9-文系と理系はどちらが偉いか
理系の男が言った。
「経済学者ってのは、まるで占い師だね。
過去を解説するのは得意だが、未来を予測できたためしがない。
ヒトラーにはお抱えの占星術師がいたというが、それを笑う資格は今の政治家にはないな。
インチキ科学者の御託に従って、政策を決定しているのだから。
経済学者が数式やグラフを使って、門外漢を煙に巻こうとするあたりは、似非科学の面目躍如というところだな。
理系の人間から見れば、あんなものは子供だましに過ぎない。
そもそも議論の出発点が、事実ではなく推測だからだ。
たとえば『温度を上げれば、気体は膨張する』というのは事実だ。
いつでも、どこでも、誰が見ても通用する。
しかし『価格を下げれば、需要が増えるだろう』というのは推測だ。
そうならないことも普通にある。
だいたい文系の学問は、「だろう」「だろう」の連続だ。
自分がそう思うからといって、他人も同じとは限らない。
なのに同じだと仮定して議論を進める。
従わないやつがいれば、病気と決めつける始末だ。
社会科学は科学を名乗ってはいるが、実験も再現もできはしない。
『だから科学ではない』とまでは言わないが、実用性は著しく低い。
原因と結果を結びつけるには、他の条件を全部揃えて、再現してみることが必要だ。
それができなければ、因果関係を証明できない。
相関関係は証明できるかもしれないが、言うまでもなく因果関係とは別のものだ。
因果関係が証明できなければ、未来の予測はできない。
『1リットルの気体を1度上げれば、体積が何%増えるか』は、正確に予測できる。
しかし『1兆円の公共投資を行なえば、日経平均株価が何%上がるか』は、まったく予想できない。
そもそも『公共投資をすれば、景気が良くなる』という因果関係も証明されていない。
『そういう事例も過去にはあった』と言えるだけだ。
所詮、社会科学は統計学や文献学の域を出ることができない、後ろ向きの学問だ。
それなら占い師と同じだろう。
手相や人相だって統計学と言えなくはない。
未来の予測ができなければ、発明の役にも立たない。
いくら文系の学問を究めても、空を飛べるようにはならないし、ガンを治療できるようにもならない。
人類の進歩に貢献してきたのは、常に理系の学問と決まっている」
文系の男が言った。
「そりゃ相手がボールなら、いつでも高い所から低い所へ転がるだろうさ。
けれども人間は、用もないのに高い山へ登りたがったりする生き物でね。
物理法則に従わないことが、人間の特性と言ってもいいな。
人間の行動は、物理法則ではなく思い込みに左右されるのだ。
景気が良くなると皆が思い込めば、誰もが惜しみなくお金を使う。
その結果、実際に景気が良くなる。
財政政策は未来を予測する力ではない。未来を改変する力なんだ。
因果関係なんか必要ないんだよ。
おおかたの人間は頭が悪いから、因果関係と相関関係の区別がついていない。
だから相関関係さえ示せば、それで必要十分だ。
たとえ間違った因果関係でも、大声で主張すれば、多くの人間を動かすことができる。
多くの人間が動けば、間違った予測でも現実になる。
正しい予測をすることと、結果において何が違うだろうか。
『神がいる』と大声で言えば、みんな神の目を気にして行動する。
『人権がある』と大声で言えば、人権に反する行動はできなくなる。
人類の歴史は、そうやって紡がれてきたのだ。
そこに神や人権の存在証明は必要ない。
人々に存在を信じさせるだけのレトリックがあればいい。
それもまた、文系の学問の力と言える」
理系の男が言った。
「それでは学問というより、単なる信仰ではないか。
信者が多ければ力を持つが、信者が減れば無力な迷信だ。
時代により、地域により、環境によって、いくらでも結論が変わる。
永劫普遍の真理では、断じてありえない。
それに文系の学問は、物理法則には絶対に勝てない。
『俺は空を飛べる』と大声で主張しても、実際に飛べたやつはいない。
信者を洗脳して、そう見せることは可能かもしれないがね」
文系の男が言った。
「君はロマンチストだね。
真理なんて、糞の役にも立たないものを追い求めるとは。
真理は常に、信ずる人の心の中にのみ宿るものだ。
確かに文系の学問では、自然を支配することはできない。
しかし人間を支配することはできる。
『自然を支配した人間』を支配すれば、間接的に自然を支配したことになるわけだ。
ちょうど君のような理系のエリートが、私のような文系出身の三流経営者に、安月給でこき使われているようにね」