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死神は去りぬ

第七章

 チームベータの用意した車で、斧堂達は”避難所”へと戻ってきた。見慣れない家の門

扉の前で、吉川はただ”避難所”を眺めやる。

「どうぞ、お入り下さい」

背後から斧堂に促され、躊躇いがちに門扉に手を掛ける。周辺を警戒しつつ、私服姿の斧

堂も彼女の後に続く。

 玄関扉が開かれると、そこには一人の少女の姿があった。

「一美…」

疲労の色も濃い吉川の表情が、僅かでも華やぐ。聞かされてはいても、実際に親友の元気

な姿を目にし安堵したのであろう。しかし嶋本の表情は暗い。あの、転校間もない頃の様

に。

「吉川さん…」

「無事、だったんだね、良かった…」

一つ溜息をつく。と、突然、嶋本はその場に膝を折った。脱力した訳ではなかった。

「ご免なさい!私のために、酷い目に遭わせてしまって!!」

土下座し、額が上がり框に着くほど頭を垂れる嶋本。その声音は涙に滲んでいる。

「あなたに嘘をついて、自分を偽り続けて。その結果がこんな…こんな」

上がり框を落涙が濡らす。いかなやむを得ぬ事情があろうと親友である吉川を偽り続け、

遂には生命の危機に直面させたのは紛れない事実であり、どの様な申し開きも空しいであ

ろう。

「許されない事は判っています。今の私にこの罪を贖う術は、ありません。ただ、ただ、

これだけは判って欲しいのです。自分が、関わる人間を不幸にしてしまうかも知れないと、

判っていました。クラスメイトが私に興味を失っていった時も、それが好都合だと、判っ

ていました…けれど、寂しかったのです。とても、とても、寂しかった…」

「一美…」

吉川の表情も曇る。誰かを偽っていたのは彼女とて同じなのである。運動部への在籍を拒

んできたのは『練習がきつかったから嫌になった』からではない。彼女はかつて、部活動

に苦痛を感じた事など無かったのである。本当はただ、気力を失ってしまっただけであっ

た。愛する家族を失った悲しみに打ちのめされて。その事を知る者は、恐らく学園内には

いるまい。

「ねぇ…もう、やめてよ。泣いたりしないで。ね、一美?」

傍らに腰を下ろし、嶋本の髪を撫でる。そう、彼女にとってこの親友の名は嶋本一美であ

って、河野加奈絵ではない。少なくとも、大手を振って再び本名を名乗れる様になるまで

は。

「とにかく、こうして二人とも無事だったんだし、ね?嘘ついてたのだって、どうしても

必要だったからでしょ?一美を救うために、斧堂君だってやって来たそうじゃない?結局

は私もこうやって救ってくれたし」

優しく抱く様に肩を掴み、嶋本の上体を起こさせる。

「だから、ね、もういいじゃない、ね?」

「私を…許して頂けますか?」

「もちろん…ううん、許してあげるんじゃなくて、どうか許させて。それで一美の気持ち

が軽くなるなら」

「吉川さん…直美さん…あなたに会えて、良かった。そうでなければ、きっと、私は遠か

らず、おかしくなっていた事でしょう…」

泣き顔の嶋本が、辛うじて笑顔を浮かべた。吉川も、笑顔でそれに応える。

「やっと、名前で呼んでくれたね」

暫し見つめ合う。今、吉川は嶋本を親友と呼べる幸運を噛み締めていた。今後嶋本がどう

なるか、彼女には判らない。この件について斧堂は一切沈黙を守っている。ただ彼女の直

感は、いずれ嶋本が遠く離れてゆくと告げていた。その時が明日か、明後日か、学期末な

のか、あるいは卒業まで保つのか。ただ、いつ別離の時が来ようと、決して今日の日は忘

れまい。そう、ようやく名前で呼んでくれたこの日を。知らず、嶋本を胸にかき抱く。

「一美が居てくれて、良かった。いつまでも、親友だよね?」

「もちろんです」

涙が溢れてくる。声もなく、二人は暫し思うまま頬を濡らしたのであった。

「…」

その有様を、玄関口に佇立したままじっと見下ろすばかりの斧堂であった。


 学園に戻った増井を、意外な人物が待っていた。

「お仕事、ご苦労様」

保健室に入ると、スツールに腰掛けた女性が声を掛けてくる。その傍らに黒ずくめの男物

のスーツを着こんだ、ボディーガードと思しきショートカットの女性が直立している。ま

だ若く、少女と呼ぶべきであろう。女性としては長身といえるその体躯は、引き締まりつ

つも女性としての丸みを備えている。増井は二人を見知っていた。それ故に愕然となる。

「副社長…」

増井を待っていたのは見吉であった。艶やかな生地のスーツを着こなしたその女性がここ

にいる理由を、増井は思いつかなかった。もちろん本学園の大口寄付者であるF.I.S

.の窓口役である彼女が訪れたとしても何ら不思議ではない。本学園への増井や、嶋本ら

『特殊な』転校生の受け入れ等も、見吉が折衝に関わっているのである。が、それはとも

かく増井にとって意外であったのは、副社長という要職にある人物が未だ安全とは言い切

れない現場に出向いた事であった。

「そんなに驚く事ないじゃない?特殊事由者の件は私の直接管掌事項よ?」

「それは承知しています。ですが、未だここは安全とは…」

「そう?こちらへは余り出向いていなかったから、このさい視察もしておこうと思って」

「状況終了の判断は下されておりません。せめて明日で宜しかったのではありませんか?

「もちろん、それは判っているわ。本件に関する情報収集、”戦闘用員”の待機等も継続

しているし、そもそもあちらの処理がまだだし」

「あちらの処理は、どうなるのでしょうか?」

「今夜、一斉にね。全て手配済みよ。彼等全員の行動も把握済み。今夜は大仕事ね」

「こちらも重要人物を押さえてあります。後でお会いになる時間もあるでしょう」

作戦の顛末は、学園に張り付いていた”戦闘用員”より聞かされていたのであった。

「そうね、ぜひお話ししたいわ」

言ったあと、不意に見吉は微笑した。照れた様に訊ねる。

「ところで、斧堂君はどうだった?仕事ぶりは?」

「はい、お見事でした。さすがに我が社随一の”戦闘用員”です」

実際に突入場面を目にした訳ではないので、これも伝聞を基に素直に感想を述べる、ここ

までは。『少々無愛想が玉に瑕ですが』と、胸中で続ける。

「そうでしょう?やっぱり、仕事の出来る男はいいわよね」

まるで我が事の様に見吉は喜んだ。

「実はね、彼に会いに来たのが、一番の目的なのよ」

言って、悪戯っぽくウインクしてみせる。呆気にとられる増井。と、ボディーガードがち

らり、腕時計を見遣り、見吉に時間の来た事を告げる。

「そうね、それじゃぁ、そろそろお暇するわ。”避難所”への面倒な手順もある事だしね

立ち上がり、出入口へと歩を進めかけてそうそう、と足を止めた。

「ところで、今回の一件に巻き込まれた嶋本さんのご友人ね」

「吉川さんの事ですか?」

「そう。吉川さんね。彼女は”避難所”に居るかしら?」

「その筈ですが」

「そう。ありがとう」

そう答える見吉の表情が一瞬曇る。小さく呟く。

「教えない訳には、いかないわよね」

増井には、そう聞こえたのであった。


 一番風呂はとても心地良かった。まっさらな湯に浸かっていれば、あのビルの空気に澱

んでいた不快な腥臭も、黒石の血も、はたまた心身にこびりついた疲労も、綺麗さっぱり

溶け流れてゆく様である。大きく伸びを一つ。

「うぅーん、いい気持ち」

首を軽く一回転。思い返してみれば目まぐるしい一日であった。嶋本と連絡が取れなくな

り、嶋本家を訪ねたところで井竹達の仲間に拉致され、嶋本に関する秘密の一端を知りは

ては武装した斧堂とその率いる一団に救われたのである。今日一日の出来事だけで小説が

一冊書けるであろう。これからの生涯のうちにもこの様な一日は二度と訪れるまい。もっ

とも、二度も三度もあっては堪らないであろうが。その様な取り留めない思考を弄びつつ、

ふと脱衣場の照明が点灯したのに気付く。

「着替えを置いておきますね」

曇りガラスの向こうから嶋本が声を掛けてくる。吉川は家に電話を掛け、学年末試験対策

のため一晩嶋本家で勉強会をするから、と外泊の許可を得ていたのであった。今日一日”

避難所”に身を隠し、身辺の安全確認を行った上で帰宅すべきであろうという斧堂の提案

に従ったのである。替えの下着類等は”お母さん”に取りに行って貰った。ちなみに吉川

家にも監視がつけられていた。

「ありがとう」

「湯加減はどうですか?」

「ちょうど良いわよ。一美も入ってくる?」

からかい半分で誘ってみる。

「私は後で結構ですから」

上機嫌な様子の返答がある。

「でも、一美も大変よね。本名が知られるだけで、あんな大騒動だもんね。でも名前がど

うだろうと、私には嶋本一美だけどね」

吉川はほんの軽口のつもりであったろうが、嶋本を動揺させるには十分であった。

「そ、そうですね…」

酷く揺れている嶋本の声を、吉川は訝った。

「一美?」

「あ…今日は色々とお疲れでしょう?ゆっくりお湯につかって癒して下さいね」

「?吉川さん、て?さっき直美って…」

不意に、吉川はその意味に思い当たってしまった。

「…」

「…そっか。そうなんだ、そう、だよね」

「吉川さん」

「それ、疑問だったのよね。何度言っても、一美は私のこと名前で呼んでくれなかった。

幾ら何でも、忘れちゃうとは思えないし」

「…」

「そうだよね。いま、判った。一美、自分がいつか河野加奈絵に戻ること、戻らなくちゃ

ならないこと、判ってたんだよね?当然、嶋本一美はそこで消えることになる訳で。私の

知らない、元の自分に戻って、また人生を再スタートさせる。その時が来たら、もう私と

は一緒に居られない。嶋本一美を知る人間とはね。その必ず来る別れの辛さを少しでも和

らげるために、一線を引いておきたかった、そういう事よね?」

「…」

ガラス扉の向こう、嶋本は身じろぎ一つできずにいた。吉川の言葉がかなり正鵠を射てい

たのである。返答も叶わない。嶋本の返答が無いのにも構わず、吉川は語を継いだ。

「二度と今日みたいな目には遭いたくないけど、ちょっとスリリングだったかな?こんな

こと、今だからこそ言えるんだろうけど。良い経験だったよ。一美も『直美』って、呼ん

でくれたしね…でも、さ、よく考えたらさ、それって」

「ご免なさい!」

脱衣所を走り去る足音が聞こえてくる。それが何より雄弁な回答であった。

「…」

抱えた両膝の上に顔を埋め、声もなく両肩を震わせる吉川であった。


 ダイニングには、嶋本と”お母さん”が居た。二人並んでテーブルに着き、ティーカッ

プを前に俯き加減の嶋本を”お母さん”が耳元で何事か励ましている。扉が開き姿を現し

た斧堂に、二人は視線を向けた。

「見回りご苦労様」

黒ずくめの私服姿の斧堂は、暫し二人を見比べた。彼は市内の不穏な空気を察知するべく、

MTBで学園周辺など関係各所を流してきたのであった。

「何かありましたか?」

手袋を外しつつ訊ねてくる斧堂に、”お母さん”は苦笑しつつ答えた。

「いえ。ただ、これから先の事を考えて落ち込んでしまっただけで、ね?」

嶋本の肩に回した右手で、軽く叩く。

「移転の件ですか?」

規則によって、所在地の知られた特殊事由者は当面の障害を除去後、速やかに新たな”隠

れ家”へと移り、新たな人間に”生まれ変わり”しなければならないのである。

「一ヶ月余りでも吉川さんの様な良い友人も出来て別れが辛いのです」

何事かを試す様な視線を斧堂へ向ける。

「ですが、規則ですので」

斧堂の返答はにべもない。”お母さん”は微苦笑を浮かべたのみであった。彼の返答が反

論の余地などないものであろう事は予測していた。しかし、僅か数日とはいえ少なくとも

表向きは幼馴染みとして接してきた相手が落ち込んでいるのを、たとえ芝居であろうと一

片の同情の念すらみせず『規則ですので』の一言で切り捨てるとは。その徹底したビジネ

スライクな態度には、今更ながら瞠目すべきものがある。それを頼もしく思う反面、人と

して寂しさを覚える”お母さん”であった。まだ十代であるのに行く末を案じてしまう。

「あの…吉川さんも、移す必要があるのでは、ありませんか?彼女も、私の件に関わって

しまった訳ですし」

躊躇いがちに嶋本が提案する。しかし、暫しの思案ののち斧堂は小さく首を振ったのであ

った。

「その件に関しては私の裁量権の範疇外ですのであくまで私見ですが。彼女に関する限り

保護対象となりうるかは疑問です。あなたとの関係が途絶する以上、彼女の持つ情報の重

要性は低いと言わざるを得ません。従って、彼女が特殊事由者の指定を受けられるとは思

えません。何より彼女が承諾するでしょうか?ご両親と離れ、正体を隠し暮らす生活を」

「…」

「それは副社長に相談してみましょう」

”お母さん”が取りなそうと割って入る。と、再び扉が開く音がした。

「私がどうかした?」

ダイニングに二人の女性が入ってくる。先頭に立つのは見吉、その背後に影の如く寄り添

う黒ずくめの男物のスーツ姿の少女であった。反射的に斧堂が敬礼する。つられる様に”

お母さん”も立ち上がり、敬礼する。

「副社長…どうしてこちらへ?」

敬礼を解き”お母さん”が訊ねてくるのを「視察よ」の一言で済まし、見吉は直ぐ斧堂に

視線を移した。

「久し振りね、斧堂君」

表情は笑顔であるが、視線は険しい。

「そうでしたか?」

心なしか斧堂は気まずげである。目線も外しがちに、返答もらしからぬ歯切れの悪さであ

った。

「そうよ、忘れたかしら?一ヶ月と少し前アメリカに渡る直前に会って以来だわ。帰って

きた時に本社へ寄ってくれれば『久し振り』じゃなかったのにね」

見吉は一気に捲し立てたのであった。

「…緊急性の高い仕事と伺っていたので」

「あら、そう?ヘリを使えば寄って行くぐらいの時間は捻出出来たと思うけれど。本社に

もこちらにもヘリポートはあるのよ?」

「承知しています。実際に作戦で使用しました。本社に出頭する必要無しと判断し、こち

らへ直行した事が職務怠慢とおっしゃるのであれば、ここで謝罪し処罰も甘受致します」

頭を下げる斧堂。不満げに「そういう話じゃないんじゃない?」などと呟いている見吉。

「あの、副社長さんですか?」

控え目に嶋本が寸劇に割って入る。

「ええ、そうよ。正確には警備部門担当副社長ね。他にも副社長は何人か居るから」

「そう、なんですか?」

「そうよ…と、嶋本さんよね?ご免なさい、自己紹介がまだだったわ。写真じゃなくて、

直接会うのは初めてよね?初めまして、私は見吉八重香よ。肩書きはさっき言った通り。

こちらは阿槍さん。今日はボディーガード役に一応ついてきて貰ったの。ご存じかどうか

知らないけれど、特殊事由者保護制度は私の直接管掌事項であなたの情報は直接掌握して

いるわ」

「そうですか」

見吉の関心が逸れ心なしか安心した様に脇に退く斧堂。阿槍が音もなくその傍らに来る。

「久し振りね、斧堂君。三ヶ月振り、かしらね」

「ええ、阿槍さんも御多忙な様ですね」

「お互い様よね。ロシアでマフィア相手の案件を片付けて暇が出来たと思ったら、この役

が回ってきてね。就業規約を盾に断っても良かったんだけど、あなたが担当しているって

聞いて、こうやって付いてきたわけ」

言って、何事かを期待する様な視線を斧堂に向ける。

「そうでしたか。もう少し早くそちらの案件が落着していたら召集を掛けたのですが。そ

うすれば、もっと人員を減らせたでしょうね」

どうやら期待は裏切られた様である。阿槍は呆れた様な表情になる。

「…そうね。私達二人ならヤクザの二十人や三十人、さっさと片付けられたわよね」

白けた様にそう締め括る。その時三たび扉が開かれ、私服姿の吉川が姿を現した。身につ

けたコットンのシャツとGパンは、嶋本からの借り物である。シャツの胸元にかなりの余

裕がある。

「良いお湯でした」

吉川はダイニングを見回し、二人の見慣れぬ女性を発見したのであった。

「あら、あなたが吉川さんね?」

見吉が戸口で立ち尽くしたままの吉川に歩み寄る。両手を取ると同情を面に現す。

「本当に、今回は災難だったわね。さぞかし怖かったでしょう?と、まずは自己紹介が先

ね。私は見吉。立場は、言うなれば斧堂君達の上司ね。そしてこちらが阿槍」

阿槍が小さく会釈する。

「はぁ。ご丁寧にどうも」

返答してから、我ながら間の抜けた返答だとの自覚に吉川は赤面したのであった。

「実はね、あなたに話しておかなければならない事があるの。それもあってここまで来た

のよ」

「?!一美の事ですか?」

「そうね…ここまで巻き込んだ以上は、あなたにもある程度の説明はしないと、あなたも

納得いかないでしょう?でもね、それだけではないのよ。あなたのご親族の事でちょっと

「!」

吉川の表情が強張った。それは恐らく、出来うれば触れられたくない話題に関するもので

あろうと直感したのである。


 地下室には一脚のパイプ椅子が置かれ、黒石が座らせられていた。ちょうど第一明星ビ

ルでの吉川と同じ状態で拘束されており、その周囲を”戦闘用員”達が固めている。当の

黒石はと言えば、連行された時そのままの服装である。片袖を失ったYシャツは酷くよれ

よれで、襟元などボタンが取れてあちこち綻び、銃創以外の赤黒い染みがこびり付いてい

たりする。が、何より黒石自身がよれよれであった。銃創の処置は施されていたものの、

頬や瞼は腫れ上がり、口の端が切れ吸血でもしたかの如く血が滴り、吐瀉の痕跡もあった。

拷問の結果である。その酷い有様は、何より彼が硬く口を閉ざしていた証拠であった。彼

は自分の矜持に懸けて、また組本部からの救援という淡い期待を糧に、地獄の責め苦を耐

え忍んでいたのであった。

 階段を下りてきた見吉達に対し、”戦闘用員”達が敬礼をする。

「ご苦労様」

軽い会釈で答礼代わりとする見吉。黒石二メートルほど距離を置き黒石を見下ろす。

「あらあら、随分と、酷い有様ねぇ」

揶揄する様な口調で話し掛けた。

「…何だ、あんたは?」

のろのろと顔を上げ疲れた様に、しかし明瞭な声で、黒石が訊ねる。

「私の事なんてどうでも良いわ。それより、あなたに訊ねたい事があるのよ」

「黒幕の事なら、訊くだけ無駄だぜ?」

「まあ、そちらもいずれはね。でも、いま私が訊ねたいのはね、あなた達への情報提供者

の事よ。上山明正、知ってるわよね?」

「…さぁてな」

しらを切りつつも、表情が僅かに揺らぐ。その名を出す以上は情報漏洩の件に関して眼前

の女性は全てお見通し、という事であろう。懸命に思考を巡らす黒石の返答なぞ眼中にな

い様子で、見吉は再び口を開いたのであった。

「彼が教えてくれたわ。どうやって立石組とコネクションを持ったか。あなたのところの

関連に、悪徳自動車修理工場があるわね?ニコイチとか、盗難車の処理とかを得意にして

いる。そこへ彼のバカ息子が盗難車扱いの、一台の事故車を持ち込んだのよね?それは表

沙汰に出来ない種類のもので、いわば強請のネタとして工場の社長はあなたのところへ話

を持っていった。その車の持ち主の親が、とある公官庁の職員と知ったあなたは、車を隠

すよう社長に指示して強請を始めた。警察関係だから、利用価値はあると思ったんでしょ

う?実際その通りで、あなた達は彼から嶋本さんの情報を得る事が出来た」

「…」

無反応なのにも構わず、見吉は話を進めた。

「問題は、その事故車が起こした事故だけれど、それもほぼ特定出来ているわ」

右手に進み出た阿槍より受け取った封筒から、数枚の写真の束を取り出す。それらは真紅

のスポーツカーのフロント部分を様々な角度から撮影したものであった。バンパーやヘッ

ドライトなど、はっきりと破損箇所が判定出来る。黒石の表情が強張ってゆく。

「実車を押さえてあるわ。それはそれは親切な社長さんだったそうよ」

「…てめぇ、社長も締め上げたな?」

「あら何のこと?ともかく、車の塗料やガラスの破片などから事故を特定したわ」

同じ封筒から新聞の切り抜きを取り出し、読み上げる。

「…被害者はよしかわよしや、十四歳。同氏は帰宅途中に轢き逃げされたものと思われ…

悲鳴の様な声が上がったのは、その時であった。

「お願いやめて!」

悲痛な声を上げたのは吉川であった。その背後に斧堂。視野が狭まっている事もあり、黒

石から二人は見えなかった。耳を塞ぎ、苦渋に満ちた表情を浮かべる吉川を、見吉は振り

返った。

「不思議よね。一年半以上も判らなかった弟さんの轢き逃げ犯がこんな形で判明するなん

て」

吉川のケアに回った見吉に代わり、斧堂が進み出る。

「黒石さん、あなたに訊ねたいのは、彼女の話が事実か否かという事です。いかがですか

?」

「…そこまで判ってて、何で俺に訊くんだ?」

「それは、肯定と受け取って良いのですね?」

「…ああ。こんな事になると判ってりゃ、さっさとくず鉄にしときゃ良かったぜ」

「案外素直じゃない?」

「この件に関しちゃ、嘘をつく意味も無さそうだしな」

項垂れる黒石。そんな黒石を見据えたままの斧堂の肩を叩き、見吉は吉川とダイニングへ

行っているよう指示したのであった。

「行きましょう」

両耳を塞いだまま硬直している吉川の右腕を取る。少し引くと、抵抗するかと見えた吉川

はしかし素直に両腕を耳から離し、引かれるまま彼の後をついてゆく。

 廊下を歩いていると、不意に吉川が口を開いた。

「…弟はね、バスケで大成出来る筈だったの。姉の贔屓目を差し引いてもね、私はそう、

思ってた…私の影響で始めた癖に、実力的には中一で、もう私を追い抜いてた。中二に成

りたてで、私の身長を追い抜いて、これじゃあ、どっちが年上かわかんないな、なんてナ

マ言ってた。シカゴに絶対招待するよ、なんて、夢みたいな事、言ってた癖に…」

立ち止まりしゃくり上げる。斧堂がハンカチを差し出すと左手で受け取り、目元を押さえ

た。

「…バスケを辞めたのも、美也が死んじゃったから。私よりずっと才能のあった弟がもう

出来ないのに、私が続けるのは、とても不公平な気がして。親もすっかり気落ちしちゃっ

て、正直思い出の詰まったあの街に、住み続けるのが辛くて。だから、父さんの転勤を機

に、一年と少し前に引っ越してきたのね。こっちには母さんの親戚もいるし。環境が変わ

って、少しは気も晴れるかな、と思ったけど…そうでもないみたい」

独白を続ける吉川の横顔を、暫し斧堂は無表情で見詰めていた。

「…写真を見ました。新聞の、白黒のものでしたが」

「…似てたでしょ?目鼻立ちとか、斧堂君そっくり」

「ええ」

「初めて見た時、一瞬美也が生き返ったんじゃないか、なんて馬鹿な事を考えたりね」

「辛かったですか、弟さんを思いだして?」

「そう、ね。だけど、辛い、というのとも違う、かな?美也の死を、もう受け入れられる

様になったと思ってたけど、でも、まだ駄目かな?」

「恐らくは大丈夫だと思います。間もなく見ずに済む様になる筈ですので」

「…」

そうなのだ、斧堂は一美の安全を確保する為に、ただその為にここへ来たのだ。それが済

めばここから去る身なのだ。吉川はそれを改めて思い知らされたのであった。

「大丈夫ですか?部屋で休みますか?」

顔色の優れない吉川を思い遣ってか斧堂が尋ねてくるのに、首を振ってみせる。

「ううん。見吉さんの話を聞かせて貰う。この機会を逃したら、二度と無いんでしょ?」

ありがとう、と小さく呟きハンカチを返す。

「さ、行きましょ」

斧堂から離れ吉川は再び歩き出した。後に従う斧堂。二人は無言のままダイニングに着く。


 湯気を立てるティーカップが、テーブルに着いた面々の前に配られる。

「ティーパックで勘弁してね」

”お母さん”と斧堂とで手分けして配り終えると各々着席する。

「別に構わないわよ。優雅にティーブレイク、という時間でもないし」

上座に陣取った見吉は一つ頷くとティーカップを取り上げ口元に傾ける。暫し香りを楽し

み少し口に流し込む。仄かに息を漏らすと静かにソーサーにカップを置いた。

「みんなもどう?冷めてしまうわよ?」

促されてめいめいカップに手を伸ばす。テーブルの顔ぶれで唯一の男性である斧堂は、カ

ップを手に取り一瞬カップを傾ける吉川へ視線を遣ると、何事も無かった様に口元へ運ん

だ。人心地つく頃合いを見計らい見吉は本題を切り出した。

「さて、何から話しましょうかね?そうね、まずは嶋本さんの立場を説明しましょうか?

吉川を注視する。斧堂もそれに倣う。一つ、吉川は頷いた。

「そう。吉川さん、特殊事由者保護制度、って御存知かしら?」

「…いいえ…」

暫し黙考ののち、小さく首を振る吉川。

「そうね。知らなくても仕方が無いかしらね。三年前の改正公益通報者保護法で盛り込ま

れた制度でね。尼子製薬事件がきっかけになって制定されたのだけれど」

「…聞いた事がある様な…確か、製薬会社が違法ドラッグを製造していて…」

「そう。それを当時同社の研究員が通報しようとしていて、警察に証拠を渡す直前交通事

故で亡くなるのだけれど、それがある暴力団組長の企業舎弟だった会社役員が暴力団に頼

んで仕組んだ轢き逃げ事件だと犯人の逮捕で判明したの。本社に捜査の手が入ってからは

芋蔓式に会社の行っていた違法行為が明るみに出て、結局会社は社会的信用がた落ち、売

上半減株価も連日ストップ安で結局、二束三文で買収されてしまったわ」

一旦語を切り、もう一口。

「当時警察当局の職務怠慢が声高に叫ばれたわ。研究員の身辺にもっと注意を払っておく

べきだったのではないか、とね。そこで公益通報者保護法を強化する事になってね。公益

通報者に対して、具体的な事実の有無に拘わらず、身辺に危害の及ぶ可能性があると当局

が判断すれば、特殊事由者指定を行って従来に無い独自の身柄保護活動が出来る様になっ

たの。それが特殊事由者保護制度という訳ね。そうね、ハリウッド映画で証人保護プログ

ラムというのを聞いた事がないかしら?要はあんなものよ」

「…一美には、その制度が適用されていると?」

「そういうこと。彼女の本名は聞いたのよね?彼女が特殊事由者の指定を受ける事になっ

た理由は話してあげられないけれど、ともかくそういう事になって、法務省と警察庁が中

心になって嶋本一美という人物を作り上げたというわけ。そして、彼女を始めとする特殊

事由者を保護する為の実務を、私達扶桑国際警備が独占的に請け負っている、というとこ

ろね」

「扶桑国際警備って、民間企業ですよね?うちの学校にも入ってる」

「そうよ。特殊事由者の指定って、いつ解除になるか判らないのよね。その期間中誰かを

貼り付かせておくには、警察関係は人手不足なの。もっとも、犯罪検挙率の低下を警官不

足のせいにしすぎていたきらいはあったけれど。まあ、それはともかく。そんな事情もあ

って、幾つかの条件を付けて、独占的に一民間企業に委託する事にしたのよ。一社に絞っ

たのは機密保持の観点からね。その選定のさい考慮された条件というのは、まぁ、色々と

細かいのだけれど大別して三つ。一つ目は、社内外における情報管理態勢が厳格である事。

二つ目は、特殊事由者に対する様々な攻撃を排除可能な実力を持つ事。三つ目は、もし特

殊事由者に関する情報が漏洩した場合、それに対処出来る実力を持つ事。つまり、今回の

立石組に対する攻撃は、二つ目、三つ目の条件を満たすのに必須の行動だった、という訳

ね」

「一美の情報が漏れたから、その、あの人達を?」

吉川の面に陰が差す。確かに黒石達は嶋本にとって驚威であったろうし、自らも彼等に辛

酸を嘗めさせられたのである。それが除かれたのは幸いであったろう。しかし、その方法

が彼らの命を奪う事というのはとうてい素直に受け入れ難いものであった。その様な彼女

の胸中を忖度してか、見吉は諭す様な口調で語を継いだのであった。

「ねぇ、吉川さんは情報セキュリティの構成要素、って知っているかしら?」

「?いえ…」

「そう。それはね、機密性、完全性、可用性、というものなの。英語のイニシャルでC.

I.A.などとも言うわね。機密性というのは、要するに権限のある者だけが情報にアク

セス出来る事。完全性は不正な情報改変等を許さない事。可用性は、権限のある者が安全

に任意の時点で情報にアクセス出来る事」

「はぁ…」

「現代の様なグローバルネットワーク時代にはね、機密性が破綻して一旦流出した情報を

完全に消去、回収するのは極めて困難なのよ。嶋本さんに関する情報だって、既に我々の

関知不可能なところで誰かが保持しているのかも知れないわ。でもね、だからといって諦

めて、せっかく把握している情報保持者を放置しておく訳にはいかないの。対処が遅れれ

ば、それだけ情報が拡散してゆく可能性は高まるのですからね」

「でも、その為に」

「ねぇ、この家、所有者は誰だと思う?会社よ。名義は他人になっているけれど。この街

全体の監視網を構築する為に、赤字を承知の上で格安の利用料金で監視カメラ付き防犯シ

ステムを、それこそ民家といわずアパートといわず事務所といわず、街中万遍なくあちこ

ちにばらまいたり。嶋本家も、色々と便宜を図って貰う為の芙蓉薫学園への寄付金も、全

て会社持ちなの。もちろん今回の作戦に要した諸経費もね。私達はこれだけの投資をして、

この制度の維持に腐心している訳ね。この制度の肝はね、何より情報管理なのよ。簡単に

情報漏洩が起きるようでは、この制度は崩壊するわ。もちろん制度に対する信頼は失われ、

該当するのがごく一部とはいえ、公益通報者は間違い無く減少する。結果的に社会正義は

損なわれる事になるわね。まぁ、建前は横に置くとしても、正直なところ私達も支出に耐

えられなくなるわ。例えば斧堂君をこういう作戦に駆り出すと、危険手当だ何だで基準給

に相当する金額を支払わなくちゃならないの。それを何十人分もよ?更に細かい事を言え

ば、弾薬費や燃料代、他に招集に伴う高速料金とか諸々も。予算は限られているのにね」

「…」

吉川は完全に声を失い俯いた。これが現実というもの。誰も只で一美を強大な暴力から守

ってはくれないのである。それは理解出来る。一美に関する情報も放置出来ない、という

点で黒石達を殲滅した理由も理解出来る。しかし

「私にしてみれば、今の法律も時代遅れだわね」

吉川を置きざりぎみに、見吉の言葉は止まるところを知らない。

「覚えているかしら?数年前、あちこちの通信系、信販系、金融系、そういった会社から

続々と顧客の個人情報漏洩に関する発表があったのを。数十万という単位でよ?それ以降

も情報漏洩は止まらなかったけれど。ねぇ、堪ったものじゃないわよね、そういう会社を

信じて自分の個人情報を預けた人達にとっては」

「それは、そうでしょうね」

吉川も、同意しないわけにはゆかない。

「判ってないのよね。盗まれ、ばらまかれた情報の量や質に比例して、何らかの被害を受

けたり、あるいは受ける可能性のある人間の数は増えるっていうのに、法的には殺人罪よ

り軽い量刑なのよ。これっておかしいと思わない?」

「いくら何でも殺人よりは…」

「あら、あなたもそんな事を言うの?」

見吉はあからさまな失望の色を面に浮かべた。

「あなた、もしかして私の言った被害って、DMやスパムメールの量が増えるとか、そん

な程度の事だと思ってない?考えてみましょうよ、もし漏れた情報を使って誰かが詐欺を

仕掛け、それに引っ掛かった人が全財産を失ったとしたら?あるいは与り知らないところ

で犯罪に巻き込まれていて、ある日身に覚えのない罪で逮捕されたら?あるいはストーカ

ーを招く様な事になったら?そういう例は現実にあるし、これからも起こりうるわ、十分

にね。だとしたら、彼等の受けた被害はいったい誰が保証してくれるの?物的なものはと

もかく心的なものは?失った信用や信頼は?あるいは、被害者の中には、自ら命を絶つと

ころまで追い詰められてしまう人もいるでしょうね。その失われた命は誰が贖うというの

?」

「…」

やはり一言もない。吉川は目を伏せる。さすがに言い過ぎたか、と見吉は肩を竦めて見せ

た。

「まあ、確かに情報を漏らした人間にそこまで罪を問うのは酷でしょうね。だけれど、考

えが甘いと思うわ。殺人罪と同等、とまではいかなくても、自分が社会に与える悪影響に

ついて、今一度じっくり考え直させるくらいの罰が必要だと私は思うのだけれど、あなた

はどう?」

「それは…そうかも…」

見吉は再び優しい表情を浮かべる。

「同意が得られて嬉しいわ。元々我が社はね、創業当初から情報をより安全に取り扱う為

のコンピュータシステムのあり方とかを考える事を仕事にしてきたの。警備会社を買収し

たのも、ソーシャル・エンジニアリング対策とか、そういう目的からの事なのよ。そして

今では、ある意味で最重要の国家機密に携わる会社にまで成長したわ」

「コンピュータの世界から…」

「そう。今でも基本は同じよ。まぁ、警備部門が随分と膨張したのは確かね。そして私達

はこのプロジェクトの契約に与れるだけの条件を満たした、というわけね」

伏し目がちの吉川は納得のいかなげな表情である。見吉の言葉には肯ける。少なくとも否

定出来ない点が多い。斧堂らの手によって嶋本(本名は河野というそうであるが)も自分

も危機を救われた。しかし、それらを勘案してもあれだけの殺人を正当化しうるであろう

か?自分自身、納得しうる様な。

「納得出来ない?そうね、あなたはただの女子高生なのだものね。まあ良いわ、元々納得

して貰うつもりで話した訳ではないし」

「…もし、この事が世間に知られたら、どうなるんですか?」

「そうね、きっと大事になるでしょうね。我が社もダメージを被るかも」

平然と言ってのける見吉。

「でも、国の仕事なのでしょう?」

小さく頷き、皮肉げな笑みを浮かべてみせる見吉。

「そうね。でもね、この国は一応民主主義国家なの。世論の動向一つで政権も企業も吹き

飛ぶわ。もちろん特殊事由者保護制度もね。判る?そうなれば、嶋本さんの様な立場の人

間は、再び何の後ろ盾も無く元の生活に戻されるのよ?それがどういう結果をもたらすか

しら?」

試す様に、見吉は吉川の瞳を覗き込んだ。それは言外の脅迫であった。『いいこと、親友

を失いたくなければ黙っていなさい』という。もちろん吉川は口外するつもりなど微塵も

ない。その意志を双眸に宿らせ見吉を見返す。と、急に頭の芯が痺れ始める。眠気の急襲

であった。

「あなたは恐らく、生涯に二度と無い様な経験をした訳だけれど、どう、覚えていたい?

「…さぁ…」

欠伸を噛み殺し、軽く両の頬を叩く吉川。それでも眠気は去らない。普段の就寝時間には

少々早い筈の時刻である。やはり、目まぐるしい一日であっただけに疲れたのであろうか。

「私としては、さっさと全て忘れて普段の生活に戻る事をお勧めするわ。それがきっと、

一女子高生であるあなたにとって最良の選択だと思うから」

「それは…どうでしょうか…」

知らず、上下の瞼が仲良しになろうとする。

「眠そうね。さ、お休みなさい。一晩熟睡して明日の朝には爽やかに目覚めればいいわ」

「吉川さん?」

がくり、頭が落ちる。その上体を”お母さん”が支える。

「お休みなさい、直美」

一度、吉川の髪を撫でる嶋本。それは吉川には届いていないであろう別離の挨拶であった。

「寝室へ」

斧堂の指示に一つ頷き、”お母さん”は吉川をお姫様の如く担ぎ上げた。吉川の部屋は二

階に割り当てられていた。

「本当に、これで良かったのですね?」

尋ねられて、微かに嶋本が頷く。

「とても、別れの挨拶は交わせそうにありませんから」

寂しげに笑う嶋本。

「そうですか」

「相変わらず、ね」

斧堂の無感情な反応に苦笑を浮かべつつ小さく呟き、見吉は嘆息したのであった。


 それは、将に皆殺しの夜であった。

異常な夜であった。肌が粟立つ程の恐怖に窒息するかと思われるほど満たされた夜。立石

組組員達にとって悪夢の如くその殺戮は組織的かつ大規模なものであり、一片の憐憫、一

瞬の躊躇とてなく実行されたのであった。

 深夜のとば口と呼べる時刻、正体不明の一団が、立石組の事務所、組員達の住居、また

外出している者に対しては街中で、組員達に一斉に襲い掛かったのである。

 ある事務所では、宅配便に対応した人物が射殺され(サウンドサプレッサ付きピストル

が使用されたものと思われ銃声に気付いた者は皆無であった)、開かれた扉から乱入して

きた者達に、居合わせた者全員が射殺されたのであった。これは警察による聞き込み情報

を元に再現された襲撃の状況であるが、捜査は途中で打ち切られたのであった。襲撃者は

あるいは同業者を、またあるいは公共放送の集金人を装っていたという。

 外出していた組員達は、あるいは所用を済ませ車に乗り込むところを、待ち伏せしてい

たであろう襲撃者達に射殺された。またあるいは街中を歩いていた者が、通りかかった車

中から射撃を受け歩道を血に染めたのであった。その一連の見事な手際は明らかに同業者

のそれと一線を画すものであったが、結果的に組同士の抗争という形でマスコミに発表さ

れる事となる。一夜の悪夢、その夢魔の毒手は、当然の事ながら組長にも伸びたのであっ

た。


 地下室の階段を下りてくる足音がする。地下室には二人しか居ない。椅子に繋がれたま

まの黒石と、その傍らに立つ阿槍である。彼女はつい先程黒石の監視役を斧堂と交代した

のであった。召集された”戦闘用員”達は、順次休憩を取っている。

「度々ご免なさいね」

姿を現した見吉が阿槍と頷き交わすや阿槍は項垂れる黒石の髪を掴み、顔を上げさせる。

「…」

手当てされた様子のない黒石の顔は、表情も読み取れない。

「ご機嫌いかが?まぁ、麗しくは無いわよね?」

揶揄する様に小さく笑い、スマートフォンを取り出すと誰かに掛け、短く会話をした後で

「実はね、あなたと話したがっている人がいるのよ」

黒石の左の耳に押し当てる。阿槍を見遣ると黒石を離した。

『…ああ、黒石よ、儂じゃ…』

「…オヤジ…」

相手は立石麟太郎であった。黒石の反応は淡泊である。予期していたのか、ただ単に喋る

のが難儀なだけなのか。

『背中の傷が疼いてかなわん。ああ…なんと言う事か、組は…』

言葉が続かない。最後の一言を口にしない、それは認め難い現実への最後の、そしてささ

やかな抵抗であったか。

「全滅、ですか…」

『…』

現実を認めるのは黒石の方が早かった。遠征隊潰滅より何時間も経過していた。今や冷め

切った頭で、この程度で済ます様なヤワな相手ではなかろうと結論を出していたのである。

「まだ、何も話しては」

『おらん。お前もだろうな?』

「へい。こいつらのヤワな拷問なんぞ、蚊に刺された様なモンです」

『そうか…』

「こいつらもいずれ、馬鹿な真似をしたと思い知る事になります。それまで」

不意に見吉が電話を取り上げる。そのまま電源を切り、仕舞う。

「私達が思い知る?何を?」

「聞いてなかったのか?てめぇらの馬鹿さ加減をさ。うちが潰れても、熊沢の叔父貴や井

波の兄貴が動きゃあ、てめぇらなんぞ、一捻りだぜ?」

精一杯ドスの利いた声を絞り出し、満足に開かない双眸で見吉を見据える。

「馬鹿さ加減ねぇ…」

見吉の言葉には、嘲笑する響きが籠もっている。

「ねぇ、あなた。私がどこの誰だか判ってる?こちらの少女や、さっきまであなたの相手

をしていた少年や、その他誰でもいいわ。ここで出会った人達の、ああ、吉川さんは除く

わね。誰か何者だか判る人が居たかしら?」

「…そんなモンは、調べりゃすぐ判るさ。ああ、あのガキの名前も、判ってたな」

「あら、でもそれが偽名だとしたら?そうでない確証があるの?」

「…」

「あら、黙り?つまり、こういう事かしら?あなた方は、直ぐに調べのつく事も調べずに、

ただ闇雲に喧嘩の準備をして、その結果がこのていたらくだと?」

「…」

「…ま、良いでしょう。だいたいね、別に構わないのよ。私達の正体が判ってもね。攻撃

してくるなら来るが良いわ。見事返り討ちにして差し上げるから」

「大した、自信じゃねぇか?」

「まぁね…ねぇ、あなたグリーンベレーって知っている?SAS、SEALsは?SWA

T、GSGー9、GIGN、デルタフォース、リーコン、SAT、SST、レンジャー、

どれか、聞いた事のある名前は?」

幾つか映画などで耳にした覚えのある名前があった。それらの共通点にも心当たりがある。

「…特殊部隊…」

「そう。これらだけではないけれど、うちにはそういうところ出身の人間がごろごろして

いるの。装備にしても、あなた方よりはよほどハイレベルよ、つくづく思い知った筈よね

?はっきり言って暴力団の一つや二つ、敵に回すくらいどうという事はないのよ。まぁ、

さすがに今回の様に一日で、という訳にはいかないでしょうけれど。もっとも、今回の一

件を踏まえて、そう簡単に手を出して来るとも思えないわね。まぁ、潰滅覚悟ならば話は

別かしら?」

「ちっ」

彼女の主張に反駁の言葉がない。自分の組を構える者に対し立石組殲滅で見せつけた手際

の良さは、報復を躊躇させるに十分過ぎる抑止力がある。

「いずれ組長さんとも会わせてあげるわ。その時までよく考えておいて。口を開く事と閉

じ続ける事、どちらが賢明かをね」

再び阿槍を見遣る。微かに頷き返し、阿槍は一本の注射器を取り出したのであった。ピス

トンを押して空気を抜き、黒石の髪を左手で掴むとその首に突き刺す。一瞬の痛みに歪ん

だ黒石の表情が弛緩する。針を抜き、ガーゼで針の痕を押さえる間に黒石の頭が落ちる。

己の運命も知らぬまま、彼は心地よい暗闇の中に沈んだのであった。


 足音を殺し、ゆっくりと二階への階段を上がってゆく。それでも一歩毎に、小さく階段

が軋轢音を立てるのは避けられない。二階の部屋で”戦闘用員”達は、交代で仮眠を取っ

ていた。作戦終了後も警戒行動等に従事し、心身共に疲労が溜まっている筈である。明日

もまた早い。休める者は少しでも休ませておくのが、最上のミス予防策である。

 彼女の足がとある部屋の前で止まる。引き戸を静かに開け中の様子を窺う。常夜灯の光

に、一つの布団に横たわる人影が朧に浮かび上がっている。人影は、向こうを向いていた。

「…」

しめしめ、とばかりの笑みを浮かべ、一歩、部屋へと足を踏み入れた。

「何かご用ですか、副社長?」

途端、眠っている筈の人影が問い掛けてきたのである。斧堂の声であった。掛け布団を僅

かに退け上体を起こす。

「あら…起こしちゃった?」

「はい。騒々しかったもので」

「…これでも、音をたてないように細心の注意を払ったつもりだけれど」

つかつかと布団の傍らへ歩み寄り、腰を下ろす。

「ところで、ご用件は?何か異変でも?」

「それならここに来るのは私じゃないだろうし、遠慮もしないわよ」

「それは確かに」

「実は大した用件じゃあないのよ。ただ、あなたの寝顔が見たかっただけ」

「…は?」

「最近は、なかなか顔を合わせる機会も無いじゃあない?昔みたいにうちに泊まる事も、

もう無いし。だから、久々にあなたの寝顔を見られる絶好のチャンス到来かと思ったのだ

けれど…相変わらずガードが堅いわね」

「…そうでなければ、あそこでは生き残れなかったでしょう」

呟く様な斧堂のその一言に見吉はしまった、という様な表情を覗かせた。そこに触れる事

はタブーとしていた筈であったのに。

「副社長?」

でもしかし、良い機会なのかも知れない。”お母さん”等から聞いたところでは相も変わ

らぬスタンスの取り方の様であるし、言うべき事は言わなければ。たとえ煙たがられよう

とも。

「どうかしましたか?他に御用が無ければもう少し仮眠を取らせて頂きたいのですが」

見吉は地雷原を進む意を決した。

「…ねぇ、あれから三年経つけれど、今でもあの島の事を思い出す?…いえ、当然よね。

あなた達は、これまでの人生の大半をあそこで暮らしたのだものね」

「…」

斧堂の表情が怪訝げなものとなる。三年前以前の事はタブーにすると宣言した張本人自ら

それを破ったのであるから。しかし斧堂の様子に構わず、更に見吉は話題を進めたのであ

った。

「もう三年よ?あなた達があそこを離れて研修期間を経て、社会生活を始めてからでもも

う二年よ。この二年、あなた達の働きには随分助けられたけれど、でもね、何も仕事の面

だけであなた達に気を懸けてきた訳じゃないつもりよ。どう?そんな風に感じた事は一度

もない?」

「…副社長には感謝しています。命のあるうちあそこから我々を連れだし自ら後見人を買

って出て、こうして一般社会というものの中で暮らせるよう助力して下さったのですから

「違うわ!」

短く押し殺してはいたが、厳しい口調であった。

「感謝なんてしてくれなくていいの。感謝しなくちゃいけないのはお互い様なのだから。

他にはないの?私を含めて、今あなたを包んでいるこの世界のあらゆるものに、何の魅力

も感じない?その中から、この手で掴み取りたいと思ったものは何も無いの?」

言いつつ、斧堂の両手を取る。

「ただここに居るだけ、ここに居て、とお願いしたから?」

ただあなたは約束を果たしているだけ?存在意義の証明のために?知らず、哀切の情がこ

み上げてくる。見吉は彼の両手を胸にかき抱いた。まろやかな肉の感触、暖かな温もり、

彼女の心臓の鼓動が斧堂に伝わる。が、しかし。

「申し訳ありませんが、もう少し仮眠を取らせては頂けませんか?」

恐ろしいほど冷淡な口調であった。いい加減下らない戯れ言は止めろとでも言いたげな。

「…」

見吉は絶句するよりない。初めて出会った時の様な、むき身のナイフの如き凶悪さはなり

を潜めている。しかし、それは一年余りの研修により失われかけた統制を取り戻し、桎梏

を掛ける事に成功したに過ぎないのである。その事を熟知している見吉にもはや言うべき

言葉は見当たらないのであった。

「宜しいですか?」

斧堂の口調は変わらない。

「…ご免なさい。お休みなさいね」

両手を離す。

「副社長も、少しは休まれた方が宜しいと思いますが」

再び横になり、背中越しに声を掛ける。

「…そうするわ」

寂しげに立ち上がる。部屋を出る刹那、今一度斧堂を振り返り小さく溜息をつく。彼を変

えるにはまだまだ時間を要する事を、改めて思い知らされたのであった。遠ざかる押し殺

した彼女の足音を聞きながら、斧堂はまんじりともせずにいたのであった。


 這い上がる。暗闇の泥沼、その底から。まとわりつく闇を掻き分け、彼女の意識は光を

求め足掻く。ゆっくり、ゆっくり、光明が近付いてくる。手が届く。もうすぐ。手を伸ば

す。

「…」

双眸が開かれた時、薄暗いなか真っ先に視界に飛び込んできたのは見慣れぬ天井であった。

横になったまま左右に首を巡らす。必要最低限の家具しか置かれていない、見慣れぬ部屋

である。思い出そうとして、不意に頭痛に襲われ頭を抱える。上体を起こそうとすれば身

体中で疼痛が沸き起こる。最低の覚醒であった。自らの上半身を見下ろし、いつものパジ

ャマ姿である事に気付き、不意に昨日は”避難所”へ泊まったのだという事を思い出す。

しかし、彼女には昨晩自分で着替えベッドに入ったという記憶が無かった。ベッドの端に

腰掛け、暫く意識が明瞭となるのを待つ。昨日は余りに衝撃的な事が多すぎた。こんな一

日は美也が事故に遭ったあの日以来であろう。しかも、あの悲劇と昨日の出来事には繋が

りがあった。弟を死に追いやった者が判明したのである。何という運命の悪戯であろうか

!知らず目頭が熱くなるのを堪え立ち上がる。着替えようとして、真新しい制服がクロー

ゼットに吊されているのを見つける。これを身につけろ、という事であろう。彼女の制服

はあの騒動のさなかあちこち解れ、汚れて、とてもそのまま帰宅出来る状態でなくなって

いたのである。もしあのまま帰宅していたならば、誰かに乱暴されたかと両親が騒ぎ立て

た事であろう(実際、その通りではあったが)。ポケットの中身などは全て移されていた。

いつ用意したのかと訝りながらも制服に袖を通す。

 部屋という部屋を人の姿を探しつつダイニングに下りると、彼女にとっては意外な事に、

増井が朝食をテーブルに並べているところであった。

「あら、お早う。もう少ししたら起こしに行くつもりだったのよ」

いつもの白衣に代わり、ブルーのワンピースの上にエプロンを身に着けている。増井のそ

の様な姿をもちろん吉川は初めて目にしたのであった。吉川に微笑みかける。

「あまり時間がなくて…和食の方が良かったかしら?」

テーブルの上にはトーストに目玉焼き、牛乳が二人分、用意されていたのであった。

「いえ…あの、なぜ、先生が?」

「それはもちろん、斧堂さんと同じ、雇われの身だからよ」

つまりは扶桑国際警備の社員という事であろう。が、斧堂君、ではなく斧堂さん、と呼ぶ

増井に、違和感を拭えない吉川であった。

「斧堂さん、ですか?」

「ここではね。彼は私の同僚だし、会社側の評価は私より上だから」

「…社会人、なんですね」

「もちろんそうよ。そう言うあなただって、あと数年もすれば社会人になるのよ?」

今一つ実感が湧かないが、確かにその通りである。

「…でも、全然気付きませんでした。先生が、まさか」

「良かった。うまく正体は隠せていた様ね」

椅子を引き座るよう促す。二人は正対して着席し食事の挨拶を交わす。そして、暫くは静

かな朝食が続いた。と、不意に吉川の手が止まる。

「皆さん、もういらっしゃらないのですか?」

「そうね」

「その、嶋本さんも?」

「…そうね。みんな明け方までには撤収したわ。代わりに私がやって来たというわけ。元

々ここの管理は私の役割だったし」

「そうですか」

手を止めたままやっぱり、と心の内で呟く。斧堂も嶋本も、もはやここには居ないのであ

る。

「嶋本さんは、どうなるんですか?」

「既に他の場所へ移送中よ」

「え?」

「規則でね。本当は部外者であるあなたに、こんな事を言ってはいけないのだけれど」

「そうですか…そうですよね」

「その、規則が無くても、嶋本さんはお別れの挨拶は出来そうになかったそうよ」

気遣わしげな口調の増井に、吉川は面を伏せたまま首を振って見せたのであった。

「…きっと、私もお別れの挨拶なんて、出来なかったでしょうから…」

「そう」

再びの沈黙。朝食が再開されると二人はただ両手を動かし続け、朝食を終えたのであった。

 朝食より約四十分後、一台の軽自動車が吉川家の玄関前に横付けされた。後部座席の扉

が開き、吉川が降り立つ。見慣れた自宅を一度仰ぎ見、直ぐに運転席へと踵を返す。

「どうも、ありがとうございました」

ウィンドウを下げた運転席の増井に頭を下げる。

「どう致しまして。さっきの話、忘れないでね」

返礼に微笑みかける増井。不意に何事か思い出し助手席のハンドバッグを取ると中を探る。

「そうそう、私が忘れるところだったわ。嶋本さんから預かった物があったのよ。渡して

くれたのは斧堂さんだけれど」

一通の封筒を取り出す。結構な厚みがある。表には『吉川 直美さんへ』と大きく、綺麗

な字で認められていた。嶋本の筆跡に間違いない。見詰める吉川の瞳が潤み出す。そんな

調子の彼女へ増井が気遣わしげに声を掛ける。

「ところで、今日は登校するの?」

「…そのつもりですけど?」

目頭を押さえつつ答える吉川。

「昨日の今日だし無理をしない方がいいと思うけれど。出席日数の問題とかあるなら、登

校して直ぐ保健室にいらっしゃい。体調不良という事で出席扱いになるよう取り計らうか

ら」

「ありがとうございます…でも大丈夫です。私がしっかりしなくちゃ、一美も安心出来な

いでしょうし」

涙の跡もそのままに、笑顔を作ってみせる。

「そう…じゃあ、頑張ってね。でも、無理そうなら遠慮しないでいらっしゃい」

ウィンドウを上げ増井は車を発進させた。走り去る車を見送る吉川の頬を、また新たに一

筋の生暖かい雫が伝う。それを拭い瞑目、大きく息を吐き出すと笑顔を取り戻す。未だ登

校時間までは余裕がある。母親はもう起床して朝食の支度をしているであろう。自分は済

ませた旨を伝えなければ。そうすると時間が随分と余ってしまう。そうだ、その間に洗濯

をしておこう。終わる頃には登校の時間になっている筈である。登校したら一美が体調を

崩しているらしい演技をしなければ。増井の話では、数日間体調不良を理由に休学したの

ち完治した筈の病気が再発したため充分な医療を受けるため転校したという事にするらし

い。それまではご両親もあの家に居るという。それは事後の経過観測も兼ねての事だとい

う。斧堂君は、そうそう、確か伯父の薦めで全寮制の私学に転校する事が急遽決まった事

にするのだとか。やはり通院の利便性を考慮して、という理由で。様々に思考を巡らせつ

つ、彼女はインターフォンのボタンを押した。僅かな間ののち、母親の声が聞こえてきた。

『はい、どちら様でしょうか?』

「私よ、お母さん」

声におかしいところが無いか気になる。

『あら、早かったのね』

どうやら大丈夫な様である。安堵に胸を撫で下ろし。

「うん。あ、朝食は要らない。ご馳走になっちゃった」

『そう。ちゃんとお礼は言った?』

「もちろんよ」

『そう。ちょっと待っててね』

家の中から小走りに近付いてくる足音が聞こえる。扉が開かれ見慣れた顔が現れるまでの

間に、ハンカチで頬を拭い、手櫛で髪を整えておく。やがて扉は開かれた。

「お帰りなさい」

「ただいま」

会心の笑顔で、彼女は言えたのであった。


エピローグ


 親愛なる一美へ

 今日、学年末試験が終わりました。二学期まではあれほど憂鬱だった試験だけど、今回

は答案の返ってくるのが楽しみ。それはもちろん、一美の残してくれた予想問題集が大当

たりだったからなのよね。これのお陰で、二年生の有終の美(おお、我ながら賢そう!)

を飾れそうだし、本当に最後までお世話になっちゃったね。これで心おきなく春休みを満

喫できそう、って訳にはいかないのよね。一応進学志望だし、そろそろ受験勉強に力を入

れ始めないと。そうそう、送る側最後の卒業式だけど、一年の時と同じくやっぱり退屈だ

ったな。部活動も、何の委員もしてなかったから、特別親しい先輩もいなかったし。助っ

人に駆り出された時だって、余り話とかしなかったからね。まぁ、送られる側になる来年

はどうか判らないけど。受験に失敗して落ち込んでるかもね。ま、そんなに高望みするつ

もりはないし、親は一浪までは許してくれそうな雲行きだから、気長に構えようかな(今

から浪人の事なんて考えるなって?)。

 話は変わるけれど、美也を轢き逃げした犯人が捕まったニュース、一美も見たかな?犯

人が警察署に出頭したそうだけど、斧堂君の上司とか言ったあの女性、見吉さんだっけ?

あの人が脅したりしたのかな?自首しないなら車と一緒に闇に葬るぞ、とか言って。ほん

とに有りそう。と、それはともかく。裁判にどれだけ掛かるか判らないけど、私なりにそ

の経緯を見守ってゆくつもり。被害者の肉親として、恨む気持ちとかも、きっとあると思

う。でも、はっきり言って、今のところ実感がないな。何でかしらね?あの一件があって、

心臓に毛でも生えたかな?美也の死を悼む気持ちは、相変わらず消えずにあるのにね。あ

と、思い当たるとしたら、斧堂君の存在が何か影響しているのかな?うーん、ええと、上

手く言えないけど、もし美也が今でも生きていたら、っていうifを彼に重ねて、勝手に

精神安定剤代わりにしているのかも、なんて考えたりしてね。よく、判らないな…見吉さ

んは全て忘れた方がいい、って言ってたけど、もう一度会ってみたいな、斧堂君に。そう

すれば、何か判る気がするんだけど。もちろん一美にもね。一美は今頃新しい生活を始め

てるのかな?もう嶋本一美じゃ無いのかな?たぶん、そうだろうね。新しい名前は何て言

うの?今はどこに住んでいるの?…なんてね。問い掛けてみたって、誰も答えてなんかく

れないよね。だから、この手紙も出す事は出来ないだろうし。たとえ一美が晴れて本名に

戻れる時が来たとしても、それを知る事は恐らく無いんでしょ?…寂しいな…寂しい…そ

れって、余りに寂しすぎるよね?


 動きの止まったボールペンを置き長い溜息を漏らす。夕闇迫る教室に一人、灯りも点け

ず吉川は手紙を認めていたのであった。文中にもある通り、出す当てのない手紙である。

それを重々承知の上で、それでもなお便箋の上にボールペンを走らさずにはいられなかっ

たのである。一ヶ月半という時間は、吉川の胸中に嶋本という存在を大きく、重いものと

して据え付けていたのであった。そして、それより更に短時日で、斧堂は彼女の心に引っ

掛かる存在となっていたのであった。彼が亡き弟に似ていたから。否、ただそれだけの理

由で、これ程までに一人の異性を意識するものであろうか?むしろ、悲嘆の記憶に連なる

者を忘却の彼方へ葬り去りたいと願うものではないか?あるいは、あのジェットコースタ

ーの如き目まぐるしい一日の影響も考えられよう。しかし、やはりそれだけであろうか?

 背凭れに上体を預け天井を見上げる。忽ち目の端に光るものが溜まってゆく。別れのあ

の日以来、一人きりの時などよくこの有様となる。我ながら己の不甲斐なさに嫌悪感すら

覚えるが、止める術がない。せめて手で顔を覆い雫が零れ落ちる事に抗う。いずれは涙も

涸れ、嶋本、斧堂という名も唯の固有名詞、唯の言葉に変わってゆくのであろう。その時

の到来が待ち遠しい様な、恐ろしい様な。その時には心の平安を得るかも知れないが、そ

れ以上の大きなものを失う気がしている。それは、自分にとって幸福な事であろうか?

「…」

首を巡らし、ある席へと視線を向ける。かつて嶋本が使っていた席である。今は主もなく、

どことなく寂しげに見えた。あと一と月と経たず新たなる主が今の一年生の中より現れよ

うが、その人物は嶋本の事を知るまい。ふと、吉川の胸中に奇妙な考えが浮かぶ。この手

紙をその席に残したならどういう事になるであろうか、と。新たなる席の主は、発見した

手紙をどうするであろうか?読む?捨てる?先生に届ける?読んだならば、どの様な感慨

を抱くであろうか?

「…」

その考えを振り切る様に小さく首を振る。こんな考えは馬鹿げている。余りに無意味な行

為であり、落手した者にとってもただ迷惑なだけであろう。だいたいが、その様な恥ずか

しい真似が出来る筈はないのである。便箋を三つ折りにし、宛名の記されていない封筒に

仕舞うと鞄に放り込む。立ち上がり、教室を後にした。

 昇降口へと向かう廊下で増井と会った。吉川の背後から声を掛けてきたのであった。

「まだ居たの?もうみんな下校したわよ?」

「知っています。ただ、少し用事があって」

「そう?まあいいわ、とにかく早く帰宅しなさいね」

軽やかに踵を返し、去ろうとした増井へ

「あの…ちょっと良いでしょうか?」

「?」

再び踵を返す増井へ、吉川は近付いてゆく。耳元に口を寄せる。辺りに人影も無いのに、

少々神経過敏な所作ではあった。

「その、一美の事なんですけれど…」

「悪いけれど、その事では何も力になってあげられないと思うわ」

吉川の言葉に被せる様に、小声で増井が返答する。

「そう、ですか…」

「ご免なさいね。機密保持の関係上彼女の現状については一切、何も知らされていないの

よ」

すまなげに増井は付け足したのであった。

「…でも、何か荷物を届けてもらう事は…」

「それも難しいと思うわ。もう部外者である私が、おいそれと新しい管理者や本人に接触

は出来ないの。だいたい今誰の管理下かも知らないわ。まぁ、よほど重要な届け物なら会

社経由で届けてくれるでしょうけれど、それ以外は、ね」

決定的な否定であった。

「…そう、ですよね。あんな目に遭いかねない境遇なのに、そうそう人に知らせておく筈

が、ありませんよね」

増井に手紙を託す事を思いついた吉川であったが、それも無意味と知り酷く落胆した。

「そういう事ね」

「判りました。お引き留めしてすいませんでした」

一礼し、立ち去ろうとする。気まずげな増井であったが、その肩に手を掛け引き留める。

「はい?」

少々驚いた様に振り返った吉川に、増井は口籠もりつつ話し掛けたのであった。

「その、確約は出来ないわ。あなたもあと一年で卒業だし。でも、もしそれまでに彼女が

特殊事由者指定を解除されたら、可能な限りあなたに連絡するわ。きっとそれは私達の義

務だから」

吉川の表情が幾分でも明るさを取り戻す。

「本当ですか?…ありがとうございます」

深々と頭を下げ、踵を返すと今度こそ昇降口へ去り行く吉川の、その背中を見送りながら、

増井は不味い約束をしたかと、今更ながら少々後悔していたのであった。

 END


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