4.日記
あれから三週間がすぎた。それでも、気持ちの整理はまだ付かない。
窓の隙間から、涼しい風が流れ込んでくる。もう秋も深まっていくのだろう。一月前に親友を泊めた部屋で、あたしは本棚を整理していた。
作業を始めて、どれくらい経ったろう。ふいに一冊の楽譜集が、ばさっと床に落ちる。
しゃがんで拾い上げようとした時、表紙が目に留まる。それは以前、栞ちゃんに貸したものだった。まだ彼女の体温が残っている気がして、嗚咽が漏れそうになる。
手に取り、何気なくページをめくっていく。ほどなくして、あの付箋紙が貼られたページにたどり着いた。
今となっては懐かしい、彼女の丁寧できれいな字だ。それが無数の付箋紙に書き込まれている。取らずにおいて、良かったのか悪かったのか。
「……んっ?」
ページ全体を眺めて、すぐ違和感の正体に気づく。
貼られた付箋性の中に、一枚だけ折り曲げられたものがあった。床に落ちた時、そうなったのだろうか。でも、それにしてはきれいに曲げられて……
「何これっ!」
思わず叫んでいた。悲しい思い出さえ切り裂く……そこには、あまりにも禍々しい感情のこもった文字が記されていた。
『あの子が遠くへ行ってしまうのなら。もういっそ、自分の手で……』
明らかに栞ちゃんの書いたものではない。でも、あたしをさらに絶望的な気分にさせたのは……この文字さえも見覚えがあったからだ。その光景が、脳裏をよぎる。
「原野さん。今日のコメント、書いておくわね……“少しずつでいいから、前向きにがんばりましょうね”って」
「はい……ありがとうございます。佳純先生」
何なの。一体、何なのよこれ……
混乱した頭で、何とか立ち上がる。大好きな塾の先生と、親友の二人を失い……それなのにまだ、この世界は壊れていくのか。楽譜集を持つ手が震えている。
その時だった。ページの隙間から、はらっと二枚の紙が舞い落ちた。かがみ込んで、そのうちの一枚を拾い上げる。
ノートのページを破いた、それは日記の一部だった。
5月16日
原野茉白さん、あなたのことはとても大好きです。
私のことをとても慕ってくれるし、何より娘の栞とも仲良くしている。栞が学校で元気をなくしていると、心配してくれるのもうれしい。
でも、あまりお節介がすぎるのは困りものだね。栞だって、すべてを打ち明けるつもりはないと思うよ。たぶんあなたが、すごくショックを受けるだろうから。
そうそう……ブラスバンド部のことは、気にしなくていいわ。あの子、すごく生き生きしているんですもの。むしろその分、塾へ行く日が減って、あなたに寂しい思いをさせてしまってるね。どちらかというと、それをあの子は気にしてるみたい。
ええ、部活のことはまったく関係ないの。だって……栞が悩んでいる一番の原因は、母親の私なんですもの。
私は大切な一人娘を、折檻しているのですから……
「いやあぁぁ!」
あたしは大声で叫んでいた。もう何もかも、信じられなくなる。自分自身でさえ、どうでも良いものだと感じた。
「茉白、どうしたのっ?」
部屋のドアが開けられ、母が飛び込んでくる。後ろから強く抱き留められた。
「ママ……あたしもう、どうなってもいい」
「落ち着きなさい、茉白。やけにならないでっ」
それでも数分経つと、気分が穏やかになってくる。深呼吸して「ごめんなさい」と、母に謝る。そして……もう一枚の紙を拾い上げた。
栞ちゃんの字だった。母親の日記とは違い、短文で記されている。
二つの短文が書かれていた。そのうちの一つは、聞き覚えがある。あの夜……彼女が優しい眼差しで、伝えてくれたものだ。
ただ、もう一つの短文には驚かされた。
川本佳純の日記だが、何日分もあるのですべてを記載することはできない。重要な分だけ紹介するとして、あとは要点だけ述べることにする。
折檻が始まったのは、栞が中学校の入学式を控えた春休みからだという。
その理由にしても……風邪気味だということをすぐに言わなかったとか、母親の体調が良くないのに門限ぎりぎりに帰ってきたとか。些細な、とさえ言えない。ほとんど言いがかりを付けるようにして、佳純はあの心優しい少女を痛めつけたのだ。
ただ、いずれも共通する要素があった。彼女は正直にも、それを告げていた……「娘の気持ちが、よく分からない」と。そう感じた時、衝動を抑えられなくなった。
6月19日
夜の十時過ぎ、リビングにて翌日の仕事準備をする。
すると定期テストの勉強をしていた栞が、部屋から降りてきて「お仕事大変そうだね」と、気遣ってくれた。自分だって部活と両立させながらの勉強で疲れているはずなのに。
しかも一緒にソファに座り、私がこの頃体調を崩し気味なことや、他の色々な心配事を聞いてくれた。本当にいい子だ。
なのに……ああ、私はまた栞にひどいことを……
「お母さん。あの塾、このまま続けてていいの?」
頭では分かっていた。娘は私のことを案じて、そう尋ねてきたのだと。
「なんか大変そうだし。具合も悪いんだったら、そんなに無理しなくても」
「……あらそう。あなたから見て、私はそんなに頼りにならないの」
分かっていたのに、また我慢できなくなった。
気が付くと、私はパジャマ姿の栞を浴室に連れ込んでいた。そして「ごめんなさい、ごめんなさい……」と涙声であやまる娘の頬を、何度も平手打ちした。
それでも飽き足らない。赤くなった頬を押さえ泣いている栞に、今度はパジャマの上を脱ぐように命じた。素直な娘は、それでも「はい」と返事する。
細身の体つきではあるが、この頃胸がほんのりと膨らみはじめ、それなりに意識もしているようだ。母親の前でも後ろ向きになり、上着を脱ぐと両腕を組んで、乳房を隠した。
あえて、腕を下げるようには言わなかった。その代わり、無防備になったおなかや背中を、持ってきたプラスチックの物差しで滅多打ちにする。
気が済むまで痛めつけた後、そのままタイルの上に正座させた。そのまま明け方まで座っているように命じる。
ただ数時間が経ち、冷静になると後悔の念が湧いてくる。浴室に戻り、ガラス戸を開けると、栞がさっき命じた時の姿勢のまま正座していた。
私の顔を見ると、泣くでもなく反抗するでもなく、悲しげな瞳で「お母さん、まだ怒ってる?」と尋ねてきた。
「もう怒ってないわ。栞ちゃん、がんばったもの」
そう言って、華奢な裸の背中を抱きしめた。
8月14日
栞が久しぶりに、早く帰ってくる。
県のコンクールへ向けて、このところずっと長時間の練習が続いていたので、顧問の先生が休みを入れてくれたとのことだった。この日は私も、塾の仕事が午前中で終わり、何週間かぶりに娘とゆっくりすごせることを喜んでいた。
私が食器を洗っていると、娘は着替えもせずそばに来て、洗った皿を「手伝うよ」と乾燥機の棚へ並べ始めた。少し休んでなさいと言ったが、「お母さん一人じゃ大変だもん」と笑って答える。
こんな時、心底いい子だなって思う。なのに……私はまた、そんな娘を痛めつけてしまった。
この日、娘は体操服姿で出かけていた。帰ってきた時も同じ格好だったが、あまり白いシャツが汗で濡れていないことに気付く。
「学校は涼しかったの?」
「あっ、うん……実は」
乾燥機のスイッチを押すと、栞は少しうつむき加減で答える。
「今日、朝からちょっと……微熱があって。先輩が気付いて、休んでなさいって」
もうすでに、表情がこわばり始めていた。ちらっと私の顔を見上げ、小声で「心配かけたくなかったの」と深く頭を下げる。
「ごめんなさい……お母さんに、ちゃんと言えなくて」
顔を上げた時には少し涙ぐんでいたが、もう一度「ごめんなさい」と繰り返す。
「栞ちゃん。あなたそんなに、お母さんのこと信用できないの」
どんなに謝罪されても、許す気にはならない。そう……こちらの気が済むまで、痛めつけてしまわなければ。
「……シャツ、脱ぎなさい」
命令されると、栞は涙声で「はい」と返事する。
「ハーフパンツと、靴下も取りなさい」
「はいっ……ぬぎ、ます……」
羞恥心の強い娘だが、さほどためらうことなく……シャツを脱ぎ、紺のハーフパンツも足から抜き取る。しゃがんで靴下も取り、裸足になると、脱いだ衣服をきれいに畳んだ。
小さい時から躾けられてきた習慣なのか。それとも苦痛を先延ばしにしたかっただけなのかは、分からなかったけれど。
「ブラも取りなさい」
「え……あっ、はい」
さすがに顔色が変わった。それでも浴室で折檻した時のように、背中を向けて下着に手をかける。まだ金具のないジュニアブラなので、シャツを脱ぐように頭から抜き取る。
こちらに向き直った時、栞はやはり乳房を両手で隠していた。頬を赤らめ、羞恥に体を震わせる少女に……さらに追い打ちをかける。
「両手は下げなさい。体の横にくっつけて」
前のように容赦はしない。栞は力なく「はい……」と返答して、両腕をだらりと下げる。膨らみの小さな、白い乳房が露わになる。ピンク色の乳頭も愛らしかったが、それさえ私の加虐欲を掻き立てただけだった。
「パンツも脱いで」
さらに命じると、栞はとうとう泣き出した。それでも、か細い声で「……はい」と答えると、ジュニアブラと同じ純白のショーツに手をかける。
さすがにためらってしまうのか、すぐには脱げない。だが、私が「早くしなさい」と言いかける前に……ゆっくりとではあるが、下していった。
「両手は、頭の後ろで組みなさい」
どこも隠せない、無防備な姿にさせる。そして、浴室の時と同じように……プラスチックの物差しで全身を打った。
栞はしゃくり上げて泣きながらも、ひたすら耐えていた。考えてみれば、言葉でさえ「嫌だ」とか「もうやめて」とか、逆らうようなことは一度も口にしたことはない。
抵抗しなければ、私が変わってくれると思っているのだろうか。それとも……もう、諦めているのだろうか。その心の内が、やはり分からない。
ふと見ると、娘のピンク色の乳頭が、ぷくっと隆起している。恥ずかしいから、自然と反応してしまったのだろう。そこを狙って、私は物差しを振り下ろした。
「んぐっ……」
息が止まるような声が漏れて、栞は床に膝をついた。敏感になっていたから、かなり激痛だったろう。それでも、けなげな娘はすぐに体を起こす。
「ごめんなさい。ちゃんと、がんばります」
栞はそう言うと、また無防備な姿勢になる。それは悲痛なほど、美しい姿に思えた。
叩いた後は、裸のまま何時間も正座させたり立たせたりする。その間、何度も「お母さん許してください」と謝罪の言葉を言わせた。そうやって、無抵抗な娘をいたぶり続ける。
すべて終わった頃、もうすぐ日付が変わろうとしていた。ところが……パジャマに着替えさせ、ベッドに寝かしつけた時だ。
「……ねぇ、お母さん」
さすがに弱々しくなっている。それでも、信じられないほど穏やかな口調だった。
「わたしのこと、まだ信じられない?」
「いいえ。だって栞ちゃん、よくがんばったもん」
ここまで激しく折檻したというのに。栞は枕元の私を、むしろなだめるように言った。
「あのね、お母さん。お願いだから」
その無垢な眼差しに、束の間はっとする。
「これからも、ずっと……一緒にいてくれるよね?」
日を追うごとに、佳純の栞への折檻がエスカレートしていくことが分かる。それよりも悲しいのは、二人が憎み合っていたのではなく、むしろ深い愛情で結ばれていたということだろう。
それが僅かな行き違いから、歪な形へとなってしまう。仲睦まじい母娘は、やがて破滅の道へと進んでいくこととなる。
まだ犯人は捕まっていないと、テレビや新聞では報じられている。
でも、あたしには分かった。あの日記を読めば、誰だって……分かってしまうはずだ。もちろん認めたくないけれど。
栞ちゃんの命を奪ったのは、佳純先生だ。
先生は、娘の手首を切った後……自分も後を追ったのだ。それとたぶん、あの夜見せてもらったおなかの傷も。
栞ちゃんはかなり日常的に、お母さんから虐待されていたと思う。最後まで話せなかった理由も、これで納得できた……あたしがショックを受けるから。知ってみれば、ごく簡単な話だ。
ところが、また分からないことができた。栞ちゃんの書いた短文のメモには……それまで関係ないと思っていた、別の人物の名前が書かれていたのだ。