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ハッシュ

作者: 真由

 雨の匂いがする。大きな窓際の廊下で、私は愛犬のハッシュと同じ方角に寝そべった。読みかけの本を開いて腕を伸ばせば、ハッシュは諦めたように、私の腕へ頭を埋めてくれる。暖かい生き物の匂い。犬より少し遅い、たぶん二分の一の速度で進む心臓をハッシュの後頭部に近づける。後ろから抱きすくめる、なんて壁ドンと同等かそれ以上の王道胸キュン行動に、私はちっともときめかない。寝そべって読むには少し重い文庫本を余裕の表情で開く。ときどき焦れたようにこちらの顔を舐め回すハッシュの尻を、足先で宥める。冷たい足を労るように。つまり犬側にはあまりに無遠慮なそれに、ハッシュは逃げ出した。コーギーと柴犬をミックスしたような、紅茶色の背中を前にお腹を鳴らす。人間にはとても心地の良い抱き枕でも、枕側はあまり良いかけ布団だとは思ってくれなかったらしい。ツルツル滑る廊下を駆け出したハッシュ。もうこの家に来てから十二年目とは思えない走りっぷりに、感嘆の意を込めたため息を。

 ハッシュが家に来たのは、私が小学生の時だった。衣替えの時に夏休みの絵日記を見つけたから間違いない。何故絵日記が衣替えで発見されるのかは、自分でも不思議。とにかく女の子は、衣替えで季節に合わせた、新しくて自分に似合う服を探すものだから。洋服箪笥を開け閉めするだけじゃ、とても終われない。絵日記の中に描かれたハッシュも私も、ちっとも似てなんかいなかった。それでも昔の私がクレヨンで丁寧に塗り付けた物は、まるで写真のように記憶の隙間を覗かせてみせた。まだ仔犬だったハッシュは、お父さんの友達の家のプータという名前だった。水原プータ。外国人のハーフのような名前だった仔犬に、ハッシュと名付けたのは私の一つ下の弟。姉弟で一人一つずつ名前を考えたのに、当時お姉ちゃんだった私の考えは採用されなかった。因みに私の考えた名前はメーイン五世。もしお姉ちゃんの権限でメーイン五世に決まっていたら、私は素直にハッシュを愛せていただろうか。当時から飛び抜けていた弟のセンスに惚れ惚れとしつつ、絵日記はその日の内に資源ごみに出した。

 ハッシュは今年で十二歳。人間の歳に換算すると、もう七十三歳らしい。犬の寿命は十二年から十六年。いつ寿命が尽きたって可笑しくはない。最近散歩を嫌がるようになった。紅茶色の色素が薄い、水晶玉のような目に陰りが出来た。髭が黒くなくなった。私がハッシュ、と呼び掛けても、遠くで見守る事が増えた。優しく緩やかに尻尾を振られても、私はちっとも嬉しくない。有り余る程の大きな声で吠えて飛び付いてくる昔の、絵日記の中のハッシュを私は愛していた。

 しばらく外に出て、また気まぐれに私の腕の中へ帰ってきたハッシュは、犬の皮を被った猫のようだった。死に場所を探し、一人で旅に出る前の。私はハッシュの雨に濡れた毛皮を抱き締めた。湿った雨の匂いが死神を連れてくる気がした。

 二日後、一つ私宛てに封筒が届く。専門学校の合格通知だ。無事推薦も取れたし、面接もバッチリだった。きっと大きく合格と書かれた書類が我が家に届く。ここは鹿児島県の南にある小さな島だから、専門学校なんて洒落たものは存在しない。私はあと半年で高校を卒業して、島を出なくちゃいけない。

行かないで、ハッシュ。

ハッシュの死が先か、私が進学するのが先か。指折り数える恐ろしい死神は、私だったのかもしれない。雨の匂いが途切れる。読みかけの全日本一億人が泣いた感動小説は、未だちっとも読み進められやしなかった。

閲覧ありがとうございました。

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