5.友の足跡
「川本が、付箋のメモを楽譜に?」
愛先輩が、少し驚いた目になる。
「それは見たことないなぁ。だってあの子、先輩の自分達よりも楽譜読めるもん」
「でも、栞ちゃん……練習中に気づいたことを、書いたりしてるって」
土曜日の音楽室だった。この日、ブラスバンド部の練習は午前中で終わり、あとは数人の生徒が残るだけになっている。さっきまで色々な楽器の音が飛び交っていた室内も、だんだん静かになっていく。
「まぁ確かに、よく努力する子ではあったけどね」
栞ちゃんの後を埋めるように入部してから、もうすぐ一週間になる。
生前の彼女が、強く望んでいたからだ。それに、何より……あたし自身がずっとそうしたかったのだと、今になって気づかされた。
塾はやめていた。二人が逝ってしまったから、もう通う意味もないと思った。
どっちみち、続けることはできなかった。あれからたくさんの生徒が退塾していったので、経営そのものが立ち行かなくなり、無期限で休業することになったそうだ。このまま閉じられるという話も出てきているらしい。
「でも……川本はわりとすぐ上手になったからなぁ。あとはもう、どれだけ周りと呼吸を合わせるかっていうレベルで」
ブラスバンド部の部長、宮田愛先輩のことは……栞ちゃんとの会話の中で、ちょくちょく名前を聞いたことがあった。
「どちらかというと、掃除とか用具の整理とか。雑用をよく進んでやってくれてたよ。一年生だから、気を遣ってたのもあるんだろうけど」
厳しいことも言うけれど、いつも後輩を励ましながら教えてくれる、とても面倒見のいい先輩だと。
「あと、同じ一年生の子達に、すごく頼られてたかな。やっぱり楽譜の読み方とか、音の出し方とか……何だろう。そういう雰囲気がある子なのよね」
らしいなぁ……と思った。一人で細かくメモを取るよりも、確かにそっちの姿の方がしっくりくる。
「しかも人の楽譜でしょう。いくら友達のだからって、貼った付箋をそのままなんて」
「じゃあ、やっぱり……あれは」
自分へのメッセージだったんだと、確信させられた。
「……それで、少しは役に立った?」
愛先輩は、そう言ってウインクした。時々そういう、お茶目なこともする。
「あぁ、はい。ありがとうございます」
長身できりっとした表情が印象的なので、ちょっと怖そうだなとも思ったけれど。栞ちゃんの言っていた通り、人思いの優しい先輩だった。
「ううん。むしろ、ほっとしたよ。原野の方から、川本の話をしてくれて」
先輩はそう言って、切なげに笑う。
「正直、感謝してるよ」
「えっ?」
「入部してくれたこと。あんなことになって、みんなショック受けてるし……もちろんあたしも。でも、川本と仲の良かった原野が入ってきて、何だかあの子も一緒にいてくれてる気がするから」
そうだ……と、先輩はあたしを黒板のところへ案内した。
「辛くなっちゃうから、しばらく見ないようにしてたんだけど」
黒板の隅に貼られた、ブラスバンド部の集合写真だった。
「これ、すごく……いい写真ですよね」
「でしょう? 原野が入部する前、みんなと相談して決めたの。あの子を忘れないように、この写真だけは残しておこうって」
前に同じ写真を、栞ちゃんに見せてもらったことがある。それぞれの楽器を手に、どの子も自然な笑顔で写っている。とてもいい雰囲気の部活なんだと、この一枚で分かった。
集団の左端に、栞ちゃんは立っている。
胸元でフルートを構え、少しおどけたような表情なのが可愛らしかった。辛いことばかりだったと思っていたから、楽しそうな姿を見ると僅かでも救われた思いがする。
その時、ふいに音楽室のドアが開けられた。
「あーっ、いたいた。しろちゃん」
同じ一年生の吉木瑠香ちゃんだ。栞ちゃんとは小学校から一緒で、あたしのクラスメイトでもある。前から「しろちゃんもブラスバンド部に入ろうよ」と、よく誘ってくれていた。
栞ちゃんが旅立ってしまった日……深夜の病院で、お互い抱き合って泣きじゃくった。
「瑠香ちゃん、帰ったんじゃなかったの?」
「これ……さっき先生に。しろちゃん宛だって」
瑠香ちゃんは、A4サイズのメール便を抱えていた。
手渡してもらい、宛名が自分だということを確認する。そして、差出人は……もう見るまでもなかった。「原野茉白様」という宛名書きが、あの付箋紙の文字と同じだったからだ。
「……ねぇ、確か今日って」
あたしの肩に手を添えて、愛先輩が微笑んだ。
「原野、誕生日じゃなかった?」
「あ……はい。そういえば」
差出人の名前を、切ない気持ちで見つめてみる。胸の内でつぶやいた。
バースデーメール、ありがとう。栞ちゃん……
「もう三年前になるんですね」
少女はうつむき加減で言った。
「鴨下さんと、初めてお会いしてから」
思わず、おやっ……とつぶやいていた。過去を懐かしむ口ぶりだが、感傷的な響きには聴こえない。口元に微笑みを湛えているのに、どこか複雑な瞳の色になる。
「あの時、君はいくつだっけ?」
「十歳……ですね。小学校の四年生だったので」
腕時計を見ると、ちょうど四時半を回ったところだ。夕方近くになり、ガラス扉の隙間から涼しい風が入り込んでくる。
「そうか……私も歳を取るわけだ」
わざと暢気に答えてみる。
「鴨下“さん”って呼ばれたのも、久しぶりだね」
「はい。初対面が“雑誌記者の鴨下さん”として……だったので、まだ先生って呼ぶのがしっくりこない感じで」
取り留めのない話をしているのだが、妙にその眼差しが鋭い。
基本的には、純情で生真面目な子……という部類に入るのだろうが、時々こうして複雑な表情を見せることがあった。なかなか奥深い少女だと思う。
「あの時は……こんな形で再会できるなんて、思わなかったですけどね」
もっとも本人にとって、それが幸せなことかどうかは分からないが。
「体の方は、もう大丈夫なのかい?」
「えっ、あぁ……はい」
少女は一瞬、戸惑うような顔色になった。ややデリケートな部分に触れてしまったかもしれない。それでも、思いのほかあっさり答えてくれた。
「もう入院することもないですし、今のところ平気ですよ。まだ時々……健康診断で引っかかったりするので、ちょっと心配ではあるんですけど」
三年前の初夏だった。詩の全国コンクールで、県内の小学四年生の女子児童が、大賞に選ばれる。その取材のため、彼女の自宅を訪ねる。
それが、川本栞との出会いだった。
『はじめまして。遠いところから来ていただいて、ありがとうございます』
指定された喫茶店で、母親に付き添われた彼女と二十分程度話しただろうか。まだあどけない顔立ちだったが、とても礼儀正しい子だという印象を受けた。今も変わらない。
「君はあの頃から、とても賢い子だったね」
入院中、七~十二歳までの少女達と同室だったが、年下の子達に絵本を読んであげたり勉強を教えたりしていたという。彼女の詩は、その体験を基にしたものだった。
「……いいえ。そんなこと、ないです」
栞は、首を大きく横に振る。
「あの時は、ほんとに何もわかってなかったんです。今頃やっと気づいて」
子供があまり敏感なのも、困りものだがね……と言いかけたところで、口をつぐむ。少女の物悲しげな眼差しの奥に、思わず身を引いてしまうほど強い光が宿っていることに気づいたからだ。
「ごめんなさい。何の話か、分からないですよね」
束の間笑いかけるが、すぐ真顔になる。
「記者もなさっている鴨下さんの、意見を聞きたかったんです。例えば……何かとても辛い過去があって、心に傷を負ったAさんという人がいるとします」
「ほうっ。これはまた、面白そうな話だね」
「それで、今度は……Aさんの心の傷を、全部見抜く力を持つBさんがいて。そのBさんが、Aさんを癒すためじゃなく」
ため息混じりに、彼女は言った。
「心を潰すために、その力を使ったとしたら。Aさんは……もう立ち直れないですよね」
「うーん。君にしては、ちょっと分かりにくいな」
素知らぬふりをしてみる。かなり抽象的な言い回しではあったが、本当は栞が何を言いたいのかすぐに分かった。彼女があえて、具体例を避けたということも。
「そのAさんは、結局どうなってしまうんだい?」
「たぶん、すごく人間不信になってしまうか。ひどい時には……自分の命を」
その先を、栞は口にしなかった。脳裏に生々しい映像が浮かんだかもしれない。
「まぁ、そうだろうな。それと……Bさんは、どうしてそんなことをすると思う?」
「とてもAさんのことを、恨んでいるとか。あとは」
なぜか途中で口をつぐんだので、「あとは……何?」と先を促す。
「あ、いえ。これは……ちょっと変かなって」
「いいから言ってみなさい。あり得ないと思うことが真実だということも、世の中にはたくさんあるんだよ」
栞はうなずき、短く答える。
「……快楽、とか」
「へぇ。そんな難しい言葉も知っているんだ」
少しからかうつもりで言ったが、少女は意に介さないようだ。真剣な眼差しのまま「よく分かりません」と返答する。
「他に、どんな言い方があるのか」
「いや。きっと正しいよ……君の言う通り、自分の快楽を満たすためにそういう力を使う人間がいても、決して不思議じゃない」
手前の丸椅子に、栞は腰かけている。体を動かす度、微かではあるが彼女が唇を歪めることに、私は気付いていた。うなずいたり首を傾げたりといった仕草でさえ、明らかにぎこちない。
その歪んだ欲望に苦しめられているのは、彼女自身でもあった。
「もう一つ、聞かせて欲しい」
仕事の手を止め、少女と目を見合わせ問うてみる。
「君がもし、そのBという人物を知っているとしたら……どうするかな? たぶん傍目には、Aがとうとう耐えられなくなったとしか思えないだろうからね。Bの罪を証明するのは、残念ながらかなり困難だよ」
「もちろん分かってます」
少し震える声で、栞は答えた。そして……ふいに、にこっと微笑む。
「でも、止める方法は……ないわけじゃありません」
私は言葉を失った。この無垢な少女が胸の内に秘めた、ほの暗い決意に気づいたからだ。
それから三十分近く、お互い何も問わなかった。心優しい少女は、仕事を邪魔してしまったから……と、紙類の整理や掃除を引き受ける。気丈にも、痛がる素振りはもう見せなかった。
「……すみません。忙しい時に、長居しちゃって」
帰り際。玄関で靴を履きながら、栞はぺこっと頭を下げた。
「こっちこそ、すまなかったね。手伝いまでさせてしまって」
ひらひらと手を振り、微笑んで見せる。
「久しぶりに、じっくり君と話ができてよかったよ」
「わたしもです。それじゃあ、さようなら」
踵を返そうとするその背中に、「なぁ」と声をかける。
「……はい?」
胸の内に浮かんだ予感を、そのまま口にした。
「君は……死ぬつもり、なのかい」
肯定も否定もしない。代わりに、とても切なげな微笑みを浮かべ……言った。
「入院してた時、仲良くしてた年下の子が……亡くなったんです。自分の命もいつ消えてもおかしくないんだって、ずっと思ってました」
だから……と言いかけるが、それ以上は続けなかった。もう一度「失礼します」と深く会釈して、少女はその場から立ち去っていった。
あれは九月初旬だったと思う。確か日曜日の、夕方頃だったろうか。
上記部分は、書き上げた後にすぐ消去しようとも考えた。
読んだ方にはご理解いただけるだろうが、かなり私自身にとってリスクを伴う内容となっているからだ。といっても、法的には何の罪も犯してはいないが。
しかし私は、冒頭でこう書いた――“勇気ある一人の少女に、敬意を表して”と。
私は確かに、数多の人々を破滅させてきた。
栞の母親……川本佳純も、その哀れな犠牲者の一人だ。彼女は元スクールカウンセラーの実績があるということで、生徒を繋ぎ止める“餌”として重宝させてもらった。
そんな彼女を狙ったのは、娘……栞が目障りだったからだ。賢い子だとは思ったが、こちらの想像以上に洞察が鋭い。他の生徒や講師達と違い、こちらに対して警戒心を抱いてもいる。
だから佳純が娘に対して、不信感を持つように仕向けた。
もともと彼女は、交通事故で夫を亡くしたショックから、情緒不安定になる傾向があった。さらに真面目すぎる性格からか“頼りにされる母親でなければならない”という思いが強く、しっかりした娘に自分は甘えているんじゃないかと、罪悪感のような気持ちがあったようだ。
彼女を操ることは、赤子の手をひねるより簡単だった。
こちらの狙い通り、佳純は娘を虐待するようになる。栞が、頬の腫れを隠すようにマスクしてきたり、体の傷をかばうような仕草を見せるようになった時は……しめたと思った。この少女さえ大人しくなれば、私の目論見を見抜ける者は誰もいなくなる。
だが、少女は気丈だった。母親の豹変さえも手掛かりとして……ついには、すべて見抜いたらしい。のみならず、私が“遊具”にしていた生徒達に声をかけ、さりげなく塾をやめるように促したりもしていたようだ。
とはいえ前述のように、この罪を法律で裁くことはできない。
栞もその限界には気づいていたようで、しばらく動けずにいた。しかし、ある時……少女はその限界さえ壊す方法を考え付いたようだ。
その方法とは……文字通り、彼女自身の“命”と引き換えにするものだった。
彼女の狙いは、ほぼ功を奏したと認めざるを得ない。
せっかく数年かけて準備してきた“遊戯場”は、もはや壊滅状態だ。再建するには、かなりの時間を要するだろう。あまり褒める気にはなれないが、その度胸には脱帽するほかない。
ただ、これで良かったのかい?……と問うてみたくなる。その若い命を散らせることになって。君は本当に、後悔していないのかい。
黙って肩をすくめるだろうか。それとも仕方なかったんです、と答えるだろうか。どこか悲しげな微笑みを浮かべて。
ああ、そうそう。これは最後まで黙っておこうと思ったが……手記の途中、おかしな部分があったことに気づかれた読者もいるだろうか。
事件の第一発見者になった時の記述だ。他人事のように「床には引きずった跡があった」と書いたが、実は私がそうしたのだ。
茉白と鉢合わせする前、すでに一度川本家へ侵入していた。当初、佳純は栞のすぐそばに倒れていた……ナイフを手にしたまま。これでは、明らかに“無理心中”だと分かってしまう。
だから、母娘を引き離した。二人とも“被害者”でなければ困る。どちらかが加害者では、私にとって非常に都合が悪かったのだ。
茉白ちゃん、誰のことも恨まないで。でも……鴨下先生に、気をつけて。