妖精少女
──おはよう。そして、さようなら
そう言って、少女はボクの前から消えた……
昨日、母さんが死んだ。
癌だった。
定期検診の結果、X線検診で不審な影が見つかった。総合病院での精密検査の結果、胃の末期癌だと分かったという。
しかし、ボクはその事実を知らされていなかった。病室のベッドに横たわる母さんに、「行ってきます」と言って、学校に向かった。
学校が終わって帰ってきた時には、母さんは、もう冷たい躯になっていた。
傍らに立つ父さんは、首をうなだれたままで、何も言ってくれなかった。こんな父さんの顔を見たのは初めてだった。
ボクは、そんな父さんに何も言えなかったし、父さんもボクに何も言ってくれなかった。
翌日の夕方、お通夜が行われた。
葬儀場で、親戚の伯父さんたちに挨拶をした。ボクも父さんも、突然に訪れた悲劇に、対応しきれていなかった。ただ、ボクたちを囲む親戚の人たちの声が、雑音のように耳に聞こえていた。
形式通りのプログラムが通りすぎて、知り合いや親戚たちが帰って、やっと静寂がボクと父さんと、冷たくなった母さんに還ってきた。
父さんは部屋の隅の棺桶の横にあぐらをかいて、ただ黙っていた。
何も言えない父さんの気持ちは、ボクにもよく分かった。しかし、子供のボクは、それでも父さんに何か言って欲しかった。
だからだろう。ボクは夜がふける頃、葬儀場を飛び出して、暗い夜道を宛てどもなく歩いていた。
どこをどう歩いたのかは知らない。
ボクはいつの間にか、人気のない小川の岸に立っていた。いや、こんな遅い時間なら、どこだって人気はないだろう。そう。ボクは、ただ、どこか知らないところで一人になりたかったんだと思う。
川岸には丈の低い雑草が群生していた。夜露で湿った地面の上にボクは腰をおろした。ズボンに湿気が染みこんできて気持ちが悪かったが、立とうとは思わなかった。
いつの間にか、ボクの頬を生暖かい液体が伝っていた。ぼんやりとした視界の中を黒い水がチョロチョロと流れる様子を、ボクはただ見つめていた。
だからだろう。ボクは、「どうしたの?」と、話しかけられるまで、目の隅に映っていた人物に気が付かなかった。
涙のせいか、彼女の身体は淡く輝いているように見えた。いつしか、明るい満月が天頂からボクたちを照らしていた。
「どうしたの?」
再び話しかけてきたのは、ボクと同年代くらいの少女だった。
──こんな夜更けに女の子?
後で思い返すと、それは不自然だったと思う。しかし、ボクにはそこまで思い至ることは出来なかったのだ。
「母さんが死んだんだ」
ボクは、問いかけに対し、そう応えた。
「そう……それは、悲しかったわね」
少女はそう言った。『悲しい』? ボクにはその言葉が一瞬理解できなかった。
「悲しい……のかな」
ボクは応えた。
「うん。だって泣いてるもの」
その時になって初めて、ボクは自分が涙を流していることに気がついた。
「ボクは、泣いていたのか……」
思わず口走ったのは、そんな言葉だった。地面についていた右手を持ち上げて、ボクは両目をこすった。
生暖かい液体の染みが、シャツの袖を濡らした。
視界がクリアになる。
目の前には、どこにでもあるような小川が流れていた。座ったまま右隣を向くと、そこには知らない少女が立っていた。
──知らない? いや、知ってるような気もした。
少女がまとってる白いワンピースは、月の光の中で、淡くほのびかっているように見えた。
だからかも知れない。ボクは、その少女を人間とは別種なものとして理解した。
──妖精? こんなところに? ボクに何か用があるのかな?
そんな事を考えながら、ボクは押し黙っていた。
彼女はワンピースの裾を後ろから押えながら、ボクの隣にかがんだ。
一瞬の微風に、彼女の長い黒髪が舞ったように思えた。
「悲しい?」
彼女はただそれだけを口にした。
「うん」
ボクはそう答えたが、本当に悲しかったのかどうか分からなかった。ただ、母さんが死んだのに、悲しいのかどうか分からない自分が悲しかった。それで、涙がこぼれたのかも知れない。
「君一人?」
少女は口を開くと、ボクにそう言った。
「うん」
ボクはそう答えた。父さんは酒に酔ったのか、崩れ落ちるように眠っていた……と思う。親戚も学校の友人達も、お通夜の席が終わると、帰って行った。
それに、ボクは一人っ子だった。兄弟はいない。
──あなたには、本当はお姉さんがいたのよ。産まれる前にお空に帰って行っちゃったけど。
ボクは突然、そんな母さんの言葉を思い出した。
「君は誰?」
ボクは思わず、隣にしゃがんでいる少女に問いかけた。
「わたし? わたしは『わたし』 誰でもないわ」
少女は、奇妙な返事をした。しかし、ボクはその言葉に納得した。
「君も一人なの?」
ボクは彼女にそう訊いた。
「ううん。君が一緒にいるよ」
彼女の言葉に、ボクは、今自分が一人じゃないことに気がついた。
「一人じゃないんだ」
「そうだよ。君がいるもの」
「そうだね。だったら、ボクも一人じゃないんだ」
「うん。そうだね」
彼女の言葉は、ボクの耳から脳内に染み渡った。おかしな気分だった。
「君はどうしたの?」
ボクは彼女に問いかけた。
「どうも。君がいたから、ここにやって来たの」
「そうなんだ……」
「おかしい?」
彼女が応える。
「おかしくなんかないよ」
ボクが返事をした。
「まだ悲しい?」
彼女はボクにそう訊いた。
「悲しくは……ないと思う。君が来てくれたから」
ボクはそう応えた。
「そう……。お母さんがいなくなっても、君は一人じゃないものね」
──そうなんだ。ボクは一人じゃないのか
少女は月の明るい夜空を見上げていた。
「星が明るいよ」
彼女がそう言ったので、ボクも夜空を見上げた。
「星がいっぱいだね」
ボクもそう言った。
それから、ボクと少女はとりとめのない言葉を交わした。
ただ、それだけで、ボクの中の何か冷たいモノが少しずつ減っていくような気がした。
いつしか、地平線が明るくなり始めていた。
──夜明け?
「明るくなって来たね」
少女はそう言った。
「朝が来たんだ」
ボクはそう言った。
ボクは昨夜とは違う自分になったような気がした。
「もう大丈夫だね」
「うん、大丈夫だと思う」
「そっか。なら良かった」
少女の言葉はとりとめが無かったが、ボクはそれが心地よかった。
「もう帰らなきゃ」
少女は言った。
「そうか。君には帰る場所があるんだ」
ボクがそう言うと、
「君も帰るんでしょう」
と、彼女は応えた。
──そうか。ボクにも帰るところがあるんだ
その時、ボクは父さんの事を思い出した。
──父さんも一人じゃないといいな
ボクは何とはなくそう思った。
そのうち、周囲が明るくなってきた。太陽が姿を表すまでには、まだ時があった。
しかし、その明るい光の中で、彼女の姿は少しずつ透き通っていくように見えた。
ボクは眼を瞬いた。しかし、彼女は徐々に朝焼けの光に溶けていくように見えた。
「行っちゃうの?」
ボクはそう彼女に訊いた。
「うん。もう帰る時間なの」
「そう……なんだ」
ボクはそうつぶやいた。
「さよならだね」
彼女はそう言った。
「もう一度会えるかな?」
ボクはそう問いかけた。
「分からないわ。その時が来たら、また会えるかも知れないけど」
彼女はそう応えた。
そうして、早朝の陽の光の中に、彼女は溶けるように消えていった。
──さよなら
ボクは岸辺から立ち上がった。ズボンの尻が、地面の湿気で濡れていた。
帰ったら着替えよう。
今日は母さんのお葬式がある。でも、ボクは上手くやるだろう。父さんは……父さんには、もうボクしかいないんだ。
──父さんにも、誰かが会いに来たのかな?
いつしか太陽がその姿を表していた。夜が明けていた……
今日は、母の十三回忌だ。
わたしは、通夜の晩にあった事を思い出していた。
──彼女は誰だったのだろう?
今になっては確証が無い。
──彼女は妖精だったに違いない
その時から少し成長した『わたし』は、そう思うことにした。
この世には人智では測れない事がある。その時、彼女がいてくれたことで、わたしは救われたような気がする。
それ以上詮索する気はなかった。
──それでいい
わたしは、一旦空を見上げると、父の待つ仏間に向かった。
(了)