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何に使おう……  作者: レインコート
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2.ためらい

「そういえば、君達は聞いたかい?」

 塾に入って一ヶ月が過ぎた頃だ。帰り際、塾長の鴨下先生に呼び止められる。

「県内でこのところ、君達ぐらいの子供を狙った通り魔事件が多発しているらしいんだ。噂では、ほら……去年の少年による連続殺傷事件を真似しているという話もあってね」

 近くにいた何人かの生徒も一緒だった。その子達が「やだぁ、怖い」と騒ぐそばで、あたしは目の前が真っ暗になるようだった。

 悪夢は、終わりじゃなかったのだ。

 気がつくと、近くの繁華街を歩いていた。やがて歩道橋を上っていく。そこは帰り道でもないのに、なぜか誘われるようにそうしていた。

 下を眺めると、車がひっきりなしに往来していく。吸い込まれる気がした。

 やっと逃げ出せたと思ったのに、いつまで纏わり付かれるんだろう。この街でも、怯えて暮らさなきゃいけないのかな。

「あれ……ねぇ、もしかして」

 どうせ逃げることができないのなら。いっそ、このまま……

「……あっ、やっぱり。原野さんだ」

 あの少女の声が、現実に引き戻してくれた。



「……んっ、何だろう」

 返してもらったばかりの楽譜集をめくっていく。その途中、あれ……と声が漏れた。

「どうしたの? 茉白ちゃん」

 テーブルの向かいの席で、数学を勉強していた栞ちゃんが顔を上げる。

「栞ちゃん、これ」

「うん? あっ……ごめん」

 あるページに、彼女が貼ったらしい無数の付箋紙が残されたままだったからだ。

「ちょっと貸して。全部取るから」

「いいよ、これぐらい……でも」

 楽譜の読み方や、演奏する時の強弱の付け方が細かくメモされている。ブラスバンド部で活動している彼女が、練習中に気づいたことを書いたものらしい。

「こんなに細かく書かなくてもいいんじゃない? 栞ちゃん、楽譜読めるんだし」

 がんばりすぎだよ、と言いたくなる。

「そうなんだけど。吹いてみると、なんか感じが違ってたりするから」

「熱心だよね。あたしが小学校でやってた時は、ここまでしなかったよ」

 もともと生真面目な子ではあるけれど、ちょっと根を詰めすぎだ。一年生でフルートを担当することになり、どうしても気負ってしまう気持ちはよく分かるけれど。

「わたしまだ、慣れないもん……」

 ふいに栞ちゃんが、いたずらっぽい笑みを浮かべる。

「茉白ちゃんが一緒だったら、心強いのになぁ」

 おやっ?と言いかける。冗談交じりではあるけれど、その眼差しは真剣だ。ただすぐに、彼女はうつむき加減になる。

「……ごめん。変なこと言って」

「ううん。気にしてないけど」

 別に嫌な感じはしない。ただ控えめな彼女にしては、珍しく踏み込んできたと思う。

「何であやまるの。うれしいよ、そう言ってくれて」

 栞ちゃんに「中学ではブラスバンド部に入る」と告げられたのは、入学式の前日だった。それまで体のことがあり、すべての課外活動を断念していた彼女にとっては、やっと念願叶っての入部だという。ずっと音楽が好きだったんだし、良かったね……と答える。

 それでも「あたしも一緒に入ろう」とは、どうしても言えなかった。血に染まったトランペットのケースは、元の家の倉庫にずっと仕舞い込んだままだ。

 事件のことを、栞ちゃんには大まかに話している。すでに佳純先生には知られていたので、それなら娘の彼女にも……と思った。

 もっとも詳細は言えないから、あたしが部活に入らない理由までは分からないはずだ。はりきっている栞ちゃんに、事件を「思い出すから入部できない」なんて、話せるわけがない。彼女なりに察したのか、今まで問わずにいてくれたけれど。

「……でも、あまり無理しないでよ」

 だから少し、驚いてしまう。でも、今ここで「どうしてそんなこと言うの?」と尋ねたところで、はぐらかされる気がした。

「夏休みの時みたいに。熱で早退した次の日に、朝早く来て練習したりとか」

 それより、もっと気になることがあった。

「うん。顧問の先生に、叱られちゃった」

「当たり前だよ。まぁ……栞ちゃんらしいな、とは思ったけど」

 栞ちゃんはおとなしいけれど、気丈な子だ。辛くても、自分からは言いたがらない。周りに心配かけないように、むしろ明るく振舞おうとする。

 それでも一緒にすごすうちに、何となくだけれど感じられるようになってくる。

 この数ヶ月間、栞ちゃんはずっと辛そうだ。特に八月の終わり頃から、それが声のトーンやちょっとした仕草にも表れている。彼女にしては、分かりやすい。

 端から見れば、どこが?って思うだろう。学校でも塾でも、栞ちゃんは他の生徒や先生と、自然に話したり笑ったりしていたから。

 でも、明らかに違う。はっきりと分かるけれど、上手く説明するのは難しい。だから佳純先生にも、話すのをためらっていた。

 思い切って、尋ねてみようかとも考えた。だけど考えるだけで、ずっと聞けずにいる。

『言いたくないことは、無理して言わなくていいよ』

 あの話をした後、栞ちゃんにそう言われた。

『もちろん茉白ちゃんが話したいなら、いつでも聞くよ。でも……話しても楽にならないことって、あるもんね』

 何も言わないということは、話したくないのだと思う。今は言えない、ということなのか。それとも……ずっと隠し通すつもりなのか。

 ごまかさないでよ、と胸の内でつぶやく。

「……ねぇ、茉白ちゃん」

 親友の声に、はっとする。

「どうしたの。急にぼんやりと、考え込んじゃって」

「ああ……ごめん。癖なんだ」

 ほら、またごまかした。本心を隠したがっているのは、自分の方じゃないか。

「でも、栞ちゃんも大変だね。お母さんが入院することになって」

 気まずさを紛らわせるように、話題を変えてみた。

「もうずっと前から、よくあることだし慣れてるよ。ていうかごめんね……急に泊めて欲しいって、無理言っちゃって」

 事前に連絡できなかったことを、生真面目な彼女はずっと気にしていた。

「いいよ。川本さんなら大歓迎よって、うちのママも言ってるし」

 佳純先生がこの頃体調を崩しがちだったのは、あたしもよく知っている。少し長引いてもいるので、入院することになったという。それまでも、何度か同じ理由で泊まりに来たことがあった。

「ありがとう。後でちゃんと、お礼言わなきゃ」

「むしろこっちが言わなきゃいけないかも。栞ちゃん、家事とかよく手伝ってくれるし……ママなんて『娘を交換したい』とか言うんだよ。ひどくない?」

 ふふっと、栞ちゃんが声を出して笑う。

「なんか楽しそう。うらやましいよ……わたしのお母さんマジメだから。そんな冗談を言い合ったりとか、ほとんどないもん」

 その姿に、ほうっ……と吐息が漏れそうになる。少し安堵していた。

「君がそれ言うかぁ。人の家に来てまで『習慣だから二時間は勉強させてください』って言っちゃう子が……あれからママ、しつこいんだから」

 よかった、今日はいつもの栞ちゃんだ。

「自分の娘から『一度でいいからそんな台詞を聴いてみたい』って。ママの子だから仕方ないじゃないって、あたしも言い返したけど」

 でも、なんて強い子だろう。もし自分だったら……親が病気で入院となると、きっと動揺してしまう。栞ちゃんみたいに、こんなふうに落ち着いてはいられない。

 ただ、むしろ疑問は膨らんでいく。お母さんが原因じゃないとしたら、どうして彼女はあんなに辛そうだったんだろう。気丈な子にとっても耐えがたいことが、何かあるのだろうか。

 キッチンの鳩時計が、六時半を報せる。まだ制服を着替えてもいないのに、いつの間にか帰ってから一時間がすぎていた。

「……ごめん栞ちゃん。ちょっと着替えてくる」

 断りを言ってから、カバンを持って部屋に向かう。

 ドアを開け、勉強机にカバンを掛ける。クローゼットから部屋着を取り出し、いったん眼鏡を外す。ほとんど習慣的な動作だった。

 その時、机に飾られた一枚の写真が目に留まる。

 五年生の遠足だったと思う。せめて思い出をなくさないように、これだけ取っておいた。クラスの友達に囲まれ、無邪気にピースサインする幼い自分は……裸眼だった。

 視力は両眼とも0・7。良くはないけれど、眼鏡なしでも日常生活に困るほどではない。それなのに、もう何年も裸眼で人前に出たことがなかった。栞ちゃんの前でさえも。

 フィルターを通さなければ、外の世界と向き合えない。怖かったのだ。

『君は本当に、川本さんのことを友達だと思っているのかい』

 いつだったか、塾長の鴨下先生にそう言われたことがある。親友の様子がおかしいと気づいていながら、何も声をかけてあげられない。ためらっているのを、先生は見抜いていた。

『どうも、そういうふうには見えないなぁ。原野さんはどこかで、相手と気持ちをぶつけ合うのを怖がってはいないかな。それが川本さんにも伝わってしまってはいないかい?』

 三つの教室を経営していて、さらには副業もこなしている。あたし達の教室にはたまにしか来られない人なのに、どうして分かったんだろうと思った。普段は小学生の子達と絵を描いたり、動物の話をしたりしている無邪気な感じの人なのに、時々鋭いことを言ってきたりする。

『ぶつかることを怖れたら、最後は何も言えなくなるよ。分かっているだろう?』

 見透かしたように問われ、何も答えられなかった。

 制服の上着とスカートを脱ぎ、そのままベッドの端に腰かける。片方ずつ靴下も取った。キャミとショーツだけの姿になると、さすがに肌寒く感じる。

 栞ちゃんなら、部屋でもこんな格好にはならないんだろうな……と、妙なことを考えてしまう。

 心臓検診のことを思い出した。五人ずつ保健室に入り、次の番になると上を脱いで待つことになっている。栞ちゃんは、あたしの一つ前だった。

 彼女も先生に言われて、シャツと下着を脱ぐ。それから順番がくるまでの間、ずっと両手で胸を押さえていた。「恥ずかしい?」と聞くと、無言でうなずく。

 生真面目な子らしく、こんな時も衣服を丁寧にたたむ。呼びにきた先生が「あら上手ね」と褒めたのに、栞ちゃんは「いえ……」とうつむいて答える。それでも戻ってきた時には、照れたように微笑んでくれた。

 自分がこういうことを気にしない方だから、栞ちゃんの恥じらいを不思議に感じる。これが女の子らしいということなのだろうか。少し羨ましく思った。

「そろそろ行かなきゃ……」

 彼女を待たせたままなので、着替えて部屋を出る。もうすぐ母も帰ってくる頃だ。

 キッチンに戻ると、栞ちゃんはクリアファイルのページをめくっていた。まだ勉強するつもりなんだ……と、ため息混じりにつぶやく。

「すごいね。もうあたしの、三日分くらい」

 少しからかうように言うと、彼女は首を横に振る。

「ちょっと調べものしてただけ」

「それを普通、勉強っていうの。何を読んでたの?」

 彼女は黙って、そのファイルを差し出す。

「あ……これ、スクラップブックだ。栞ちゃんが作ったの?」

「うん。始めたばかりなんだけど……新聞の切り抜きとか、ネットの記事を印刷したものとか」

 栞ちゃんが集めていたのは、教育問題に関する記事のようだ。中には、児童虐待や中高生の自殺事件といった、痛ましい内容のものもある。

「昔お母さんが作ったのを、真似してみたんだ」

「佳純先生が、どうして……あぁ、そっか。もともとスクールカウンセラーをしてたんだよね」

 転校してきた頃、学校で聞かされた話を思い出した。

「そういえば、どうして塾の先生に?」

「お母さん……結婚してから、ずっと主婦だったんだけど。お父さんが事故に遭っちゃって」

 しまった、と思った。胸の内に苦い思いが広がる。

「それで仕事を探さなきゃいけないって時に、鴨下先生に誘われたの。塾で一緒に、仕事をしてみませんかって」

 動揺するあたしを傍らに、栞ちゃんは意外にもあっけらかんと話す。強がりでなく、本当に何とも思っていないらしい。

「へぇ。佳純先生と鴨下先生、もとから知り合いなんだ」

 彼女にとっては、もはや過去の一部でしかないのだろうか。

「……実はね、わたしも」

「そうなんだ……えっ? どういうこと」

 今まで知らなかった話なのに、うっかり聞き流してしまうところだった。

「ちょっと待って。話が……よく、つながらない」

 あたしが戸惑っていると、栞ちゃんは苦笑いを浮かべた。

「鴨下先生って、別の仕事もしてるのは知ってるよね?」

「うん。確か……雑誌記者だっけ」

 さっきのスクラップブックが頭に浮かぶ。もしかしたら、鴨下先生の書いた記事も混じっているかもしれない。

「そうそう。でもその前は、新聞記者だったの……ほら、わたしの書いた詩」

 何だか言いにくそうに話した。少しでも自慢っぽい話をするのは、本当に苦手らしい。

「賞をもらった時、取材に来てくれたのが鴨下先生だったの。それでお母さんとも知り合って、次の年……お父さんが亡くなった時にも」

 僅かではあるが、少しずつ彼女の表情が陰り始めた。平静なようでいて、内心ではまだ辛いのかもしれない。やっぱり言わなきゃ良かったと、また後悔し始める。

「先生がお見舞いに来てくれて。その席で、お母さんに塾の話を紹介して」

「じゃあ、鴨下“先生”って呼ぶの……変な感じだった?」

 こちらの感情を察したのが、ふと栞ちゃんが微笑む。まるでそっと包み込むような、とても柔らかで優しい笑顔だった。

「そうだね。最初はすごくあった」

 この微笑みに、何度救われただろう。心が穏やかになっていく。

「ふうん……それでかぁ。鴨下先生と話す時、栞ちゃんちょっとぎこちない感じだもん」

「えっ、そう?」

「何となくだよ。だから栞ちゃん、鴨下先生のこと嫌いなのかなって」

 そんなんじゃないよ、と彼女は笑った。

「だって名前の呼び方から、迷っちゃうもん。つい“鴨下さん”って言いそうになるし」

 栞ちゃんはそこまで言うと、ふいにため息をつく。少し話し疲れたのだろうか。うつむき加減になり、束の間黙り込む。

「……あのね、茉白ちゃん」

 やがて口を開き、彼女はぽつりと言った。

「気づいてたよ。茉白ちゃんがわたしのこと、ずっと心配してくれてるの」

 声さえ発することができなかった。もちろん見えないけれど……あたしはこの時、かなり間の抜けた表情をしていたと思う。


 それから三十分もしないうちに、母が帰ってくる。

 生真面目な栞ちゃんは、急に泊めてもらっているから……と、夕飯の支度や掃除を進んで手伝ってくれた。母はずっと感心しきりで、普通に褒めればいいのに「誰かさんとは大違いね」とあたしに嫌味を言う。

 ただ、おかげで賑やかな夕飯の席になった。友達のこと、部活のこと、そして家族のこと……何だかんだと話が弾む。

 意外なことに、栞ちゃんは亡くなったお父さんのことをよく話した。さすがに自分からではなく、母が遠慮がちに尋ねてからだったが。

「そういうの全然気にしないので、大丈夫ですよ」

 彼女は笑って、そう答えた。お父さんをいなかったことにはしたくないと、むしろ積極的に話すようにしているという。

 むしろお母さん……佳純先生のことを、あまり話したがらない様子だった。やっぱり入院しているので、今はその話題に触れるのが辛いのかもしれない。

 あとは交代でお風呂に入り、寝る時間になった。

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