第五話 お腹が空いたので
メーヴェは空腹で夜中に目を覚ました。
もう三日も水くらいしか口にしていない。
ソルは一日三食きっちり食べるタイプでは無かったのだが、それでも食事はまったく分けてもらえなかった。
ダダをこねてみたり、泣き落しを試みたがあの男は視線を向けるだけで言葉もかけてこない。
一度あまりにも空腹で大暴れてみようとしたのだが、その時は剣に手をかけた状態で静かに、
「暴れるな」
と言われたので、大人しくする事にした。
それでも、もう限界である。
何か食べないと、飢え死にするのではないかと言う不安が膨れ上がる。
しかし、真夜中に小屋を出て森に向かうのは自殺行為である事は、メーヴェにもわかっていた。
魔物や獣は基本的に夜行性なので、森に行くなら昼前くらいがベストである。
本来なら二度寝するのが正しい選択肢なのだが、空腹で眠れない。
ふと視線を向けると、ソルが背中を向けて無防備に眠っている。
その背中に殺意を感じるので、本気で借り物の剣で斬りかかってやろうかとも思うのだが、その瞬間に目を覚まして返り討ちにあいそうな気がするので、そこは我慢する。
それでも空腹はどうしようもないので、何か気を紛らわせられるモノは無いかを探してみた。
と言っても、この小屋自体が小さいので大した物は無い。
目の前の火が消え、ただの炭になった木や灰を見ても何も変わらないし、同じようにソルの背中を見ていても腹が立つだけで気は紛れない。
他のところに目を向けると、ゴミ置き場にしか見えないが実は物置の一角など、探してみると面白そうな気もしないでもないが、やはりゴミ漁りに思えてしまう。
さすがに貴族の娘がやるような事ではないので、別のところに目を向ける。
その他にこの部屋にある物と言えば、すでに完成した数体の『審判』の女神像くらいだ。
ひたすら空腹を訴えているのに無視し続けているソルバルトに対する復讐として、『審判』の女神像を齧ってやろうかと、本気で考えたりもした。
思いっきり歯型付けてやれば、少なくとも売り物にならないだろうから、復讐の手段としては面白いかもしれない。
が、さすがに女神像に思いっきり噛み付くと言うのは、色々と強い抵抗がある。
それにいかにムカつく奴が作ったとはいえ、簡素と言っても美術品を意図的に傷付けるのはメーヴェには出来そうになかった。
これ、幾らくらいで取引してるんだろう。
メーヴェはソルが眠っているのを確認してから、こっそりと彫像に近付く。
物凄く高価、と言う事はないだろうが、だからと言って安価と言う訳でもないはずだ。
ちょっとしたお土産レベルではなく、割と本格的な彫像なのでそれなりの金額になるだろう。
それで考えると、この家のみすぼらしさはソルが金を何に使っているのかも気になってくる。
きっとギャンブルなどの、ろくでもない使い方に決まっている。
と言うより、そうでもないと収入に対して生活が質素過ぎる。
この最低限の雨風が防げるだけと言う小屋もそうだし、普段の食生活もほとんどが森や川で採れるモノを食べている。衣服に金をかけているとも思えないのだから、入ってくる金額は全てギャンブルなどで使っているに違いない。
この彫像を彫っているところもじっと見てきたが、作り方だけを見ていると雑に見える。だが、彼の神がかった器用さで何の変哲も無い木片が、短時間でこの『審判』の女神になっていくのは、ちょっとした魔術を見ているようでもあった。
無造作に並べられている『審判』の女神は、本来このように無造作に並べられるような物でもないはずなのだが、この作業台に並べられている女神像を見ていると、どうしても作りかけの彫像に目が行ってしまう。
女神像も充分な完成度だと言えるのだが、この女神像は売り物として作られた物であり、ただ形だけを整えた物に見えてしまうのに対し、作りかけの彫像は明らかに違う。
まるで魂を吹き込まれかけているかのような、別格の存在感があった。
もしコレが完成していれば、並べられている『審判』の女神像百体分か、それ以上の価値がありそうなものだ。
とても温かく、柔らかく、それでいて見ているだけで涙が出そうになる何かを感じる。
本当なら手に取って見たいところだが、ちょっと見ていただけで剣を向けられたので、眺めるだけにする。
コレをあの男が作ったと言うのも信じられない。
あのズボラで無礼な隻腕の男に、これほど美しいモノを作る事が出来るのか、と思ってしまう。
芸術家と言う人種は、確かにその人物と作品が一致しない事は珍しくないのだが、ソルもそう言う人物と言う事だ。
メーヴェはもう一度ソルが眠っている事を確認すると、誘惑に負けてそっと作りかけの像に触れてみる。
無造作に転がされているのが、あまりにも可哀想に思えたので立ててみる事にした。
手に触れてみると、間近で見たいと言う欲求にかられ、メーヴェは作りかけの像を手に取って見る。
本当に美しい像だと思う。
女性が赤子を抱く像であり、女性は美しく慈愛に満ちた表情で赤子を抱いている。一方の赤子は、その形だけがあるだけでまだ表情も何も無い。
むしろそれが赤子かどうかもわからないのだが、メーヴェの目にはそれは赤子に思えた。
モデルがいるのかも知れないとも思う。
ソルは見た目からは年齢が分り難く、メーヴェの両親と同じ年かそれより上にも見えるのだが、メーヴェより少し年上なだけにも見える。
順当に考えると妻か恋人がモデルであり、その女性へのプレゼントか何かだったのかもしれない。
だとすると、完成する前に逃げられたのかな、とメーヴェは思う。
これほど偏屈な男なので逃げられてもおかしくはないのだが、この像の表情を見る限りでは深い愛情も感じられる。
ソルが魔窟探索を行っていたのは間違い無いみたいなので、死別している可能性も低くはない為、茶化す事も出来ない。
ソルが目を覚ますとまた剣を向けられそうだったので、メーヴェはそっとその像を女神像の並ぶ作業台の隅に置く。
作業台、と言ってもそれを使っているところは見た事が無く、作業台と言うより完成した彫像の展示台と化している。
あの作りかけの像を見ていると空腹感が消えた訳ではないものの、胸が一杯になって空腹感も紛れたので、メーヴェは眠る事にした。
眠る前にふと思ったのは、メーヴェは両親から愛情を注がれて育ったはずなのに、その両親の表情として、作りかけの彫像のような慈愛に満ちた表情と言うのを見た事が無い気がした。
翌朝、良い匂いで目が覚めたが、結局その朝食がメーヴェの口に入る事は無いのは、この数日で嫌というほど味わってきた。
これまで色んな手段で朝食を入手しようとしたが、今では視線さえ向けようとしなくなっている。
魔力のローブで姿は見え難くなっているとはいえ、ソルの場合メーヴェが見えていないと言うより存在していないと思っているみたいだった。
ここにいると惨めな気分になってくるので、メーヴェは剣を抱いて小屋を出る。
一昨日はあまりの惨めさに自然と涙が溢れ、しくしくと泣いていたのだが、ソルはビクともしなかった。
それどころか、鬱陶しいから外で泣いてこいとまで言われてしまった。
そこで暴れようとしたのだが、それも効果が無かったのでメーヴェは外に出た。
川で一通り泣き通した後、メーヴェは小屋の近くにある果物の成っている木へ向かった。
木登りの経験の無いメーヴェなので、木の上の果物を取る事は出来ず、剣を使った方法も上手くいかなかった。
が、メーヴェはそこで一つ思いついた。
木登りの経験は無いので木を登りにくいのであれば、登りやすくすればいいのだ。
これぞ天才的発想。さすが、私。素晴らしいわ。
メーヴェは剣を鞘から抜くと、木に斬りかかる。
メーヴェのへっぽこ剣術では、いかに名剣レベルの剣であっても木を切断する事は出来ない。
しかし、傷付ける事は出来る。
剣術の練習をしているみたいで、ちょっとカッコイイじゃない? と思いながら、メーヴェは木に向かって剣を振っていた。
数日の努力の結果、手足を引っ掛けるには丁度いい傷が入り、木登り初心者のメーヴェであっても最初の太めの枝に手が届くようになったのだ。
もういい加減何か食べないと。
メーヴェはそう思いながら、ふらふらと森の方へ歩く。
さすがに川の水だけで過ごすのも限界だ。
メーヴェの剣の練習台も兼ねた果物の木の前に来て、果物の状況を確認する。
比較的近いところに食べ頃な実が一つ、それより少し上に二つほど実があり、特に鳥などに取られている様子も無かった。
ここまで来たら、もう服が汚れるとか木登りをした事が無いとか言っている場合じゃない。頑張れば手に入るところに食べ物があるのだ。
あの実が取れれば、何だか全てが上手く行く気がする。私は、やれば出来る子なんだから。
そう思いながら、メーヴェは剣を背負う。
色々試していてすっかりボロボロになってしまったガウンを使って剣を体に縛り付けると、メーヴェは木に付いた傷に手をかける。
次に足をかけるのだが、室内用のスリッパでは素晴らしく滑る。しかし、素足で登るのも怪我しそうで怖かったので、スリッパの隅を上手くひっかける。
それで上手く行くのはせいぜい二歩目くらいで、そこから先に進める為にはスリッパはどうしても邪魔になるのだが、メーヴェは頑張ってスリッパを履いたまま木を登っていく。
慣れた者であれば三十秒もあれば実を取って戻ってきているかもしれないが、メーヴェは慎重に一生懸命頑張って木にしがみつきながら登り、時々ずり落ちたりしながら五分ほどかけてようやく最初の太い枝のところにたどり着いた。
すでに息切れしていたので一息ついて、メーヴェは寝そべるように枝にしがみつき、右手で背負っていた剣を抜く。
これで枝を切り、実を落とす。それを回収して、川の水で綺麗に洗ってから食べる。
プランは完璧、ゴールは目の前だ。頑張れ、私。
メーヴェは目標である大きく実った果実だけを見て、剣を伸ばす。
少しずつにじり寄り、名剣の先で果実の成った枝を打つ。
食べ頃の果実を落とす事に成功して、メーヴェは小さくガッツポーズをすると早速下に降りようとしたのだが、まったく想定外の問題が起きていた。
メーヴェの足元、果物の木の下に魔物の子供と思われる生き物が五体も集まっていたのだ。
え? 嘘? 嘘でしょ? たしかあれはゴ……、ゴブ? ゴリ? とにかく、そんな感じの名前のアレだ。
メーヴェは魔物の知識は無いのだが、魔物の中には見た目は子供でもすでに成人している魔物もいると言う事は、聞いた事がある。
今足元に集まっている魔物も、子供に見えて人を食う魔物かもしれない。
メーヴェは悲鳴をあげる事も忘れて、枝にしがみつく。
キィキィと鳴き声を上げる魔物達は、メーヴェが落とした果物を拾い上げて喜んでいる。
「あ! それ、私の!」
思わず声を上げると、魔物が一斉にメーヴェの方を見る。
「ひぃっ!」
魔物達が手を伸ばして、メーヴェの方に向かって跳ねているので、襲いかかってくるようにも見えた。
実際には魔物のジャンプ力はあって無いようなモノなので、どんなに跳ねてもメーヴェのところに届くはずも無いのだが、戦う術の無いメーヴェにはそこまで冷静な判断は出来なかった。




