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何に使おう……  作者: レインコート
3/6

3.遺言

 部屋に戻ると、パジャマ姿の栞ちゃんが床に座っていた。

「お待たせ。あぁ、さっぱりした」

 あたしはドライヤーで髪を乾かしてから、ベッドに腰かける。栞ちゃんはこちらを見上げ、「おかえり」と少しおどけるように言った。

「ごめん。また勝手に、借りてたよ」

 彼女の手元を見ると、あの楽譜集が広げられている。

「ほんと熱心だね……別に今日、返さなくていいよ。あたしはもう使わないんだし」

「ううん、いいの。約束だし……それに、意外と早く使うことになるかも」

 そう言って、また微笑む。何だか切ない気がして、すぐには言葉を返せない。

 栞ちゃんは楽譜集を閉じて、奥の本棚に仕舞う。そして、こちらを振り向くと……まるで独り言のようにつぶやく。

「……どこから、話そうかな」

 それから少し声のトーンを上げて、彼女は言った。

「そうだ。茉白ちゃん、おぼえてる? 真奈さんのこと」

「えっ、ああ……前まで塾にいた子」

 唐突な問いだったけれど、すぐに思い出すことができた。


 四月の終わり頃だった。

 定期テストが近いということで、休みの日に塾で勉強することになった。その帰り道だったと思う。栞ちゃんと二人で、ちょうど繁華街の大通りに差し掛かった時だった。

「……ねえ、茉白ちゃん」

 ふいに栞ちゃんが、前方を指さす。心なしか顔色が青ざめていた。

「あれ、塾の子じゃない?」

「えっ……どこ」

「ほら。あの、歩道橋のところ」

 彼女がさした先には、歩道橋から下を眺めている女の子が立っている。その刹那、あたしは駆け出した。胸騒ぎを覚えたからだ。

 やばいっ、あの子もしかして……

 ちゃんと話したことはなかったけれど、真奈さんという名前は知っている。小学六年生の女の子で、学校は休みがちだと聞いていた。

『原野さん。ねえ、どうかしたの?』

 走りながら、頭の中である光景がフラッシュバックしていた。忘れ去ったはずの感覚が、生々しく蘇ってくる。それを振り払うように、階段を駆け上がった。

「待って。行かないでっ……行っちゃだめ!」

 こちらに気づくと、真奈さんは何度も首を横に振った。まるで小さい子が「いやいや」をするように。

「やめてっ、お願いだから」

「……茉白ちゃん、あまり刺激しちゃだめ」

 少し遅れて、栞ちゃんが階段を上がってきた。あたしのそばに来ると、真奈さんに向かってにこっと微笑みかける。

「真奈ちゃん、ほら……深呼吸してごらん」

 まるで心の奥深くにしみ込んでくるような、柔らかで優しい声だった。こわばっていた真奈さんの表情が、少しずつ和らいでいくようだ。

「何も言わなくていいから。ねえ……わたしの声、聴こえるでしょう?」

 問いかけながら、栞ちゃんは真奈さんに近づいていく。そして彼女の肩に手をかけると、強く抱き寄せる。

 栞ちゃんの胸元に顔をうずめる格好で、真奈さんは泣き出した。

「よかったぁ。もう大丈夫だよ」

 優しく真奈さんの頭をなでながら、栞ちゃんは私と目を見合わせる。唇が動き、危なかったねと言うのが分かった。

 近くの建物の影まで、真奈さんを連れて行った。彼女は泣きじゃくっていたけれど、やがて落ち着いてくる。それを待っていたように、栞ちゃんが尋ねた。

「真奈さん、あなたのお母さんって……T塾の先生?」

 思わず「えっ」と声を上げてしまう。

「そうなの?」

「うん。教室は違うんだけど、お母さんから聞いたんだ……研修の時に、会ったことがあるって」

 栞ちゃんが「そうよね?」と問うと、真奈さんはうなずく。

「じゃあ、すぐに連絡できるんじゃない。塾長の鴨下先生に電話しなきゃ」

「その前に……あと一つ、聞いてもいいかな」

 いったん私を制止すると、今度は真顔で尋ねた。

「おなか、痛いんじゃない。よかったら見せてくれる?」

 すると真奈さんは、大きく目を見開いた。心底驚いたという表情だ。

「どうして……誰かから、聞いたんですか」

「そうじゃないよ。でも、分かっちゃうんだ……合ってるでしょう」

 やがて真奈さんは、Tシャツをおへその上までめくり上げる。

 それが目に入った時、あやうく悲鳴が漏れそうになった。小柄で思春期の女の子にしては、脂肪の少ない真奈さんのおなかには……明らかに何かで打たれたような痕が残っている。しかも十箇所近くあった。

「ここだけ、じゃないでしょう?」

 栞ちゃんに問われると、真奈さんは黙って自分の胸元や、太ももの辺りを指差した。

「ひどいっ……誰がこんな」

「今、わたし達の前で……それを言える?」

 真奈さんは悲しい顔色で、もう一度首を横に振った。栞ちゃんは、分かってるよ……と深くうなずく。

「無理もないよ。言ったら何かされるんじゃないかって、思ってるでしょう? でもね」

 顔を近づけ、それでも穏やかな声で告げた。

「誰がこんなことしたか……大体だけど、想像つくよ」

 それは思いがけない言葉だった。


「あの子、塾をやめちゃったんだよね」

 もう一ヶ月近く前になる。しばらく顔を出すこともなかったが、やめる前にどうしてもお礼が言いたいと、栞ちゃんとあたしが来る日に合わせ訪ねてきてくれたのだ。

「でも、あの子が……どうかしたの?」

「気になってたでしょう。真奈ちゃんの事情を、わたしがどうして言い当てられたのか」

 確かに不思議だった。いくら賢い栞ちゃんでも、聞きもしないのにあそこまで分かるなんて信じられなかった。

「うん。まぁね」

 すごいを通り越して、さすがにぎょっとしてしまったのをおぼえている。

「……実は、わたしも」

 ふいに栞ちゃんが、あたしの正面に立つ。

 思わず「えっ」と声が漏れる。いつも穏やかな彼女が、この時……今にも泣き出しそうな顔をしていたから。

「ねぇ、栞ちゃん。何を?」

「ごめんね。茉白ちゃんにだけは、どうしても知ってもらいたかったんだ」

 栞ちゃんはそう言うと……上着の裾に手をかけ、ゆっくりと引き上げた。

 次の瞬間、あたしは強く口元を覆った。そうしないと、叫び声を上げてしまいそうだったから。

「……うそっ。どうして、こんな」

 彼女はもともと色白で、艶やかな美しい肌をしている。検診の時もおへその辺りは隠せなかったから、ちらっと見て「きれいだな」と思った。

 そこに……無数の何かで打たれたような痕が残っていた。しかもまだ、赤く腫れている。

「これで分かったでしょう。自分がされてたから、真奈ちゃんもそうだろうなって」

 パジャマを直すと、親友は悲しげに微笑んだ。そのまぶたから、涙がこぼれ落ちる。

「栞ちゃん、これ……佳純先生に話したの?」

 彼女が泣くのを見るのは、たぶんこれが初めてだったと思う。

「……だめ、なの」

「どうしてっ。入院してるから? でも……こんなひどいことされて」

 耳をすませると、母が洗いものをする音が聴こえてくる。

「じゃあ待ってて。今、ママを呼んでくる」

「茉白ちゃん、お願い。わたしの話を聴いて」

 まるで懇願するような言い方だった。あたしは感情を抑え、その場にしゃがみ込む。

「これはわたしだけの問題じゃないの。他にも被害者がいる……茉白ちゃんも、真奈ちゃんを見てるから分かるでしょう」

「信じられないっ。誰がこんな、ひどいことを……」

 あたしは栞ちゃんに抱きついていた。彼女の肩越しに、泣きじゃくってしまう。

 近くにいるのに、本当にすぐそばにいるのに。あたしは親友の痛みを、何も分かってあげられない。何の力にもなってあげられない……

「絶対許さない。大好きな栞ちゃんに、こんなひどいこと」

「ありがとう、茉白ちゃん。その気持ちだけで……もう十分幸せだよ」

 あたしの頭を撫でながら、栞ちゃんは優しくささやいた。これじゃあ、どっちが辛い思いをしているのか分からない。

「……でも、もう大丈夫。全部終わりにするから」

 えっ……と思い、親友から体を離す。その穏やかな眼差しを、見つめてみる。

「どういうこと?」

「こんなひどいことは、もう終わりにするの。その方法を見つけたから」

 涙を拭いて、栞ちゃんはきっぱりと言った。

「うそっ……本当に、そんなことができるの?」

「もちろん。そのために、茉白ちゃんにも協力してもらっていいかな」

 大きくうなずくと、彼女は満足げに笑う。

「わたしが茉白ちゃんにお願いしたいのは、一つだけ」

 そして、妙なことを告げた。

「……誰のことも、恨まないでね」

「何それ。意味分からないよ」

「そのままだよ。茉白ちゃん、この話はね……悲しい気持ちの人が、たくさん集まって起きたことなの。誰が悪いとか、そう簡単に決められないんだ」

 栞ちゃんはそう言うと、今度は自分からあたしを抱きしめた。

「茉白ちゃんのこと、わたしも大好き。あなたが必死にがんばってること、わたしが一番よく知ってる。あなたがいてくれたから、何があっても耐えられたの」

 さらに強く抱き寄せてくる。華奢な体つきなのに、意外なほど力があった。

「……しおり、ちゃん」

「茉白ちゃん。お願いだから、絶対幸せになって。わたしの……」

 わたしの……えっ、何? その先が聴こえなかった。続きが分かったのは、それから数ヶ月がすぎてからのことだ。


 茉白ちゃん。お願いだから、絶対幸せになって。わたしの分まで……



 ここで一時、書き手を交代させていただこう。十三歳の少女にとっては、あまりにも酷な展開が待ち受けていたからだ。


 話を書き進めていく前に、簡単な自己紹介をすることにしよう。


 私の名前は、鴨下明信かもしたあきのぶ。ここまで原野茉白の手記を読んでいただいた方なら、すぐにぴんときたことと思う。そう、彼女が通っていた個別指導塾の経営者だ。

 またご承知の通り、副業として雑誌記者もこなしている。以前は新聞社に勤めており、茉白の親友……川本栞とは、その縁で知り合った。この辺りの事情は重複になるので、あまり詳しくは述べないが。


 手記を書き進めていくに当たり、まず触れておきたいことがある。この出来事は、私自身にとっても痛恨の極みだったということ。


 さらに、ここまで書いたところで……まだ若干のためらいがあることを告白しておく。

 真相が明らかになった時、おそらく世の人々は驚かれるだろう。これまで各メディアで述べられてきた推論と、あまりにも落差が大きいからだ。

 だが、ここまで来たら筆を止めるわけにはいくまい。関係者の一人として、すべてを明らかにする責任があるのだろう。


 何より……勇気ある一人の少女に、敬意を表して。


 やはり“当事者”ということで、どうしても筆に感情が乗ってしまう。客観的な記述は難しいが、ひとまず……何が起こったのかだけ、簡単に触れておこうと思う。


 日付は、九月二十日。未だ残暑の厳しさが残る、土曜日の午後だった。

 この日、私は急ぎの届け物等があり、川本家を訪ねる予定だった。取材活動を終え、その足で資料を持参して向かった。まさか自分が、事件の第一発見者になるとも知らずに。

 川本家近くまで来た時、あの原野茉白と鉢合わせした。私の顔を見るなり、彼女は青白い顔で「先生、これ」とスマホの画面を示す。眼鏡の奥に、涙が光っていた。

 画面には、栞から送られたラインが表示されていた。短い言葉で「さようなら……」と。

 彼女と一緒に、急いで川本家の門をくぐる。すぐに縁側のガラス戸が破られていることに気付き、二人とも土足のまま、慌てて縁側から駆け込んだ。

 そこは文字通り、血の海だった……

 手前の廊下に、出勤間際だったのかパンツスーツ姿の佳純が、横向きに倒れていた。青ざめた顔の彼女は、手首を切られすでに息絶えている。茉白がその亡骸に泣きつき、何度も呼びかけるが……もう言葉が返ってくることはなかった。

 床には引きずった跡があった。それは奥のリビングへと続いている。私も、そして佳純に縋りつき泣いていた茉白も。さらなる惨劇の予感に、押し黙った。

 恐る恐る、廊下を進んでいく。人の声は聴こえない。ただ冷蔵庫のジージーという無機質な音だけが、不気味に響いていた。

 リビングの暖簾をくぐる。その瞬間、茉白が悲鳴を上げた。

「栞ちゃんっ!」

 栞は……何の罪もない心優しい少女は、折り畳み椅子に体を縛り付けられ、首をがっくりと前方に傾けていた。

 おそらく抵抗できないようにするためだろう、栞は制服と靴下を脱がされ、白いキャミソールとショーツの姿にされている。さらにビニール紐で両手足を椅子に括り付け、ほぼ完全に動けなくさせていた。可愛らしいおさげ髪が、かえって痛々しい。

 背後に回ると、両腕に紐をずらした痕がある。そしてやはり、手首を切られていた。かなり出血していて、椅子の周辺には血溜まりができている。

 まるで処刑場のような光景だった。

 呆然とした頭で、何気なく青ざめた頬に触れてみる。まだ温かい。そこから手をずらし、口元にかざす……その刹那、私は叫んでいた。

「救急車だ! まだ息があるぞっ」

 今にも消えてしまいそうなほど、微かな吐息だった。上着のポケットから携帯電話を取り出し、110番を押す。その間、さっきまで床にしゃがみ込んでいた茉白が、親友に駆け寄り「栞ちゃん返事してっ」と呼びかける。

 やがて……私は自分の耳を、疑うことになる。

「……ましろ、ちゃん」

 瀕死のはずの栞が、声を発したのだ。それに、うっすらとではあるが目を開けて、友の姿を探している。その命の灯は、もういつ消えてもおかしくないはずなのに。

そして、少女は微かに笑う。

「うそ、みたい……茉白ちゃんにもう一度、会えるなんて……」

 ただ、それがもう……精一杯だった。親友と言葉を交わし満足したのか、少女は眠るように意識を失う。

 それでも搬送された病院の集中治療室で、親類や学校関係者が集まってくるまでの間、弱々しいながらも懸命に呼吸し続けていた。せめて別れの時間を作ろうという……彼女らしい、最後の気遣いだったかもしれない。


 その日の深夜。十三歳の時間を、僅か一日だけすごし……川本栞は旅立った。



 感傷を排して、なるべく客観的に記述していくこととしよう。私もまだ思い出すと辛いので、あまり自信はないが。


 実は、この時点で……報道されていないことがあった。これも茉白の手記に書かれているが。佳純が娘のことで、深く悩んでいたという事実だ。

 ここからは、当事者にしか分からない話になる。

 生徒達が帰った後、佳純はミーティングルームでよくこぼしていた。娘の気持ちが、よく分からないことがあると。他の講師達は「しっかりしている娘さんで、いいじゃないですか」と気楽に答えていたが、なかなか納得できないようだった。

「……もしかしたら」

 私は少しためらう口調で、彼女に告げた。

「お母さんが、事故のショックを引きずっていることに気付いて……今はあまり頼りにできないって思ってるのかもしれませんね」

 きつい言い方だったかもしれない。佳純はこわばった表情で、「それはあるかな」としばらく考え込んでいた。

 ただ、佳純が悩むのも分かる気がした。

 心優しく清潔感のある、可愛らしい少女。聡明で生真面目で女子中学生……一般的に言えば、そういう括りになるだろうか。しかし、それだけではない。

 栞は、どこか不思議な一面を持つ少女だった。

 これも佳純から聞いた話だ。栞は入院していた病院で、仲良くしていた同室の女の子を亡くす体験をしたという。

 この時の娘の様子が、佳純には忘れられないらしい。他の同部屋の子が泣きじゃくる中、まだ小学三年生だった栞は静かに涙を流しただけだった。

 それでいて友達を見送った日の夜、一人で泣いていたそうだ。後で聞いたところによると……その亡くなった子が困ってしまうから、亡骸の前では泣くのを我慢したらしい。

 本当に心優しい。しかし、ある意味では子供らしくない。

 何というか、少し独特の感性を有していると言うべきか。彼女自身、何度か大きな病気をして、命の危険に直面したこともあったそうだ。だから自然と、そういう感性が養われるのかもしれない。

 日頃接している母親にしてみれば、戸惑うのも仕方ないだろうが。


 前述の、佳純と茉白の会話を読んで、読者諸君はどのように感じただろうか。きっと多くの方が、一人の少女を心配する先生と生徒の、微笑ましいやり取りに写ったと思う。


 だが、この時茉白は知らなかったのだ。

 そもそも栞は、一体何に悩んでいたのか。そして何より……母親である佳純が、娘の親友には絶対に話せない秘密があったのだ。


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