三日月にぶら下がる夜明け
これは短編小説賞に応募しようと思って考えたものですが、応募を見送ったので、ここに供養します。
銀の糸で縁取られたかのような三日月が空に浮かぶ中、一人の男が夜道を歩いていた。背の高い影が月光に照らされ、静かに揺れ動いている。
突然男の背後から何かが空気を切り裂き、彼の体に襲いかかった。その赤い鞭のようなものは男の動きを封じるかのように瞬時に絡み付き、男は驚きに目を見開いた。
男は鞭を振りほどこうともがくが、手を後ろ手に縛られ上手くほどけない。次の瞬間、鞭の力強い引きによって男の体勢は崩れ、地面に思い切り倒れこんでしまった。
硬い舗道に打ち付けられた衝撃が体中に走る。男は必死に体を動かそうとするが、その赤い鞭は彼の四肢をしっかりと拘束し、逃れようのない状況に追い込んでいた。
男の目には困惑と不安が浮かび、心なしか冷たい汗が額に滲んでいるように見える。体を這う冷たい感覚は、これが偶然や事故ではないことを男に感じさせた。自分が襲われた理由を考えるが、明確な答えは何一つ見つからない。
男が思案していると、突然暗闇の中から一人の少女が現れた。少女の白い肌は夜の闇に映えて冴え冴えと輝き、腰まで届く長い髪が風に揺られている。
「大人しくしていれば痛くしないわ」
少女は開口一番にそう言った。その声には不思議な威圧感が含まれており、男は逆らわない方がいいと直感した。
少女は一歩一歩、ゆっくりと男に近付いてくる。男の体が緊張に包まれた。逃げようとわずかに身をよじるが、縛られた四肢ではどうにもならない。まるで無力な虫けらのように、わずかにのたうつことしかできなかった。
少女はその様子を見てクスクスと笑う。
「そんなに怯えなくてもいいのに。……ねえ、仲良くしましょう?」
楽しげに囁くと、そっと身を屈め男の顔を覗き込む。男は掠れた声で問いかけた。
「君は一体...…何者だ?」
少女は微笑み、仰々しく名を告げた。
「私は高貴かつ名誉あるヴァンパイアーーイザベラ・デ・クレセントよ」
その名を聞いた瞬間、男の背筋に冷たいものが走った。クレセントの名を持つヴァンパイアは、一族の中でも特に力を持ち、歴史の影にその存在を刻んでいたと聞かされてきたからだ。
男は少女の言葉を慎重に噛みしめながらも、心の奥底では疑念を捨てきれずにいた。
ーー本当に、目の前の少女がクレセントの血を引く存在なのか?
あるいは、ただ己をヴァンパイアだと信じ込んでいる、痛々しい少女にすぎないのではないか?
そんな思考が脳裏をよぎった瞬間、無意識のうちに言葉が零れ落ちていた。
「いや、この子は自分をヴァンパアだと思い込んでいるだけかもしれない……」
イザベラの表情は一変した。つい先ほどまで浮かべていた優雅な微笑みは消え失せ、瞳の奥に怒りの炎が灯る。
「舐めないで頂戴」
途端に男を締め上げていた赤い鞭が生き物のように蠢き、容赦なく体に食い込んだ。
「ぐっ……!」
喉の奥から呻きが漏れる。
「す……すまなかった」
中身が押し潰されるような感覚に耐えきれず、男はすぐさま謝罪した。イザベラは微動だにせず、冷たい視線を男に落とす。
「私はクレセント一族のイザベラ。本物のヴァンパイアよ。軽々しく疑うものではないわ」
十中八九そうだろうな、と思いつつも男はその疑問を口にせずにはいられなかった。
「わ、わかったよ……この鞭は、君の仕業なのか?」
「ええ、そうよ。この鞭は私の血液で作られているの。私の意のままに動くのよ」
アリアは人差し指を軽く動かす。すると指の動きに合わせて鞭の締め付けが一瞬緩んだかと思えば、次の瞬間には服が裂けるほどの勢いで締め上げてきた。
「うっ……!」
男の呻きを気にも止めず、イザベラは何度か指先でその力を試すように操ってみせた。鞭はまるで生き物のように脈打ち、男の体を縛り付ける。
やがて彼女はその遊びにも飽きたのか、腕を組みつまらなそうに男を見下ろした。
目の前の少女はあまりに非現実的な存在だった。だが彼女の力の片鱗を目の当たりにした今、もはや疑う余地はない。
男は身を固くし、己の置かれた状況を改めて理解した。
——この少女は本物の怪物だ。そして自分は、その怪物の手の中にいるのだ。
千年の眠りからようやく目覚めたというのに、イザベラ・デ・クレセントの目の前に広がるのは静まり返った無人の平野だった。
彼女の冷たい瞳が周囲を見渡す。
目覚めの瞬間に期待していたのは、華やかな街並みと溢れる人の営み、そして甘美な血の匂いだった。
だが、ここには何もない。
ただ寂れた風景と、しんと響く静寂だけがまるで嘲笑うように広がっている。
そして、ようやく見つけた人間——それは冴えない男だった。
凡庸で取るに足らない存在。彼女の期待を大きく裏切るには十分すぎる相手だった。
「……目覚めの一口は、もっと上等な血を期待していたのに」
男の体は赤い鞭に縛られたまま、落ち着きなく視線をあちらこちらに向けている。
イザベラはその様子を見、冷ややかに微笑む。その表情は彼女の美しさをさらに際立ったものにさせていた。
「まあいいわ。あなたで我慢してあげる」
イザベラは顔を男に近付け、じっと見つめる。男の顔は逃れることのできない運命を悟っているかのようだった。恐怖と絶望が絡み合う目——それこそが、イザベラにとって何よりの愉悦だった。
イザベラは男の頬にそっと触れ、その感触を楽しむかのように冷たい指先でなぞる。
「怖がらなくていいわ。すぐに終わるもの」
イザベラは優しく囁くが、その声には抑えきれない欲望が滲んでいた。男の首筋に顔を近付け、小さく舌なめずりをする。イザベラの瞳は深い紅に染まり、牙がゆっくりと露わになった。
「あなたの血で、私の目覚めを祝福してもらうわ」
イザベラの鋭い牙が男の首筋に食い込んだ。
だが——
「……っ?」
音がした。それは皮膚が裂ける音ではなく、硬質な衝撃音だった。
イザベラは思わず目を見開くが、気を取り直し再び牙を突き立てる。
だが何度噛みついても、血は一滴も溢れ出なかった。
イザベラの顔に戸惑いが広がる。仕方なく首筋を諦め、今度は手首を狙う。
だが結果は同じだった。
どこを噛もうと皮膚は硬く、そこに流れるべき血は存在しなかった。
気づけば男の体の至るところに、イザベラの噛み跡が残っていた。
だが男は痛みを感じた様子もなく、ただ困惑した表情を浮かべていた。
イザベラは眉をひそめ、内心の動揺を押し殺せずついに叫んだ。
「何なのこの体は!? 硬すぎるし、血管が見当たらないじゃない! 一体どういうこと!?」
男はその怒号に怯みながらも、恐る恐る口を開く。
「……私は人造人間だ。もちろんこの体に血は流れていない」
「人造人間ですって……?」
イザベラは男の言うことが信じられず、理解できない状況に戸惑っていた。指で男の肌をなぞり、よく観察する。やがて、男の肌に毛穴や脈が見当たらないことに気付いた。
その硬さと冷たさを確かめるたびにイザベラの心には疑念が消え失せ、冷静さを取り戻していった。
イザベラは長い睫毛を伏せ、ゆっくりと肺の奥まで夜の冷気を吸い込み、唇を開いた。
「それを早く言いなさいよ! 無駄な時間を過ごしてしまったじゃないの!」
怒りの声が夜の空気を震わせた。そしてイザベラの白く細い指が男の首に絡みつき、蛇のように締め上げた。
「壊してやるわ」
首筋に込められた力が強まる。イザベラの本気を悟った男は、必死に言葉を絞り出した。
「お願いだ、壊さないでくれ!体の中に輸血パックを内蔵している。それを君に上げるから、どうか壊さないでほしい!」
男の切迫した声にイザベラの指がわずかに緩む。彼女は男を見下ろし氷のような視線を投げかけると、小さく鼻で笑った。
「機械の癖に命乞い? 可笑しいわ」
「やらなければいけないことがあるんだ。どうか、見逃してほしい」
「何をするつもりなのかしら?」
ほんの少し、興味を示したように囁く。
「……でもそれが何であれ、私には関係ないわね」
男はイザベラの言葉に言い返さず、ただその場で頭を下げ続ける。
ーーイザベラは深い苦悩を抱えていた。目覚めてから一度も血を口にしておらず、空腹はもはや限界を超えていた。彼女の喉の渇きは耐え難く、内心では今すぐにでも人の血を吸いたいという欲望が燃え盛っている。
しかし、イザベラのプライドがそんな意地汚い醜態を晒すことを許さなかった。
冷笑を浮かべ、男の命乞いを聞き流し時間を稼ぐ。男は三度目の命乞いをした。彼の声はますます切迫し、その姿は哀れみを誘うものであった。
イザベラは内心の渇望と戦いつつ、その内なる欲望を決して表に出さないように振る舞った。
そして男が六度目の命乞いを終えると、イザベラはわざとらしく溜め息をつき、嫌味たらしい声を出す。
「……仕方ないわねえ。あなたがあまりにも哀れだから、今回は見逃してあげるわ。感謝しなさい」
男は安堵した表情になる。イザベラは男の提案に乗ることを決めたが、その決断が彼女の誇りを傷つけることのないよう、冷静さを装い続けた。
「ほら、早く輸血パックとやらを出しなさい。時間が勿体ないわ」
「パックを取り出すには、シリアルナンバーを打ち込んで胸部のロックを外さないといけない。拘束を解いてくれないか。手が使えないんじゃどうしようもない」
すぐにある疑念が、イザベラの胸によぎった。
ーーさっき言ったことはハッタリで、解放した瞬間に逃げようとしているのかもしれない。
そうなったら面倒だ。
追いかけることに体力は使いたくない。
「私が打ち込んであげるわ。早くそのシリアルナンバーとやらを教えなさい」
男は仕方なく、朗々とした声でシリアルナンバーを告げる。
「9B73-4Q12-X8L5」
イザベラは男に馬乗りになるとシャツを無造作に手で破いた。露わになった男の胸部には、小さなキーパッドが埋め込まれている。
早速打ち込もうとするも、先ほど男が言っていたナンバーをもう忘れていることに気付いた。
「……もう一度シリアルナンバーを言いなさい。聞き間違えているかもしれないから」
男の声を聞きながら、慎重な手つきでシリアルナンバーを打ち込む。
最後の数字を打ち込むと、男の胸部がまるでドアのように静かに開いた。その中には輸血パックが整然と並んでいる。
その光景にイザベラは口の端を上げた。素早く輸血パックを手に取る。ひんやりとした感触を楽しみながら、ふと小言を漏らした。
「……もっと新鮮な血が飲みたいわ」
「じゃあ、飲まなくてもいいんだぞ」
男の声を無視してイザベラは輸血パックの注ぎ口を爪で切り開け、すぐに口を付けた。
血を吸うのは常に美しい人間のみと決めていたのに、その理想に反してしまったことが不服で仕方がなかった。だが今は、贅沢を言っていられない。
久方ぶりに味わう血液の舌触りがイザベラの喉を潤し、全身に力を取り戻させていく。
「大して美味しくないけど、飲めなくはないわ」
そんな評価を下しながら、空になった輸血パックを無造作に投げ捨てた。
「血をあげたんだから、もういいだろう。そろそろこの拘束を外してくれないか?」
イザベラは再び冷たい視線を男に向けると、冷淡な声で命じた。
「この近くで人がたくさんいる場所を教えなさい。教えないなら、命はないわ」
イザベラに怯えることなく、男は静かに答えた。
「……人はいない。どこにもいない。誰もいない」
イザベラは思わず怒声を上げた。
「嘘をつくな! 早く答えなさい! どこに! 人が! いるの!」
イザベラの激情に反して、男は淡々と話続ける。
「本当のことだ。今から証拠を見せよう」
突然男の目が異様な光を帯び、淡く発光し始めた。イザベラは思わず一歩後ずさる。
男の瞳から光が放たれ、その光は幻のように揺らめきながら空中へ投影される。イザベラは驚愕の眼差しで、その様子を食い入るように見つめた。
「この映像は世界中のライブカメラにアクセスしたものだ」
イザベラはその技術に言葉を失い、次々と変わる映像に見入った。暫く眺めていたが、どの映像にも人の気配はない。どこの街並みも無人であり、誰もいなかった。
イザベラは信じられない思いでいた。しかしいくら目を凝らしても、人影はどこにも映らない。
——こんなの、嘘だ。捏造だ!
そう叫びたい衝動に駆られるが、否定できない記憶が彼女を押し留める。
イザベラは飢えに駆られ、血を求めて都市から都市へと移動していた。
けれど——人間を誰一人として、見つけることはできなかった。
この映像のように、ただ無人の風景が広がるばかりだった。その記憶がイザベラの心に重くのしかかり、男の言葉に真実味を帯びさせていた。
「何故、誰もいないの? 私が眠っていた千年の間に何が起きたの?」
「千年前には、人類は既に地球を離れていたんだ。実際に君が眠りについていたのは、千年よりずっと前なんだろう」
その言葉にイザベラの目は大きく見開かれ、口は半開きになった。
「何を言っているの……? 千年以上も経っていたなんて……」
イザベラの声は震え、その尊大な態度が一瞬崩れた。しかしすぐに冷静さを取り戻し、鋭い声で命じる。
「早く、何があったのか答えなさい」
「……度重なる気候変動と戦争で人口は減少していき、とうとう地球は人が住むのに適した環境ではなくなったんだ。今は宇宙に造り出した人工の星で、人々は生活している」
「宇宙に⋯?」
イザベラが小さく呟くように言うと、男は静かに頷いた。
「そうだ。人々は新たな生活を求めて地球を離れたんだ。信じなくても別にいいが、それがこの世界の現実だ」
イザベラは腕を組み、男を睨み付けた。
「じゃあ、今すぐ私をその新たなる地球へと連れていきなさい。その話が本当ならできるでしょう。やらなければ、あなたを壊すわよ」
男は静かに首を横に振る。
「それはできない」
男は哀れみの籠った目でイザベラを見つめる。その態度は、イザベラを酷く苛立たせた。
「どうしてできないのよ! やっぱりさっきの話はあんたの作り話なんじゃないの?」
イザベラは男に詰め寄った。激しい怒りで顔は歪みきっている。
「私に嘘をつく機能は搭載されていない。そして、宇宙ロケットのような機能もない」
イザベラは口を噛み締めた。彼女の苛立ちに呼応し赤い鞭が一層きつく締め付けているが、男の顔色は変わらない。
「ヴァンパイアの能力について詳しくは知らないが——君は高貴かつ名誉あるクレセント一族のヴァンパイアなのだろう? 自力で宇宙に行くくらい、造作もないんじゃないか?」
イザベラはふっと鼻を鳴らす。無論、そんなことはできない……できないというより、できるかどうかすら分からない。
仮に飛べたとしても、宇宙空間で生存できるかどうかは全くの未知数だ。
一か八かで試すべきか?
考えるまでもない——そんな無謀な賭けをするまでもなく、成功率は限りなく低いと分かりきっている。
「まあ……できなくもないけど」
イザベラは肩をすくめた。
「でも、そんな面倒なこと、極力したくないわ。それより——どうしてあなたは新しい星に行かず、誰もいない地球に残り続けているの? ……やらなければいけないことがあるって、さっきあなたは言っていたけど」
男はしばしの沈黙の後、静かに答える。
「自分には地球の最後を見届ける役目がある」
「……地球の最後?」
イザベラは思わず聞き返した。
「そうだ。人類が地球を離れた後、この星がどのように変わり果てるのか見届けることが私の使命だ」
「そんなの、監視カメラでもつけとけばいいじゃない。わざわざ人造人間を置いておく必要あるのかしら。あなた、捨てられたんじゃないの」
イザベラの小馬鹿にした態度を意に介さず、男は淡々と話続ける。
「私が地球に来たのはつい最近のことだ。というのも、間もなく太陽が寿命を迎えて地球が消滅するという予測が出たからだ」
「え?」
「太陽はその燃え盛る生涯の終焉を迎えると、赤色巨星へと変貌する」
男の声は夜の静寂に溶け込むように穏やかだった。
「その膨れ上がった姿は、地球すらも飲み込むほど巨大になる。その時、地表は焼かれ、大気は蒸発し、海は沸騰して消え去る。地球に残るものは、何ひとつとして生き残れない。すべては灰となり、無へと還るんだ」
ーーこの世界が終わる。
その事実を突きつけられた瞬間、イザベラの心の奥に不安と恐怖が芽生えた。だが、ヴァンパイアである彼女の矜持がその感情を表に出すことを許さない。
夜風は冷たいはずなのに、イザベラの胸の奥では得体の知れない熱が疼いていた。
「つまりここは墓場だ。この星も君も、消え去る運命にある」
イザベラは不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「ずいぶんと悲観的な言い草ね」
「事実を述べているだけだ」
「それで? あなたの役目は、その"終わり"をただ見届けること?」
男は頷いた。
「そうだ。地球が崩壊していく様を記録し、それを向こうへ転送する。それが私の使命だ」
「ずいぶんと損な役目ね」
彼女は冷笑しながら男を見つめた。
「その話が本当なら、あなたも無事じゃ済まないでしょう?」
男は微笑む。
「もちろんだ」
「それで満足してるの?」
「満足、か」
男は一瞬、考えるように間を置いた。
「私はこの役割を与えられたことに誇りを持っている。この美しい地球が終わりを迎える瞬間を見届け、未来の何者かの為にその記録を残す……それは素晴らしいことだと思うし、私はその使命を全うしたいと考えている」
イザベラにはその"使命"とやらに価値を見出すことはできず、話を聞いてもただ呆れていた。
この星が滅びようが、誰かにそれを伝えたところで何になる?
それでも——男は意味を見出している。人でもなく、ただの機械であるはずの彼が。
イザベラは黙って空を見上げた。
彼の言葉を信じるのなら——この空も、この大地も、すべてが消え去るのだ。
赤い太陽が地平線を覆い尽くし、すべてを燃やし尽くす光景を想像すると、胸の奥に静かな寂寥が広がっていく。
自分は、何のために目覚めたのだろう?
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
男はイザベラの横顔を見つめ、静かに問いかけた。
「なぜ君は、長い眠りについていたんだ?」
「……眠っていたのではなく、封印されていたのよ」
イザベラは遠い過去を見つめているような、茫洋とした表情で語り出す。
「クレセント一族の宿敵……ヴァンパイアハンターの一族、クロス家の十代目当主ゼノ・クロス。彼は今までのハンターとは比べ物にならないぐらい強かった。彼によって数多のヴァンパイアが葬られたわ」
イザベラの瞳に映る光景は、遠い昔の惨劇だった。ある日、彼女が同胞たちと暮らしていた屋敷はゼノ・クロスによって襲撃された。彼の冷酷な刃が、次々と仲間を灰に変えていった。その光景は、悪夢のように鮮烈にイザベラの記憶に刻まれていた。
「仲間たちは私を逃がしてくれた」
イザベラは微かに微笑んだ。
「彼らは私を棺に封印し、こう言ったの。『千年も経てば無敵のハンターも寿命でいなくなる』と。それが、最後に聞こえた同胞たちの声だった。私は仮死状態になりその言葉通り千年……いやそれ以上の時を過ごしたのに……」
目覚めたのが地球が終わる間際なんて、と夜の闇に向かって独り言のように呟いた。
イザベラにつられて男も空を見上げながら、ポツリと呟いた。
「もうじき夜明けだ。予測では、そろそろ太陽が地球を飲み込み始める頃だ」
「気が早いわね。もう少し思い出に浸らせてほしいわ」
恐怖も不安もとうに消えていた。今、彼女の中にあるのは、ただ静かな諦念——そして、その静けさすら心地よく思えるほどの安らぎだった。
「ところで……」
イザベラはゆっくりと男を見やる。
「一体どこで撮影するつもりなの?」
「もちろん、この世界で最も眺めのいいところでだ……そろそろこの拘束を外してくれないか?もう行かないといけないんだ」
「ええ、外してあげるわ。けど、せ私もその世界で最も眺めのいいところとやらに連れていって頂戴」
「別にそれは構わないが……一体どういう気の変わりようなんだ?」
「どうせ逃れられないのなら、美しい景色と共に終わりを迎えたいと思うのは当然のことでしょう?」
イザベラが小声で呪文を唱えると、赤い鞭はまるで血のように滴る液体となり彼女の体内へと吸い込まれていった。
「やれやれ、やっと解放されたよ。……あー、体の節々が損傷している。内部はまだ無事なのが、不幸中の幸いだな」
男はなお恨みがましく文句を言うが、イザベラに無言で睨み付けられると何も言わなくなった。
「あなたがさっさと正体を明かしていれば、無闇に傷付けられずにすんだのよ。それにどうせ、私たちこの後死ぬんでしょ」
「……私の場合は向こうにスペアがあるから、データさえ引き継げればまた生き返られるがな」
「あらそう。だったら今ここで壊しても大丈夫ね」
そんな軽口を叩きながら男はイザベラを案内する。イザベラは文句を言いつつも、大人しくついてきた。
道中、イザベラはふと足を止めた。薄明かりの空へと変わった今なら分かる。周囲の風景はかつての緑豊かな平野とはまるで違い、そこには荒廃しつくした大地が広がっていた。
イザベラは視線を前に向け、迷いなく歩く男の背中を見つめる。男は無機質な機械であり、感情を持たないはずだ。だが何故か、男に何かしらの覚悟や決意が込められているように見えて、それがイザベラの心を揺さぶった。
到着したのは海が一望できる断崖絶壁だった。イザベラは目的地に近付くにつれて全身に気だるさと徐々に上がっていく熱を感じていたが、その理由は既に理解していた。
「こんな光景、見たことないわ⋯」
囁くような声が、焼けつく空気にかき消される。
断崖の先では灼熱の太陽が巨大な赤い球となり、地平線の彼方で絶望的な美しさを放っていた。大気は揺らぎ、地面は割れ、海は赤く染まっている。
イザベラはその光景に思わず息を呑んだ。彼女の中で高くそびえていたプライドの壁が崩れ、恐れが顔を覗かせる。
長い間、イザベラは驕り高ぶり誰にも本心を見せようとはしなかった。しかしこの終焉の景色の前では、自分の無力さと儚さに直面せざるを得なかった。
「ここで終わるのね、全てが」
数十億年に渡る進化の果てに太陽はその核燃料を使い果たし、赤い巨星へと姿を変えた。その膨張する炎の舌が地球を飲み込み、惑星の表面は猛烈な熱と放射線に晒される。
大気は燃え尽き、海は蒸発し、地殻は溶解してマグマの海となるのだ。
大陸は裂け、山々は崩れ落ち、かつての文明の痕跡はすべて灼熱の地表に飲み込まれ失われていく。
その崩壊の真っ只中に立つイザベラ・デ・クレセントは異常なまでの熱と光を浴びながら、自分の体が徐々に灰になっていくのを感じていた。
ヴァンパイアとしての彼女は、太陽の光に対してあまりにも脆弱だ。
千年の眠りから目覚めたところで、結局はこの瞬間に向かって運命は収束していたのだ。
イザベラは男と向き合った。
目の前にいるのは、冷たい金属の体を持つ人造人間。感情を持たないことなどとうに分かっている。
——それでも。
男の無機質な体に僅かでも人間らしさが宿っていることを、どこかで信じたかった。
「こんな終わり方になるなんて思わなかったわ」
イザベラの声はかすれた囁きとなって風に消えた。
彼女の視線は男の頭を通り越して、巨大な赤い光球が地平線の彼方で燃え盛るのを見つめていた。
その光はすべてを焼き尽くし、無へと還そうとしていた。
まるで、この世界など最初から何もなかったかのように。
しばらくの沈黙の後、ようやく男が静かに口を開く。
「全てのものには終わりがある。君も、私も——この星も」
イザベラはわずかに微笑んだ。その笑みには、かつての高慢さも冷酷さもなく、ただ静かな受容と悟りが滲んでいた。
「あなたと最後に会えて良かった……とは、到底思えないけど……仕方ないわね。これが運命というものかしら……悔しいわ、何もできずにここで消えてしまうなんて……」
イザベラは息も絶え絶えに言葉を紡いだ。
「この結末は変えることができない。運命かもしれない。だけど消える訳じゃない。君の存在は私が記録した。この記録は消されることはない」
イザベラはその言葉を胸に刻むように目を閉じた。
彼女の体はゆっくりと崩れ、灰となり、風に溶けていく。
太陽は限界まで膨張した赤色巨星の姿を保ったまま、ついに臨界点を迎え——そして、爆発した。
それは宇宙の終わりと始まりが交錯する瞬間。
燃え盛る閃光があたり一面を白く染め上げ、すべてを塵へと変えていく。
男はその終焉をただ静かに見つめていた。
衝撃波が広がり、彼の金属の体をも吹き飛ばす。身体は音もなく崩れ、宇宙の塵となる。
体が消える、その最後の瞬間——
男はイザベラの様子を脳内で再生していた。
灰となる直前の、儚い微笑みと彼女の声。
それは記録されたデータにすぎない。それでも、男はそれを記憶と呼びたかった。
——そして、闇が訪れた。
「博士、シミュレーションが終了しました」
機械的な声が薄暗い研究所に響く。
「イザベラ・デ・クレセントの生体反応の消滅を確認。実験は無事成功です」
白衣をまとった長身の男がそう告げると、向かい側に立つ小太りで眼鏡をかけた博士が安堵のため息をついた。
研究所の中央、金属製の冷たい台の上には拘束された少女が静かに横たわっていた。
透明なチューブが彼女の体に絡みつき、電極が神経の奥深くまで差し込まれている。静かに目を閉じた姿はまるで眠り姫のような愛らしさだ。
博士は額の汗を拭いながら、満足げに言った。
「ヴァンパイアの脳神経をヴァーチャル空間に接続し、自ら"死んだ"と錯覚させることで本当に死に至らしめる……こんなまどろっこしい方法、一体誰が思いついたのかね?」
「それは博士、あなた自身では?」
傍らの助手が無感情に返す。
博士は腹を揺らしながら笑った。
「そうだった! まあ、上手くいったみたいでよかったよ」
「しかし博士、こんな方法を使わなくても杭を打つか日の光に晒せば済む話では?」
博士は顔をしかめ、力強く首を振った。
「無理無理。杭を打ったら、あっという間に血が噴き出して大惨事だよ。そんなの見たくもないね。それにどんなに長く眠っていたヴァンパイアでも、太陽の光を浴びた瞬間に飛び起きるって知っているかい? 逃げられたり、襲われたりするんだよ? そんなの絶対嫌だ。僕は戦闘向きじゃないしね」
「確かに、博士は戦闘には向いていませんね。由緒あるクロス家の二十代目ヴァンパイアハンタ―なのに」
助手は淡々と言い放つ。
「ですが、博士は力はなくとも知能がおありです。職務を放棄することなく忠実に遂行しており、誠にご立派です」
男が抑揚のない口調で褒め称えると、博士は満更でもなさそうに頭を掻いた。
「いやあ、そんなこと言われると照れるなあ」
「博士、お疲れでしょう。後始末は私がしておくので、博士は休憩なさってください」
「ありがとう。実はさっきからトイレに行くのを我慢していたんだ。君も実験に付き合わせて悪かったね。シミュレーションといっても、円滑に話を進行させる役割が必要だったから……君も折を見て休憩をとってくれ」
そう言うと博士はそそくさ研究所を出ていった。残された男は静寂の中、無言で少女の顔を見つめる。
その無機質な瞳には一切の感情がなく、冷徹な観察者としての役割を果たしていた。
男の手は彼女の肌に触れ、その冷たさを確かめる。彼女の肌の冷たさは、彼の手と同じく無機質であった。
死した肉と冷たい鋼は何も違わないはずだった。だが、彼女の肌には確かに終わりが刻まれている。
男には決して馴染むことのないはずの空白が、静かに広がっていく。
それは冷たいはずの彼の中で生まれた不可解な感情だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
面白かったら星5、普通だったら星3、そうでもないなら星1という風に
下の☆☆☆☆☆から評価していただけると、大きな励みになります。




