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メルトダウン

作品中に大地震が起きる描写があります。 そのため、この小説では後半で福島の原発事故を連想させる可能性のある内容を扱っています。 事故や被災地について誹謗中傷をする内容ではありませんが、このキーワードに不快感を感じる、もしくは小説として読みたくないという方は読むのを避けてください。

 一生外に出ない、と誓う事は出来ても、一生世界とつながらずに生きていく誓いはきっと立てられない。

 朝起きて、一番先にするのはパソコンのスイッチを入れることだ。ナツカはそれをやらないと永久に世界から隔絶してしまう。

 ウィイイン、という起動音がナツカの頭のスイッチ。青白く明るくなる画面がナツカの太陽。画面とそこに踊る文字や誰かのアップした画像を通してしか今のナツカは世界を見る事が出来ない。少なくともナツカが自分の五感で感じるリアルの世界から自分を閉ざしてしまってからはずっとそうだ。


(何時なんだろ……今)


 1階からバタバタと音がした。母がパートに行くのだろう。バァン、といつもより勢いよくドアが閉まる。そして、それきりしん、と静かになった。昨日大ゲンカしたから今日の朝食は多分ない。ぼんやりした起き抜けの感情を、寝ぼけた頭は「まぁいいや」という5文字に変換した。


『ナツカ先生の新作、今日買いました! ずっと楽しみにしてたので発売日に手に入って幸せです!』

『ユウくんの台詞、めっちゃ萌えました! やっぱちょーかっこイイ!!』

『1日で一気に読んじゃいました。今から次回作が楽しみです!!』


 昨日の午前中に書いた日記には1日ではとても見きれないほどのコメントがついている。その文字の羅列を見てナツカは1人ほくそ笑む。へへ、やったやった。

 時間はいくらでもある。きっと、今日と明日で2日かければ全部に目を通せて返事も返せるだろう。何があっても絶対に全員に返事は返す。自分は「ファンを大事にするナツカ先生」だ。ナツカはファンを裏切らない。

 承認したフレンドは半年前、定員いっぱいの1000を超えた。高峰ナツカ。それが、SNS上でのナツカの名前だ。フレンドは皆、その名前を目にした途端ナツカのページに押し寄せた。そして、一斉に「フレンド登録してください」というメッセージを送ってきた。ほとんどが「ナツカ先生のファン」という10代から20代の若い女だった。顔の見えない彼女らの手には今、昨日発売になったばかりの1冊の本がある。


(クララ、いるかな)


 積み重なったコメントの山から、ナツカはその名前を探した。上から4番目にあった。 思った通り、今日も大げさな感じの言葉が躍っている。彼女は新刊の発売を誰よりも楽しみにしていたナツカのファンだ。ナツカはいつも、彼女のコメントを一番先に読むことにしている。


『今回、マジでありがとうございました! ハルト様がいっぱい出てて、8ページ目くらいから泣いてしまいました! 2時までベッドでマジ泣きです! ハルきゅんきゅん、カッコ良すぎて死にたい死にたい! ああ、もうナツカ先生の本、お墓まで持って行きます!!』


 頭大丈夫か、と言いたくなる文面だがナツカの日記のコメントではこの程度は普通である。2年前に第1巻が発売されたシリーズは10代を中心に若い女子の心をがっちりと掴み、登場人物の美少年たちはあっという間に彼女らをとろとろに陶酔させた。ファンは自分の好きなキャラに恋い焦がれるとともに、彼らを生み出した「我らが高峰ナツカ先生」を神格化。だから恥も外聞もかなぐり捨て「神」であるナツカに惜しげもない称賛の言葉を贈るのだ。 


(人気者は辛いね、なんちゃって)


 ナツカはパソコンの別窓を開き、クララのアドレスを探した。日記のコメントでは文字数制限がある。きっとクララにはもっと言いたいことがあるだろう。細かいところまで感想が聞きたかった。日記のコメントへの礼を添えてメールを送ると、昼前には返事が返ってきた。


『ハル君とナツカ先生は、本当に私の命なんです! だから、先生がハル君をいっぱい出してくれた事が嬉しすぎて……! 今、授業中なんですけどあの本のことばっかり考えて全然集中できません!』


 期待していたほどの言葉は返ってこなかった。しかし、クララが授業中にメールを返してきた事と、自分への賞賛の言葉を文面に溢れさせていたことがナツカを十分に満足させた。細かい文章や場面の設定、登場人物の台詞などに感想を寄越されても、ナツカには実のところよく分からない。

 理由は簡単だ。ナツカはまだ、新しく出た本を読んでもいないのである。


(どうしようかな……)


 ぐちゃぐちゃに散らかった部屋の中で、本や雑誌の類だけは固めて置いてある。それらの中から、ひときわピンク色の目立つ雑誌を引っ張り出して集める。全部そろえば多分38冊はあるはずだ。

 高峰ナツカが書くライトノベルは2か月に1回発売される分厚いマガジンに連載されている。SNS上で感想を送ってくるファンには作品がこのマガジンで連載されている事を知らない者が多い。知っていても隔月でわざわざ他の作家の作品が載っている雑誌を1000円出して買っている者は少ない。そうでなければ、ナツカはとっくにボロを出していたはずだ。


(全部最初から読んだ方がいいのかな。でも……もう読むの飽きたしな)


 昨日発売された本はネットで注文してある。届くのは早くて今日の午後だ。きっと届いても読まない。マガジンの連載を読んだことで満足はしてしまったし、内容はもうあらかた頭に入っている。ナツカはいつも斜め読みだ。ネット上で他人を騙すのに、本を読みこむ必要などない。


「どっこらしょっと……」


 立ち上がると、垂れ下がった腹の重みが膝に響いた。自分の体重が今何キロなのかをナツカは知らない。鏡を見れば、その向こう側にはSF映画に出てきた悪役のような化け物がいる。髪はぺったりと頭の後ろ側にまとまって張り付き、腫れぼったい瞼はただでさえ細い目をほとんど「線」にまで押し狭めている。大きな出っ歯、そして口角の筋肉がないために口は常に半開きだ。

 気持ち悪イ。自分で自分を嗤った。


(別に良いけどさ、誰に見せる顔でもないし)


 本物の高峰ナツカはそこそこの美人だという。絶対に「顔出し」をしないためにどんな顔なのかをナツカは見たことはないが、サイン会で会ったことのあるファンは美人だ美人だ、と褒め称えていた。結婚もしているし、子供もいる。ナツカとの共通点は性別と年齢だけだ。

 「なりすまし」は悪意があってやったわけではない。少なくともナツカはそう思っている。初めはただ、愛してやまない作家と同じ名前でSNSをやりたかっただけだ。そこにまさか「高峰先生ですか?」と言ってくるユーザーがいるなんて思わなかった。熱烈なラブコールでフレンド申請して来る人間がいるなんて思わなかった。

 先生ですか。

 はい、そうです。

 全部そこから始まったのだ。

 すべては、あのクララがフレンド申請してきてからのことなのだ。そこから一気に噂が加速して、成り行きがナツカを押し上げた。今ではみんな、ナツカがライトノベル作家・高峰ナツカであることに何の疑いも持たない。クララがいなければ、今のナツカはなかった。


(高峰先生ってネットで日記とか書いてんのかなぁ。まぁ……どうでもいいけど)


 何年も部屋から一歩も出ていない、ただのデブで不細工な無職女が自分の愛する高峰ナツカ先生に成りすましていると知ったらファンはどう思うか。腐臭漂うゴミ部屋の住人の嘘に騙されていると知ったらどれだけ憤慨するか。ナツカはそんな事にはあまり興味はない。バレて騒がれたらアカウントを消して逃げればいいのだ。痛みを受けない方法は心得ている。

 今が楽しければいい。ナツカはそう割り切っている。現実の社会で、ナツカが「先生」と認められる世の中はきっと永遠にやってこない。何のためらいもなく惜しげもない賞賛を送ってくれるファンが付くなんて、絶対に考えられない。だから、それがたとえ嘘偽りという壁越しにであっても、大勢の人間からのポジティブな言葉のシャワーを浴びる事がナツカにとって何よりの喜びなのだ。他人から見たらどんなに愚かな事であっても、ナツカは自分の良心で今の立場を降りる事など考えたことがなかった。


『私もいつも、クララちゃんの言葉に支えられています。だから、学校の授業頑張ってね。今が大事なんだから、サボっちゃだめだよ?』


 ありがちな内容の返信。心などこもっていない。何を言ってもクララは喜んでみせるからいつもこんな程度で十分だ。

 自分はクララが特別好きなわけではないのだ、という意地がナツカにはある。自分に都合の良い言葉を送ってくるから可愛がってやっているだけ。あくまで、クララはナツカにとってそんな存在でなければならなかった。登校拒否にならずに学校に通えていることや、現実の友達に囲まれ充実した日常生活を送っていることを羨んではならなかった。中学からろくに学校へ通っていない事や、現実世界に1人も友人と呼べる存在がいないことなど何のコンプレックスでもない。それがクララや1000人のファンが愛するナツカ先生なのだ。


『最近、全然学校が面白くないんです。行っても、なんかむなしいっていうか』


 クララはそんな返事を寄越した。愚痴ならいらないよ。そんな風に思いながら読み進めると、今までなかった言葉が見つかった。最後から2行目に「先生に会いたいです」という一言があった。


『東京に住んでるんですよね?だったら、すぐにじゃなくていいから先生に会ってお話がしたいです。出版社にアルバイトの募集とかないかなぁ』


 コメントの返事を返していた日記のページを伏せ、ナツカは出版社のホームページを開いた。正社員や作家は募集しているが、アルバイトの募集はない。ホッとして画面を閉じる。こういう可能性は想定していなかった。

 作家がどの程度の頻度で出版社を訪れるのかもアルバイトの人間と話をすることがあるのかもナツカは何も知らない。だが、万が一クララが本物の高峰ナツカと会ってしまったら、だいぶまずいことになる気がした。ナツカのなりすましが明るみに出ればネットの炎上どころではおさまらないだろう。よく分からない何らかの罪で訴えられるかもしれない。犯罪者になるのは嫌だ。


『私、担当さんとはほとんどネットのやりとりだからバイトで入っても会うの難しいと思うよ。それに、今は募集してないって社員さんが言ってたし』


 嘘と本当を混ぜた返事を返す。これでクララは思いとどまるだろうか。しかし、クララは諦めないようだった。


『だったら、私が先生の家の近くまで行きます。5分とか10分とかでもいいです。都合のいい時、教えてください』


 他のファンもいるからクララだけ特別扱いはできない。

 ネット上で知り合った人とは会わないようにしている。

 忙しくて都合が付けられない。

 ナツカは断る理由をいくつも考えた。でも、どういうわけかサッと返事を返すことができなかった。このままナツカに会わずに終わってしまうのが惜しいという感情が湧き上がってきたのである。直接面と向かって会えるわけはない。でも、クララがどういう相手なのか知りたい。その欲求は一度自覚してしまうと、しつこくナツカにまとわりついてきた。


『Facebookやってる?もしよかったらまずはそっちで連絡取ろうよ』


 実名で登録されたSNSなら、クララの素性が少しは分かるかもしれない。そう思って返事を返すと、クララはすぐに自分の実名を送ってきた。本庄くらら。それがクララの名前だった。


『ありがとうございます! でもなんか、私なんかのFacebookを先生に見られちゃうの、ちょっと恥ずかしいな。でも、見つけたら、友達申請お願いしますね!』


 そのメールへの返事のことなど考えず、ナツカはいの一番にクララの名前を検索した。ナツカもFacebookはやっているが、自分の本名は高峰ナツカとはどこも引っかからない。もとより、友達申請などするつもりはない。ただクララの事が少しでも分かればいい。分かったら「忙しくなってしまったからそのうちまた」とでも言ってすっとぼけるか、それでクララが納得しなければ別のアカウントをとってそっちでまた高峰ナツカになりすませばいい。

 本庄くららの名前は2件ヒットした。1人は明らかに男で、ただ女っぽい名前を使っているだけの人物のようだった。もう1件は女。そちらがクララだった。しかし、そのページを開いたときナツカは頭に雷が落ちたような衝撃を受けた。


「この女って……」


 個人ページで微笑むバストアップ写真。そこにいたのは、テレビでもよく見かける有名な雑誌モデルだった。180cmの長身、奇跡の八頭身。有名なコレクションに出たこともあり、アイドルとの交際も噂されるまさに、女としての全てを手に入れた女。名前をすっかり忘れていたのを今更になって激しく後悔した。本名を言われた時点で気づくべきだった。


「嘘だ……絶対なりすまし……」


 すべての日記や写真は全体公開になっていた。たくさんの「いいね」やコメントが付けられたそれらは、いかにも充実した日常を映し出していた。いわゆる、リア充だ。おかしい、絶対におかしいと思いながら見ていると、ページを更新した途端に新しい日記が追加された。学校の帰りにファミレスで友達と一緒にいる写真がついている。友達は手で顔を隠していたが、クララは笑顔でVサインをしていた。その手元には、あの本があった。

 狙ったようなタイミングで玄関のチャイムが鳴った。ドアの隙間から腕だけを出してサインと引き換えに小包を受け取る。中身は開けなくても分かった。昨日発売されたばかりの1冊のライトノベルが入っている。


「嘘だ」


 メールがあった授業中の時間。学校が終わって街に繰り出したと思われる時間。映っている女の年齢。持っている本。それらがすべてナツカとやりとりしたクララの要素と一致する。相手は本物だ。いや、そんなはずはない。信じたくない。でも、写真の中の女は……。

 本庄くららのライフワークはかなり充実していた。今日もこれから渋谷のスタジオで撮影があり、明日からはロケで地方に行くという。1週間に4日は何らかの仕事が入っており、オフの日もオシャレなランチの写真をアップするなど話題をほとんど毎日枯らしていない。この女はクララなのか。本当にそうなのか。自分自身の頭の中で葛藤を繰り返していると、いつの間にか夕方になっていた。

 

「ちょっと、夕飯どうすんのよ!」

「要らない!」

「要らないってあんた、朝も昼も食べてないじゃない!!」

「要らないったら要らないの!!」

「もう、勝手にしなさい!!」


 ドアを乱暴に閉めて出て行った母親など無視して画面に張り付き、引き出しから食べかけのクッキーを出して齧る。手についた砂糖を舐めていて、無意識のうちに爪まで噛んでいた。子供の頃からの癖。華やかな本庄くららのページにイライラしている証拠だった。一番深く噛んだ中指の爪先には血が滲んでいた。

 爪がだめなら別のものを。ナツカは引き出しの奥から随分前に買ったタバコと100円ライターを引っ張り出した。部屋でタバコを吸えば喘息の妹に悪いとまた母が怒りだすだろう。でも今はどうせケンカ中なのだから関係ない。黄ばんだセロファンをはがし、湿気た紙巻きたばこを引き出した。ライターはわずかな火花を散らしただけで火がつかなかった。引き出しを全部引っ張り出してみると、奥に汚いべたべたした染みがあった。放置していた間にオイルが漏れてしまったのだ。イライラに任せ、ナツカはライターもタバコも全部ゴミ箱に投げ込んだ。


(何で……何でクララが……)


 ナツカを最も動揺させたのは、本庄くららがつい最近小説を執筆していたという事だった。発売は来月の予定。起きるのが遅いナツカは知らなかったが、どうやら朝のエンタメニュースでは随分前から取り上げられていたらしい。無知という二文字が胸に突き刺さった。事前に知っていたからどうという事はなかったのかもしれないが、今になってその事実を目の当たりにしたことがなぜかナツカの惨めさをさらに強くした。


(1カ月で5万部……?ありえない、これって高峰先生の本より多いんじゃないの?)


 クララは小説を書く、という事を知っている人間だったのだ。高峰ナツカが書くのがライトノベルであるのに対し、本庄くららが書いたのは自分自身の自伝的小説。しかしだからと言ってそれはナツカにとっての安心材料にはならない。編集者とのやりとりやサイン会の感想など、ナツカはあらゆる「高峰ナツカのライフワーク」をSNS上ででっち上げた。全力ですきのない嘘を固めた自信があった。だが、本当の「本を書く者の世界」を知っている人間にならきっとナツカのでっちあげは分かってしまうだろう。頭も時間もつかった。しかし、ナツカは延々と自分の知らない世界のでたらめを書いていたにすぎないのだ。


(クララは、分かってて私に会いたいって言ったの?)


 一度そう思い始めてしまったら止まらなかった。もしかしたら初めからそうだったのかもしれない。高峰ナツカ本人でなどない事を知りながら、面白がってナツカをその気にさせたのかもしれない。そして、調子に乗って次々にでたらめ話を作り出すのを面白がって見ていたのかもしれない。顔面が恥ずかしさで熱くなった。手にはじっとりと汗をかき、足が震えてきた。自分はクララにバカにされ続けてきたのか。そうなのか。

 悔しさが妙に目を冴えさせて、いつまでも眠れなかった。気が付けば午前2時。どうにか眠ろうと寝床に入り、もぞもぞしていると1時間くらい経ってようやく睡眠に入った。しかし、ナツカの脳はどうしてもクララの事を考えたがっていたらしい。Facebookで見た姿のまま、本庄くららはナツカの夢に登場した。

 夢の中で、ナツカは本庄くららを追いかけていた。彼女はナツカの部屋の中にいた。デジカメを片手に笑っていた。


『こっち見なよ、ナツカ先生? 今日の日記に写真アップしよ? みんな喜ぶよ、きっと』


 やめろ、絶対に嫌だ。私を撮るな。カメラを向けるな。


『どうして? みんな先生の事気になってるんだよ? 私だって、すごーく先生に会いたかったんだから』


 嫌だ、嫌だやめろ! そんな訳、絶対にない! だって、私は――――――


『偽物なの、先生? 私の事、騙したの?』


 黙れ! 黙れ黙れ!!


『あははははは! 無駄だって。あなたに私は捕まんないよ』


 叫んでいるのに、喉がひりついて声が出なかった。走っても足が動かず、追い付けない。声も出ない、動けない。夢によく出てくる状況だった。ナツカは必死にもがき、声を張り上げた。息が苦しい。本庄くららはナツカにカメラを向けて笑っていた。シャッター音が響いた。


『えへへ、撮っちゃったー。』


 やめろ! お願い、やめて! 声にならない声で叫び、必死で喚いた。窓から差し込むのは眩しい昼の光。開けっ放しの窓から風が吹き込み、レースのカーテンがふわふわと舞う。


『へぇ~、先生ってこんな顔してたんだ~』


 見るな! 見るな見るな!!


『そんなに怒んないんでよ。別に、キモイとかブスとかデブとか思ってるわけじゃないし……って、アハハハ! 何怒ってんのー? 違うって言ってるじゃーん!』


 カメラを渡せ! それを返せ!! じゃないと―――――


『何々? 殺すの? 超怖ーい! ナツカ先生ってそんなに怖い人だったんだ? 証拠写真撮っちゃおーっと』


本庄くららの視線がデジカメの画面に集中する。ナツカはその一瞬を狙い、床を蹴って飛びかかった。

床に倒れる華奢な女。ガシャン、と音を立てるデジカメ。震える手で、本庄くららの首に手をかけていた。かくっ、と傾いだ頭部。力を込めたその首はびっくりするくらい冷たかった。


『ウソツキ』


 かすれた声がナツカに向けられる。絞められた女の顔には死に瀕した者の痛みも苦しさも感じられなかった。

 ウソツキ、ウソツキ、ウソツキ。

 微笑みを浮かべ、ただその言葉を繰り返す本庄くららの口元。

 嘲笑う美しい女。氷のように冷たく細い喉。

 どれだけ強く締めても、泣きたくなるのはナツカばかりだった。


『私を殺したって、あなたは――――――』


 その時、空間がぐにゃりと歪んだ。

 覚醒する感覚とともに感じたのは汗をかいた首元の冷たさと、大きな揺れ。

 起き上がったベッドの上から、ナツカは部屋全体が大きく揺れているのを見た。 いや、部屋だけでなく家全体が揺れているのだ。

 明け方の薄暗い中、自分の家の中からもいつもは静かな隣の家からも悲鳴が聞こえた。

 地震だ。

 しかもかなり大きい。

 本棚が倒れ、中の本が脱ぎっぱなしの服の山に散らかった。眠い頭が危機感を感じてあっという間に覚醒する。

 ナツカはぐにゃん、ぐにゃん、と揺れる木製ベッドの上から全く動けなかった。

 止まれ、止まれ、止まれ。

 それだけをじっと念じた。

 そして、揺れは15分ほどで治まったように感じた。


「おい! 大丈夫か!!」


 めったに部屋に来ない父がドアを開け、ベッドの方まで入ってきた。言われるままに部屋を出て、暗い廊下を手探りで進み、階段を降りた。停電して電気がつかないという。1階の居間には母と妹がいた。妹は久しぶりに部屋から出てきた姉の顔を見るなり「うわっ」という顔をした。母は必死にどこかに電話をかけようとしていた。

 電気もつかず、水も出ず、唯一動いたのは携帯ラジオだった。地震の規模を伝えるニュースが淡々と地名を読み上げていく。震源は茨城県沖。ナツカの家の辺りは震度5弱、という事だった。


「まだこの辺はでかいほうじゃないんだな」

「そんなことないわよ。おばあちゃんたち、大丈夫かしら」

「とにかく明るくなるまでここで仮眠とろう。それからじゃないと動けないだろう」


 またいつ余震が起きるか分からない。家族全員で一緒にいようと父が言った。妹はすぐに寝てしまった。ナツカは毛布にくるまったまま一睡もできなかった。試しに携帯を操作してみたが、ウェブサイトには繋がらなかった。

 日の出の時刻を過ぎてようやく水道や電気が復旧した。テレビをつけると、震源に近い地域が大変な事になっていた。黒煙を上げる工場。崩れ落ちた鉄橋。増えていく死者と行方不明者の数。いろいろな被害状況が伝えられる中で一番頻繁に報道されていたのは原子力発電所で火災が起きたというニュースだった。


「お父さん、これどういうこと?」

「東海原発か……ここはもう閉鎖が決まって、廃炉になるって話だったんだがなぁ」

「原子炉、原子炉って言ってるけどなんなの?」

「うん……簡単に言うと原発の心臓部だよ。ここにプルトニウムとかそういう放射性物質がいっぱいあって、万が一火災で燃え広がると放射能が外に漏れだすかもしれないって言ってるんだな」

「いやだ、危ないじゃない」


 ナツカは父母の会話をぼんやり聞いていた。妹はしつこく学校の友達と携帯で連絡を取ろうとしていた。部屋の中はテレビがついて人がいるのに妙に森閑としていて、時計の秒針の音がいやにうるさかった。そのせいかはわからないが、脳の奥でピーンという高い音がずっと響いていた。耳鳴りというものだろうか。身体をぎゅっと丸め両手で耳を塞ぐと、テレビの音だけが聞こえてくるようになった。

 時々つっかえながら中継をするリポーターの声。煙がくすぶる原発の映像。ナツカは画面を凝視し続けた。何年か前に廃炉が決定し、東海原発は解体作業が行われていたらしい。しかし、一番解体が難しい原子炉のある棟にはまだ工事の手が入っていなかったという。そこに今度の地震だ。原発の事など普段から興味を持ったことのないナツカにはよく分からないが、ニュースでこれだけ取り上げられているのはきっと起きているのがよっぽど深刻な事だからだろう。


「何で耳押さえてるの?」

「耳鳴りがするから」

「ああ……そう」


 ナツカが何故耳を押さえながらテレビを見ているのか、母親は若干変に思ったようだがそれ以上は聞かなかった。停電、断水、がけ崩れ、山間の集落の孤立、公共交通機関の運休、死者・行方不明者。テレビは被害を受けた各地の情報を伝えながら、何分かおきに原発の映像を映し出していた。放射性物質が漏れ出す可能性があるため、これからヘリコプターでの消火を試みるらしい。テレビはどこからかヘリが飛んできて水をまき始めるのを待っているようだった。

 建物から炎が上がったのは突然の事だった。

 風がどっと吹き、青い炎が原子炉のある塔の背後に揺らいだ。

 数メートルもの高さに立ち上った真っ青な炎の柱。それが明るくなり始めた空をバックに建物の屋根に沿って左右に横断するのがはっきりと見えた。その途端、父親が聞いたこともない声で叫んだ。


 「原子炉が燃えた!ヤバいぞ、放射能が溢れる!!」


 普段は比較的冷静な父の動揺は一瞬にして母と妹に感染し、2人はパニックになった。  

 青い炎は暫くの間画面の中で揺らいでいた。そして、ふっと見えなくなった。だが画面が静かになっても、3人は炎が確認されました、建物から青い炎が、と興奮した様子でまくしたてるテレビのアナウンサーと一緒になってぎゃあぎゃあと騒ぎ続けていた。


「お父さん! どうすんのよ!? ここも危ないんじゃないの!?」

「放射能ってガンになるんでしょ!? 早く逃げないと……!」

「落ち着け!! 下手に家から出る方が危ないだろう!!」


 騒ぎ出した家族の中で、冷静なのはナツカだけだった。いや、もしかしたら長く引きこもっていたせいで感覚がどこか鈍っていただけなのかもしれない。画面のなかの炎を見ても、なぜか怖いとも危ないとも思わなかった。逃げないといけないのかなぁ。そんなぼんやりした感覚しかなかった。

 パニックを起こしたのはナツカの家族だけではなかったようだ。見慣れない青い炎を見て、原子炉の中の何か危ないものが燃えたのではないかと思った国民はきっと日本中にいたのだろう。テレビ局はすぐにその炎の正体を明かし、報道した。


『先ほどの映像にありました青色の炎について確認しましたところ、どうやら解体工事を行っている後ろの建物に設置されていた作業用のシートが炎上したものと思われます。繰り返します。先ほどの炎は、原子炉のある建物とは関係ありません。』


 炎はシートが燃え尽きるのと同時に消えてしまったらしい。ようやく消火用ヘリが到着した時には火災はうんと小さくなっていた。

 今回の地震と火事で放射能が漏れ出す恐れが無いことはその後すぐに電力会社の記者会見で発表された。だが、ナツカの父親はしばらくぶつぶつ言っていた。あの炎は怪しい。そればかりを繰り返していた。


「建設現場であんな青い炎が出るようなシート使わないだろ。原子炉の中の炎が出たのを会社と政府で隠蔽しようとしてるんじゃないのか?」


 マスコミも怪しいと思っていたのか、会見があった後もテレビではずっとあの青い炎の映像が流れ続けた。その危険な色をした美しい炎は、なぜかいつもは何ものにも無関心がちなナツカの心をぎゅっととらえていた。

 父親の言うように、原子炉の炎はあんなに青く美しいものなのだろうか。ナツカはソファーにうずくまったままずっと考え続けた。ウランやプルトニウムなど、見たこともないカタカナ名が気になってしかたがなかった。あの建物の中には、それらが今も青い炎を放ちながら燃え続けているのだ。何万世帯もの家や会社に電力を送り出すのだから、きっとものすごいエネルギーなのだろう。例えば、そこに落ちた人間が一瞬にして燃え尽きてしまうような―――――


(私も、その中に落ちたらきれいになくなってしまえるだろうか)


 そんな妄想がぼんやり浮かんだ。画面越しにしか人とコミュニケーションをとれないようなこの惨めで醜い肉体。それを捨てて、あの美しい青い炎になってしまえるだろうか。  

 わたしも、きれいになれるだろうか。


「お姉ちゃん、お風呂……?」

「うん」


 地震があったせいで、妹は学校が休みになったらしい。いそいそとシャワーを浴び始めた姉をやはり変な顔で見ていた。

 ナツカは身体を洗って服を着替え、部屋のパソコンに向かった。Facebookでもう一度本庄くららのページを見た。自宅近くを撮ったという写真にナツカが良く知っているスーパーが映っていた。きっと、少し時間をかければ彼女を見つける事はできるだろう。


(あの夢は、きっと私へのメッセージだ)


 外に出る、という選択肢をナツカは数年ぶりに選ぶことにした。人は奇異な目で自分を見るかもしれない。キモイだの、デブだのと指差して笑うかもしれない。だが、それにはきっと耐えてみせる。

 自分が醜いのは今だけだ。本庄くららを見つけて目的を果たしたら、すぐにテレビに映っていたあの原発に行こう。そこで、ナツカという人間はもう終わりだ。1000人のファンが恋い焦がれる、ナツカ先生はもういなくなるのだ。


(間違いない、あの夢は)


 ウソツキな自分も、顔も知らない他人をその気にさせて高峰ナツカの偽物を作り上げ、散々に辱めた本庄くららという愚かなモデルももうすぐこの世から消えてなくなるんだ。

 私はきれいになる。きっと、きれいになる。

 ナツカは1人、ぶつぶつとその言葉を繰り返した。

 きれいになる、この世の何よりもきれいになる。

 そして、きれいなまま消えていく。

 そう、あの美しく青い炎と一緒に。


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