あの箱の中に、あなた“だけ”がいる
――はじめまして。「みお」です。今日はよろしくお願いいたします。
ふふっ。それにしても、あなたって本当に押しが強いですね、「朽木」さん。そしてまた、あなたも変わった御人だと思いましたよ。
あはは。だって、わたしの話なんて、これまで誰一人として信じてくれなかったんですよ?
だから最初、あなたのことも――正直、同じだと思ってたんです。
ええ、わかっています。今日はもう一度、あのお話をするんでしたね。
朽木さん、わたしが今、この世で誰よりも信頼する「朽木 縁」さん。しっかりと、率直に、あるがままに、「記録」してくださいね。
以下に語らせていただくのは、『奇妙な箱』にまつわる、“わたしが体験した実話”になります。
*
……ええ、そうです。間違いないです。あの時のことは、今でもよく覚えています。
はい? 日付ですか? 大丈夫です。ちゃんと、正確に覚えています。
『十二月二一日』です。
後から知った話なんですが、この日って、昔、マヤ暦の終末の日と騒がれたことがあったらしいですね。
今は二〇二五年ですから、結局のところ何もなかったとわかってはいますが。
……すみません。少し話が逸れてしまいました。
朽木さんが気になって仕方ないのは、きっと――あの『箱』のことですよね。
ええ、もちろん分かっています。大丈夫です。わたし、ほんの少しだけですが、あの『箱』について知っていることがあるんです。
あれはまず、『禍品工藝舎』が世に送り出した、“宿り手箱”と呼ばれる品でした。
その箱の正体が、結局なんだったのか――それは、わたしにもわかりません。
けれど、ほんのわずかでも知っていることなら、あります。
まず、『宿り手箱』とは――
*
優しい雨粒が窓ガラスをシトシトと伝う、まどろみの午後――。
レトロな喫茶店の中は、まるで時間さえも溶けてしまったかのように、穏やかだった。
カウンター越しのマスターの背には、昭和の時代に取り残されたままの、趣あるアンティーク時計が掛かっている。
二人の女性客だけが静かに座っていて、ほかに客の姿はない。店内には、ゆったりとしたピアノの旋律が静かに流れていた。
色褪せたベロア張りの椅子は、それでもなお美しく、現代の喧騒を忘れさせるような、静謐な空気に包まれていた。
「……ねぇ? 突然ですが、あなたは『鑿岩機』って知ってます?」
目の前の女性に、嫌がらせのように、不穏な単語を投げかけてみる。
女性はきょとんとした顔のまま、少し考え、やがて言葉を並べました。
――え? 鑿岩機って、建設現場で使われる機械じゃないんですか?
「ふふっ、さすがですね。朽木さん、見事に正解です」
じゃあ、あれをですよ?
“自分の顔面に使われたら”
――あなたは、一体どう思いますか?
「ごめんなさい。わたし、もうずっと、情緒不安定で。人に優しくする余裕がないんです……。」
――朽木さん、あなたは、わたしのパートナーがすでにこの世を去っていることはご存知ですよね?
わたしの、たった一人の大切な人。
「ひまり」がいなくなってから、わたしの心はまるで、鑿岩機で穿たれたような鈍くて激しい痛みに満たされました。
――わたしはね、ひまりのことが何よりも大切だった。
季節がいくつも過ぎる間、光のない部屋で、わたしはほとんど呼吸の仕方すら忘れていました。
ひまりが大切にしていたひまわりも、今では鉢の中で乾いた音を立てているだけ……。
やがて、毎朝水をやる手も止まり、生きる意味さえ見失ってしまったのです。
――そんな時でした。あの“奇妙な箱”を拾ったのは。
薄い銀色の金属製で、どこか懐かしいような、それでいて嫌な感じのする箱。
なぜか捨てられず、わたしはそれを家へ持ち帰ってしまいました。
その夜、部屋の隅に置かれた箱から、誰かの“声”が聞こえました。
「……おはよう、みお」
聞き間違いかと思いました。今この家には、わたししかいないのに。
でも違った。確かに耳で“聞いて”しまったのです。
澄んでいて、あたたかくて、語尾を少し甘やかす――ひまりの声。
「……また、会えたね」
思わず箱を凝視しました。
それは、喜びとも恐怖とも違う、ただただ、息を呑んで動けなくなる感覚でした。
蓋は一度も開いていない。でも、確かにその中から声がしました。
心のどこかで「おかしい」と思いながら、それ以上にひまりとの再会が嬉しかった。
……涙が、勝手に、ぽろぽろとこぼれてきました。
あんな声、ひまり以外の誰にも出せるはずがなかったから。
「ずっと、みおのそばにいたよ。……今も、これからも」
その言葉に思わず箱へ手を伸ばしかけて、でも、途中で止めました。
――開けてはいけない。
そう、本能で察してしまうほど、その箱は“とてつもない存在感”を放っていました。
開けた瞬間、“すべて”が終わる。あるいは始まってしまう――
そんな確信すら湧いてきたのです。
それから、箱はまるで“ひまり”にでもなったかのように、毎日わたしに語りかけてきました。
「今日も、ちゃんと起きられた?」
「外は晴れてるよ。ひまわり、日に当ててあげなきゃ」
「……ごはん、食べてね。食べないと、また倒れちゃうよ」
わたしは、ただ黙ってその声を聞いていました。
返事など、とてもできませんでした。
見るも無惨な化け物のようなわたしには、そんな優しさを受け取る資格などなかった。
でも、ある日。
「……ねぇ、あたしのこと、本当に好きだった?」
今まで聞かれたことのない、嫌な問い。
言葉に詰まったその時、箱から別の“声”が聞こえてきました。
「……嘘つき」
「嘘つき……嘘つき……」
それは明らかに、ひまりとは違う、ざらついた、濁った声。
まるで不気味なモーター音のように、耳の奥を這いずり回る、呪詛めいた声。
金属を引っかくような音が、じわじわと大きくなる。
「あたしを捨てたくせに。ねぇ、覚えてる? あの時のこと、忘れたなんて――言わせない」
その声に、わたしの体はびくりと震え、喉の奥が焼けるように乾いていく。思わず、腕を指先でかきむしっていました。
「ふたりで逃げようって言ったの、あんたでしょ? “どっちも好き”だなんて――笑わせないでよ」
「あたしが、どれだけあんたを……」
耳を苛んでいた音が、不意に止みました。
虚ろな部屋には、わたしの荒い息遣いだけが残っています。
しばらくして、また“ひまり”の声が響きました。
「ごめんね。……驚かせちゃった?」
まるで、何事もなかったかのように。
それ以降、箱の中の声は混ざり合い、交互にわたしを裂くようになりました。
「あなたに、生きてほしいの」
「死ねばいいのに。一緒に地獄へ堕ちてよ」
「また笑える日がきっと来る」
「笑ってたじゃない。あの子の前で、あたしを裏切って――」
昼と夜のように、優しさと憎しみが交差していました。
どちらの声が本当なのか、もうわたしにはまったくわかりませんでした。
孤独な部屋に響く二つの声がぶつかるたび、頭がきしむように痛み、わたしは叫びそうになりました。
「あなたを、絶対に助けるから」
「あなたを、絶対に許さない」
――その時でした。
あの時の記憶が、突然、よみがえったのです。
ブレーキ音。割れたガラス。血の匂い。
助手席の、垂れた手。
唇は、最後まで、何かを訴えようとしていました。
「あたしを……見捨てないでよ」
……わかりません。
それが最後の言葉だったのか、伸ばされた手を振り払ってしまったのか。
ただ一つ確かなのは、
――わたしは、何かを間違えた。
――わたしは、何かを、失った。
だから、心には、ぽっかりと大きな穴が空いてしまったのです。
その夜、箱が小さく音を立てました。
蓋が、ほんのわずかに開いていました。
中には、ひまりが育てていたのと同じ、たくさんの“ひまわり”。
それがひとつ、またひとつと、さらさらと崩れていきました。
乾いた花弁が舞い落ち、箱の中から光が失われていく。
最後の一輪が崩れた瞬間――
そこに、小さな人影が現れました。
“あの人”でした。
「……もう、会えなくなるね」
そう言って、ひまりは少し拗ねたように唇を尖らせてから、肩をすくめて、手を振ってくれました。
「でも、これでやっと、あなたは――“生きる”ことができる。ね?」
「どういう意味……?」
問いかけると、ひまりは微笑み、囁きました。
「……待ってるよ。ずっと――先に、天国で」
その瞬間、背後から割り込む声。
「そんなところには行かせない……。あんたに待ってるのは、地獄だよ。またね、あたしの――最愛の人」
やがて、すべてが静まり返りました。
わたしは、ひまわりの鉢を両手で抱きしめました。
中はもう、枯れ果てていたけれど。
でも、それでも――確かに、あたたかかった。
まるで、別れの言葉を、ぎゅっと抱きしめるような温もりが、そこに宿っていました。
*
わたしの話は、以上です。
「……朽木さん、わたしは、何かあなたのお役に立てたでしょうか?」
えっ? わたしですか?
禍品工藝舎の品について、どう思ったかって?
うーん、正直に言っていいんですか?
……構わず言ってほしい? それじゃ、言わせていただきますね。
「“この世界に、本当に真実なんてあるんですかね?”」
――朽木さん、
あなた自身が、自分のことすらわかっていないというのに。
その証拠に……
「ほら、今もあなたの肩に“誰か”の“手”が置かれていますよ――」
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
ご覧いただき、心より感謝申し上げます。