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何に使おう……  作者: レインコート
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1.悪夢の後

 その無機質な声が、妙に忘れられない。

 十一歳のあたしが、トランペットのケースを片手に歩いている。音楽クラブからの帰り道だった。自分の生きている日常が崩れてしまうことなど、まるで考えもしなかった頃だ。

「……あのぅ、すみませーん」

 ちょうど児童公園の入り口に差し掛かった時だった。制服のブレザー姿の少年に、声をかけられる。少年といっても当時の自分には、大人と変わらないように思えたのだが。

「A図書館へ行きたいので、道を教えてもらえませんか?」

 年上の人が妙に丁寧な言葉遣いをしてくることに、微かな違和感は覚えていた。それでも相手の悪意を嗅ぎ取るほど、賢くはなかった。

 ほとんど何の疑いも持たず、その人を横断歩道の近くまで案内した。そうして踵を返し、下校の道に戻ろうとした……その一瞬だった。

 わき腹が焼けるように痛む。振り向くと、小さなナイフを突き刺されていた。

「道を教えてくれて、どうもありがとう」

 たぶん叫び声さえ、上げなかった。真夏の暑い時季だったのに、体温が奪われていく。薄れゆく意識の中で「ああ、死ぬんだ……」と思った。

 真っ暗闇の向こう側に、明かりがほんの一点見える。

 手を伸ばすと、それがだんだん大きくなってくる。近づいてくる。そして……気がつくと、病院のベッドの上にいた。

 路上でうずくまっているところを、通りがかった人が見つけてくれたらしい。

 発見があと五分遅ければ、助からなかったという。出血がひどく、昏睡状態が三日間続いた。両親も、一時は覚悟を決めていた……と、後から聞かされた。

 あたしで三人目だった。彼は同じような手口で、二人を襲っていた。一人は小学四年生の女の子、もう一人は高校二年生の女子生徒だった。

 二人とも命を落とした。助かったのは、あたしだけだった。

 後に『十四歳の少年による連続通り魔事件』として、全国メディアでも大きく取り上げられることになる。しばらく病院にいたので、外の様子は分からなかったけれど。両親のところにも何度か取材が来たらしい。

 事件の後、あたしの生活は一変してしまう。

 退院してからも、一ヶ月近く家から出られなかった。犯人が捕まったと聞かされても、道ですれ違う人が何かしてくるんじゃないか……そんな思いに囚われてしまう。何とか学校へ通えるようになってからも、放課後に友達と遊んだり、一緒に帰ったりすることはもうできなかった。

 大好きだった音楽クラブも、やめてしまった。トランペットのケースを見る度に、あの声を思い出してしまうから。


……どうもありがとう。道を教えてくれて、どうもありがとう。ありがとう……


 六年生に上がる時、隣県の小学校へ転校することになった。

 少しでも事件の影響から逃れるため、両親がそう決めてくれたのだ。仕事がある父だけ元の家に残り、今は母と一緒にアパートで暮らしている。

 両親の気遣いはありがたかったけれど、少し重くもあった。

 特に、厳しかった母がほとんど叱らなくなったのは、かえって辛かった。もうこれ以上、親を心配させる娘でいたくなかったのに。

 あの塾を勧められたのは、そんな時だった。

 スクールカウンセラーの人に、紹介してもらったのだ。登校できなかった期間が長かったから、勉強が遅れて授業に付いていけなくなっていた。それを相談した時、不登校経験のある子を受け入れている個別指導塾があると教えてもらった。

 お金のことが気になったが、事情のある子は無料で受けさせてくれるという。それに、元同業者の人がこの塾に勤めていて、とてもいい先生だからきっと力になってくれると。


 話は本当だった。何よりもあたしに、素敵な出会いを与えてくれた。



「……原野さん」

 名前を呼ばれていることに気づき、はっとする。

原野茉白はらのましろさん。ねえ、聞いてるの?」

「えっ、あ……はい」

 近くの席の生徒達が、くすくすと笑い声を上げた。もう何度目かだったらしいのだが、考え事をしていると、よくこうなってしまう。

「さっきから呼んでるのに、どうしたの。ぼうっとしちゃって」

 眼鏡をかけ直し、気まずさを誤魔化す。

 壁掛けの時計を見ると、もう五時半を回っている。塾の授業が終わり、あとは宿題をもらって帰るだけだ。授業といっても個別指導なので、自習を先生に見てもらうような形だが。

「すみません……」

「まあ、いいわ。これが今日の宿題」

 川本佳純かわもとかすみ先生は、優しく微笑んでくれた。歳は私の母とそんなに変わらないそうだが、すらっとしたきれいな先生なので、ずっと若く見える。もう一年半近く担当してもらっていた。

「テスト前だから、いつもより少し多いけど。原野さんならできるわよね」

 カウンセラーの人が言っていた「いい先生」というのが、佳純先生のことだというのはすぐに分かった。塾には色々な先生がいたけれど、明らかに雰囲気が違っていたからだ。

「大丈夫ですよ。もし、分からなかったら」

 奥の自習席で勉強している、自分と同じ制服姿の少女にちらっと目をやる。そして先生の方に向き直り、いたずらっぽく笑って見せた。

「栞ちゃんに、また教えてもらうので」

「えーっ、それはいいけど」

 佳純先生は、苦笑いを浮かべた。少し困ったような、それでいて何だかうれしそうな、色々入り混じった表情だ。

「あの子、ちゃんと分かるように教えられるかな」

 栞ちゃん……川本栞かわもとしおりさんは、佳純先生のお嬢さんだ。小学校は別々だったから、初めて中学校でクラスメイトになった。塾でずっと仲良くしていたから、そんな感じはしないけれど。

「先生に似て、すごく分かりやすいですよ」

あたしにとって、一番大好きな友達だ。

「それに優しいし……あっ、家の手伝いもよくしてくれるんですよね」

 先生の顔がほころんでいく。自分の娘を褒められるのは、やっぱりうれしそうだ。

「うちのママも『川本さんみたいな娘が欲しかった』って、よく言うんですよ。悪かったねって言い返しますけど」

「……そう。でも、あの子ちょっと変わってるでしょう」

「えっ。そう、ですかぁ?」

 この時、ん?と思った。冗談っぽく話していたはずなのに、先生が真顔で問うてきたからだ。

「栞はね、小さい時に体が弱かったの。三年生くらいまでは入退院を繰り返してて」

「あっそれ、聞いたことあります」

 栞ちゃんと同じ小学校だった子が、教えてくれた。今でも完治したわけではないらしく、健康診断の後には先生に呼ばれ、再検査を受けてくるように言われるのを見たことがある。

「こういうのを達観してるっていうのかな。あの子、妙に落ち着いているというか。賞を取った詩にしても……あぁそっか、茉白さんは知らないよね」

「知ってますよ。確か『命はなんのため?』っていう……新聞にも載ったんですよね」

 ふっと佳純先生が、苦笑いを浮かべる。

「そうそう。まぁ、すごかったの……表現とか。まだ四年生だったのに」

 こういう自慢っぽい話をしたがらない子だから、あたしも最近まで知らなかった。小学校の卒業文集を貸してもらった時、たまたま目に留まる。賞状を手にする彼女の写真、そして記事の切り抜きと一緒に、きれいな字で書かれた詩が載っていた。

「読んでみたんですけど……あたしにはちょっと、難しかったです」

「まぁ普通の小学生が書くような詩じゃ、なかったわね」

 それでも繰り返し使われているフレーズだけは、不思議と覚えている。


 命はなんのため? わたしの命はなんのため?

 与えられた命 たった一つしかない命

 いつ消えてしまうかもしれない このはかない命

 わたしは何に使おう

 命はなんのため? わたしの命はなんのため?

 何度でも問い続ける 


 本人に聞いてみると、「そんなつもりじゃなかったんだけど」と照れたように笑った。

「夏休みの宿題だったの。入院中に書いてた日記を、詩に直して出しただけなのに」

「でもすごいよ。大賞だって、全国で一番なんでしょう」

 なぜかこの時、栞ちゃんはふいに物悲しげな表情を浮かべる。

「……あの時は、よくそういうことを考えてたから」

 実はその詩が、彼女の辛い体験を元に書かれたものだと知ったのは、もっと後になってからのことだ。栞ちゃんはこの頃、同室で仲良くしていた年下の女の子を亡くしていた。

 その子の墓参りに、先週あたしも一緒に行った。

 栞ちゃんは目に涙を溜めていたけれど、必死にこらえようとする様子だった。泣いてもいいのに……と言うと、静かに首を横に振る。

「せっかく会いに来たのに。わたしが泣いたら、あの子が悲しんじゃう」

 まるで自分に言い聞かせるように、彼女は微笑んで答えた。


「病気のこともあるし。夫……あの子の父親も、小五の時に亡くなっているから」

 ちらっと娘の背中に目をやり、佳純先生はため息混じりに言った。

「色々と辛い思いもしてるはずなんだけど。あの子、何も言わないの」

 いつもの先生の、軽やかな口調ではない。というより……先生はこの頃、どこか陰のある表情を見せることがあった。

「学校でもそんな感じです。お母さんの前でも、そうなんですね」

 体調もあまり良くないらしく、今年に入って何度か仕事を休んでもいる。栞ちゃんも、そのことを心配していた。自分と似て、体はあまり丈夫じゃないと。

「大丈夫だと思いますよ。栞ちゃん、しっかりしてる子だから」

「そう言ってくれるのはうれしいけど。あの子……かなり生真面目な方でしょう。溜め込んでないかなって、心配になるの」

 それで惹かれ合ったのかもしれないと、妙なことを考えてしまう。

 栞ちゃんのことを、あたしは“完璧な女の子”だと思っていた。清潔感があって可愛らしくて、それに頭も良くて真面目で礼儀正しい。そして、何より心優しい子だ。

 自分とあまりにも違いすぎて、嫉妬すらしない。それでも彼女のような子が、どうしてあたしと仲良くしてくれているのだろうと、不思議に感じることはある。

 全然タイプが違う。あたしはもともと快活な質で、小学校の頃には音楽クラブなのをよく珍しがられた。どちらかというと、運動系のクラブに入っていそうだと。

 もちろん仲良くなってくると、お互いの共通点に気づくこともあった。例えば、二人とも音楽が好きだということ。そして事情は違うけれど、お互い今は母親と二人暮らしだ。

 共通点はもう一つある。あたしも栞ちゃんも、忘れられない“過去”があるということ。

 だからあたしは、栞ちゃんといると落ち着く。もしかしたら彼女も、あたしにどこか同じ匂いを感じたかもしれない。

 彼女となら分かり合える。たくさんの言葉は使わなくても、お互い気持ちは通じている。そのつもり……なのだけれど。

「本当に、栞ちゃんのこと……よく見てるんですね」

 胸の奥がちくっと痛む。複雑な感情が、頭をもたげてくる。

「塾長……鴨下先生とも、時々話すんだけどね『もっとお互いの感情を見せるようにしたら』って、言ってもらったりして」

「へぇ、そんな話もするんですか」

 塾長の鴨下明信かもしたあきのぶ先生は、五十歳前後くらいの男の人だ。他の三教室の経営と副業もこなしているので、私達のところには二日置きくらいしか顔を出さない。

「そうなの。すごいのよ……鴨下先生、何でもよく知っているんだから」

 それでも教室に来た時には、生徒達とよく冗談を言い合ったり、小学生の生徒と一緒に動物の話をしたりしている。年齢のわりに子供っぽく見える人だが、時々こういうシリアスな話をすることがあった。あたしも胸の内を見透かされ、どきっとしたことが何度かある。

「……でもね、原野さん」

 なぜか佳純先生が、くらりと口調を変えた。

「今気になってるのは、あなたのこと。この頃、よくぼうっとすることがあるわよね」

 優しげに微笑みながらも、その声は強く響いてくる。

「前に約束したでしょう。何か心配事があるのなら、ちゃんと先生に話してって」

「そうだよ。考えすぎちゃうのは、茉白ちゃんの良くない癖だよ」

 ふいに別の声が重なってきたので、「え……あっ」と間の抜けた返答をしてしまう。いつの間にか、当人がこっちに来ていた。

 いたずらっぽい笑みを浮かべて、栞ちゃんが後方のブースから顔をのぞかせている。

「もうっ、まだ原野さんと話の途中なのよ」

「ごめんなさい“川本先生”。でも、鴨下先生が呼んでました……『打ち合わせです』って」

 周りから依怙贔屓だと思われないように、塾では「お母さん」と言わなかった。お互い“先生”“川本さん”と呼び合い、佳純先生が娘の栞ちゃんを担当することもない。

 佳純先生は他の生徒からも「教え方が分かりやすい」と評判だったから、教えてもらえない栞ちゃんが少し気の毒だった。彼女は成績優秀だから、どの先生が教えても変わらなかったが。

「あら、ほんと。急がなきゃ」

 先生は席を立ち、奥のスタッフルームへと入っていく。

「ごめんね。話を邪魔しちゃって」

「ううん、いいの……全然」

 話が中断されたことを、むしろ安堵していた。栞ちゃんと同じくらい、佳純先生のことも大好きだ。そんな二人の前だから、なおさら口には出せない。

 あたしがずっと悩んでいたのは、栞ちゃんのことだったから。



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