下さい。谷や沼ではなく、森へ。魔窟の近くにソルと言う男が住んでいるはずです。そこへ逃げて下さい」
ハンスは早口で言うと、彼女の背中を押す。
「ハンス? な、何事なの? 大丈夫なの?」
これはもう、酔っ払いが騒いでいると言う次元の問題では無い。もっと大きく、取り返しのつかない何かが起きていると言う事は、感覚で分かった。
「急いで。そのローブを纏っていれば、視認しづらくなります。森で、ソルに助けを求めて下さい。あの男であれば、あるいはお嬢様を助けてくれるかもしれません」
「わ、私一人で? 森には、魔窟には近づくなって、お父様が……」
メーヴェは父親の教えには、忠実に従っていた。
この街の外れにある魔窟はゴロツキの巣窟であり、また危険で野蛮で汚らしい魔物の巣でもある。浅い層の魔物は、時々魔窟から出てくる事もあるらしいので、魔窟近くの森には絶対に近づくなと言われてきた。
そんなところに人が住んでいるとも思えなかった。
「事が済みましたら、私がお迎えにあがりますので」
ハンスはそう言うと、改めて彼女の背中を押す。
「か、必ず迎えに来なさいよ!」
よく意味は分からなかったが、今は一刻を争う危険な状態だと言う事は、雰囲気で分かった。
それでもメーヴェは、世話役に念を押す。
魔窟近くの森はもちろん、こんな夜中に一人で外を出歩くなど、彼女にとってまったく経験の無い未知の行動なのだ。
「ご無事で、お嬢様」
ハンスは笑顔で言うと、彼女を置いて騒ぎの方へ走り去っていく。