死神は、舞い降りた
プロローグ
夜風が身を切るほどに冷たい、そんな季節。深夜、静寂のなか安らかな眠りについた高
級住宅街である。整然と建ち並ぶ邸宅の間を、この時間帯には珍しく、数台の高級外車が
いずこかへ急ぐ姿があった。いずれも闇に溶け込むかの様な黒色で、ただヘッドライトと
常夜灯の明かりがそのシルエットを浮かび上がらせる。それらはやがて一軒の家の前で停
まった。豪邸とまではいかずとも、なかなかに瀟洒な三階建てである。車の扉が開かれ、
中より数人の男達が続々と降り立った。みな闇色のコートに身を包み、ただならぬ雰囲気
を纏っている。
「ここか……」
最後に降り立った男は、前に進み出ると家を見上げ呟いた。痩身をライトグレーのコート
に包み、縁無し眼鏡と相まって、知的な印象を与える風貌である。渺茫たる常夜灯の投げ
かける光のなか、闇の具象の如き男達に比して、彼一人が浮き上がって見える。一つ息を
つき、眼鏡を掛け直した。吐息が白く流れる。彼が左右へと首を巡らすと、控えていた男
達は小さく頷き、周囲に気を配りつつ動き出した。一人が玄関先に立ち、取り出した鍵を
鍵穴に差し込み、回す。扉が開かれてより十分と経たぬうちに、その惨劇の幕は切って落
とされたのであった。
「ねぇお嬢さん。いい加減に話してはくれませんかねぇ?」
酷薄な笑みを口元に貼り付かせたまま、男は眼前の少女に噛んで含める様に話しかける。
縁無し眼鏡の男である。その言葉遣いこそ丁寧であるが、その声音は多分に冷酷さを含ん
だものであった。この三十分余りというもの、彼は何度も同様の言葉を口にしていたので
あった。
「……」
無言のまま、パジャマ姿の少女は男を怯えと猜疑の入り交じった目で見上げるばかりであ
った。高校生であろうか。なかなかに愛嬌のある顔立ちである。それが今は恐怖のためか、
強張った表情を浮かべているのであった。大の男二人がかりで椅子に押さえつけられ、自
由を奪われているのであれば、当然ではあろう。
「あなたのお父さんは、全て教えてくれましたよ?本当に物わかりの良い方ですなぁ」
眼鏡を掛け直し、ちらり、背後へ視線をやる。そこには先程彼に何事か耳打ちした、強面
の男が立っている。左の頬には、刃物によるであろう傷が横に走っている。
「…」
教えてくれたのじゃなくて吐かされたのでしょ!?心の中で反駁する。この男達が家に乗
り込んできたとき両親は一階で寝ていた筈であり、どの様な状況に置かれているか不明で
あったが、この不逞の輩共が欲している情報は守られなければならない、という義務感を
植え付けたのは他ならぬ父親であった。とはいえ、彼等はか弱き一般市民である。暴力の
前に節を曲げる事もあろう。そう、ただの一般市民であった、父親が国家機密に関与しう
る立場の人間である、という事を除けば。こうなれば、自分一人だけでも硬く口を閉ざし
何も語るまい、そう、彼女は堅く心に誓うのであった。これは彼女一人、加藤家一家のみ
の問題ではないのであったから。自分が口を開けば、無二の親友、その家族にもこの災厄
の累が及ぶのである。自らが誰より信頼し、未だ何も知らされずにいる友人を、この様な
目に遭わせるわけにはゆかないのであった。
「やれやれ、本当に強情なお嬢さんだ」
芝居がかった仕草で溜息を一つつき、首を振ると男は中腰になり、少女を正面から見据え
る。
「あなたが今日、帰宅途中に郵便局へ立ち寄ったのは判っているんですよ。あなたは分厚
い封筒を、誰かに送った。その送り先を教えて頂けるだけで、あなたはこの窮状から解放
されるのです、判りますか?我々としても、暴力は望むところではない、という事を判っ
ては頂けませんかね?」
冷淡な口調で話しつつ顔を近付ける。ごく間近で睨み合う二人。
「…尾行けていたのね、私を…」
暴力に訴えておいて何を言っているの、という心の声を呑み込み、初めて少女がまともに
言葉を発する。叩き起こされた時には口を塞がれており、呻き声を上げるのが精一杯であ
った。
「止むを得ない事です。あなたがお父さんからどういった説明を受けたのか知りませんが、
彼の行為は立派な犯罪なのですから」
「…」
犯罪、の二文字に絶句する。
「いいですか、あなたが誰かに送ったメディアに納められた情報は、本来さる公官庁によ
って管理されるべきものであって、それを不正な手段であなたのお父さんは手に入れ、自
身の利益のために利用する事を目論んでいたのです。かつて官民を問わず、多くの情報漏
洩事件が取り沙汰されていましたが、この一件もその様なものの一つ、という事です」
あくまで落ち着き払ったその言葉に説得力を感じて、しかしそれを強く振り払う。父はそ
の様な事をする人物ではない、という強い信頼感の故に。
「…嘘、嘘だわ」
男は目を細め、口元を歪めた。
「ほう。ではお聞かせ願えませんか、私の言葉が嘘だという根拠を?ただ単に信じている
から、などという曖昧かつ主観的な根拠は受け付けませんよ」
釘を刺されてしまった。それでも必死に抗弁を試みる。
「どうして、そんなものを娘に託したりするの?貴重なものなら自分の手で、どうにかし
ようとする筈よ」
「したくとも、出来なかったのですよ。彼は我々の目が自分に向けられている事を知って
いた。おいそれと自らの手で処分するわけにはゆかなかったのです。つまり、我々の目を
欺くため娘であるあなたの手を煩わせた、という行為じたい、彼に罪の意識があった、と
いう証ではありませんか?」
「そんな…あれは国にとってとても重要だから、信じられる人に託して欲しいって」
「仰る通り。重要だからこそこうして、隠密裡に我々が回収に動いているのですよ」
自信に満ちた男の言葉の前に、少女は次の言葉を発する事が出来なかった。確かに、この
一件に関して父の言動には不審な点が幾つも見受けられたのであった。数日前、深刻な表
情をして帰宅するなり、父親は一枚のCDーRを彼女に手渡し、『誰でも信頼出来る人物
に送れ。』と告げたのである。ファイルには高度な暗号化が施されており、彼女が入手し
うるどのアプリケーションでも開く事は不可能であった。復号化する専用ブラウザから要
求される解読コードが判らない限りは。内容について父に尋ねても、「知らない方がいい。
ただ、この国にとって重要な事だ」の一点張りであった。これではいかに強い絆で結ばれ
た親子であろうとも、疑念の生まれる余地も出てこようというものであろう。その様な心
情の変化を見て取ってか、男は口調を和らげ、一気に畳みかける。
「今ならまだ、間に合います。あれを受け取った人物が、何らかの行動に出る前に回収で
きれば、表沙汰にならずに済むのですよ」
それは悪魔の囁きであった。疑念によって生じた警戒心の亀裂は、今の一言によって更に
大きくなってゆく。
「判りますか?表沙汰になりさえしなければ、我々としてもあなたのお父さんをそう邪険
に扱うつもりはありません。まあ、多少のペナルティは覚悟して頂く必要があるでしょう
か」
悪魔は囁き続ける。更に広がる亀裂の内側から、脆く、柔らかい本心の核が姿を覗かせる。
「…本当に?本当に、大丈夫なの?」
遂に、遂に彼女は悪魔の差し出した手へと、その手を伸ばしたのであった。
「もちろんです」
優しげな笑みを浮かべ自信ありげに頷いてみせる。縋る様に男を見る少女であった。
「素直に返却頂ければ。ただし、この件に関しては固く口を閉じて頂く事になるでしょう
が。もし、その方が内容を目にしてしまった場合には、少々面倒な事になるかも知れませ
ん」
男の含むところありげな言葉遣いにも、いまや少女は疑念を抱く精神的余裕を失っていた
のであった。ことここに至っては、少女はCDーRの送り先に対し、未だ解読コードを知
らせていない事を幸運と思っていたのであった。復号化のための解読コードは、送り先の
落手確認後父から聞き、別途彼女自身のメールで送付する事になっていたからであった。
安全策としてそうしたのであるが、本来の意図とは別の意味でこれは正解であった。この
まま解読コードを送らずにCDーRが回収されれば何も問題はない…
「送り先は?」
「…送り先の名前は…」
一人の女性の名を告げる。住所と、そして、自身との関係。
「あなたは賢い方だ。ご協力、感謝しますよ」
男は立ち上がり、少女の前から退く。思わず安堵の溜息が漏れる。男の言葉通り、少女は
これでこの窮屈な状況から解放される、と思っていたのであったが
「?ちょっと、あなた達…」
彼女が解放される事はなかった。入れ替わり後ろで控えていた男が彼女の前に立つ。
「!何をす…」
彼女の言葉は、押さえつけている男の手がその口を塞ぐ事で途切れた。正面の男が、彼女
の家で使用されていた電源コードを取り出した。それが、その細い首に巻き付けられる。
男の両手には、薄手のゴム手袋がはめられていた。彼と言わず、男達は全てそうであった。
「ああ、そうそう。一番大事な事を言い忘れていましたね」
部屋を出かけ、眼鏡の男が背後へ首を巡らす。
「この一件に関わった人達は、みな口を封じる事になっているのですよ。それが、多少の
ペナルティ、という事ですね」
男の言葉を、少女はひどく遠いところで聞いていた。電源コードが首に食い込んでゆく。
いかにもがこうと男達の力の前には蟷螂の斧である。視界がひどく狭まり、意識からは、
あらゆる色が消え、白一色となり、一転、暗闇へと落ちてゆく。
『一家三人、無理心中か!?』
その様な新聞記事が掲載されたのは、翌日の夕刊であった。小さなその記事の内容を、各
紙共通している情報で要約すると、次の様になる。
『一月十日昼頃、東京都××区在住の加藤孝之氏(四九)宅で一家三人が変死しているの
が発見された。発見者は同氏の部下であり、無断欠勤のうえ連絡も取れないため同氏宅に
確認に赴き発見したものである。夫の孝之氏と妻の滝絵さん(四六)は一階で首を吊って
おり、二階では長女の澄子さん(一七)が扼殺されていた。警察では孝之氏が澄子さんを
殺害後、滝絵さんの後を追ったものと見ている』
遺書は無く、無理心中の動機として、孝之氏が防衛省の役人であり、一部で噂に上ってい
る装備調達費流用による裏金作り、私的流用疑惑に関与している可能性があり、近々開始
されると言われている本格的な捜査を恐れたため、などという憶測が付記されていた。し
かし、その点に関するより具体的な記述も無く、一家心中の動機としても不自然さは拭え
ず、結果的に大衆の耳目を集めるには至らなかった。一般の社会人でさえこの新聞記事に
目を釘付けにされる者はごく僅かであったろう。ましてや一介の女子高生などは。
「澄子、さん…」
かつての親しき隣人の不幸に驚き、わざわざ娘の部屋まで新聞を持って上がってきた父親
(珍しく定時退社し、夕食の支度が整うまでの一時を、夕刊に目を通す事に費やしていた
)の前で、少女は色を失ったのであった。
「まさか、こんな事になるとはなぁ…そういえばお前、まだ澄子さんと交流があったな?
」
「ええ…手紙や、あとメールも…」
力無く少女は答える。かつての幼馴染みに降りかかった突然の災厄。あたら若い生命の終
焉。しかも、病死や事故死という、時として不可避なものでなく、無理心中の巻き添えと
は。加藤家の人々を知る彼女にとって、それは何より信じ難い、受け入れ難い最期の有様
であった。
「大丈夫か?気分が悪いなら早く横になりなさい。夕食も運んでこよう」
娘の余りの顔色の悪さに、心配した父親が気を利かせ、そう提案する。
「…いいえ、大丈夫です」
ようやくそれだけ答え、変わらず心配顔の父親と共に、夕食の用意された一階のダイニン
グへと下りていったのであった。
彼女の元へその厚みのある封筒が届けられたのは、翌日の早朝であった。差出人の名を
見た少女が、その段ボールで保護されたケースよりCDーRを即座に取り出し、PCに掛
けてみたのは当然の事であった。収録されていたのは、幾つかのフォルダに分類された意
味不明な名前のファイル群とプログラム。暗号化されたそれらは開けなかった。プログラ
ムを起動しても入力要求される解読コードが判らないため、先に進まない。この一枚のC
DーRが彼女の人生を大きく変える事となるのを、しかしこの時彼女は夢想だに出来ずに
いたのであった。
第一章
玄関を開け放てば、雲一つない蒼天が広がっていた。時は三月、暦の上では既に春では
ある。もっとも、風は未だ冷たく、雨ともなれば身を切るかの様な寒さに震える事もしば
しばではあるが。とはいえ日毎に陽光はその力を増し、本格的な春の到来を予感させるの
であった。
時刻は七時半少し前、ブレザーの制服姿の女子高生は、玄関を出、門扉を開くと、いつ
もの通学路へと踏み出したのであった。名を吉川直美という。身に
つけた制服は私立芙蓉薫学園のものであり、彼女はその二年生で
あった。
「はぁあ」
ショートヘアを左手でなでつつ、鞄で口元を隠し欠伸を一つ。彼女の家から学校まで歩い
て十五分余り、余裕は十分、というより早すぎる程であった。しかし彼女は大抵この時間
には家を出る事にしていた。その理由はといえば、途中で一人のクラスメイトと合流する
為であった。
丁字路の向こう、同じ制服姿の女子高生が佇みこちらを見ているのに気付き、彼女は手
を振りつつ駆け寄ってゆく。佇む少女もまた、小さく手を振り返す。
「お早う、一美。今日はちょっと早い?」
「お早う御座います、吉川さん…まだそれほど急ぐ必要はないと思いますが」
一美と呼びかけられた女子高生は、スマートフォンの画面をチラリと見遣り静かに、涼や
かな声で返答した。彼女の名は嶋本一美。吉川のクラスメイトであ
る。肩に掛かるストレートの黒髪を、左手で背後に流す。サラサラの黒髪が陽光を受け、
ハイライトが踊った。『吉川さん』と呼ばれて、吉川の笑顔が僅かに翳る。もう何度、『
直美』で良いと注意した事であろうか?しかし、その度に嶋本は困った様に視線を揺らめ
かせ、曖昧な笑顔を浮かべて見せるばかりであった。それが悲しくて、今では注意もして
はいない。してはいないのであるが、やはり二人の間に越えられぬ壁がある事を痛感させ
られ、寂しさを覚えるのであった。その壁が築かれた理由を、彼女は未だ知らずにいる。
「…そうだね」
「はい…その、あの番組、拝見しました」
「あの番組?ああ、見たんだ」
「はい。パーソナリティーの方達が面白かったです」
正直なところ、だめもとで振った話題であった。嶋本が好んで見る様なテレビ番組を、吉
川は殆ど見ない。しかし、相手は自分の方へ近付く努力をしてくれているのである。単純
ではあるが、それは嬉しかった。面より陰を消し去る。
「そうでしょう?こういう事じゃ、私の目に狂いはないの」
「はい」
ニコリ、嶋本が微笑む。二人並んで歩き出す。他愛のない会話をしながら、ふと朗らかに
笑う一美の横顔が、吉川の中であの日と重なる。あの、ムンクの描いた病床の少女の様な
横顔と。
「嶋本、一美です」
伏し目がちに、宜しくお願いします、と続いた声は小さく、聞き取り難かった。愁いに沈
んだその陰気な表情は痛々しく、また奇妙な事に、自身の名を口にするのにぎこちなさを
感じさせたのであった。それは緊張している、というのとも異なる様であった。ちょうど
記憶喪失の人間が、知人と名乗る者から自分の名前を教えられ、半信半疑ながらもそう名
乗るとこの様になるのであろうか、などという想像を弄ぶ吉川であった。彼女の席は吉川
の右横。
初めの数日こそ、転校生に対するありがちな好奇心から嶋本の周囲に募ったクラスメイ
ト達であったが、その纏った陰気な雰囲気、そのあまりに重い口に興を殺がれたか、間も
なく離れていった。吉川自身はその様を傍観していた。陰気さを倦んだがためであった。
普段でこそ明るく振る舞ってはいても、彼女の、否、吉川家の人々は心に一生癒えぬであ
ろう傷を抱えており、嶋本の纏うその雰囲気は、ちょうど季節の変わり目に古傷が痛むか
の如くそれを疼かせるのであった。その様な調子であるから、極力嶋本の方は意識しない
様に努めていたのであるが、時折視界の隅に入る嶋本は孤独に苛まれつつも、どこか安堵
している風に見えた。
そんなある日、嶋本がちょっとした注目を浴びる出来事があった。抜き打ち試験好きの
数学教師が本領を発揮した際の事である。問題内容はなかなかにひねりが利かせてあり手
強く、休み時間中、生徒達は不満をならしつつそこここで解答について議論の華を咲かせ
ていた。その中にあって、ぽつりと取り残された生徒が二人居た。一人は嶋本、もう一人
は吉川であった。勉強全般、体育を除けば特に得意なもののない吉川は、殊に理数系を苦
手としており、試験の類は墜落寸前の低空飛行に終わる事を常としていた。そして、試験
の後は半ばゾンビ状態となるのである。それを承知しているクラスメイト達は、この様な
とき放置を決め込むのであった。
「…」
偏頭痛に苦しむかの如く頭を押さえる吉川。一方で隣の嶋本は、何事も無かったかの如く
次の教科の準備を行っているのであった。その表情から出来の善し悪しは読みとれない。
「…あの、嶋本さん?」
彼女自身が不可解と思う事に、吉川は、嶋本に声を掛けたのであった。
「はい?」
嶋本の手が止まる。驚きの表情とともに、嶋本は吉川の方を向いたのであった。
「あの、さっきの抜き打ちテストなんだけど、さ…出来た?」
「そうですね。一通り設問には解答しましたが、なかなか凝っていましたし、全てが正解
かどうかは…」
「そう。そうなんだ…」
思わず溜息が漏れる。彼女の場合、設問の半分にも解答できず、更にそれらが全問正解し
ている確率は、億単位の宝くじに当選する確率よりは多少高いか、という程度であろう。
「…前の学校の方が進みが早かったですし、おさらいをしていた様なものでしたから」
嶋本がフォローの言葉を口にする。しかし、それも吉川にとってはたいした慰めにならな
い。全くの勘頼みならばいざ知らず、おさらいをした程度で自分があの難問達に一通り解
答出来るとは思われなかったのである。
「…当てずっぽうでもいいから、埋めとけばよかったかなぁ…」
「過ぎた事は仕方がありませんし…それより、いいのですか、もうすぐチャイムが」
嶋本の言葉を遮る様にチャイムが鳴る。その時になって初めて、吉川は自分が次の授業の
準備をしていない事に気付いたのであった。
翌日、解答用紙返却の時である。吉川は嶋本の実力の一端を垣間見る事となる。
「ケアレスミスが惜しかったわね。でも担当クラス中では一番よ!」
嶋本の危惧していた通り、解答の全てが正解、という訳ではなかった。不正解が一問、し
かも計算結果の回答欄への転記ミスさえなければ満点の筈であった。
「はい…以後気をつけます」
解答用紙を手渡されながら、照れた様な微笑を見せる嶋本であった。
この休み時間、再び嶋本の周囲は騒々しくなっていた。彼女を褒めそやすクラスメイト
に、吉川にしたのと同じ説明を繰り返す。その困った様な、しかし柔らかな微笑みを湛え
た横顔に、なんだ、こんな表情も出来るんじゃない、と吉川は心の中で呟いたのであった。
吉川は幼い頃よりスポーツが得意であったし、好きであった。故あって芙蓉薫学園では
帰宅部で通してきたのであるが、運動部から依頼があれば大抵の助っ人には応じる、とい
った体であった。吉川と嶋本、二人の関係が単なるクラスメイトより僅かに縮まるその経
緯には、彼女のこの得意分野が関係してくる。あの抜き打ち試験より数日後、体育の時間
の事である。女子は体育館でバスケットボール、男子は陸上競技でトラックを走らされて
いた。
四チームに分けられた女子生徒達は、トーナメント形式で試合を行ったのであるが、吉
川と嶋本はチームメイトとなった。特に球技を得意とする吉川の実力は皆の知るところで
あり、徹底的なマークがつく事となる。碌にパスも通らず、間もなく時間切れで彼女のチ
ームは負け、という状況でボールを手にした吉川には、二つの選択肢が残されていた。位
置的に難はあるもののシュートを放つか、あるいは誰かにパスを回すか、である。瞬時に
彼女は後者を選択した。視界にノーマークの人物、つまり嶋本を捉えたからであった。彼
女は最初から、誰の目にも明らかに試合の展開から取り残されており、相手のチームも序
盤からマークを外していたのであった。彼女の運動音痴ぶりは、クラス中の知るところと
なっていたのである。ボールにも殆ど触れてはいないであろう。
「嶋本さん!」
決して深い考えがあっての行動ではなかった。ただ、嶋本がノーマークでシュートには格
好のポジションに立っていた、というだけであった。彼女が、まさか自分にパスが回って
来ようなどと夢想だにしていなかったであろう事は、声を掛けられた時の唖然とした表情
からも見て取れる。しかし、その様な相手の状態にはお構いなしに吉川の腕は伸びきり、
ボールは宙を舞っていた。それは、決して嶋本に芳しい結果を期待しての選択ではなかっ
た。もはや彼女達のチームは敗北が確定的であった。ならば結果はともかくも最後にチャ
ンスを与えてもよいのではないか、と、これは後付けの理由ではあったが。嶋本は、それ
でもパスを受け、ゴールへと向き直る。しかし、一連の動作の緩慢さをついてカットに入
ってきた相手チームのクラスメイトが、シュートを決めようとジャンプしていた彼女と接
触、着地するや背後に倒れてしまう。ボールはゴールを大きく逸れ、試合終了のホイッス
ルが鳴る。
「大丈夫!?」
倒れたまま左足首を押さえ苦痛に顔を歪めている嶋本へと吉川は駆け寄った。
「捻挫の様だけれど」
嶋本を気遣う体育教師とカットした生徒の間に入る。なるほど、ソックスを下ろすと露出
した足首は腫れ始めている。
「大丈夫?」
保健委員が近付いてくる。
「はい…少し捻っただけですから」
「すまないけれど、保健室へ連れて行ってくれる?」
体育教師の指示に頷き、保健委員は嶋本に手を貸し立ち上がらせる。
「あの、私も付き添っていいですか?試合も終わったし」
不意の吉川の申し出を、しかし体育教師は了承したのであった。吉川のパスを受けた結果、
彼女がアクシデントに見舞われたとも言えるのである。その事に何らの責任もないとはい
え、そうとは割り切れぬ吉川の性格を、教師は承知していたのであった。
「いいわ、二人で付き添ってあげて」
保健委員と吉川とで嶋本に肩を貸し、三人は体育館を後にしたのであった。
保健室に養護教諭の姿はなかった。名を増井恵理といい、グラマラス
ななかなかの美女である。そのためか男子生徒からの人気が高い、らしい。もっとも、そ
れは生徒に限った事ではなく、教師の中にも彼女へモーションを掛けているのが何人もい
る、ともっぱらの噂である。
「あら、また居ないようね、先生」
室内を見回し、保健委員は小さく溜息をついた。増井がよく行方不明となる、というのも
有名な話ではあった。しかし、職員会議等でそれが問題となった、という話は保健委員も
聞いた事はなかった。吉川は気にする風もなく、処置の準備を進める。冷蔵庫を開け冷却
枕を取り出すと、タオルに包みソックスを脱いでいた嶋本に渡し、暫く冷やしていて、と
指示する。
「あ、御免なさい。一人でやらせてしまって」
手伝おうと動き出した保健委員を制し、包帯と鋏を取り出す。
「それにしても、困ったわね、肝心な時に」
冷却枕で足首を冷やしつつ、ポツリ、嶋本が答えた。
「先生には、他に、色々と仕事がおありですから…」
「え?」
保健委員は怪訝げな顔をした。転校してまだ日も浅い嶋本が、養護教諭の行動を把握して
いるとは思われず、病弱などの理由により嶋本が保健室に通っていた、という話も聞いて
はいなかったのである。
「嶋本さん、あなた先生の居場所を知っているの?」
「あ…いえ、そういう訳では…」
しまった、といった風な表情を浮かべ、曖昧な返答をする嶋本。
「何かあるの?」
「ええ、その…その、昔病気で入院していた事があったもので、一応その相談にのって頂
いた事が。その時にお話もしたと思います」
「そうなの?私は聞いていたかしら?」
「もうすっかり良くなりましたから。あくまで一応でしたし」
「そう」
会話が進むうちにも、ベッドに腰掛けた嶋本の左足首に、これも冷蔵庫から取り出した冷
湿布をしテーピングをする。
「はい、終わり。どう、痛みは?」
「まだ、少し。でも、大分楽になりました」
「そう?放課後にでも先生に見てもらった方がいいわ。付き合ってもいいわよ?」
「有難うございます。随分と、手慣れたものですね?」
「まあね。昔から怪我とは仲良しだから」
少し照れた様に微笑む吉川。それにつられる様に嶋本もまた微笑んだ。終業のチャイムが
鳴る。
「体育が終わりましたね。教室に戻りましょう」
吉川と保健委員が再び肩を借し、三人は保健室を後にしたのであった。
「ふんふん。これなら通院も必要なさそうね。アイシングを続けて、明日中にでも普通
に歩けるんじゃないかしら」
嶋本の捻挫の具合を確認した後、増井はもの柔らかな声でそう診断を下し頷いたのであっ
た。
「さすが吉川さんの手当だわ。相変わらず的確ね」
「そんなぁ」
面と向かって言われ、吉川も照れくさげであった。増井は冷湿布を取り替え、包帯を巻き
直す。
「明日まだ痛いようなら来て、痛み止めをあげるから。腫れがひくまで冷湿布は続けてね
」
「はい。有難う御座いました」
吉川の肩を借りて立ち上がると、嶋本は一つお辞儀をした。
「一つ、借りを作った様ですね」
斜陽の差し込む廊下を正しく肩を並べて歩きつつ、嶋本が素直に謝意を表した。
「借りなんて考え方しなくていいのに。元はといえば、私の出したパスのせいなんだし」
「いいえ、これはあくまで私の失態です。吉川さんに責任はありません」
「そう?」
そのまま、しばし黙考ののち。
「あの、本当にそう思ってる?」
「ええ」
微笑みつつ嶋本が返答をする。吉川は何事かを言いたげであった。
「どうしましたか?」
「うん…だったら、その、もし借りを返す気があるんだったら、でいいんだけど」
「何ですか?私に出来る事なら、何でも言って下さい」
嶋本の表情が真剣なものとなる。
「いや、それほど大した事じゃないのかもしれないけど…ところで、嶋本さんて数学以外
に何か得意な科目ってある?」
「得意科目ですか?そうですね…体育を除けばみなそれなり、でしょうか」
「そっか…なら、お願いしようかな?」
「何ですか?」
「実はね。恥ずかしながら今度の中間、平均以下だとお小遣い半額にされちゃうのよね。
ひじょーにピンチなの。それで、とりあえず中間だけ、勉強を見てもらえたらなぁ、なん
て」
ちらり、恥ずかしげに嶋本を見やれば、彼女は破顔していたのであった。
「私で宜しければ、喜んで」
果たして、嶋本の言葉に嘘偽りは無かったのであった。中間試験前の一週間、二人は一
日交代で相手の家で勉強会を開いたのであったが、嶋本は一流の家庭教師であり、またヤ
マ張りの達人でもあった。彼女のたてた出題予想はその殆どが的中し、吉川の各教科の点
数を前学期の期末と比べ平均して三十点余りも押し上げ、一部生徒からカンニング説が流
れたほどの躍進ぶりであった。この結果、全教科平均点以上、という当初の目標は達成さ
れ、本来ならば減額される筈であった小遣いの一部で、吉川は嶋本に携帯ケースを送った
のであった。そして、一ヶ月以上が経った。吉川の知る由もない事情のため失われていた
嶋本の笑顔は完全復活を果たし、またその事情の為に、吉川は最悪級の災厄に見舞われる
事となるのであった。
それは閑静な住宅街の一角にある、純和風の屋敷であった。建物に比して敷地面積は不
釣り合いなほど広く、駐車場には常時数台の、黒塗りの高級外車が停車している。出入り
しているのも、高級スーツに身を包み、眼光鋭く人を威圧するかの様な空気を纏った男達
が大多数であるが、時折、高価な西陣織等を着付けした婦人の姿も見受けられるのであっ
た。
「おやっさん、例の件、手配いたしやした」
母屋の縁側の一角、髪をオールバックにしたその男は座布団に正座し、ドスの利いた声で
報告した。長身とは言えまいがダークグレイの高級ブランドのスーツがひどく窮屈そうな
印象を受ける、厳つい体躯の持ち主である。それを縮こまらせ頭を垂れていた。男の、そ
の右の頬には引きつれがある。傷痕から察するに、銃弾か何かで頬肉を削がれたのであろ
う。
「そうかい、ご苦労さん」
そう声を掛けたのは白髪の老人であった。縁側に端座し、アルミサッシ越しに庭を眺めて
いる。古希は迎えたであろう、こぢんまりとして一見楽隠居を決め込んでいる好々爺の風
である。
「ま、顔をあげな。で、何人送ったのだい?」
男の方へと顔を向け、半身を乗り出し、老人は問いかけたのであった。男が上体を起こす。
「外郭団体の者を2人。この仕事次第でバッジが付けられると言ってありますが」
「2人?少なくないかねぇ?」
「相手はたかが小娘1人、少ないとは言えないと思いますが。事前の調査では、学校は警
備会社と契約していて手は出せませんが、登下校を狙えば2人で十分かと。それに、よそ
のシマで目立つマネは避けたいところで」
「…」
「…もちろん、手こずった時の為に、他に兵隊の用意はしておきますが」
不信げな老人の表情に、男がそう付け足す。それでも、老人の表情は完全には晴れない。
居住まいを正し、老人は言った。
「まあ良かろう。所詮はしがらみから止むなく引き受けた仕事、こちらの尻に火がつかん
程度に、程々にな。あの狸爺も、そろそろ政界を引退しそうだしなぁ」
男には老人の、その消極的な態度に察するところがあった。
「例の、虫の知らせ、ですか?」
「ふむ…言わなかったかねぇ?この一件、話が出た時から疼き続けているのよ」
背中をさすってみせる老人。老人の名は立石麟太郎、神奈川を
拠点とする暴力団立石組組長である。彼が組一つを構える様になるまで、幾多の修羅場を
くぐり抜けねばならなかった事か。その様な綱渡り人生のある日、彼は対立する組の組員
からの、不意の斬撃により背中を負傷する。以後、その古傷の疼きでおおよその危機を予
知できるようになった、という事であった。
「それも、一向に納まる気配がないわ。お前が考えている以上に、ひょっとするとこの仕
事、骨かもしれんなぁ」
「厄介な事になればこの黒石、自ら乗り込んでカタを着けやす。おやっさんの心配も、そ
れで消えるでしょうな」
男は自信ありげに答えたのであった。立石組若頭、黒石茂道。立
石組きっての武闘派であり、荒事の陣頭指揮を執る事も多い男である。
「ならいいのだがな…そう言えば、学校が契約している警備会社の名前は、なんと言った
かな?いざとなれば、侵入もせねばならんじゃろ?」
相手が与し易いか否かが気にかかったのであろう。
「警備会社、ですか?…確か、扶桑?そう扶桑国際警備、とか言いましたか」
「扶桑、か…何か、噂を耳にした様な気がしたが」
あれは何だったか、などと呟きつつ暫し噂について記憶を辿るが、やがて諦める。
「ふーむ、歳はとりたくないの」
「思い出せないという事は、大した噂ではない、という事なのでは?」
「そうかもしれん…そうかもしれんが」
「必要とあれば、大勢で乗り込み連れ出しやす。まぁ、寮も無い様ですし、登下校する生
徒全員に警護でも付けられたら、の話ですが。さすがにそれはないかと」
「…それも、そうじゃな」
暇を告げて黒石は立ち上がった。縁側を後にする。
「五条若頭補佐、黒石若頭がお帰りです」
畏まりつつ若者の呼びかける声に応、と答え、母屋の一室で同輩達と車座になり四方山話
に興じていた一人の男が立ち上がる。ライトグレイのスーツに身を固め、縁なし眼鏡を掛
けた、どちらかと言えば痩身の男である。頭を下げたままの若者の横を通り抜け部屋を出
る。三和土で黒石は待っていた。
「おう、待たせたな」
「組長の反応は、いかがでしたか?」
「話は車内でだ」
黒石は五条を従え、玄関を出たのであった。
駐車場から玄関先に回された車に乗り込み立石邸の門を出ると、黒石がようやく口を開
く。
「近頃のおやっさんにも困りもんだな。何かと言っちゃ不景気な顔をする。あれじゃ下の
モンにも示しがつかねぇ」
「例の、『古傷が疼く』ですか?単なる、寄る年波のせいだと思いますがね」
黒石が破顔する。
「ま、しかし、あれにも何度か助けられたのは確かだしな、そうそう無碍にも出来ねぇさ
」
「組長は、何を気にしておられるのですか?」
「ふむ、具体的なところは、特にな…ああ、今、調べ物出来るか?」
ふと思い出し、そう訊ねる。
「はい、ネットワーク上の情報なら」
上着の内ポケットよりスマートフォンを取り出し、検索ワードの入力準備をする五条。
「準備出来ました。で、何を?」
「扶桑国際警備、って警備会社だ」
五条は軽やかに画面上をタッチしつつ検索キーを入力し、検索結果を待つ。
「これは例の情報提供者の情報にあった?」
「ああ。場合によっちゃ、学園内に侵入しなきゃならねぇだろうしな」
検索結果が出る。数件ある候補のうち、扶桑国際警備の公式ホームページを開く。
「扶桑国際警備…略称はF.I.S.、創業は…」
「どんな感じだ?」
「えー、扶桑国際警備。主な業務内容は名前の通り警備業務の請負、警備システムの開発、
管理、運用、保守。その他防犯商品の開発、製造。昨年度の年商は一九八四億円。世界五
十三カ国に支社、営業所を展開、と。ここまでが公式ホームページの情報です」
「非公式の方はどうだ?」
「検索します」
五条はブックマーク登録されたURLを選択、アンダーグラウンドな情報の吹き溜まりへ
と潜り込んでゆく。
「顧客情報の一部ですか…ほう、ハリウッドスターや政治家等も顧客にいるようですね」
「そんなこたぁいい。何か胡散臭そうなネタは無ぇのか?」
「そうですねぇ…いえ、特には…ええ、やはり。これといってきな臭いものはありません
ね。とりあえず、ここで調べられる事は、この程度ですか」
ブラウザを閉じると、待ち受け画面に戻る。内ポケットにスマートフォンを滑り込ませる。
「つまり、どういう事だ?」
「この会社について今言える事は、会社としての規模はまずまずの大きさですが、ごく真
っ当な単なる警備会社である、というところですか」
「つまりは、少々派手にやらかしても黙らせる事は出来る、って話か」
黒石が忍び笑いを漏らす。高級外車は黒石の事務所へと走り続ける。
「この街も、悪い意味で都会化しつつあるのですね」
保健室の備品をチェックしながら、保健委員が不愉快そうに言う。性格ゆえか、彼女は保
健委員の活動にも熱心であり、増井が依頼する事は、大抵嫌な顔一つせず協力してくれて
いるのであった。今も放課後に残って保健室の備品の残量チェックを手伝っているのであ
る。
「確かに、そんな怪しげな男達がうろついているのは、好ましい事ではないわね」
「はい。警察に働きかけて、パトロールを強化してもらえないものでしょうかね?あるい
はもっと警備員さんに目を光らせて貰うとか」
保健委員が問題としているのは、この一~二日前より学園の周辺に出没している二人組の
男達の事であった。登下校時、男達は生徒達に誰彼構わず声を掛け、何事かを尋ねている
という。
「警備員の管轄はあくまで敷地内だけだから。姿をちらつかせても、せいぜい牽制くらい
にしかならないわね」
「それでも、あんな事は減らせると思いますけれど」
「あんな事?」
「はい」
保健委員の説明によれば、遂に昨日の夕方、クラスメイトの女子生徒が怖い目に遭ったと
いうのである。二人連れで校門を出て少し歩いた路上での事であった。
「男の一人が、一枚の写真を見せたのだそうです。写っていた女性がクラスメイトに似て
いたので一瞬顔色を変えたのでしょうね、二人が知らないとしらを切ると急に態度を変え
て、威圧する様に情報を引き出そうとしたそうです。逃げだそうとしたら、腕を掴まれた
そうですよ!幸い、防犯ブザーを持っていたので男達を撃退出来たそうですけれど」
「それは災難だったわね。その写真の生徒って?」
「それが、彼女達の言うには嶋本さんに似ていた、と。ご存じですよね、嶋本さん?」
チェックシートをマークしかけていた増井の手が止まる。
「…先生?」
突然押し黙った増井に、保健委員は怪訝げに振り向いたのであった。
「…ええ、そうね。髪の長い、清楚な感じの?」
保健委員から俯いた彼女の顔は見えない。しかし、彼女の声は心なしか固い。
「ええ、恐らくそうですね」
保健委員は増井の変化には無関心の風である。
「この話、桐島先生には?」
桐島とは、保健委員達のクラスの担任である。
「耳にしている筈ですが」
「そう」
増井は顔を上げた。不安を滲ませた表情をしている。
「大変だわ」
小さく呟いた。
「この話、見過ごしには出来ないわね。怪しげな男達がこの学園の生徒を捜しているなん
て、どう考えても穏やかではないわ」
「全くです!」
「この件に関しては私からも働きかける事にします。そこで、お願いがあるのだけれど」
「何でしょうか?」
「その、災難に遭った生徒達を放課後にでも連れて来てくれないかしら?その時の状況を
詳しく聞いておきたいの」
それは至極当然な要求に思えたので、保健委員は快諾したのであった。
副都心に並ぶビル群。長期に及んだ不景気時には、かつての建設ラッシュが夢幻であっ
たかの如く空き地が目立ち、そのまま寂れるに任せるかと思われたその地区にも、数年前
からクレーンの林立する光景が戻って来ていたのであった。その一角、二十二階建てのそ
のオフィスビルも、その様な時代を潜り抜け竣工されたものであった。正面玄関の案内板
には『扶桑国際警備株式会社』の文字。社名は英語、中国語、韓国語でも併記されている。
ビルの二十一階、窓外は既に宵闇に閉ざされ、鏡と化した窓ガラスは、広々としたデス
クに着いたスーツ姿の一人の女性、その後ろ姿を映している。首から下げたIDカードに
は、顔写真、肩書きと共に『見吉 八重香』とある。年の頃は三十代
半ば、右目の下の泣きボクロがチャームポイントのその女性は、スレンダーな肢体をゆっ
たりと革張りの椅子に沈ませ、足を組み、電話をしているのであった。
「…そう、それは心配ね。相手の正体は不明なのね?ええ…ええ、判ったわ、即刻調査部
に話を通すわね。写真は入手出来るかしら?…ああ、そう、なら、入手しだい送ってちょ
うだい。それと…ええ、そちらも手配しておくわ。実を言えば、もう既に派遣する人材に
ついては中りがついているの。メールをくれたタイミングが良かったわね。仕事から上が
ったばかりよ。これで休暇が先送りになってしまうけれど…男性よ、かなり若いわね。で
も警備員としては超一流よ。もちろん”戦闘用員”の面を含めてね。恐らく、あなたも名
前くらいは聞いた事がある筈だわ。今すぐ資料を送るわね。少し待っていて」
チラリとデスク上の液晶ディスプレイを見やる。開かれたウィンドウ上には、一人の警備
員の経歴表が表示されている。彼女の言う通り、貼付された写真は若い。高校生ほどであ
ろうか。鼻筋の通った、なかなかの美男子ではある。しかし、目つきや表情などは茫洋と
した印象を見る者に与えるであろう。とうてい見吉の口にした超一流という言葉に相応し
い鋭敏さは感じ取れまい。経歴表の氏名欄には『斧堂 緋刀志』とあ
る。彼女はウィンドウをアイコン化すると新規メールを開きアドレス帳から一つのメール
アドレスを選択、サブジェクトに『例の件』とだけ入力しアイコン化したウィンドウを添
付、本文無しのまま送信する。
「今送ったわ。では、彼が到着するまで彼女を宜しくね。”お父さん”、”お母さん”と
も連携を一層密にして…ええ、信じているわ。彼が到着したら、彼の指示に従ってちょう
だい。そうすれば、恐らく全てがうまくゆくから。他に何か…そう?では、また何かあっ
たら連絡をちょうだいね」
通話を終え、スマートフォンを上着のポケットに滑り込ませると、優雅に立ち上がる。窓
外には、人工的な色とりどりの灯りが闇という舞台の上、各々の個性を主張しつつ競演し
ている。それらを眺めつつ、暫し彼女は鼻歌を口ずさむ。
「さぁ、早く帰っていらっしゃい、私の可愛い子犬ちゃん。私の元へ」
歌うように、そう口にする。窓ガラスに映る彼女の微笑みは、窓外の灯りにも負けぬほど
の輝きを放っていたのであった。
第二章
朝の定期便は、定刻より二十分遅れで空軍基地上空に姿を現した。その特性を活かし、
急な進入角度からCー17が滑走路にタッチダウンする。ブレーキに巨大なタイヤが軋轢
音と白煙を上げ、四基のエンジンが逆噴射状態となる。ゆるゆると機体はスピードを落と
してゆく。機体のサイズには不釣り合いなほどの短距離着陸であった。
「ミスター斧堂、到着です」
少尉の襟章を付けた青年(日系三世と話していた)が、右隣の男に米語で声を掛ける。呼
び掛けられた若者、と言うより少年と呼ぶべき男は、はぁ、と生返事を返したのみであっ
た。
「長旅ご苦労様でした。機内サービスも無くて申し訳ありませんでしたが」
少尉は人懐こい笑顔を作った。それに、少年も薄い笑顔で応える。
「いいえ。それより、さすがは軍用機ですね。空中給油で無着陸ですから」
少年も流暢な米語で返答する。
「それがこれの、数少ない取り柄の一つですよ」
機体は滑走路を離れ誘導路から駐機場へと滑り込んでゆく。誘導員の指示で、やがて機体
は所定の位置で停止したのであった。搭乗員の操作により機体後方の貨物室扉が開放され
る。
「さぁ、降りましょう」
二人は席を立ち、貨物の脇を擦り抜け、駐機場に降り立った。高く屹立した垂直尾翼と,
それにT字型に交差する水平尾翼の長く伸びた影が切れたところで、数人の将校が直立不
動の姿勢を保ったまま二人を待ち構えていた。二人は立ち止まり、少尉と将校達は敬礼を
交わす。
「ミスター斧堂をお連れしました」
「ふむ、ご苦労」
返答し、先に敬礼を解いたのは壮年の、二メートル近い長身を誇る白人の高級将校であっ
た。
「それでは失礼させて頂きます」
「うむ」
鷹揚に頷く高級将校の前で型通りに回れ右をすると、そのまま歩み去る少尉。
「当基地へようこそ、ミスター斧堂。私は基地司令のスタンリー・ロックウォールです」
斧堂へと右手を差し出しつつ、基地司令と名乗った高級将校は斧堂へと微笑みかける。社
交儀礼的な笑みである。いま、自分の前に立つ少年は、聞いた話を額面通り受け取るなら
ば、ただ者ではあるまい。俄には信じ難いが、確かにあの堅物のうるさ方が特別に軍施設
を使用できるよう働きかけたのだ、この未成年の、黄色人種の民間人の為に。ならば愛想
の一つも振りまいておくべきであろう?彼にとって相手は十八という年齢以上に幼く見え
た。さしずめあの一件で彼に貸しを作った誰かの子息か何かが、わがままを言って輸送機
への搭乗という、滅多にない機会(入隊すれば話は別であるが、それはまずあるまい)を
設けてでももらったのであろう、などと想像を逞しくし、一人で納得したのであった。
「斧堂、緋刀志です。扶桑国際警備の、警備員です…」
司令の右手を取ると、二人は固い握手を交わした。先に仕掛けたのは司令の方であった。
目一杯の握力をもって親愛の情を示す。しかし、眉根一つ動かさずそれに応じる斧堂の思
いがけない握力に、今度は基地司令の表情が束の間歪む。振り切る様に司令は握手を解い
た。背後の部下達に見えぬよう右手をさする。
「しかし、一民間人相手に基地司令自ら出迎えというのは、少々やりすぎでは?」
全くもって。しかし、これも職務のうちなのでね。
「下院議員から、くれぐれも失礼の無い様に、との仰せでしてね」
「お気遣いなく。アメリカから直行便に便乗させて頂いただけで恐縮しています」
「その程度のこと!あなたが我が国の安全保障に、いかに貢献したかを考えれば、とても
釣り合いはしませんな!」
聞いた話の全てを信じている訳ではないがね。
「そうですか…」
基地司令と少年の握手する様を、搬送作業の手を止め二人の兵士が見守っていた。
「何だ、あのガキは?オープンハウスの時期じゃねぇぞ?」
怪訝げな様子の兵士に、相方が答える。
「実はな、あのジャパニーズボーイが例の、ハリー・ヘイワードの命の恩人だぜ?」
「ハリー?もしかして、下院議員の?あんなガキが命の恩人だって、冗談だろ?」
「冗談で司令殿が握手なんかするかよ」
ハリー・ヘイワード下院議員は、アメリカ合衆国下院の中でも古参に入る人物である。医
療分野関係を政治基盤に持ち、違法薬物取り締まり強化に尽力し当選を繰り返してきた。
米軍と南米諸国軍との共同作戦である麻薬密造基地急襲潰滅作戦の熱心な支持者でもある。
その彼が、ある演説の中で麻薬密造に関与していると目される企業とテロ組織が、その資
金と軍事力の癒着関係にあるという情報を得、現在調査の準備中である旨を口に上らせた
のであった。それがテロ組織を刺激しない筈もなく、早速刺客を差し向けられる羽目とな
った。車で移動中の議員を彼らは襲撃し、この時の銃撃戦により彼の護衛は大半が死傷、
議員は窮地こそ脱したものの、一時ではあるが邸宅に事実上逼塞を余儀なくされたのであ
った。襲撃された状況から、法執行機関の中にテロ組織の協力者がいる可能性が高く、安
易に頼る訳にもいかないのであった。襲撃犯の捕捉が遅々として進まなかったのも、その
傍証と言えた。そこで下院議員はかねてより評判を耳にしていた扶桑国際警備アメリカ支
社に連絡を取り、超一流の警備員を派遣依頼したのであった。そうして派遣されたのが彼、
斧堂緋刀志であった。彼は数人の同僚を指揮し、議員の警備を行う一方で一ヶ月余りを掛
けてテロ組織の支援団体を潰滅させ、そのメンバーや国内に留まっていたテロリスト達の
多くを、司直の手に引き渡したのであった。彼等の活躍によって、そのテロ組織は少なく
とも当面のアメリカ国内での活動を諦めざるを得ず、企業にも捜査のメスが入る事となり、
法執行機関からも逮捕者が出そうな雲行きであった。下院議員は、その期待を遙かに越え
る活躍に感謝する事しきりであった。
「でもよ、あれってFBIの仕事なんだろ?あんなガキの事なんざ三大ネットでもCNN
でもFOXでも言ってなかったぜ?」
「へ、実はあんなガキの一味の手柄でしたなんて、政府が発表できるかよ。ま、俺だって
ちょっとしたつてからこの話を聞いた時には信じられなかったけどな。この事実を知って
んのはごく一部、ってわけだ」
「おい、お前ら!手がお留守だぞ!」
「いけね!」
機体の外で両手を組んでいる上官の声に、急にきびきびと動き始める兵士達であった。
「出来ればあなた方の手際を直接目にしたかったものですよ。さぞかし職務に対する誇
りを糧に、訓練に臨み鍛錬に明け暮れたのでしょうな」
全く、見てみたいものだ。どんな事をすれば、あの頑固者を上機嫌にさせられるのか。
「誇り、ですか?…残念ながら、私には仕事に対する誇り、と呼べるものはありません。
もし、あるとすれば、それは存在意義、ただ、それだけでしょう」
?何が言いたいのだ、このボーイは?
「はぁ…」
返答に窮した司令は、困った様に部下達を見回したのであった。部下達も困惑した様子で
視線を交わしている。
「…ああ、なるほど、立派な存在意義をお持ちのようだ。ところで、あなたの私物はまだ
搬出されていないのですかな?」
適当に言い繕いつつ輸送機を見やる。振り向いた斧堂は、いままさに搬出されようとして
いる青いシートを被せられた荷物を指さしたのであった。
「あれです」
「?バイク、にしては小さいですな」
シートが被せられているため判然としないが、それが二輪の乗り物であろう事はそのシル
エットから確かであろう。
「MTBです」
「自転車、ですか?」
「はい。どこへでも持参しています。長いつきあいですので」
なるほど、こういったところは年相応、と言うところかな?只でさえ若く見える東洋人で
あるのに、先程から落ち着き払い、酷く大人びた態度を崩さない眼前の少年の、思わぬ弱
点を発見した様な気がして、司令は胸中ほくそ笑んだものであった。
「そうですか。まぁ、それはともかく、朝食にしますか?士官食堂へご案内しましょう」
司令部の一団は踵を返し、斧堂と世間話をしつつ背後で待機していた四輪駆動車へと乗り
込み、走り去ったのであった。
芙蓉薫学園より少々離れた路地に、一台の国産車が止まってい
る。その運転席と助手席には、二人の男の姿がある。運転席の男は痩身で、開襟シャツに
灰色のジャケットを着込み、髪をオールバックにし、銀鎖のネックレスをしている。まだ
若い。二十代前半であろう。一方の助手席の男は対称的に厳つく、紺のスーツに派手な似
合わぬネクタイを締め、パンチパーマを当てている。四十代であろう。
「なぁ、高田さんよぉ、俺達いつまでこんな事してなきゃなんないんですかねぇ?」
ステアリングに寄りかかる様な姿勢で、前方、学園の方向に注意を払いつつ運転席の男が
横へと話し掛ける。話し掛けられた方は、舌打ちでもしたげな表情で小型の双眼鏡を下ろ
し、運転席の方を横目で睨んだ。彼は学園正門付近を観測していた。
「この女を見つけて、黒石さんのところへご招待出来たらだ。判るか、井竹の坊や?」
高田と呼ばれた男は、ダッシュボードの上に置かれた専用光沢紙を取り上げ、運転席へ滑
らせた。そこに印刷されていたのは嶋本に似た女子高生のバストショットであった。双眼
鏡を再び目に当てる。何年も前に止めた煙草が吸いたくなってくる。彼はこの仕事に辟易
していたのであった。それは仕事の内容ゆえに、と言うよりは、運転席で顎が外れんばか
りに欠伸をしている相棒の存在ゆえに、である。井竹という男は、彼が属する右翼運動団
体に参加してまだ日が浅く、躾もなっていなければ、忍耐力にも欠ける嫌いがあったので
ある。最低でも毎日一度愚痴を聞かされ続ければ、うんざりもしようというものであろう。
「今度の一件次第で舎弟になれるんだ、いい加減泣き言ほざくんじゃねぇ」
「そんな事言ったって、こんな事いつまで続けてても、埒が開かないんじゃないですかね
ぇ?」
少々強引な聞き込み調査が祟り、忽ち学園周辺は警戒が厳しくなってしまったのであった。
登下校の頃は教師達や警備員達が監視の目を光らせ、警官の巡回も多くなった様である。
この制約だけでも十分重いハンデであるが、更に彼らの手元にある情報は極めて少なく、
先程の画像と、名前、年齢、他に女子高生が通う学校名程度では、そう容易くターゲット
には遭遇出来ない状態が続いていたのであった。
「こんな事なら、あの時のガキども拉致って、洗いざらい吐かしゃぁ良かったんじゃない
ですかねぇ?」
「馬鹿言ってんじゃねぇぞ?俺達は何人にも目撃されてんだ、すぐ指名手配になる。ター
ゲットを探す為に、自由に動けなくなるなんざ、本末転倒ってもんだろうが」
高田は双眼鏡を持った右手で井竹の頭を小突いたのであった。
「俺達はここじゃ孤立無援なんだ、目立ち過ぎちゃ元も子も無くしちまうんだよ!」
もう十分目立ち過ぎでしょうが、と井竹は小さく悪態をついた。二人の間に険悪な雰囲気
が漂う。その様なちぐはぐコンビの存在に気付く筈もなく、いま二人の女子高生が接近し
つつあった。その様を、一人少々離れた場所から間接的に見つめる双眸があった。
「不味いかしら、ね?」
ほの暗い室内の壁一面を埋めるモニター群、そこに投影されたテレビカメラのカラー映像
(俯瞰視点である)、ナビゲーションシステムのCG画像等を見比べつつ、その女性は呟
いたのであった。年の頃は四十代前半、ベージュのカーディガンを羽織ったその出で立ち
はごく普通の専業主婦と見える。その部屋の有様におよそ似つかわしくないこと甚だしい。
「救援の要有り、ね」
両肘をついたコンソールの上に置いた買物籠を手に取り、その女性は立ち上がったのであ
った。
他愛のない会話をしつつ、なだらかな坂を登ってきた二人は、丁字路へ差し掛かった。
「じゃ、また明日ね」
「はい」
互いに小さく短く手を振りあうと、吉川は路地を曲がっていった。その後ろ姿が曲がり角
の向こうに見えなくなるまで嶋本は見送り、寂しげに一つ、小さな溜息を漏らすと再び歩
き出す。これより十分近く、彼女一人で家路を急ぐのが常であった。
先に嶋本に気付いたのは井竹であった。
「高田さん、あれじゃないすか?」
偶然気付いたのに関わらず、勝ち誇った様に声を掛ける。
「ああ?あ」
双眼鏡を下ろし、高田も確認する。
「ったく、どこ見てたんすか?」
「ぅうるせい、お前が気ぃ散らすからだ!」
言いつつ、出ていこうとする井竹の肩を捕まえ動きを制する。
「待て!もう少しで一人になるだろうが!」
丁字路の手前で手を振り合っている二人の姿を見、そう判断する。やがて嶋本一人がこち
らへ歩いてくる。横を通り過ぎようとした時であった。
「今だ!」
小さく叫び、二人は車から飛び出した。
「河野さんよ!」
井竹が呼び掛ける声をまるで他人事の様に無視し、通り過ぎようとする嶋本。しかし、呼
び掛けられた瞬間彼女が一瞬身をふるわせたのを、二人は見逃さなかった。嶋本に駆け寄
り、その前後を塞ぐ。
「河野さん、探しましたよ」
前に立ちはだかる高田が、嶋本に躙り寄る。
「…人違いでは、ないでしょうか?私は、河野ではありませんが?」
気丈にも高田を見返す嶋本。高田は鼻で笑った。
「はっ、こっちは、あなたが新しい名前を貰った事を知ってるんですがね。いや、名前だ
けじゃない、誕生日も出身地も何もかも新しく用意して貰って、今は別人として暮らして
る、って事も」
「何の事を言ってらっしゃるのか、私には全く」
「うざってぇな!四の五の言ってねぇでとっとと俺達と一緒に来りゃ良いんだよ!」
井竹が嶋本の言葉を遮り、彼女の右腕を掴むと車まで引いてゆこうとする。
「何をするんですか、放して下さい!」
右腕を引き剥がそうとする嶋本の左腕を、今度は高田が掴む。
「少し、我々に付き合ってくれるだけで良いんですがねぇ」
踏み止まろうとするが、大の男二人の力には抗う術もなく、両脇を抱え上げられ引きずら
れてゆく。声を上げようとして高田に口を塞がれる。車のエンジンは掛けてあった。後部
座席へ押し込めるべく、井竹が嶋本の頭を押さえつける。と、その時であった。
「あんた達、娘に何してるのよ?!」
家の方から鋭い、女性の声が飛ぶ。見れば、先程の主婦が買物籠を小脇に抱え、必死の形
相で一目散に駈けてくる。
「”お母さん”!」
声に気をとられ男達の力が弛むや、嶋本は二人を押し返し転げる様に主婦へと駆け寄る。
「やべぇ、逃げるぞ!」
高田が叫ぶ。ここで手間取る訳にはゆかないのである。ターゲットの確認は出来たのだ、
ここは退散するべきであろう。それは正しい判断であった。彼等にとって、最悪の結末を
回避出来たのであるから。二人は車に飛び乗った。アクセルをふかし、一目散に走り去る。
主婦は途中で道路にへたり込んだ嶋本へと走り寄り、助け起こす。
「どうも有難う御座います、”お母さん”」
肉親に対するには、丁寧過ぎる言葉遣いであった。
「遅くなってご免なさい。一応周辺を警戒していたものだから」
「いえ、大丈夫です」
スカートを叩く嶋本。”お母さん”と呼ばれた主婦が、それを手伝う。
「相手がずぶの素人で良かったわ。これを使わずに済んだもの」
買物籠の中に、無造作に押し込んであるコンビニ袋の塊をのける。その下から、黒光りす
る角張った金属が僅かに顔を覗かせた。それは、日本国内にあっては本来特定の業種に属
する者以外所持を禁じられている筈の凶器であった。
「本当に。ところで”お母さん”は本当に買い物に行くのですか?」
「ええ。でも、その前にあなたを家まで送ってから、ね?」
二人は微笑みあった。そして、仲良く並び歩き始める。
その日の夕暮れ、嶋本家の斜向かいに建つアパートの前に、一台の引っ越し業者のトラ
ックが横着けした。助手席から一人の少年が道路に降り立つ。斧堂であった。周囲を見回
し、開かれたままの助手席から運転手に声を掛けた。
「私は少し挨拶をしてきます。その間に搬入を宜しくお願いします」
運転手は頷き、嶋本家へと歩み去る斧堂を見送り降車すると、トラック後方へ回り込み、
エレベータを降ろし荷台の扉を開く。引っ越し業者のつなぎを着た作業員が数人姿を現す。
彼らは荷台からアパートへ、手際よく家財道具を運び込んでいった。それより三十分余り
のち、斧堂が嶋本家を後にした時には既にトラックの姿はなく、アパートの彼が入居する
部屋(二階の一番手前である)には、すっかりと生活可能な状態が整えられていたのであ
った。間取りは2K、ユニットバス付き。その六畳間には最低限の家具類が配置され、四
畳半にはトレーニング器機が置かれている。外に目を転ずれば、駐輪場には数台のママチ
ャリに混じり、一台のレーサー仕様のMTBが置かれている。彼の『相棒』である。一見
普通の車体には、トップチューブとリアのマッドガードに、電動のヒンジで可動する、用
途不明の分厚い金属板が設置されている。アパートに戻ると、まずはMTBのタイヤの空
気圧、ブレーキ、ディレイラー等のコンディションを確認した後、ハンドルの左右に設置
されたトグルスイッチを操作する。と、滑らかに金属板が立ち上がったのであった。トッ
プチューブのそれはチューブの左右に真ん中から折れていたのであるが、それが展開し一
枚の板状となる。幾度かスイッチを操作し、金属板のスムーズな動作を確認する。全てを
済ませると満足げに一つ頷き、斧堂は部屋へ戻ったのであった。
その日の朝、HR前の吉川達のクラスは、一つの話題で盛り上がっていた。本日からク
ラスメイトとなる転校生に関する、断片的な情報や憶測、願望等が飛び交っていたのであ
った。
「また転校生かぁ…何か、このところやたら転校生づいてない、このクラス?」
揶揄する様に吉川から話を振られた嶋本であったが、彼女はぼんやりとして返答がない。
「?一美?」
「え?あ、そう、そうですね…」
「…どうしたの、熱でもある?」
「いえ、ご心配なく!少し考え事をしていただけで…」
作り笑いで誤魔化す嶋本に更に問いかけようとして、吉川は口を閉じた。ここは深入りす
べきではあるまい、そう直感したのであった。体調が悪ければ素直にそう告げたであろう
し、大概の事は屈託無く話す程には、嶋本は心を許してくれているという自負はある。吉
川に対し誤魔化す様な態度を取ってみせたのは、深入りしてほしくない、という事なので
あろう、と。
「男子だそうですね、転校生の方は」
「そうなんだ…」
チャイムが鳴る。担任が一人の少年を伴って入ってきた。その少年に目が止まり、興味無
げな吉川の様子が一変する。息を止め大きく見開かれた双眸が、やがて微かに潤み出す。
「?どうしたのですか?」
今度は嶋本が尋ねる番であった。
「…ううん、何でもない…」
力無く首を振り、目頭に手を当てる。涙を拭う為に。
「今日からクラスメイトになる斧堂、緋刀志君だ。ご両親が亡くなられて、こちらの親戚
に引き取られたそうだ。この時期では殆どクラスメイトとして活動すると言う事も無いだ
ろうが、みんな仲良くしてやってくれ」
転校生の名前をホワイトボードに書いた後で、担任が傍らの少年を紹介する。担任に促さ
れて、斧堂は口を開いた。
「本日から皆さんと一緒に勉強する事になる斧堂です。先生の仰る通り、皆さんと共に机
を並べる期間は僅かでしょうが、皆さん、どうぞ宜しくお願いします」
静かに頭を下げる。クラスの生徒達は、一様な興味を示しつつも静かであった。彼ら、彼
女らにとって、その転校生はなかなかの整った顔立ち、立派な体格をしてはいるが、さほ
ど印象的な存在ではなかったのである。文章を朗読するかの様な、流暢で、つまり面白み
のない挨拶。とらえどころのない茫洋としたその表情が、関心を殺いだ事であろう。少な
くとも、二時限連続の体育の授業までは。この日の男子はバスケットボールの試合であっ
た。幾つかのチームに分けられ、総当たり戦が終業のチャイムまで行われる事となったの
である。斧堂のチームが最初に当たるのは、男子バスケットボール部員が大半を占めるチ
ームであり、彼我の戦力差には如何ともし難い開きがあった(戦力の均衡といった配慮は
なされなかった)。斧堂は転校初日と言う事で、他校の体操着姿である、が、それはまる
でおろしたての様であった。
「斧堂君は、バスケットの経験は?」
チーム唯一の現役バスケットボール部員に問われ、授業で多少経験しました、と、斧堂は
人に期待を抱かせない返答をしたのであった。もはや、勝敗は試合前より決していたも同
然であった。一面のコートで試合の順番を待つ間、チームのメンバは斧堂以外、パスやド
リブル等の練習をめいめい行っていた。斧堂はといえば、試合見学に熱中していた。研究
熱心な事だと、敢えて彼に声を掛ける者はなかった。やがて、彼らの出番となった、その
とき。
最初の五分余り、斧堂はボールに触れる事が出来ずにいた。彼が、というより彼のチー
ムがボールを支配出来ずに五分余りが経過したのである。現役選手がパスをカットしてよ
うやく支配出来たのであるが、即座にブロックに阻まれ身動きがとれなくなる。そこへパ
スを取りに来た斧堂が目にとまった。ままよ、とばかりにサイドから出したパスが通り、
斧堂の手にボールが渡る。そこから彼は、経験浅からぬ行動に出たのであった。ブロック
に入ったバスケ部員を前に、迷う振りをしつつ背後から接近してくる味方の現役部員へと
パスを通したのであった、相手を見もせずに。まるで後頭部に目がついているかの様であ
った。それより先は、その彼が窮すると斧堂がパスを取りに行き、即座に他のチームメイ
トへと変幻自在のパスを通す、という形で試合は進行していったのであった。斧堂は、時
にはブロックの股下を、時には自分の股下からバックへとパスを通し、またある時はシュ
ートと見せかけ背後へボールを送る。パターンはどうであれ、彼の手を離れたボールの描
く軌跡の先には必ずチームの誰かがおり、結果的にその多くがシュートへと繋がってゆく
のであった。彼の手に初めてボールが渡ってからゲーム終了までの間、相手チームは彼の
パス回しに翻弄され続けたのであった。それでも相手チームはやはり手強く、シュートの
多くはゴールを外れ、ボールを奪われ逆にシュートを決められる、という状況が続き、斧
堂達のチームは敗れた。
「なかなか、やるじゃない…」
斧堂達の試合を見学していた吉川がぽつり、呟く、その声には昔を懐かしむかの様な響き
があり、しかしその瞳は哀しげな光に揺れている。女子は陸上競技で、彼女は走り幅跳び
の順番待ちの間にふと思い立ち、体育館へと足を運んだのであった。
「ここに居たのですか?」
背後から声を掛けられ、吉川が振り向く。笑顔の嶋本が歩いてくるのが見える。
「あら、測定は?」
「終わったので、抜け出してきました。結果は…訊かないで下さいね」
小さく肩を竦めてみせる。
「転校生、ですか?」
「…」
吉川の横に立ち、出入り口から館内を覗く。
「上手な方ですよね」
「そうね…」
「何か、心に懸かる事でも?」
斧堂を見る吉川の双眸に宿る哀切の光に、嶋本は気付いたのであった。
「…ううん、彼には、何もない」
「そうですか?…私の方は、あるのですが」
「え?」
「朧げですが以前、会った記憶が。もう、随分と昔の事だと思うのですが」
「そう、なんだ…」
何事かを思い出そうとする仕草を見せる嶋本を見やる。しかし、間もなく小さな嘆息とと
もに、嶋本は観念した様に首を振ったのであった。
「駄目ですね、思い出せません」
「焦る必要ないんじゃない?それより行きましょ。先生に怒られそうだし」
「そうですね」
二人して校庭へと歩き出す。ふと、名残惜しげに吉川は今一度体育館を振り返ったのであ
った。
その日の放課後である。朝のHRの時とはうってかわり、斧堂の机の周辺には男子生徒
が何人も群がっている。男子バスケットボール部員達が、勧誘攻勢を掛けているのである。
「あと一年、いや、あと半年転校してくるのが早かったら!しかしだ、今からでも遅くな
い、君の力を貸してくれないか!?君ならあと半年は活躍出来る!」
さんざん斧堂に翻弄されたクラスメイトが力説する。君なら即レギュラー確定だと。そん
な勧誘の言葉を、しかし曖昧な笑みで丁寧に断る斧堂であった。
「お誘いは大変嬉しいのですが、実は、心臓の方に持病があるもので。体育の授業くらい
ならばまだ保ちますが、部活動はちょっと」
「そうか…ならせめて見学でもして行かないか?助っ人、という形でも構わないし」
あくまでも食い下がる部員。それを困惑気味に、しかし丁重に断る斧堂の様子を伺ってい
る嶋本と吉川。それに気付き、部員をはぐらかすかの様に斧堂は嶋本へ声を掛けたのであ
った。
「そう言えば、嶋本さん。もし間違っていたら申し訳ありませんが、小学校二年生の頃、
千葉市に住んではいませんでしたか?」
「え?は、はい、確かに」
続けて斧堂が小学校の名を口にすると、嶋本の表情が驚愕と、更に歓喜に彩られたのであ
った。
「やはり、あの嶋本さんでしたか」
「斧堂君、だったのですね。姓が違うので思い違いかも、と思っていました。見覚えがあ
る筈です、あの頃の面影が」
二人は旧交を温めだした。ただ本来ならば、昔話に華を咲かせるところであろうが、二人
の会話はどことなくぎこちない。もっとも、別れて十年が経過しているのである、語るべ
き思い出といっても、思い出すのも一苦労であろう。
「ええ?それって」
転校生二人が幼なじみという意外な展開に、吉川は目を瞬かせた。少々出来すぎな気もし
ないではないが、二人の過去に関して碌に情報を持たない彼女に、この偶然を否定する根
拠がある筈もない。
「こんな偶然も、あるのねぇ」
その言葉は、嶋本と斧堂の関係を指しているばかりではなかった。呟いた吉川にとっても、
斧堂の出現は偶然、という言葉を用いるに余りに似つかわしいものだったのである。しか
し、それは彼女にとって決して快いものではなかった。むしろ、癒えかけた傷を掻きむし
られるかの様な、悲嘆にくれた過去を否が応でも想起させるものだったのである。
「そうでしたね…ところで」
思い出話を中断し、斧堂は二人を見比べる。
「今日は転校初日、更にはこんな素敵な偶然にも恵まれた事ですし、私の部屋でささやか
ながらパーティーをしませんか?」
狭い部屋ですが、と付け加える。
「喜んでお受けします。吉川さんも、ご一緒にいかがですか?」
「え、そうね…一美が行くって言うなら…」
躊躇いがちに吉川は小さく頷いた。返答として、斧堂は笑顔を作って見せたのであった。
「決まりですね。では、そろそろ帰りましょうか」
吉川と嶋本は革鞄を、斧堂はディパックをそれぞれ手に、教室を後にしたのであった。
途中で二人と別れ、学生用駐輪場に斧堂は立ち寄った。そこには彼のMTBが停めてあ
る。チェーンロックを外してハンドルに巻き付け、ハンドルを握ると引き出す。周囲に他
の学生の姿はない。嶋本達は校門近くで待っている。教師や警備員達の目がある時間帯で
もあり、二人きりでも一応の安全は確保されている。引き戸の開かれる音がして、彼は振
り返った。駐輪場はちょうど保健室の裏手にある。
「初めまして、で宜しいでしょうかしら。斧堂、緋刀志さんですね?ランクAA+(ダブ
ルエープラス)の」
戸口に増井が立っていた。斧堂のあの茫洋とした表情は霧散した。眦が鋭くなり、締まり
の無かった口元もきつく引き締められる。彼を見詰めている白衣姿の養護教諭と視線を合
わせる。
「…増井恵理、ランクB+ですか?」
増井は小さく頷き、続いて斧堂へ頭を垂れた。
「挨拶が遅くなり、申し訳ありません。なかなか機会を得られなかったもので」
「気にする必要はありません。用件があればこちらから伺いますので」
養護教諭が一生徒に恭しい言葉遣いをもって接しているこの光景を目にした者があれば、
酷く奇妙に感じた事であろう。もちろん、人目のある場所でこの様な言葉遣いはするまい
が。
「クラスメイトには心臓に持病があると説明しているので、不自然ではないでしょう。そ
ちらにも話は通っていますね?」
「はい、伺っております。もし宜しければ、今からでも保護対象の警護プランについて相
談を」
増井の言葉を、落ち着いた声で斧堂が遮る。
「相手は不審者二名、でしたね?」
「はい」
「現状、それ以上の脅威の影は無いのですね?」
「現状は、掴めておりません」
「ならば、当面は私が保護対象の警護に専念するほか無いと思います。そちらで他の不審
な動きに目配りをお願いします。”お父さん”や防災センターとの連絡もより緊密に」
「…」
「他に無ければ、すいませんが今は急ぎますので。嶋本さん達を待たせているのです」
「…そうですか。では、また明日、さようなら」
「さようなら。昼休みにでも、保健室にお伺いします」
一礼し、斧堂は愛車へと向き直った。瞬時にまたあの茫洋とした表情に切り替わる。MT
Bを押しつつ離れてゆく斧堂の後ろ姿を、増井は身じろぎもせず見送ったのであった。
「意外に、ワンマンなのね」
それも止むを得ないか、と増井は思う。何しろ斧堂は、僅か二年あまりの間に社内では半
ば伝説と化したあの四人(今は三人か)のうちの一人なのであるから。もっとも、それは
ごく一部の間での、ではあったが。その個々人の様々な能力が突出しているがゆえワンマ
ンとなる、否、ならざるを得ないのであろう。
「…」
日が大きく傾き、冷え冷えとした外気が彼女を包んでいる。今更ながらそれに気付いた様
に彼女は一つ身体を震わせ、保健室内へ引っ込むと後ろ手に扉を閉めたのであった。
「すいません、お待たせしました」
MTBを押しつつ近付いてくる斧堂に、校門脇で会話していた二人は振り返った。
「何か、ちょっと意外ね」
斧堂とMTBを見比べつつ、吉川は知らず呟いた。その取り合わせに違和感を覚えたので
あった。MTBが珍しい、という訳ではない。転校前に住んでいた大都市(そこは故郷で
もある)では街中でよく見かけたものであった。こちらへ来てからも、幾度となく見かけ
てはいる。ただ、斧堂との取り合わせが問題なのであった。彼ならば、むしろママチャリ
の方が似合うのではないか、などと少々失礼な感慨を抱いたのである。
「そうですか?レーサー仕様で、結構高価ですから」
「へぇ、自分で買ったの?」
「いえ。興味がおありですか?」
「ううん。そういう訳じゃあ、無いんだけどね」
そうですか、と、斧堂は前へ進み出た。いっぽう、何を馬鹿な事を、と吉川は内心己を窘
めていた。新品とも思われないそれが親より買い与えられた思い出の品であったろう事は、
容易に想像がついた筈である。未だ傷心も癒えぬであろうに、安易に触れてよいものでは
あるまい。何より自分自身が、それを良く判っている筈であるのに。それも意外だなどと。
「どうしました?」
心なしか落ち込んだ風の吉川に、何も気付かぬ様子で斧堂が曖昧な笑顔で尋ねる。そこに
は先程増井に見せた鋭利さは微塵も無い。
「吉川さん」
嶋本の囁きに、逡巡より抜け出す。
「ああ…その、私達と一緒に帰るんじゃ、乗っていけないわね」
作り笑顔の裏で、我ながら下手な話題の切り替え方ね、などと思う。
「ええ、押して行きますよ」
「大変ですね」
嶋本の呟きに近い一言に、斧堂は小さく首を振って見せる。
「大切なパートナーですから」
そのパートナーを押しつつ歩き続ける斧堂に促される様に、嶋本と吉川は並んで斧堂の後
を歩き出したのであった。
結局この日、件の不審者達が彼等の前に姿を現す事は無かった。昨日の失態で警戒の目
が厳しくなった可能性を考慮しての事であったろう。嶋本家の前を通り過ぎ、アパートの
入り口を潜る。駐輪場にMTBを繋ぐと、三人はアパートの階段を上がってゆく。
「引っ越ししたばかりでまだ散らかっていますが、上がって下さい」
部屋の扉を開け放したまま、斧堂が嶋本達を招じ入れる。靴を脱ぐと、一室に通された。
六畳間の和室には簡素な学習机とベッド、小さなテレビにクローゼットが所狭しと並んで
いる。床の上といわず、机の上といわず、段ボール箱が幾つか積まれている。
「ちょっと待っていて下さい」
机上にディパックを降ろし、斧堂は部屋を出て行ったのであった。
「…ところで、小二の時まで同じ学校だったのよね?」
「え…ああ…はい、そうです」
室内を見回していた嶋本は、吉川の問いに一瞬呆然としていた。訝る吉川へ、ちょっと考
え事をしていたので、と言い訳する。
「その頃の二人って、どういう感じだったの?」
「どういう、と言っても…仲良く遊んだ記憶はあるのですが、それ以外の事は…余り、覚
えていませんね。確か、ごく普通、だったと思います」
「そうなんだ。それでも斧堂君には見覚えがあった訳よね?」
「本当におぼろげ、でしたけれど。あの頃の面影が、確かに残っていました」
そんな会話の間に、盆を両手で捧げ持ち斧堂が戻ってくる。
「こんな物しかありませんが」
二人の前に盆を置く。その上にはオレンジジュースを注いだグラスが三つと、アーモンド
入りチョコレートの箱が一つ、載せられている。
「お構いなく」
チョコレートのフィルムを剥がし箱を開くと、どうぞ、と右手で勧めつつ斧堂がグラスを
取る。一瞬視線を交え、小さく頂きますを言い吉川と嶋本もグラスを手に取る。
「このアパートって、一美の家のすぐ近くよね?これも偶然?」
「ええ、実は伯父の持ち物でしてね。一部屋空いていたのを貸して頂く事になりました」
「おじさん?」
チョコレートを一つ摘み、ええ、と斧堂は小さく頷く。
「父の兄ですね。両親が交通事故で亡くなりまして、こちらで会社を経営している伯父ぐ
らいしか親戚は居りませんので引き取って頂きました」
「交通事故…そうだったの…ご免なさい、変な事訊いちゃって」
悲しげに視線を落とした吉川へ、斧堂はどことなくぎこちない笑みをもって応えたのであ
った。
「別に。気になさらないで下さい。もう心の整理はついていますから」
吉川が悲しげであったのは、斧堂を慮っての事ばかりでは無かったのであるが、それを敢
えて口にはしない。沈黙のひととき、全員が揃ってグラスを傾ける事に専念していた。斧
堂が小声でどうぞ、と再びチョコを勧める。自身、更に一つ摘み、口に放り込んだのであ
った。
「あー、ところでさ、斧堂君て、いつもそんな言葉遣いなの?一美といい、育ちが良いと
か?」
沈黙に耐えきれなくなり、冗談めかして吉川が話題を振った。
「どうでしょうかね?ごく平凡な、中流家庭、だったと思います。まぁ、挨拶と言葉遣い
にうるさかったのは確かですが」
中流家庭、という言葉をなぜか斧堂は言い淀んだ。しかし、それに吉川が特別な注意を払
う事はなかった。
「そうなんだ」
せっかくの話題も、ここまでであった。嶋本が、全く会話に加わろうとしない。
「…一美、昔の話とか聞かせてくれない?」
「え?ええ…そうですねぇ…」
「離ればなれになってそれきり、でしたからね…」
斧堂が助け船を出す。それより、時折思い出した様に、運動会や授業参観等の思い出話を
どちらからともなく口にのぼらせるが、それも長続きしない。
「…」
二人を見比べつつ、吉川は二人の間に流れる不自然な空気を感じずにはおられなかった。
会話の内容は酷く表面的で、ありがちな内容ばかりであった。例えば印象的な同級生や先
生の話題の一つも大抵はあろうが、どちらの口からもそれらしい名前が出てこない。これ
も十年余りの時間のせいなのであろうか?
「…ああ、もうこんな時間?じゃあ、あたしそろそろおいとまするわね」
ちらり、スマートフォンの時刻表示を見やり吉川は言った。部屋に上がって既に一時間以
上が経過していた。立ち上がる。
「そうですか」
腕時計を見遣り、吉川に続いて斧堂も立ち上がった。嶋本もしなやかにそれに倣う。
日は既に暮れ、街は春先とはいえ冷え冷えとした空気に包まれている。アパートの門前
で嶋本に別れを告げ、彼女が家の玄関を潜るのを見届けた斧堂は、吉川を送り届けるため
二人して歩き始めた。一度吉川は悪いからと辞したのであるが、周辺を見て回るついでで
すから、と言われればそれ以上断る理由もなかった。街灯もまばらな道を、二人は無言の
まま歩く。時折彼の横顔を盗み見しつつ何か言いたげな吉川を、知ってか知らずか斧堂は
一顧だにしない。
「…あの、さ」
「何ですか?」
口を開いた吉川に、初めて斧堂は顔を向けたのであった。
「運動、得意よね?」
「はい。まぁ、少なくとも不得手ではありませんね」
「そうよね、バスケ部員相手にあれだけやれれば上出来よね」
「…見ていたのですか?」
「ちょっとだけ。うちの運動部って、全体的に決してレベルの高い方じゃないけど、それ
でも体育の授業だけっていう生徒に翻弄されるほど情けなくは無いし。まあ、女子の方だ
けど、私は時々助っ人で試合とかに出るけどね」
「そうですか。部には属さないのですか?」
「…うん。ちょっと、そういう気分になれなくって」
斧堂を一瞥し、吉川の笑顔に翳りがさす。それに気付かぬ風で、斧堂はそうですか、など
と受け流す。再び降りてくる沈黙。そのまま二人は吉川の家へと辿り着いたのであった。
「送ってくれて、ありがとう」
「いえ」
門扉に手をかけて、吉川は不意に振り返った。
「ねぇ」
「何ですか?」
「さっき、女子バスケ部の助っ人やってる、って言ったわよね?」
「そうでしたね」
「近々他校と試合があるんだけど、応援に来てくれる?」
「試合ですか?」
「練習試合だけどね。一応ライバル校だから、それなりに力入れないとね。で、その練習
で、明後日からちょっと一緒に帰れなくなるから」
「そうですか…そうですね。試合はいつでしょうか?」
「今度の日曜日よ。一美は出来る限り来てくれるって」
そこで少々意地悪げな表情になる。
「一美ね、ぜひ斧堂君と一緒がいいってさ」
「嶋本さんが?そうですか。承知しました、お伺いします」
吉川の冷やかす様な口調には無頓着に、斧堂は答えたのであった。
「そう」
会心の笑みを浮かべて見せる吉川。一つ小さく手を振り、収縮門扉を開く。会釈をし、斧
堂は吉川の背中が玄関扉の向こうに消えるのを見届けたのであった。
「そうですね、この辺で気分転換も必要、というところですか」
そう一人ごち、吉川に言った通り周辺の把握を再開する斧堂であった。