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死神は嘲笑う

第三章

 森の中は、静寂に包まれていた。時折、潮風が木々の梢を揺らし、乾いた葉擦れの音を

たてるばかりである。そこに生を営むものの全て、それは人か否かを問わず、みな息を殺

して固唾を呑み、その殺戮劇の観客と化しているかの様であった。

 双眸を見開いたまま力無く大木に寄り掛かり、男はくぐもった苦悶の呻き声をあげた。

まだ若い、少年といって差し支えない様な年齢であろう。彼の声が不明瞭であったのは、

口を塞がれていたからである。ウッズパターンの野戦服のその右脇腹に、一本のコンバッ

トナイフが突き立てられていた。服の裂け目から滲み出す血の色は赤黒く濁っている。肝

臓を抉られているのであった。男の足下には、セミオートマチックピストルが落ちている。

そのスライドは後退位置で固定されていた。弾切れ、という事である。その両手は、ナイ

フを引き抜くべく柄を握る手を掴んでいるが、もはや力もなくただ添えられている、と言

った方が正確であろう。現に、柄を握る手は苦もなく捻られたのである。傷口から血がし

ぶき、男の両目が飛び出さんばかりに更に見開かれた。ナイフが引き抜かれると更に血が

しぶく。木に押さえつけられていた頭部が解放されると、男は傷口を両手で押さえつつ、

膝を柔らかく湿った地面に着いたのであった。そのまま前のめりに倒れる。過呼吸状態で、

脂汗に顔が濡れる。間もなくその瑞々しく輝くばかりであった生命は、流れ落ちる血と共

に乾涸びる事であろう。

 引き抜かれたコンバットナイフは、確実に死の淵へと近付きつつある男の背中で拭われ

た。タクティカルジャケットの鞘にそれは納められた。一瞬、血溜まりに鈍く映り込んだ

男の顔は斧堂であった。カモフラージュパターンに化粧したその顔は、現在より多少幼く

見える。眼前に倒れている男より更に若いかもしれない。髪型も、高校球児よろしく丸刈

りである。しかし、その双眸に宿す、月光の如き冷たく冴え冴えとした光は、日本刀の刃

に宿るハイライトより鋭い。静まりかえった森の中、尋常ならざる空気を纏ったティーン

エイジャー二人が遭遇し、殺し合ったのである。そして、殺された方は、何か言いたげに

口を半開きにしたまま湿った草の上に横たわり、殺した方は首の脈を確かめると、静かに

踵を返し歩き出したのであった。と、十歩も進んだところで背後から草の鳴る音が聞こえ

る。丁度、男が横たわる辺りである。斧堂は即座に反応した。身を低く振り返りつつ、右

腰のホルスターからセミオートマチックピストルを引き抜き、構える。

「…」

男の立ち姿があった。肌に血の気はなく、両腕は力無く垂らしたままである。錆び付いた

機械の様にぎこちなく、口が動いた。

「……ぜ…ろ…なぜ、こ……なぜ、殺し………なぜ、殺した。なぜ、殺した。なぜ」

死んだ筈の男は、ただ立ち尽くし同じ言葉を繰り返す。最初聞き取れなかったそれは、や

がて鮮明な『なぜ、殺した』という詰問の形を顕わにする。口の動きは滑らかに、その声

は次第に高くなり、それにあわせ男は崩壊していった。皮膚が破れ体液が流れ出し、毛髪

が抜け落ち、眼球が垂れ落ち、筋肉が剥がれ落ち、頭蓋骨や顎骨が姿を現す。袖口や裾か

らも、液状化した肉体が流れ落ちてゆく。それでも男は、もはや骨格標本の有様となり果

てながら、今や絶叫に近い繰り言を止めない。銃を構えつつ、暫く成り行きを見守った後。

「…うるせぇ。死人は死人らしく、大人しく死んでろ」

額に照準を定めるや、トリガを引いた。銃声が静かな森に響き渡る…

 横になったまま静かに、斧堂は両の瞼を開いた。翌日の早朝である。目覚まし時計が設

定された時刻の五時三十分で鳴り出す直前、右手を伸ばしスヌーズ機能を止めその役割を

阻害する。上体を起こし、するり、ベッドを抜け出す。彼の寝間着はジャージであった。

そのまま四畳半へと移動する。空いたスペースで自然体で立ち、首や腕、足首をゆっくり

と回す。屈伸運動に続き、ゆっくりと両脚を開いてゆく。腰が畳に着き、百八十度開脚、

いわゆる股さき状態となる。そのまま前に上体を倒し、伸ばす。一旦起こし、続いて右足、

左足、と上体を倒す。十分に体が解れたところで両手を畳に突き腰を浮かせ、それからは

まるでフィルムの逆回しの如く両脚を閉じる力で立ち上がると、今度は壁際に置かれたぶ

ら下がり健康器へとぶら下がる。そのまま逆上がりの要領で足を横棒に掛け、両手を後頭

部で組むと腹筋運動を開始する。一回毎に体を左右に捻りつつ四十回を二セット。足を外

し着地すると暫し呼吸を整え、畳の上で今度は背筋運動を始める。こちらは五十回二セッ

ト。仕上げに片腕ずつの腕立て伏せを、左右交互にこちらも五十回二セット。これは何年

も前から続く毎朝の習慣であった。これだけをこなせば、未だ夜気の冷たさが残る時間と

いえども、玉の汗が額にびっしりと浮かび湯気が立つ。段ボール箱を漁り、一本のタオル

を手に脱衣場へと足を踏み入れるや、着ているものを手早く脱ぎ、洗濯籠に次々放り込む。

帰宅後に一日分を纏めて手洗いするのである。全裸となってユニットバスへ滑り込み、間

仕切りを引く。熱いシャワーで軽く汗を流し、脱衣場に置かれた段ボール箱から、おろし

たての下着を取り出す。それらを手早く身につけ、六畳間に戻り制服姿となった。通学の

準備が調えば、次は朝食の用意である。メニューはベーコンと目玉焼き、トーストにトマ

トが一つ。冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、開封する。それを

ラッパ飲みしつつ朝食を手早く詰め込み、即座に昼食の用意に取り掛かる。食器やフライ

パン等を片付け、冷蔵庫からハムやチーズ、レタス等を取り出し、食パンに薄くマスター

ドを塗るとサンドウイッチにする。二つに切り分けたそれらをラップで包みタッパーに詰

めると、デイパックの一番上に納めた。ファスナーを閉じ、ディパックを手に取る。今日

の準備は昨夜のうちに済ませてある。腕時計に目をやる。時刻は七時少し前。未だ登校に

は早すぎる時間である。カーテンを僅かに開き、その隙間から窓外を手早く窺う。アパー

ト周辺に不審な人影のない事を確認し玄関へと向かう。扉を細く開くと廊下に不審者が居

ないのを確認、チェーンロックを外し今度は大きく開き外へ出た。施錠し、一度ノブを左

右に捻る。

 駐輪場に人影はなかった。デイパックを担ぎ、MTBを引き出すとサイドスタンドを上

げ、軽快に走り出した。アパートを離れ、ギアを変えつつ学園の方へと力強く漕ぎ続けた。

緩い下り坂を、風を切って疾駆する。傍からはただ早朝練習か何かに参加する高校生、と

いう風に見えるであろう。しかし視線をさりげなく左右に配りつつ、既に開かれている学

園正門を通り過ぎてしまう。学園の周囲を軽く流し、アパートの前へと戻ってくる。アパ

ートの前でMTBを止め周囲を睥睨、アパートへ入って行く。未だ嶋本の通学時間までに

は余裕があった。

 嶋本一美は、”お母さん”と共に玄関の前で彼を待っていた。時刻は七時三十分を少し

過ぎた頃。

「お早う御座います」

「お早う御座います。今日も宜しくお願いします」

嶋本が深々と頭を下げる。どう見ても、それは友人に対する振る舞いではない。

「礼は不自然でしょう、友人ですので。では、参りましょうか」

一美の背後の”お母さん”を一瞥し、斧堂は一美が塀側になるようMTBを押しつつ歩き

出した。一美も肩を並べ歩き出す。”お母さん”は、その背中を静かに見送ったのであっ

た。

「…」

「…」

終始無言である。元来が多弁な二人ではない。それは吉川の合流まで続いたのであった。

「お早う一美、斧堂君!」

朝から吉川は元気であった。斧堂が前に出ると、嶋本の隣に位置を占める。

「…でも何か、朝から一緒に通学なんて、漫画か何かの幼馴染みみたいじゃない?」

昨日別れてからの互いの行動についてひとしきり情報交換した後、揶揄する様に吉川は二

人を見比べつつ、そう問い掛けたのであった。

「な、何を言うんですか、吉川さん」

心なしか頬を紅潮させる嶋本。

「漫画か何かの幼馴染みですか?よく判りませんね」

こちらは吉川の言葉の内容を理解出来ていない風の斧堂である。漫画等の創作世界では、

高校生程度の男女の幼馴染みはそのどちらか、あるいはいずれもが相手の事を異性として

意識している、あるいは徐々にしてゆく、というのが設定の定番の一つである事を知らな

い様である。

「あ、こういうの興味ない?でもさ、幼馴染みだったり、同じ学校へ二人とも転校してき

たり、果ては家が殆ど真ん前だったり、これだけ偶然が重なると、まるで神様が二人をく

っつけたがってるみたいだよね?」

吉川の口調に嫌みや疑念はない。単純な揶揄であろう。

「本当に、止めてください」

俯き加減の嶋本の声はか細い。斧堂はといえば、こちらは無関心を装っている(あるいは

本当に関心が無いのであろうか?)。

「はいはい。でも、一美をこんな風にからかえる事って、そうそう無いからね」

「吉川さんって、結構意地悪なんですね」

二人の視線が絡み合い、屈託のない笑顔が二人の乙女の面を彩る。一時吉川を睥睨し、斧

堂は周辺警戒を再開する。結局、校門を潜るまで斧堂は沈黙を通したのであった。

 その日の昼休み、昼食もそこそこに斧堂は保健室を訪れた。持病について相談をする、

と嶋本達には話しておいた。

「あら、斧堂君。どうしたの?」

椅子を回し、他の生徒達に対してと同様増井は斧堂に笑顔を向けた。

「はい。持病の事でご相談したい事があるのですが、お時間宜しいでしょうか?」

素早く視線を室内に巡らし、二人きりなのを確認する。

「ああ、そうだったわね、話は聞いているわ。今手すきだから良いわよ」

机を離れ、戸口に立つ斧堂へと歩み寄る。

「こちらで話をしましょ?」

そのままベッドへと二人は移動した。二つ並んだ奥の側であった。

「状況説明を」

増井がカーテンを閉めるなり、斧堂は自然体で佇立したまま潜めた声で尋ねた。先程まで

とは異なる、冷たく響く声であった。

「…せっかちですね」

苦笑しつつ、増井はベッドに腰掛けた。冷めた目で斧堂は彼女を見下ろしている。

「腰掛けてはいかがですか?」

右手で傍らを叩く。増井の口調には揶揄する様な響きがあった。

「いえ、結構です」

毫も視線を動かさず斧堂は即答した。

「そうですか。状況説明ですが、概要は”お母さん”から聞き及んでいると思いますが」

増井はここ数日のうちに現れた二人のチンピラ、井竹と高田(未だこの時点で名前は割れ

ていないが)に関し独自に収集した情報の説明を始めた。とはいえニュースソースの殆ど

が生徒や他の教師達への取材(というより世間話)、また”お母さん”等との情報交換に

よるものであったが。

「そして二日前、ついに監視対象は特殊事由者と接触、その本名で呼びかけたそうです」

「それはまずい事態ですね…二人の裏は未だ?」

「見吉副社長からクライアントに要請して、調査部と協同で調査中の筈ですが…未だ」

少し間をおき、私見ですが、と前置きしてから増井が語を継ぐ。

「彼らの外見的特徴、行動様式、人数等から判断して、彼らはこの近辺以外に拠点を持つ

暴力団、右翼団体等の構成員、あるいは準構成員等と思われます」

「妥当なところでしょう。より大規模な動員が可能なら、人一人の拉致にここまで難渋す

る事も無い筈ですから。そこまでして、こちらのご同業と問題を起こすつもりは無いので

しょう」

「しかし、それもいつまで続くかは不明です。我々の相手が、地元との面倒をも省みない

行動に打って出る可能性は常にあります」

つまり、増援が大挙してこの街に押し掛けるという事である。二人とも、この活動がたか

がチンピラ二人の独断専行だなどとは微塵も考えていない。嶋本に関する情報は、その様

な輩が入手しうる類のものでは決してないからである。彼女に限らず、彼女と同様な境遇

の人間達に関して、その個人情報の管理には細心の注意が払われているのである。今回の

様に情報漏洩があったとして、その背後にはそれ相応の組織、機関が関与しているであろ

う、というのが彼らの常識であった。百歩譲り、あるいはチンピラ達は何らかの幸運、何

らかのコネクションにより嶋本の情報を入手、さしたる考えもなく(例えば身代金目当て、

など)独自に行動しているとして、それはそれで問題ではあるが(徹底した情報漏洩源の

追求、及びその排除を意味する”止血”処理を施す事となるであろう)、斧堂達にとって

対処にさほどの労力は要しないであろう。それこそチンピラ二人”除去”するだけの事で

あるから。

「今のところは小手調べ、という事でしょうか?あるいは別の意図が」

興味深げに増井は斧堂を見詰める。

「陽動、ですか」

「陽動?つまり、背後の組織には別の目的が?」

斧堂は一つ頷いた。

「あるいは、組織の行動そのものが陽動である可能性も…いえ、情報不足の現状で可能性

ばかり幾ら考えても、仕方ありませんね」

チンピラ達の身元が割れればその背後も判明する。その周辺を探れば、真の目的も浮かび

上がってくる筈である。真に嶋本の拉致が目的であるのか、あるいはその背後で他の誰か、

もしくは何かを狙っているのか。

「ともかく副社長に調査をせかさせて下さい。引き続き情報収集と警戒もお願いします」

「承知しました」

再び黙考する斧堂。それを増井は見上げている。僅かに眉を顰めるその容貌は、将来渋い

おじさまとなった様を容易に想像させる。

「…それと、一つ打ってみるべき手があります」

「はい?」

「二人を刺激して、この一件にどの程度投入可能な戦力を有する相手か確認しようと思い

ます。それによって活動が活発になれば、正体も容易に掴める筈ですが?」

「しかし、現段階でそれは、一歩間違えれば本末転倒となりかねないのでは?」

現段階で徒に相手を刺激し、こちらの予測を越える即応能力を示す様な事があれば、出し

抜かれる可能性が高い。現状では、彼女も含め街中には最低限の人員しか配置されていな

いのである。いかに斧堂が優秀であろうとも、迎撃は困難であろう。

「確かにその危険性はあります。ですが、本来の役目からすれば、我々は時間をかけるわ

けにはゆきません。多少のリスクも止むを得ないでしょう。それに、殲滅作戦発動時、相

手戦力の分散は好都合でしょう。もちろん事前に”止血”処理は必要でしょうが。こちら

も副社長に確認を。クライアント相手には彼女でなければ」

「そうでしょうね」

増井が頷く。未だ三十代半ばでありながら、老獪かつ頑迷なクライアント相手に一歩も退

かない彼女の交渉術は社内でも定評があった。

「ともかく、速やかな監視対象の身元確認を。こちらでも独自に動くからと、副社長に言

付けをお願いします。連絡はあなたに一任しますので」

「承知しました」

「それと、仮で良いので”戦闘用員”の動員要請を。規模や装備はおいおい私が直接指定

します。指揮権限発行は、私を指定しておいて下さい」

「余り大事にならなければいいのですが」

増井の心配はもっともであった。彼女らの役目は派手さを嫌うものであり、空気の如く、

誰にも特別な注意を払われない事を理想としていたからである。

「今のところは何とも言えません。場合によってあなたにも指揮を執って頂く事になるで

しょう。カテゴリAの指揮資格は…」

「持っています。二年前、こちらへ赴任する前に取得しました」

口を閉じ、探る様な視線を向けてきた増井に、斧堂は訝しげな視線を返した。

「何か?」

「…いいえ」

「そうですか」

あっさりと納得され、内心溜息をつく増井であった。

「それなら結構です。ところで専門は?」

「狙撃です」

「そうですか。では、狙撃担当の頭数として計算させて頂きます」

終始変わる事のない、その丁寧かつ親しみのもてない態度に、増井は私生活でもこの調子

なのかしらと、余計な事をチラリと考えたりもした。

「実際の指揮経験は?」

「いえ…」

「ずっと日本勤務ですか?もしそうならば致し方ないと思います。あなたと同様の業務経

歴の社員は大抵そうです」

「斧堂さんは、そうではありませんよね?」

「はい」

無感情な返答。それはただ肯定を示すためだけの一語であった。しかし、それが示す事実

こそ、この斧堂緋刀志という少年が高評価を得ている所以であった。外見、年齢等から、

彼は一見バイトの様に見えるかもしれない。しかし、彼は立派な扶桑国際警備の正社員で

あり、その勤務評定はランクAA+、最高であるAAAトリプルエーの一つ下であっ

た。それは実質的な最高評価である。彼がそれほどの高評価を受けているのも、ひとえに

危険かつ高難度の業務をこなしてきたがゆえであった。この直前の”特殊業務”などその

好例であろう。

「ご活躍は色々と、聞き及んでおりますから」

「そうですか。ところで今後の私の活動ですが、昨日も申しましたが当面は彼女の送迎に

当たります。その途中に監視対象と遭遇した場合は、極力人目の無い状況に限り撃退を試

みるつもりです」

「ですが、嶋本さんには吉川さんが」

「確かに。問題はそこですね。出来うる限り、巻き込みたくはないのですが」

「お優しいのですね」

口元を綻ばせる。

「騒がれたり、疑念を抱かれては業務に支障をきたしかねませんので」

照れた様子もなく、口調にも変化は無い。本心の様である。

「…ごもっとも」

呆れ顔で増井は返答した。と、昼休み終了五分前を告げるチャイムが鳴った。

「では、また明日」

一礼し、斧堂は保健室を後にしたのであった。


 嶋本の拉致に失敗して丸一日、井竹と高田のコンビは様子を窺うため活動を控えていた。

警察の動向をそれとなく観察し、驚愕すべき事に特別な警戒態勢を取っている気配がない

のを見て取ると、彼らは不審感よりはむしろ安堵感を覚えたのであった。

 「来た来た!」

一昨日と同様に車中で待機していた二人は、固まって楽しげに歩く三つの人影を認めた。

「一人増えてるな」

忌々しげに高田が呟く。一昨日は一人きりの嶋本の拉致に失敗したのである。

「たかがガキでしょうが?しかも二人は女だ。楽勝楽勝!」

「お前な…」

井竹の目に余るお気楽ぶりに、高田は苦りきった表情で一瞥をくれたのであった。

「さあさ、さっさと片付けちまいましょうぜ」

「…」

二人は車を降りる。一昨日より手前、吉川達の別れる丁字路間際で嶋本達を待ち受ける。

「その鴨井君て、ホント傑作!」

「でしょう?まぁ、友人の私が言うのも何ですが、ただの馬鹿ですね」

文字通り抱腹絶倒、という体で苦しげに笑う吉川に、二人の前でMTBを押しつつ笑顔で

答える斧堂。塀側を歩く嶋本も口元を押さえつつ微笑んでいる。

「はははは、はぁはぁ、苦しい…それで、結局彼はずぶ濡れで帰ったの?」

「いえ、上半身だけ裸になって」

不意に斧堂の言葉が途切れる。立ち止まった彼を訝しみつつ、二人もそれに倣う。

「?なに?」

前方を見据える斧堂の視線を追い、吉川も近付いてくる二人の男に気付いたのであった。

嶋本は表情を強張らせ、体を固くしている。

「なに、あのおじさん達…まさか…」

「…例の二人組、だと思います…」

「!逃げよう!」

吉川が二人を促す。しかし、緊急事態に体が竦んでしまったか、二人は動かない。そうこ

うするうちにも、井竹達は目前に迫っていた。駆け足で井竹が三人の横を、高田が前を押

さえる。

「なによ、あんた達!?」

叫ぶ吉川を無視し、高田は嶋本へと一歩近付く。

「さ、来て貰おうか、河野さんよ」

「河野?誰かと勘違いしてるんじゃないの?この子は嶋本…」

「おめぇには訊いてねぇ!」

横から井竹が、吉川の襟首を掴みぐい、と引き寄せ凄んでみせる。

「あんたにゃ関係ねぇ、痛い目見たくなきゃあ黙ってな!」

締め上げられ、吉川の口から苦鳴が漏れる。

「吉川さん!」

「河野さんよ、あんたがぐずるとお友達がこういう目に遭うんだ。それが嫌なら一緒に来

て貰えませんかね?」

完全に斧堂を無視し嶋本に語りかけてくる高田。嶋本は一歩身を引きつつ斧堂を注視する。

その横顔からは一切の感情が拭い去られていた。高田が目線で合図をすると、脇へ突き放

す様に井竹は吉川を解放し、空いた隙間に上体を差し入れつつ嶋本へと手を伸ばす。と、

それを払い除ける手。斧堂であった。高田の剣呑な視線を完全に無視し、臆する風は微塵

も見せず、井竹へと半身を向けている。

「てめぇ、なにしやがった!」

激痛に痺れる右腕を庇いつつ、身を引いた井竹。そこに、嶋本を護る様に再び吉川が割っ

て入った。それを見届け、MTBを道路に倒すと斧堂は高田へと向き直った。

「何だ?へへ、まさか、女の前で格好付けようってのか?」

斧堂を睨み付けつつ顔を近づける。無表情のまま終始無言の斧堂。一歩たりとも退くつも

りはない様である。暫しの睨み合いののち(正確には、高田が一方的に睨み付けていただ

けであるが)、ふと、高田は表情を弛めた。

「そうかいそうかい、ま、男としちゃ当然だよなぁ、女を守るのはよ」

斧堂の肩を一つ叩き、諦めたかの様に背中を向ける。安堵の表情を見せたのは嶋本のみで

あった。井竹は未だ右腕を庇いつつ、吉川と睨み合っている。高田は一歩離れ、しかし唐

突に身を翻す。右の手の平が風を切り、斧堂の頬を強打した。

「きゃ!」

思わず嶋本が悲鳴を漏らす。彼女の眼前で、斧堂の体がMTBの上に倒れ、ガチャン、と

大きな音を立てた。。

「斧堂君!?」

助け起こそうと一歩踏み出した吉川を、井竹が遮った。

「おっと!男の喧嘩に女は口出し無用だぜ?」

「ガキがぁ!てめぇみてぇなヤワいのがイキがって渉ってけるほど、世の中甘くねぇんだ

よ!」

倒れたままの斧堂の腹部に、容赦のない蹴りを幾度となく見舞う高田。斧堂は苦鳴一つ漏

らさず、蹲りされるがままであった。

「おお、楽しそうだねぇ、混ぜて貰いますよ」

先程の意趣返しでもあったのであろう、愚かにも井竹は吉川を放置し、本来の目的も忘却

の彼方と、斧堂を見舞う砲列に加わる。彼女が暴力を前に、ただ震えるばかりのか弱き女

子高生であると考えたのであろうか?であるとすれば、余りの観察力不足と言わざるを得

まい。後を井竹に任せ、高田は嶋本へ向き直る。

「さて、お嬢ちゃんもこいつと同じ、世の中なめてるガキの一人なのかな?」

呆然と立ち尽くす嶋本へと踏み出された左足に、倒れたままの斧堂が縋り付く。

「あ?てめぇ、まだ元気じゃあねぇか」

井竹がその頭を踏み躙る。苦痛に面を歪めつつ、斧堂は苦鳴一つあげず、足を放す事もな

い。

「この野郎!」

斧堂を責めさいなむ井竹であったが、突然横手からの衝撃によろけ、高田に体当たりをか

ましてしまう。すんでの所で二人は道端に倒れ込むところであった。

「!」

「いい加減にしなさいよ!」

声の方へと顔を巡らせば、仁王立ちとなった吉川が、二人を睨み付けていた。

「大の大人が二人がかりで!ほんとサイッテーのオヤジ達ね!」

「ざけやがって、ガキが!」

体勢を立て直した井竹が吉川に掴みかかるや、吉川は一転して可愛い悲鳴を上げてみせる。

「キャー!誰か、助けてくださいぃ!変なオジサンです、変態ですぅ!襲われちゃいます

ぅ!」

叫びつつ井竹の腕をかわしその向こう臑を蹴り上げる。それは紛れ当たりに過ぎなかった

が効果覿面であった。呻き声を上げ、思わず蹲る井竹。そうこうするうちにも、周辺の住

宅から何事かと何人かが顔を覗かせる。高田は一つ舌打ちした。

「くそガキ共が!行くぞ!!」

蹲ったままの井竹を引きずる様にして無理やり立たせ、二人は車へと逃げ去った。飛び乗

り、バックで見る間に遠ざかる。不意に急ハンドルで車体の向きを変えると、横道に消え

てゆく。

「二度と来るな!」

逃げ去る車へと言葉を投げつける吉川。先程の悲鳴とはまるで別人である。高揚が収まる

と、今度は周囲の様子に気付く。何人かの主婦や子供達が、二階の窓や玄関先で自分達を

怪しげに見詰めているのであった。急に恥ずかしさがこみ上げてくる。本来ならば、事情

を話し助けを乞うべきであろうが、自分達に突き刺さる視線は耐え難いものであった。

「あ、あーと、お騒がせしてすいませんでした!何でもないんです、その、ちょっとした

ゲーム、みたいなもので!」

頭を下げる。住人達は、口々に何事か呟きながら引っ込んだのであった。頭を上げると、

まだ頬を上気させたまま溜息を一つ。

「斧堂さん、大丈夫ですか?」

振り返れば、嶋本が斧堂を介抱しているのが見えた。彼は腹部を右手で押さえつつ上体を

起こしている。

「…大丈夫?」

おずおず、といった風で斧堂の表情を覗き込む。苦しげながらも、彼は微笑み返してきた。

「これくらい、大したことはありません」

立ち上がろうとしてよろける斧堂を、吉川が横から支える。偶発的に、彼の左腕が彼女の

胸に押し付けられた。

「!」

思わずその左腕を押しのけた吉川であった。胸を右手で押さえる。

「…?」

彼女の挙動、朱に染まった頬の理由が理解出来ないのか、小首を傾げてみせる斧堂。

「あ、ええと、あの…そ、それにしても最低な奴らよねあいつら!いい大人が子供をいた

ぶって何が楽しいのかしらね?!」

照れ隠しに、早口に捲し立てる吉川。

「すみません、私の為に…」

心からすまなげに嶋本が頭を下げる。

「いえ、不甲斐ない有様で」

「ま、確かに最後はちょっとカッコ悪かったかな?でもま、良く頑張った方じゃない?」

未だ紅潮が収まらぬまま吉川が冗談めかして言うと、斧堂は苦笑し微かに苦痛に面を歪め

た。

「ところでさ、あいつら一美のこと河野、とか呼んでたわよね?全くの人違い、っていう

風でもなかったみたいだし、何か心当たりでもある?」

「え?え、あの…」

ほんの思いつき、といった軽い口調のその一言に虚をつかれ、狼狽し、言葉を濁す嶋本。

救いを求める様に、斧堂を見る。

「きっと、他人の空似か、何かでしょう」

斧堂が助け船を出す。

「少なくとも、私が知る限り、嶋本さんがほんの一時でも『河野さん』であった事など、

なかった筈ですし…もっとも、随分とブランクはありますが」

未だ苦しげに話す斧堂。

「一美、どう?」

「はい、そうです。両親は離婚も再婚もしていません」

力強く頷く嶋本。

「やはり、誰かと間違えたのでしょう。全く、迷惑な話ですね」

吉川も、そうよね、と納得する。

「あんな連中に追われるなんて、その『河野さん』って何したのかしらね?」

「さぁ?闇金融にでも手を出したか、あるいはもっと別の形であの手の輩の資金源にでも

なっていたか」

皆まで聞かずとも、それが碌でもない事であろうと想像がつく。ワイドショー等で扱われ

る類の。思わず身震いする。

「大丈夫ですか?歩けますか?」

「はい。見かけほど、大して効いてはいませんよ」

吉川達には、それは強がりに聞こえた。立ち上がった斧堂の動作は頼りなげであった。

「仕方ないわね…私が肩を貸すわ、いいでしょ?一美、すまないけど自転車をお願い」

「あ、はい」

この場は仕切って、吉川は斧堂に肩を貸し歩き出す。

「すいませんね」

すまなげな斧堂の傍らで、服越しとはいえ殆ど体を密着させている吉川は、隠された彼の

体格の良さを実感していた。彼女もかつては女子バスケット部でならしたものであった。

「随分、鍛えてるのね?」

「判りますか?文武両道が父の方針でしたから」

「へぇ、お父さんの」

「まぁ、余り成功したとは言えませんが」

それきり会話が途切れる。無愛想ではなくとも、斧堂が個人的な事に触れられたがらない

のは、そういった話題となった時の素振りで判っていた。一方の彼女も、彼と多く言葉を

交わす事を、楽しめないのであった。その捌けた性格から、男女を問わず友達付き合いが

出来る吉川であるが、裏を返せば異性との他の付き合い方は難しい、という事でもあった。

そんな吉川の、斧堂に対する意識の有り様は、ただの友達とは少々異なる。彼女の心の隅

に常に居座り続ける悲痛な記憶、それに繋がる彼の容姿は、本来ならば出来うる限り遠ざ

けておきたいものであった。少なくともこの時点では。せめてあと少し、もう少しだけ。

そう願う彼女の抱えた胸の傷は、未だ癒えてはいないのであった。が、しかし。

 結局、吉川と斧堂は沈黙を保ったまま、斧堂のアパートへと辿り着いた。

「本当にすいませんでしたね」

嶋本がMTBを駐輪場に置くのを見ながら、斧堂が頭を下げる。

「いえ、このくらい…ああ、”お母さん”」

振り返れば、嶋本の母親がアパートの入り口に立っているのが見えた。吉川達に頭を下げ

る。

「大丈夫ですか?」

心配顔の嶋本に、斧堂は微笑んでみせた。

「ご心配なく。また明日、いつもの時間に」

「あたしもついてるから大丈夫よ」

尚も心配顔の嶋本を慮ってか、必要以上に明るく吉川が口を挟む。何か言いたげな斧堂を

牽制する様に見詰める吉川。その様な二人を見比べ、嶋本は微笑んだ。

「そういう、事の様ですので」

斧堂が頷くと、一礼して嶋本は”お母さん”の元へ駆け寄る。

「それでは、また明日」

嶋本は吉川と小さく手を振り合い”お母さん”と二人、家へと帰っていった。斧堂は吉川

より離れ、MTBにチェーンロックを掛ける。

「これでよし…ところで、吉川さんは帰らないのですか?」

ゆっくり、斧堂は振り返った。

「ええ。私でも、何か手伝えるでしょ?」

「ご心配には及びません。身体のケアは心得ていますので」

にべもない斧堂の口調に。

「でも、一美との約束もあるから」

あくまで食い下がる吉川を正面から見詰める斧堂。探る様なその視線に、また何よりその

顔を見続ける事に耐えかね、吉川は視線を外した。訝しげながらも斧堂は一つ頷いたので

あった。

「…そうですね。友人との約束は、守らなければ」

吉川の横をすり抜け斧堂は階段へ向かった。ついてこい、とばかりに一度振り返り尚も歩

を進める。吉川は後に続き、二人してアパートの階段を上がってゆく。部屋の鍵を開けて

上がり、六畳間に入ると電灯を点ける。それまで薄暗がりに沈んでいた室内が、光の中に

浮かび上がる。

「すみませんが、冷蔵庫から適当に飲み物を取って来てくれませんか?」

台所は玄関の横にあり、昨日の訪問時より、吉川には冷蔵庫の場所は判っていた。ベッド

に腰掛けると彼は上着を脱いだ。吉川が見ているのも一向に構わず、ズボンのベルトを弛

め、ボタンを外す。次いでYシャツの前をはだけ、裾をたくし上げる。

「?どうかしましたか、顔が赤いですよ?」

「あ、ううん、あの…そう、飲み物よね!」

吉川は鞄を置くと小走りに台所に向かい、冷蔵庫を開ける。飲み物はといえば、オレンジ

ジュースと牛乳の紙パックが二つずつ、後は全てミネラルウォーターであった。水切りの

グラス二つに口の開いた紙パックからジュースを注ぎ、冷蔵庫に戻すとグラスを両手に六

畳間へと戻る。

 斧堂は手当ての最中であった。といっても痣の出来た腹部等に湿布を貼り付け、擦り傷

を消毒する程度の事であったが。

「…」

先程も感じた通り、彼の肉体は見事なまでに鍛え上げられていた。贅肉一つ無い腹部は六

つに割れ、思いのほか胸板は厚く、肩から上腕、前腕に至るまで筋肉が盛り上がっている。

一見して心臓に持病のある身と思われないが、医学知識など碌に無い自分の知らぬ病気で

あろうとひとまず納得する。それより彼女の目を引いたのは、体中に付けられた傷痕であ

った。

「?…ああ、これですか?」

彼女の視線に気付き、斧堂は肩の傷痕の一つを撫でてみせる。

「まぁ、無謀な戦いも随分しましたから。別に喧嘩は得意でもないのですが。馬鹿ですか

ね?」

苦笑する斧堂。

「そっか…そんな所まで、美也みたいなんだ」

「?よしや、とは誰ですか?」

吉川は答えない。表情を曇らせ、立ち尽くすばかりである。

「何か、悪いことを訊いてしまいましたか?」

無言で吉川は首を振る。グラスを差し出した彼女の手は、小さく震えていた。受け取った

斧堂の前に腰を下ろし、吉川はグラスを一気に呷ったのであった。

「ふぅ。ごちそうさま」

グラスを畳の上に置く。

「じゃ、帰るわ。グラス、お願いね」

鞄を手に取ると、斧堂に一言も言わせず立ち上がり、出て行こうとする。

「あ、待って下さい。送りますから!」

「あなた怪我人でしょ?無理しないの」

手をひらひらさせ、振り返る事なく靴を履き部屋を出てゆく。やがて外から足早に階段を

下りて行く彼女の足音が高く聞こえてきた。

「…」

一人残された斧堂の表情は、険しいものとなっていた。彼女の不可解な態度、そして

「よしや、よしや…」

彼女が口にした人名(男性であろう)を反芻する。それまで保護対象の親近者としか認識

せず、嶋本等を通じて一通りの情報を把握していたに過ぎなかったが、そこに未知のキー

ワードが提示されたのである。それが彼の業務にどれほどの影響を与えうるものか、確認

する必要があった。チンピラ達と合わせ、吉川の調査依頼もしなければ、と彼は決心した

のであった。


 「昨日は、災難だったそうですね」

揶揄する様な増井の物言いにも、斧堂は全く無関心な風であった。

「問題ありません。多少痣が残っている程度ですので」

そう、淡々と答えるのみである。実際その所作に昨日の影響は見られない。

「そうですか…ところで、監視対象の印象はどうでしたか?」

「こと暴力の行使に関する限り、彼等は児戯程度の実力かと思いました」

「はぁ…児戯、ですか」

暴力を生業の一部とするであろう男達のそれも、彼にかかれば児戯扱いである。実際のと

ころ、最初の一撃も力を逃す為自ら飛び退いたのであり、蹴りも鍛え上げられた筋肉の鎧

の前には、大したダメージを与えられはしなかったのである。

「私を無力化出来なかったからこそ、私はここにこうして居るのですから」

ここ、とはもちろん保健室の事である。昨日同様、昼休みに斧堂は顔を出したのであった。

「つまり、相手の実力を計る為に、わざと痛めつけられたのですか?」

「それもありますが、最大の理由は部外者の前で実力行使は避けたかったからです」

「部外者…吉川さんですか?」

無言で頷く斧堂。

「彼女に余計な警戒心、疑念等を抱かせたくはないので」

「あるいは、余計な好奇心、とか?」

揶揄するかの様な増井の声。

「…好奇心なら、既に抱かれている様ですが」

「はい?」

斧堂の呟きを興味深げに聞き返す増井。しかし彼はそれを無視したのであった。

「ところで、監視対象の身元は未だ判明しないのですか?」

「はい…今日、明日中には」

「悠長に待っては居られません。私も独自の調査を続行したいと思います」

「それは昨日仰っていた?」

「はい。少々活発に動いてみましょう」

それはきっと穏当な活動内容では無いのであろうな、と増井は思った。

「それはそうと、一つ頼みがあります」

「何でしょうか?」

「吉川直美の関係者で、『よしや』という人物について知りたいのですが」

「『よしや』、ですか?」

「はい、何か、ご存知ですか?」

ずっと嶋本を見てきた増井ならば、吉川についても彼の知らない情報を掴んでいるのでは

ないかと期待しての問いであったが、暫し黙考ののち

「いいえ、存じません」

と増井は答えたのであった。

「そうですか。では、調査依頼をお願いします」

「承知しました。この人物が何か問題になると?」

「問題になるか否かが知りたいのです」

「なるほど、それはそうですね」

カーテンを開き、斧堂はベッドを離れてゆく。

「吉川さんに直接訊ねるのが、一番簡単ではありませんか?」

当然の疑問を、増井は斧堂の背中に投げかけた。足を止め、斧堂は振り返った。

「情報源が当人の言葉のみでは困ります。第一、昨日訊ねましたが答えて頂けませんでし

た」

「今日はどうですか?帰りにでも、もう一度尋ねられては?」

「残念ながら、今日の帰りは別々です。バスケットボール部の練習試合の助っ人で、練習

に参加するそうですので」

前に向き直り、再び斧堂は歩き出す。ベッドの端に腰掛けたまま、増井は見送ったのであ

った。


第四章

 やはり二人は待ち構えていた。昨日とほぼ同じ場所である。

「お、今日はやかましいのが居ねぇぜ!」

井竹が口笛を吹く。今日こそは目的を果たせそうであった。

「喜ぶのは仕事が終わった後だ!」

苛立ちを隠そうともせず、高田がお気楽な相棒に言葉を叩き付ける。

「…」

二人の姿を認めるや、斧堂と嶋本は目配せした。MTBを嶋本に預け、斧堂は二人へと歩

み寄っていったのであった。歩みに一片の躊躇無く、その表情は険しいものへと変化して

いる。

「なんだぼうず?あれじゃぁやられ足りねぇ、ってか?」

ほんの数歩の距離まで斧堂が近付いて来たとき、井竹が仕掛けた。右手の拳を引き、一気

に詰め寄る。撃ち抜く様に突き出されたその拳が顔面にでも炸裂すれば、一発で斧堂をK

.O.出来たであろう。そう、炸裂しさえすれば。斧堂が一歩踏み出した、そのとたん上

体を反らし膝を曲げたまま引き上げた左足で前蹴りを繰り出す。革靴が井竹の胸に足跡を

刻み、井竹の体はその背後へと吹き飛んだのであった。

「ぐぇ!」

受け身もままならず、仰向けにアスファルトに着地、強か背中を打ち付け奇声を上げる。

呼吸が止まるか、というほどの激痛。

「て、てめぇ!」

色めき立つ高田が、懐の匕首を抜く。蹴りの姿勢を保ったまま斧堂は手招きした。

「舐めやがってぇぇ!」

脳裡が真っ白になり、何の考えもなく、絶叫と共に高田は突き掛かっていったのであった。

左足をいったん引き、接地させず再び振り上げる。折り畳んだ左足が伸びきると爪先が臍

辺りにめり込み、高田は口から唾液を撒き散らしつつ蹲ったのであった。匕首がアスファ

ルトの上を転がり、乾いた音を立てた。

「う、うぇ」

瞬殺。斧堂の攻撃の間合いは完璧であった。

「…凄い…」

昨日のあの醜態が夢幻であったかの様な斧堂の豹変ぶりを目の前に、嶋本はそう呟くばか

りであった。”お母さん”から、社でも最高の人材とは聞かされていたのであるが…

「…さぁ、行きましょうか?」

一つ深呼吸のあと振り返った斧堂の表情は、あの茫洋としたものへと戻っていた。

「…」

近付いてきた嶋本からMTBを受け取り、何事も無かったかの如く二人並んで歩き出す。

「ま、待ち、やがれ…」

蚊の鳴くかの様な声を振り絞る高田の後頭部へと、容赦なく斧堂の右足が振り下ろされる。

顔面を路面に強打し、鼻血が垂れる。上体を起こしかけた井竹へは、顔面へ蹴りが入れら

れ、こちらも鼻血を流す羽目となる。暴力が展開されるなか、斧堂の後を不安げについて

ゆく嶋本。

「あの方達、大丈夫でしょうか?」

「大丈夫な筈です。手加減はしましたので」

あれで手加減?!と思ったが、嶋本は黙っていた。斧堂をとりあえず信頼する事にする。

 嶋本の姿が玄関扉の向こうへ消えるのを見届け斧堂はアパートへ引き上げた。MTBを

置き部屋へ上がる。ディパックを机上に下ろすとベッドに腰掛け、大腿部の上に肘をつき

思索に耽る。考えるべき問題はただ一つ。これからどうすべきか?二人に与えたダメージ

は軽微な筈であった。多少の休息で回復するであろう。問題は、その後彼等はどうするか

?恐らく冷静ではいられまい。報復目的の奇襲を目論む可能性が大であろう。ならば

「…」

立ち上がる。制服をベッドの上に脱ぎ散らかし、段ボールの一つから私服を取り出す。黒

のスラックスに、同色の無地のTシャツ。それらを身につけ、更に黒のレザージャケット

を着込む。その姿は、学園内とは明らかに異質な雰囲気を醸し出しているのであった。陳

腐な言い方をするならば、危険な香りが漂ってくるかの様な…それは、死臭であろうか。

椅子を引き腰を下ろす。ディパックの左右には隠しポケットがあり、一見デザインの様な

カバーで覆われている。その右側のボタンを外し、ポケットに右手を突っ込む。カチリ、

という金属音と共に飛び出した物があった。暴力の象徴ともいうべき金属の塊。潤滑油の

臭いが僅かにする。引き抜き手早くチェックを済ませると立ち上がり、スラックスの腰に

押し込んだそれをジャケットで隠す。

「調査開始」

時計を一瞥し一度室内を見回したあと、斧堂は部屋をあとにしたのであった。


 午後八時過ぎ。既に日は落ち、閑静な住宅街の女性の一人歩きは少々心許ない。まして

不審者が出没している道ならば、絶対に避けるべきである。だから、彼女、吉川直美はい

つもと異なるルートで家路を急いでいたのであった。

「はぁ、もうこんな時間…」

スマートフォンの液晶画面を見遣り、溜息をつく。練習試合の為に部員達と動きや連携の

チェックを行い、練習後のミーティングに集中していたら、こんな時間になっていたので

あった。彼女には放課後遊びに行くという習慣がない。門限が厳しいといった訳ではなく、

部活動に燃え、いつも疲労困憊の体で帰宅していた昔から、その様な習慣が醸成される機

会が無かったのである。しかも、遊びに行く様な場所は駅前のアーケード街程度であり、

学園から、家とは反対の方角へ二十分以上歩かねばならず、帰宅には倍の小一時間ほども

かかる事となる。それを考えただけでうんざりであった。そもそもいつも登下校は嶋本と

いう友人が一緒なのである。遊びに行けない事なぞ何ら苦にはならない。しかし、今彼女

は一人である。普段の道よりは遠回りであるが、未だ活気の残るささやかな商店街を通り、

その外れの交差点を左へ曲がろうとしていた。すると、その反対車線側の歩道を、二つの

人影が駆けてくるのが見えた。

「!あいつら!」

小さく叫ぶなり、思わず電柱の陰に身を隠す。街灯の明かりに浮かび上がった人影は、井

竹と高田であった。しかし、少々様子がおかしい。恐らくは苦痛に顔を歪め、動作も緩慢

である。口の辺りには、赤黒いものがこびり着いている様である。一見してトマトソース

か何かかと彼女には思われた。肩や腰を押さえ、しきりに背後を窺いつつ、彼女の方には

一瞥もくれる事なく向こうへと走り(と言うにはもたつき過ぎであったが)去ってゆく。

「??」

事情が判らぬままひとまず電柱を離れた彼女の眼前に、また意外な人物が姿を現した。闇

に溶け込むかの様な服装のその人物は、周囲を窺う素振りを見せた。

「斧堂君?!」

今度は声を掛ける。面が向けられた。その表情に彼女は言葉を失った。ほんの一瞬であっ

たが普段とはまるで別人の様な、鋭利な刃物を連想させる、その様な表情をしていたので

ある。その彼が彼女を認めたと見えるや即座に顔を背け、そして再び向けられた時には、

いつもの表情が浮かんでいたのであった。

「ああ、吉川さん。今晩は」

小走りに道を横切ってくる。彼の私服姿を目にするのは初めてであったが、男臭さを感じ

させるそのなりに、吉川は一瞬違和感を覚えたのであった。しかし、次の瞬間には、先程

の、あの剣呑な表情が脳裡に浮かぶ。

「こんな時間にご帰宅ですか?」

「…」

「どうかしましたか?私の顔に何か?」

まじまじと自分を見詰めている吉川へと、一歩近付く。と、彼女は身を守る様に両手で胸

元を覆い、身を引いたのであった。

「…こんな時間に、何をしているの?」

硬い口調で尋ねる。

「私ですか?ちょっと夕食を買いにコンビニまで」

「…あなたが来る前に、あのチンピラ達の姿を見かけたけど、気付いてた?」

「え?彼等がですか?いえ、気付きませんでしたね」

斧堂の表情を、じっと吉川は窺った。しかし、彼が嘘をついている確証は得られない。そ

れを看破しうるには、まだまだ付き合いが浅いのであろう。

「…本当に?」

「もちろんです。あれだけ痛めつけられた相手になぞ間違っても近付きたくはありません。

マゾでは無いのですから」

もっともではある。しかし、先程目にしたチンピラ達も痛めつけられ、何かから、あるい

は誰かから逃れようとしていた風に見えたが。しかし、それが斧堂の事であるという結論

には容易に至らない。彼女は、彼があの二人に酷い目に遭わされる光景しか目撃していな

いのである。

「そっか。そうよね」

「はい。ところで、もう立ち話は止めませんか?寒いですし、そろそろコンビニに行きた

いのですが」

彼の態度に不自然なところは全く見当らない。一瞬垣間見たあの剣呑な表情さえも、今で

は目の錯覚で片付けたくなってくる。あるいは遠目でもあったわけで、街灯の明かりによ

る陰影のなせる業であったか。恐らくはそういう事であろう。また、あの二人を目撃した

事で動揺したせいもあろう。

「…そうね、寒いし、遅いし。私も帰る」

「それでは、また明日」

一礼し、彼女の背後へと走り去ってゆく。吉川も一歩踏み出し、ふと振り返った。店内か

ら溢れる光めがけ走ってゆく斧堂の背中が、小さくなっていった。

 時は一時間ほど遡る。部屋を出た斧堂は、手早く周囲を窺い、そのままふらふらとアパ

ートを後にしたのであった。あの二人を軽くいなしたのとは全くの別人と言って良い猫背

気味の頼りなげな風体であった。道に出、行く当てもなくただただ街中を徘徊する。未だ

宵の口である。手始めにアパート周辺を巡る。間もなく手応えがあった。二人分の足音が、

数メートルの間隔を置き彼の後を追跡し始めたのである。相手に気取られぬよう背後を窺

い、尚も斧堂は足を動かし続ける。彼の徘徊には目的地があった。人気のない、暗い裏路

地であった。追跡者達はその意図に気付いたであろうか?角を曲がり路地に入る。追跡者

達がその路地に飛び込むや

「あ?」

一人が思わず声を漏らした。斧堂が彼等へと向き直り佇立していたのであった。二人との

距離は数メートル。

「よう、ドブネズミども。人の後つけ回して、何だ、俺のケツでも貸して欲しいのか?」

そう、確かに斧堂はそう問い掛けたのであった。険しい目元に、薄気味の悪い笑みを口元

に貼り付かせつつ。吉川や嶋本がその場に居合わせたならば、間違いなく引いていたであ

ろう。

「…てめぇこそ、なに調子こいてんだ?!俺達がちょいと格好付けさせてやったらその態

度か、ああ?!」

言葉を失っていた追跡者達であったが、そのうち発火点の低い井竹が応酬する。

「へぇ?そいつは有り難いねぇ!なんなら、俺の引き立て役に雇ってやろうか?」

「だから、調子こいてんじゃあねぇ!!」

一瞬の目配せのあと、今度は高田が叫びつつ匕首を抜き先に飛び出す。

「死にやがれ!!」

先程の経験からであろう、突き掛かると見せかけて、足下を薙ぎ払う様に左右へ匕首を振

るう。後退しつつ、斧堂は右手の手刀を一閃させる。伸びきった高田の右手から、それは

匕首を叩き落としたのであった。前のめり気味の高田の顔面へ、左飛び膝蹴りが決まる。

再び、高田は鼻血を流すはめになったのであった。仰向けに倒れかかるのを許さず、大き

く踏み込み右手で右腕を掴み軽く捻る(少なくとも傍観者にはそう見えたであろう)と、

高田の両脚は地面を離れ背中より路面に落ちたのであった。

「ぐえ」

みっともない声を上げ、一瞬高田の動きが止まる。路面に転がる匕首を蹴飛ばし、掴んだ

ままの腕を軽く捻れば苦鳴を上げつつ高田は俯せとなった。

「けっ、他愛もねぇ!」

腕を極めつつ脇腹を蹴りつけた。

「て、てめぇ!放しやがれ!!」

その声の主は井竹であった。上擦った声が無様であった。うろんな視線を投げかける斧堂。

「ああ?なんだそりゃ?人にものを頼む時の口の利き方ってもんを、誰にも教わんなかっ

たのか、ぼうず?」

執拗に高田を足蹴にする斧堂。井竹の心許ない自制心が吹き飛ぶ。高田が攻め苛まれてい

るという事実よりも、自分が虚仮にされている、という事実に対してキレたのである。彼

の位置から攻撃を仕掛けるには高田が邪魔であったが、もはやそれさえ井竹の頭の中には

ない。

「こんの、くそガキがぁ、舐めやがってぇええ!!」

殆ど無意識に、ポケットのジャックナイフを投げつける。それを追う様に、斧堂へと飛び

掛かっていった。斧堂がナイフを半身でかわすと顔面に左の掌底を叩き込んだ。鼻血が吹

き出し膝から崩れる。そのまま、高田の上に折り重なる様に倒れた。

「は、あんたらの手並みじゃあ、バックもたかが知れてるなぁ」

腰を下ろし高田に語りかける。睨み付けて来る高田の右腕を更に捻り上げ

「がぁ、てめぇ…」

「おお、おっかねぇ!まぁだそんな顔できんだ。ちったあ、愛想良くしなよ。何ならこの

場で、あんたらの喉笛かっ切ってやったって良いんだぜ?」

「…」

なけなしの気力を振り絞り斧堂を睨み付けていた高田であったが、半笑いの斧堂に慄然た

るものを感じていた。こいつはヤバい、と。

「それと、もう一つ言っとくぜ。あの女はな、俺達の獲物なんだ。今日はよっく判った筈

だろ、てめぇらの不甲斐なさをよ?だから忠告しとくぜ、とっととあんたらのボスに泣き

つくんだな、俺達じゃあいつらにはかないません、とっととしっぽ巻いて逃げましょうよ、

ってな!」

立ち上がると最後に一発脇腹を蹴り上げ、腕を放すと来た道を引き返してゆく。伏したま

ま深刻な表情を浮かべる高田。自分達と角逐する勢力が出現したのである。しかも、斧堂

の実力から察するに、かなり手強い相手の様である。深刻にもなろうというものであった。

足音が聞こえなくなると自分の上で伸びている井竹を押し退け、鼻血をティッシュで処理

する。

「おい、このボケ!」

井竹の頬を数発張った。開いてもはじめ虚ろであった双眸は、やがて高田へ焦点を合わせ

た。

「ぁ、高田さん…」

「高田さん、じゃあねぇ!とっとと起きやがれ!」

頭を叩かれ、顔をしかめつつ井竹はのろのろと立ち上がった。鼻血が垂れているのに気付

き、差し出されたティッシュで拭う。

「畜生、あのガキ!いったい何者なんだ?!」

「それだ。どうやら厄介な事になりそうだぞ」

高田の言葉に井竹の表情が強張る。厄介、とは、つまり自力で如何ともし難い状況、とい

う意味なのである。

「つまり、そいつは…あいつは…」

「ああ…恐らく、バックに結構なのがいやがる。俺達と同じ目当てのな。しかも、あんな

手練れを抱えてやがるんだ」

「くそ、チャカ持たされてたら、あんな奴!」

「そんな目立つ事が出来るか!第一持ってんのが見つかったら、捕まっちまうぞ!!」

再び井竹の頭を叩く。これまでの彼等の行状だけで、充分に逮捕の理由にはなるであろう

が。そもそも匕首やジャックナイフの所持だけでも充分に銃刀法違反である。

「だいたい、チャカの一丁や二丁で済む問題じゃあねぇ!」

「じゃあ、どうすりゃいいんですか?!」

「決まってるだろうが!応援を頼むんだよ!」

「え、黒石の旦那に?」

井竹が絶望的な表情を浮かべる。たかが女子高生一人連れ出す事に手間取り、あまつさえ

応援要請である。ガキの使いも出来ないのか、と叱責される事になりかねないのであった。

「それしかねぇだろうが?それとも何か、他に妙案でもあるってのか?」

暫し黙考ののち、井竹は力無く首を振る。

「判ったな?だったらねぐらに戻るぞ。早速連絡を入れなきゃな。な、ぼうず」

体を引き擦る様な痛々しさで、高田は歩き出す。鼻を気にしつつ、井竹もそのあとに続く。

 路地を出、左右を窺いつつ去ってゆく二人の背中を、電柱の影から見届ける者があった。

斧堂であった。彼は立ち去ったと見せかけ、彼等の会話を盗み聞きしていたのであった。

元は二人を尾行する為であったが、思いがけない情報も入手できここまでの首尾は上々で

あった。

「黒石…」

二人の会話の内容からすると、今回の一件の直接的な指揮者であると思われる。恐らくは

所属組織内でも結構な地位の人物であろう。これで相手の洗い出しはより楽になった筈で

ある。十分な間が空くのを待って電柱の陰を出、ささやかな街灯の周囲に蟠る闇に潜み、

尾行を開始する。そして、吉川との遭遇によってそれを中断せざるを得なくなったのであ

った。


 翌日の連絡会(昼休みの保健室における増井との打ち合わせを二人はこう呼ぶ事に決め

た)は、昼休み終了の予鈴のだいぶ前に済んだ。黒石という名の調査リストへの追加と、

仮の”戦闘用員”召集申請及び指揮権限発行の認可確認、そして昨晩の活動報告程度しか

用件はなく、増井も斧堂の要請に対する認可が下りた事、チンピラ達の調査が一両日中に

は終了するらしい事程度しか報告すべき事項は無かったのである。活動報告に対しては

「それが、こちらの望む通りに転がれば宜しいですね」

と、皮肉とも、単なる感想ともつかない態度で一言返したのみであった。

「では先生、有難う御座いました」

一礼し、斧堂は保健室を後にしたのであった。


 「現地から連絡が入った?」

車に乗り込むなり、五条の切り出した用件に、唸る様に黒石は問い返した。

「はい。どうやら難航している様で。何やら凄腕の男にしてやられたと」

「凄腕?そいつぁ、どこのどいつだ?」

「それは不明です。顔写真でも撮影しておいて欲しかったのですが。まあ、それはともか

く、件の男には何かバックがついている様な口振りだった、と当人達は言っています」

当人達、とは言わずもがなの井竹、高田のコンビである。彼等は斧堂の言葉を殆どそのま

ま伝えていたのであった。

「ふぅ…その話、本当だと思うか?」

「それは、彼等の言葉を疑っている、という事で?」

女子高生一人を拉致するのに時間を掛けすぎている二人の、口から出任せの言い訳、とい

う可能性も無いとは言い切れないのである。

「そうじゃねぇ。奴等がそんな見え透いた嘘をつく様な馬鹿どもなら、根本的に俺達は人

選を間違えたって事だ。問題は、その凄腕ってのが本当にどこぞの組織のモンか、って事

だ」

「あくまで可能性という事で言えば、それは充分あり得ると思いますが。組長の言う『狸

オヤジ』が、二股を掛けていた可能性も」

「へっ!だとすりゃあ、立石組も随分と舐められたモンだな!」

不愉快げに助手席の後部を殴りつける。助手席の若い組員が思わず身を竦めた。

「その時には、ケジメは組長が取ってくれるでしょう。それより我々はどうすべきでしょ

うか?」

「決まってる、そうだろうが」

右手の拳を左手の掌に叩き付ける。

「相手が何者だろうが叩き潰すまでよ!お前はどうだ?」

「もちろんです」

頷いてみせる五条。もとより障害物は除去する事しか彼らの念頭には無い。五条も、退却

の為の算段などつける段階に無いと考えているのであった。

「こうなりゃ話は決まりだな。さぁて、あと何人送り込んでやろうか?」

「相手の勢力が判然としない現状で最適解というのは難しいでしょうが、とりあえず二十

名以上を送り込んで様子見、という所でしょうか?」

「ま、相手を知るにゃ手頃な所だな。俺達も出るぞ。こいつは現地で指揮を執らにゃなぁ

?」

黒石は楽しげである。子供の様にはしゃいでいる。

「左様で。それがいいでしょう。私も相手を見てみたい」

余裕の笑みで応じる五条。二人を乗せ走り続ける高級外車。その行く先には、風に吹き寄

せられて暗雲が垂れ込めつつあった。間もなく一雨来るであろう。


 金曜日の放課後である。駐輪場には斧堂と嶋本の姿があった。吉川は女子バスケットボ

ール部員と共に汗を流している。彼女がいれば、正門近くに二人で待って貰うのであるが、

一人校外の近くで待たせて置くのは心許なかった。たとえ人の目があるにしても。駐輪場

は正門から見て敷地内の左端にあり、正門のほぼ正面に位置する教室棟とは学課棟(化学

室や音楽室、保健室等が集中している)と両棟間の中庭(教職員の駐車場、駐輪場がある

)を隔てているため、登校時間の微妙な自転車通学者(バイク通学は禁止である)には、

教室から遠いと不評であった。

「すいませんね、付き合わせてしまって」

愛車の傍らでチェーンロックを外そうとしている斧堂へ、嶋本は小さく首を振ってみせる。

「いいえ、皆さんのお仕事には協力しなければ…」

言ってから、嶋本は斧堂がなぜか冷たい目で自分を見上げているのに気付き、息を呑んだ。

自分が失言をした事に思い至るまでには、多少の時間を要した。

「…友人同士の会話として、それはどうでしょうか?」

小声で問うてくる。その口調は、酷く冷淡であった。保護すべき相手に対して、それはい

ささか突き放した態度である。確かに常日頃からの心掛けに些か欠ける所のある発言では

あったろう。しかし、いま二人の周囲に人影は無いのである。

「…申し訳ありません」

小さく頭を下げる。

「謝る必要はありません。気を引き締め直して下されば良いのです。お互いの為に」

グラウンドから、運動部の掛け声が遠く聞こえてくる。辛うじて彼女に聞き取れる程度の

囁き声で、斧堂は言った。外したチェーンロックをハンドルに巻き付け、再び鍵を掛ける。

愛車を引き出すと、二人は寄り添う様に校門へと向かったのであった。


 扶桑国際警備本社ビル。西日の差し込む十五階の廊下を、見吉は足早に歩いていた。こ

の階に彼女の部屋はない。彼女はある公官庁より戻ったばかりであり、二十一階の自室へ

戻る前に『伝書使』の成果をある部署に届けるという、最後の役割が残っているのであっ

た。

 廊下の向こうから、HITが歩いてくる。クリームホワイトの強化プラスティックでボ

ディの要所を覆われた警備システムの人型端末は、高く膝を上げ二足歩行している。胸部

には『TTー3』と大きく印されていた。このビルは、扶桑国際警備株式会社の開発した

システムの運用評価試験場でもあった。『自分の作った料理を自分で食べる』のである。

この時、見吉はかなり不機嫌であった。訪問先で、不愉快な思いをしたのであった。その

鬱憤を幾分でも晴らせれば、気分を変えられればと、彼女は行動に出たのであった。

「はーい、TTー3。ねぇ、調子はどう?」

その進路に立ち塞がり、相手を試す様に見吉はHITの顔にあたる、緩やかな局面で構成

された有機ELディスプレイを見詰める。立ち止まったHITは、額の部分に設置された

CCDカメラで相手の顔を撮影、画像処理サブシステムを通してデジタルデータ化し、デ

ータベースの顔データを検索、並行処理される音声識別と併せ最も適合する人物オブジェ

クトを識別し、その身分、監視システムのアクセスレベル、立入地区の適性(その場所に

居てしかるべきか否か)等を個人情報より判別、対応パターンを決定する(検索失敗時に

は、IDカードの提示を求める等の措置をとる事になる)。それが友好的対応であれば、

そののっぺらぼうの顔面に無個性な男性の笑顔(この場合はであって、相手が男性ならば

女性となる)を投影する。

「こんばんは、みよしふくしゃちょう。ちょうしはりょうこうです」

いかにもな合成音声ではないが、やはり自然な人間の声からは遠い。返答のタイムラグは

僅かであった。音声や文字の入力に対する構文解析、意味解釈エンジン、及びそれが検索

する応答パターンのデータベースは未だ強化の余地ありとはいえ、それ相応のパフォーマ

ンスを保っている。が、見吉は一瞬残念げな表情を浮かべ、直ぐに笑顔を取り戻した。相

手は、外見はともかく、中身はまだまだよちよち歩きの幼児と大差ない事を、見吉は重々

承知していた。

「そう、それは良かったわね。でもね、こんにちは、よ。まだ日もあるでしょう?」

窓を指さす。TTー3はそれに従い顔を窓へ向けたのであった。ビル群の背後に薄れゆく

陽光の残滓が、長い影を作りつつ名残惜しげに蟠っている。

「アクセスレベルAー2による、たいおうパターン・シナリオ七〇一三ー二へんこうよう

きゅうじゅだく。こうりょうけいそく。しきいちさいせってい。すこしおまちください…

顔面に三桁の数字が表示され、カウントダウンを開始した。やがてそれが『000』とな

ると数回点滅し、消える。先程と変わらぬ表情を浮かべたTTー3は改めて返答した。

「こんにちは、みよしふくしゃちょう。ちょうしはりょうこうです」

「良くできました。それとね、私の事は、見吉副社長、じゃなくて、見吉さん、で良いわ

「たいおうパターンへんこうようきゅうじゅだく。こしょうへんこう。すこしおまちくだ

さい…こんにちは、みよしさん。ちょうしはりょうこうです」

「オーケー。じゃ、頑張って」

ぽん、と一つ肩を叩く。

「りょうかいしました」

見吉がその前より退くと、TTー3は歩み去っていった。

「少しは賢くなった、かしらね?」

幾分は気も晴れた様である。去りゆく背中を暫く見送った後、見吉も前を向き本来の目的

地へと再び歩を進める。

 ”電子情報分析室”のプレートが貼り付けられた扉の横に設置された非接触型カードリ

ーダへ、首から吊したIDカードを近付けると、短い電子音と共にカチリ、という音がす

る。彼女のIDならば、ビル内の殆どの扉を開く事が出来るのであった(中には暗証番号

入力や指紋照合等を併用しているものもあるが)。

「取り上げて来たわよ」

室内に足を踏み入れるなり、扉間近でPCに向かっている青年へ溜息混じりにそう声を掛

ける。

「ご苦労様です、副社長」

液晶モニタから視線を外すことなく、労る様に青年は返答した。

「あちらも大分渋ったんじゃありませんか?」

「ほんと、もううんざりだわ」

言いながら、手にした茶封筒を差し出す。

「下らないご託をごちゃごちゃと。だから役人なんて嫌いなのよ!契約書になんて書いて

あるか、熟知している筈なのに!!」

「でも、副社長が相手でなければ、こう簡単に彼等もこれを渡したりはしませんよ」

封筒から目当てのものを取り出す青年。それはアクリルケースに収められた一枚のDVD

ーRであった。ケースから取り出し、PCのDVDドライブに呑み込ませる。

「この件に関する情報漏洩の対処はこちらに権限がある事ぐらい重々承知のくせして、あ

の爺ども!こっちがまだ若いからって、舐めてるんだわ!!」

せっかく下火となった憤怒の炎が、再燃する。

「なら、後で締め上げて下さい。これの解析次第では、彼等に一泡も二泡も吹かせられま

すよ」

「そうね。期待してるわよ。出来たら直ぐに連絡をちょうだい」

作業を開始した青年の肩を叩き、見吉は部屋を後にしたのであった。


 日曜日のアーケード街といえば、大抵はそれ相応に賑わうものである。駅前のアーケー

ド街もかつてはそうであった。麗らかな昼下がり、駅北口前のロータリーを抜け一歩、足

を踏み入れる。しかし、昨今そこから左右を見渡して目に付くのは、シャッターを下ろし

た店舗ばかりである。その半ばには『テナント募集』等のプレートが掲げられており、人

影も疎らである。その光景はアーケード街全体で見られ、営業しているのは僅かな飲食店、

居酒屋、コンビニ、ゲームセンター、本屋、文具店等であり、その凋落ぶりは覆うべくも

ない。

 そもそもこうなった原因は何か?その大半は駅の南口近くに進出してきたショッピング

モールにあった。進出計画の提示された当初、商店主協議会は反対したのであったが、市

当局は許可を出し、オープン後数年にして客の流れを完全に変えさったのであった。

 ブロック敷きの街路を直進する。やがてアスファルトに変わる、アーケード街の外れに

そのビルはあった。名は第一明星ビル。四階建ての、小規模オフィス向けである。緑灰色

のタイル張りで、築十年余りであるが入居テナントはない。否、なかった、三日前までは。

 ビル正面玄関で、井竹と高田は直立していた。全身に緊張感が漲っており、井竹ですら

あのふてぶてしい態度は微塵もない。

「くそ、また便所に行きたくなってきた」

「てめぇは小便小僧か!」

忙しなく視線を左右に巡らす井竹を、叱りつける高田。

「でも高田さんよ。きっちり時刻通りに来るのかねぇ?」

「若頭は時間にうるさい方だそうだからな。いいから黙って立ってろ」

今の時刻は十六時五十分。黒田を筆頭とする増援の一団が到着するのは十七時。特に時刻

変更の連絡はなく、あと十分以内に到着するであろう。トイレに行く暇などありはしない。

そうこうするうち、複数の重々しいエンジン音が重なり押し寄せてくる。曲がり角より黒

塗りの高級外車が姿を現す。一団の中には国産車も含まれてはいるが、やはり外車が主で

あった。

「来たな」

高田が時計をちらり、覗く。時刻は十七時ちょうど。二人は姿勢を正し車を迎える。アー

ケード街の通りを完全に塞ぐ様に一団は停車した。二人の間近の車、その助手席から短髪

の若者が降り後部座席のドアを開いた。他の車からも続々と近寄り難い雰囲気の男達が降

り立つ。

「ご苦労様です!」

一斉に頭を下げる二人の前に、五条と、続けて黒石が降り立つ。ビルを一瞥し

「ここか?少々手狭そうだな」

頭を下げたまま、その一言に井竹ら二人は内心縮み上がった。

「まぁ、急遽借り受けたのですから」

助け船を出す様な格好で五条が応じる。連絡を受けた五条は幾つか二人に指示を与えたの

であるが、その一つが三十名近い人間が詰められる拠点となるべき建物の調達であった。

指示に従いこの物件を見つけた彼等は、非常に有利な条件で借りられたのであった。

「ところで、駐車場はどうなっている?」

五条の問い掛けに、二人は顔を上げる。

「地下に六台入ります」

シャッターの上がった地下駐車場への斜路を示しつつ、高田が説明する。

「一台分、足りねぇな?」

唸る様に、黒石が訊ねてくる。

「あ…ち、近くに、この裏手の駐車場があってうちらのもそちらに…」

「一台は斜路で見張り台代わりにしましょう」

冷や汗を浮かべろれつの回らぬ高田へ、素っ気なく今度も五条が助け船を出す。

「ま、そうだな」

高田を一顧だにせず黒石は頷いた。

「では、中を案内して貰いましょうか?」

五条に水を向けられ、恐縮しながら井竹らはビルの中へと黒石達を先導したのであった。


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