3.遺言
部屋に戻ると、パジャマ姿の栞ちゃんが床に座っていた。
「お待たせ。あぁ、さっぱりした」
あたしはドライヤーで髪を乾かしてから、ベッドに腰かける。栞ちゃんはこちらを見上げ、「おかえり」と少しおどけるように言った。
「ごめん。また勝手に、借りてたよ」
彼女の手元を見ると、あの楽譜集が広げられている。
「ほんと熱心だね……別に今日、返さなくていいよ。あたしはもう使わないんだし」
「ううん、いいの。約束だし……それに、意外と早く使うことになるかも」
そう言って、また微笑む。何だか切ない気がして、すぐには言葉を返せない。
栞ちゃんは楽譜集を閉じて、奥の本棚に仕舞う。そして、こちらを振り向くと……まるで独り言のようにつぶやく。
「……どこから、話そうかな」
それから少し声のトーンを上げて、彼女は言った。
「そうだ。茉白ちゃん、おぼえてる? 真奈さんのこと」
「えっ、ああ……前まで塾にいた子」
唐突な問いだったけれど、すぐに思い出すことができた。
四月の終わり頃だった。
定期テストが近いということで、休みの日に塾で勉強することになった。その帰り道だったと思う。栞ちゃんと二人で、ちょうど繁華街の大通りに差し掛かった時だった。
「……ねえ、茉白ちゃん」
ふいに栞ちゃんが、前方を指さす。心なしか顔色が青ざめていた。
「あれ、塾の子じゃない?」
「えっ……どこ」
「ほら。あの、歩道橋のところ」
彼女がさした先には、歩道橋から下を眺めている女の子が立っている。その刹那、あたしは駆け出した。胸騒ぎを覚えたからだ。
やばいっ、あの子もしかして……
ちゃんと話したことはなかったけれど、真奈さんという名前は知っている。小学六年生の女の子で、学校は休みがちだと聞いていた。
『原野さん。ねえ、どうかしたの?』
走りながら、頭の中である光景がフラッシュバックしていた。忘れ去ったはずの感覚が、生々しく蘇ってくる。それを振り払うように、階段を駆け上がった。
「待って。行かないでっ……行っちゃだめ!」
こちらに気づくと、真奈さんは何度も首を横に振った。まるで小さい子が「いやいや」をするように。
「やめてっ、お願いだから」
「……茉白ちゃん、あまり刺激しちゃだめ」
少し遅れて、栞ちゃんが階段を上がってきた。あたしのそばに来ると、真奈さんに向かってにこっと微笑みかける。
「真奈ちゃん、ほら……深呼吸してごらん」
まるで心の奥深くにしみ込んでくるような、柔らかで優しい声だった。こわばっていた真奈さんの表情が、少しずつ和らいでいくようだ。
「何も言わなくていいから。ねえ……わたしの声、聴こえるでしょう?」
問いかけながら、栞ちゃんは真奈さんに近づいていく。そして彼女の肩に手をかけると、強く抱き寄せる。
栞ちゃんの胸元に顔をうずめる格好で、真奈さんは泣き出した。
「よかったぁ。もう大丈夫だよ」
優しく真奈さんの頭をなでながら、栞ちゃんは私と目を見合わせる。唇が動き、危なかったねと言うのが分かった。
近くの建物の影まで、真奈さんを連れて行った。彼女は泣きじゃくっていたけれど、やがて落ち着いてくる。それを待っていたように、栞ちゃんが尋ねた。
「真奈さん、あなたのお母さんって……T塾の先生?」
思わず「えっ」と声を上げてしまう。
「そうなの?」
「うん。教室は違うんだけど、お母さんから聞いたんだ……研修の時に、会ったことがあるって」
栞ちゃんが「そうよね?」と問うと、真奈さんはうなずく。
「じゃあ、すぐに連絡できるんじゃない。塾長の鴨下先生に電話しなきゃ」
「その前に……あと一つ、聞いてもいいかな」
いったん私を制止すると、今度は真顔で尋ねた。
「おなか、痛いんじゃない。よかったら見せてくれる?」
すると真奈さんは、大きく目を見開いた。心底驚いたという表情だ。
「どうして……誰かから、聞いたんですか」
「そうじゃないよ。でも、分かっちゃうんだ……合ってるでしょう」
やがて真奈さんは、Tシャツをおへその上までめくり上げる。
それが目に入った時、あやうく悲鳴が漏れそうになった。小柄で思春期の女の子にしては、脂肪の少ない真奈さんのおなかには……明らかに何かで打たれたような痕が残っている。しかも十箇所近くあった。
「ここだけ、じゃないでしょう?」
栞ちゃんに問われると、真奈さんは黙って自分の胸元や、太ももの辺りを指差した。
「ひどいっ……誰がこんな」
「今、わたし達の前で……それを言える?」
真奈さんは悲しい顔色で、もう一度首を横に振った。栞ちゃんは、分かってるよ……と深くうなずく。
「無理もないよ。言ったら何かされるんじゃないかって、思ってるでしょう? でもね」
顔を近づけ、それでも穏やかな声で告げた。
「誰がこんなことしたか……大体だけど、想像つくよ」
それは思いがけない言葉だった。
「あの子、塾をやめちゃったんだよね」
もう一ヶ月近く前になる。しばらく顔を出すこともなかったが、やめる前にどうしてもお礼が言いたいと、栞ちゃんとあたしが来る日に合わせ訪ねてきてくれたのだ。
「でも、あの子が……どうかしたの?」
「気になってたでしょう。真奈ちゃんの事情を、わたしがどうして言い当てられたのか」
確かに不思議だった。いくら賢い栞ちゃんでも、聞きもしないのにあそこまで分かるなんて信じられなかった。
「うん。まぁね」
すごいを通り越して、さすがにぎょっとしてしまったのをおぼえている。
「……実は、わたしも」
ふいに栞ちゃんが、あたしの正面に立つ。
思わず「えっ」と声が漏れる。いつも穏やかな彼女が、この時……今にも泣き出しそうな顔をしていたから。
「ねぇ、栞ちゃん。何を?」
「ごめんね。茉白ちゃんにだけは、どうしても知ってもらいたかったんだ」
栞ちゃんはそう言うと……上着の裾に手をかけ、ゆっくりと引き上げた。
次の瞬間、あたしは強く口元を覆った。そうしないと、叫び声を上げてしまいそうだったから。
「……うそっ。どうして、こんな」
彼女はもともと色白で、艶やかな美しい肌をしている。検診の時もおへその辺りは隠せなかったから、ちらっと見て「きれいだな」と思った。
そこに……無数の何かで打たれたような痕が残っていた。しかもまだ、赤く腫れている。
「これで分かったでしょう。自分がされてたから、真奈ちゃんもそうだろうなって」
パジャマを直すと、親友は悲しげに微笑んだ。そのまぶたから、涙がこぼれ落ちる。
「栞ちゃん、これ……佳純先生に話したの?」
彼女が泣くのを見るのは、たぶんこれが初めてだったと思う。
「……だめ、なの」
「どうしてっ。入院してるから? でも……こんなひどいことされて」
耳をすませると、母が洗いものをする音が聴こえてくる。
「じゃあ待ってて。今、ママを呼んでくる」
「茉白ちゃん、お願い。わたしの話を聴いて」
まるで懇願するような言い方だった。あたしは感情を抑え、その場にしゃがみ込む。
「これはわたしだけの問題じゃないの。他にも被害者がいる……茉白ちゃんも、真奈ちゃんを見てるから分かるでしょう」
「信じられないっ。誰がこんな、ひどいことを……」
あたしは栞ちゃんに抱きついていた。彼女の肩越しに、泣きじゃくってしまう。
近くにいるのに、本当にすぐそばにいるのに。あたしは親友の痛みを、何も分かってあげられない。何の力にもなってあげられない……
「絶対許さない。大好きな栞ちゃんに、こんなひどいこと」
「ありがとう、茉白ちゃん。その気持ちだけで……もう十分幸せだよ」
あたしの頭を撫でながら、栞ちゃんは優しくささやいた。これじゃあ、どっちが辛い思いをしているのか分からない。
「……でも、もう大丈夫。全部終わりにするから」
えっ……と思い、親友から体を離す。その穏やかな眼差しを、見つめてみる。
「どういうこと?」
「こんなひどいことは、もう終わりにするの。その方法を見つけたから」
涙を拭いて、栞ちゃんはきっぱりと言った。
「うそっ……本当に、そんなことができるの?」
「もちろん。そのために、茉白ちゃんにも協力してもらっていいかな」
大きくうなずくと、彼女は満足げに笑う。
「わたしが茉白ちゃんにお願いしたいのは、一つだけ」
そして、妙なことを告げた。
「……誰のことも、恨まないでね」
「何それ。意味分からないよ」
「そのままだよ。茉白ちゃん、この話はね……悲しい気持ちの人が、たくさん集まって起きたことなの。誰が悪いとか、そう簡単に決められないんだ」
栞ちゃんはそう言うと、今度は自分からあたしを抱きしめた。
「茉白ちゃんのこと、わたしも大好き。あなたが必死にがんばってること、わたしが一番よく知ってる。あなたがいてくれたから、何があっても耐えられたの」
さらに強く抱き寄せてくる。華奢な体つきなのに、意外なほど力があった。
「……しおり、ちゃん」
「茉白ちゃん。お願いだから、絶対幸せになって。わたしの……」
わたしの……えっ、何? その先が聴こえなかった。続きが分かったのは、それから数ヶ月がすぎてからのことだ。
茉白ちゃん。お願いだから、絶対幸せになって。わたしの分まで……
ここで一時、書き手を交代させていただこう。十三歳の少女にとっては、あまりにも酷な展開が待ち受けていたからだ。
話を書き進めていく前に、簡単な自己紹介をすることにしよう。
私の名前は、鴨下明信。ここまで原野茉白の手記を読んでいただいた方なら、すぐにぴんときたことと思う。そう、彼女が通っていた個別指導塾の経営者だ。
またご承知の通り、副業として雑誌記者もこなしている。以前は新聞社に勤めており、茉白の親友……川本栞とは、その縁で知り合った。この辺りの事情は重複になるので、あまり詳しくは述べないが。
手記を書き進めていくに当たり、まず触れておきたいことがある。この出来事は、私自身にとっても痛恨の極みだったということ。
さらに、ここまで書いたところで……まだ若干のためらいがあることを告白しておく。
真相が明らかになった時、おそらく世の人々は驚かれるだろう。これまで各メディアで述べられてきた推論と、あまりにも落差が大きいからだ。
だが、ここまで来たら筆を止めるわけにはいくまい。関係者の一人として、すべてを明らかにする責任があるのだろう。
何より……勇気ある一人の少女に、敬意を表して。
やはり“当事者”ということで、どうしても筆に感情が乗ってしまう。客観的な記述は難しいが、ひとまず……何が起こったのかだけ、簡単に触れておこうと思う。
日付は、九月二十日。未だ残暑の厳しさが残る、土曜日の午後だった。
この日、私は急ぎの届け物等があり、川本家を訪ねる予定だった。取材活動を終え、その足で資料を持参して向かった。まさか自分が、事件の第一発見者になるとも知らずに。
川本家近くまで来た時、あの原野茉白と鉢合わせした。私の顔を見るなり、彼女は青白い顔で「先生、これ」とスマホの画面を示す。眼鏡の奥に、涙が光っていた。
画面には、栞から送られたラインが表示されていた。短い言葉で「さようなら……」と。
彼女と一緒に、急いで川本家の門をくぐる。すぐに縁側のガラス戸が破られていることに気付き、二人とも土足のまま、慌てて縁側から駆け込んだ。
そこは文字通り、血の海だった……
手前の廊下に、出勤間際だったのかパンツスーツ姿の佳純が、横向きに倒れていた。青ざめた顔の彼女は、手首を切られすでに息絶えている。茉白がその亡骸に泣きつき、何度も呼びかけるが……もう言葉が返ってくることはなかった。
床には引きずった跡があった。それは奥のリビングへと続いている。私も、そして佳純に縋りつき泣いていた茉白も。さらなる惨劇の予感に、押し黙った。
恐る恐る、廊下を進んでいく。人の声は聴こえない。ただ冷蔵庫のジージーという無機質な音だけが、不気味に響いていた。
リビングの暖簾をくぐる。その瞬間、茉白が悲鳴を上げた。
「栞ちゃんっ!」
栞は……何の罪もない心優しい少女は、折り畳み椅子に体を縛り付けられ、首をがっくりと前方に傾けていた。
おそらく抵抗できないようにするためだろう、栞は制服と靴下を脱がされ、白いキャミソールとショーツの姿にされている。さらにビニール紐で両手足を椅子に括り付け、ほぼ完全に動けなくさせていた。可愛らしいおさげ髪が、かえって痛々しい。
背後に回ると、両腕に紐をずらした痕がある。そしてやはり、手首を切られていた。かなり出血していて、椅子の周辺には血溜まりができている。
まるで処刑場のような光景だった。
呆然とした頭で、何気なく青ざめた頬に触れてみる。まだ温かい。そこから手をずらし、口元にかざす……その刹那、私は叫んでいた。
「救急車だ! まだ息があるぞっ」
今にも消えてしまいそうなほど、微かな吐息だった。上着のポケットから携帯電話を取り出し、110番を押す。その間、さっきまで床にしゃがみ込んでいた茉白が、親友に駆け寄り「栞ちゃん返事してっ」と呼びかける。
やがて……私は自分の耳を、疑うことになる。
「……ましろ、ちゃん」
瀕死のはずの栞が、声を発したのだ。それに、うっすらとではあるが目を開けて、友の姿を探している。その命の灯は、もういつ消えてもおかしくないはずなのに。
そして、少女は微かに笑う。
「うそ、みたい……茉白ちゃんにもう一度、会えるなんて……」
ただ、それがもう……精一杯だった。親友と言葉を交わし満足したのか、少女は眠るように意識を失う。
それでも搬送された病院の集中治療室で、親類や学校関係者が集まってくるまでの間、弱々しいながらも懸命に呼吸し続けていた。せめて別れの時間を作ろうという……彼女らしい、最後の気遣いだったかもしれない。
その日の深夜。十三歳の時間を、僅か一日だけすごし……川本栞は旅立った。
感傷を排して、なるべく客観的に記述していくこととしよう。私もまだ思い出すと辛いので、あまり自信はないが。
実は、この時点で……報道されていないことがあった。これも茉白の手記に書かれているが。佳純が娘のことで、深く悩んでいたという事実だ。
ここからは、当事者にしか分からない話になる。
生徒達が帰った後、佳純はミーティングルームでよくこぼしていた。娘の気持ちが、よく分からないことがあると。他の講師達は「しっかりしている娘さんで、いいじゃないですか」と気楽に答えていたが、なかなか納得できないようだった。
「……もしかしたら」
私は少しためらう口調で、彼女に告げた。
「お母さんが、事故のショックを引きずっていることに気付いて……今はあまり頼りにできないって思ってるのかもしれませんね」
きつい言い方だったかもしれない。佳純はこわばった表情で、「それはあるかな」としばらく考え込んでいた。
ただ、佳純が悩むのも分かる気がした。
心優しく清潔感のある、可愛らしい少女。聡明で生真面目で女子中学生……一般的に言えば、そういう括りになるだろうか。しかし、それだけではない。
栞は、どこか不思議な一面を持つ少女だった。
これも佳純から聞いた話だ。栞は入院していた病院で、仲良くしていた同室の女の子を亡くす体験をしたという。
この時の娘の様子が、佳純には忘れられないらしい。他の同部屋の子が泣きじゃくる中、まだ小学三年生だった栞は静かに涙を流しただけだった。
それでいて友達を見送った日の夜、一人で泣いていたそうだ。後で聞いたところによると……その亡くなった子が困ってしまうから、亡骸の前では泣くのを我慢したらしい。
本当に心優しい。しかし、ある意味では子供らしくない。
何というか、少し独特の感性を有していると言うべきか。彼女自身、何度か大きな病気をして、命の危険に直面したこともあったそうだ。だから自然と、そういう感性が養われるのかもしれない。
日頃接している母親にしてみれば、戸惑うのも仕方ないだろうが。
前述の、佳純と茉白の会話を読んで、読者諸君はどのように感じただろうか。きっと多くの方が、一人の少女を心配する先生と生徒の、微笑ましいやり取りに写ったと思う。
だが、この時茉白は知らなかったのだ。
そもそも栞は、一体何に悩んでいたのか。そして何より……母親である佳純が、娘の親友には絶対に話せない秘密があったのだ。




