第1話「白い静寂」
――風がすべてを呑み込んでいた。
雪が叩きつけるように降り注ぎ、前も後ろもわからない。
ただ、弟のうめき声だけが、白い世界にかろうじて響いていた。
「兄貴……もう、動けない……」
雪に半ば埋もれた弟の足は、不自然に曲がっていた。骨折だと一目でわかる。
「大丈夫だ。ここで止まったら本当に終わりだ。持ちこたえろ」
男は必死に声を張り上げ、自分を奮い立たせるように弟を雪から引き上げた。
凍える指先で雪をかき分け、小さな雪洞を掘る。
そこに弟を押し込み、自らの体で覆いかぶさるようにして風を防いだ。
吐息は白く濁り、体温が奪われていくのがわかる。
背中に迫る寒気は刃物のようで、わずかな油断で命を断ち切る。
それでも彼は弟の肩を抱き寄せ、囁いた。
「必ず、帰れるさ。こんなの、俺たちの登山の中じゃ序の口だ」
嘘だった。これまで経験したどんな山よりも、死は近かった。
だが、弟には悟らせてはならない。
時間の感覚はもう曖昧だった。
持っていたチョコバーは、すべて弟に食べさせてしまった。
自分は雪を口に入れ、水分だけで体を誤魔化している。
「兄貴、食べてないだろ……?」
「馬鹿言うな。俺の分はちゃんとある」
強がって笑ってみせると、弟は力なく笑い返した。
その笑顔が、まだ生きたいと願う証のように見えて、男は胸が締めつけられた。
三日目の夜明け。
吹雪はやや弱まり、彼は決断した。
「ここで待ってたら二人とも死ぬ。……背負うぞ」
「無理だ、兄貴まで……」
「うるさい。弟を置いて帰る兄がどこにいる」
肩に担ぎ上げた瞬間、全身が悲鳴を上げた。
足は重く、肺は凍りつき、意識が遠のきそうになる。
それでも、一歩、また一歩と雪を踏みしめた。
遠くに、黒い影が見えた。
小屋だ――遭難者用の避難小屋。
そしてその周囲に、赤い旗を掲げた人影が揺れている。
救助隊。
「助かった……」
弟がかすれ声で呟く。
男は笑った。
ようやく約束を果たせたのだ。
救助隊が駆け寄ってきた。
弟を雪の上に下ろした瞬間、全身の力が抜ける。
「兄貴! 兄貴、目を開けろ!」
弟の叫びが響く。
だが彼の視界は、もう雪の白さしか映していなかった。
最後に感じたのは、弟の体温がまだ温かいということ。
その事実だけで、十分だった。
――吹雪の音がすべてを覆い尽くし、世界は静寂に包まれた。
ラストシーン
白い静寂の中で、兄の命は消えた。
だがその死は、弟に生を与えた。
誰も知らぬ山の上で、それが彼の最後の物語となった。