17.イベント当日
月に一度、多いときには一ヶ月に三回ほどソロライブのステージに上がることはあった。
場数を踏めば踏むほどステージに立つことに慣れてしまい、緊張感を味わうことも少なくなった。のだが。
「うう……緊張する……」
召喚された先の異世界でのソロライブ。しかも、生声で音源も楽器隊もない完全なるアカペラ。緊張しないほうがおかしいよね。
ふぅ、と小さく息を吐いた私は、いつもの部屋の前に立ちノックもせずに扉を開いた。
「あ、おはよう春香」
ソファに腰をおろしていたジークが、にっこりと微笑みかけてきた。
「ん、おはよ」
挨拶を返してジークの向かいに座る。と、ジークが私の顔を覗き込むように見てきた。
「ど、どうしたの?」
「いや、ちょっと疲れた顔してるなって思って。大丈夫かい?」
「ん……緊張してあまり眠れなかったから、そのせいだと思う」
「そうか……あ。ならこれをあげるよ」
上着のポケットに手をつっこんだジークは、何かを取りだすと私に差し出した。手のひらにのっているのは、小さな紙に包まれた何か。
「これは?」
「ガティ、と言って、この国では割とポピュラーな眠気覚ましと滋養強壮の食べ物だよ」
「へえ……」
紙の包装を開けて出てきたのは、半透明色の丸い塊。見た目はキャンディーのようだ。
「頭もスッキリするから食べてみなよ」
「うん、ありが――」
口のなかへ放り込もうとした刹那、手が止まった。
ちょっと待て。これ、原料は何なんだ? 見た感じ、変なものは使われていないと思うけど……。
そう、私のなかでは先日のミュールの件があとを引いていた。
「ね、ねぇ、ジーク。これって、その、何でできているの?」
「ん? たしか、砂糖にいろいろなハーブを練りこんで作っているみたいだぞ」
砂糖とハーブ……。なら問題ないか。指先でつまんだままのキャンディーみたいな物体を、ひょいっと口のなかへ放り込む。
ん……んん……。
「わ……喉がめっちゃスースーする。ほんのりと甘いし、香りもいい」
「だろ?」
これ、あれだ。ミントの飴。歯磨き粉みたいな味? とジャスミンっぽい香りがする。
何となく頭もスッキリとしたところで、いつものお務め開始。剣に魔力を注入するのもすっかり慣れたものだ。
「ふぅ……これでいいかな」
「お疲れ様、春香。ええと、これからすぐにイベントの準備?」
「うん。お昼ちょうどから始めるから、それまでに喉のコンディションを整えたり、着替えしたりするつもり」
イベント会場となる現場へは、王族専用の馬車で送ってくれるらしい。至れり尽くせりだ。
「そうか。なら、今日は一人でラーミアさんのところへ行ってくるから、春香は早く準備に戻りなよ」
「うん。ごめんね」
「何も問題ないよ」
にこりとしたジークがソファから腰をあげ、私もそれに続く。
「あ、あのさ。その……ジークも、イベント来るんだよね……?」
「もちろんさ。ラーミアさんのところへ行ったあと、一度自宅に戻るけど、遅れないように会場へ行くから」
「う、うん。わかった」
何となく恥ずかしくなった私は、「それじゃまたあとで」と声をかけ、そそくさと部屋を出て行ってしまった。
――部屋へ戻り、まずは今日歌う曲の歌詞を確認。今まで何度も歌ってきた曲ばかりだけど、アカペラで披露したことはほとんどない。
歌っている最中に迷子にならないよう、曲の構成と歌詞を念入りにチェックする。それと、MCで話す内容。
MCは、曲と曲とのあいだに設けるお喋りタイムのことだ。生もののライブでは意外とこれが重要。アーティストのなかには、MCだけでお客さんを沸かせる人もいるくらいだから。
一通りチェックを済ませた私は、窓際まで近寄り窓を開けた。空からは燦々と日光が降り注いでいるが、肌が灼けるような暑さは感じない。
穏やかな風に運ばれてきた新芽の香りに癒されつつ、大きく伸びをした。と、そのとき――
視界の端に城門のほうへと歩いていくジークの姿が映りこんだ。ラーミアさんの研究室から自宅へ戻るところのようだ。
私は声をかけようとした。が、すんでのところで思い留まった。
いつも凛とした空気をまとい、颯爽と歩いているジークの足取りが今日は重く見える。何かあったのだろうか。
どんどん小さくなるジークの背中が、どこか寂しそうに見えた。
――イベント開始の時間が迫り、ドレスに着替えた私は王族専用の馬車に乗りこんで出発を待っていた。
「わぁ……これが王族専用の馬車なんですねぇ……。凄いですね、春香様っ」
のんきなことを言っているのは、向かいに座るマーヤちゃん。マリアンヌさんが気を遣ってくれたらしく、彼女も一緒に馬車へのることに。
そうだねー、なんて口で言いつつ、私の頭のなかは「会場にどれくらいの人が集まってるんだろう」ということでいっぱいだった。
それと、ジークのことも何となく気になる。
「あっ。動き始めましたね」
馬車がゆっくりと動き始める。初めて乗ったのだが、正直、これほど乗り心地が悪い乗り物に乗ったのは生まれて初めてだった。
とにかく揺れるし地面からの振動がダイレクトにお尻に伝わるし! めっちゃお尻痛いんですけど!
会場までの距離が近いことだけが救いだ。
「わぁ……!」
小さな窓にかかっているカーテンをめくり、外を見たマーヤちゃんが感嘆したような声を漏らした。
「ど、どうしたの?」
「は、春香様っ! す、凄い人ですよ! めっちゃ集まってます!」
「え……!?」
マーヤちゃんの言葉に戸惑いつつ、カーテンをそっとめくって外を見やった。目に飛びこんできたのは、人、人、人。とにかく人。
そこには、いったいどこからこんなに集まった? と言わんばかりの大勢の人が群れをなしていた。
「う、うそでしょ……!? こんなに大勢……?」
「さっすがお務め様ですね春香様っ! 王都だけじゃなく、近隣の町や村からも集まっているみたいですね!」
マジか。日本国内の有名野外フェスくらい人集まってない? こんななかで、アカペラで歌うのか私?
心臓がドクドクと跳ね始め、手にはじっとりと汗もかき始めた。久々に味わう心地よい緊張感。
会場となった公園の中心に設置されたささやかなステージを、大勢の人が取り囲んでいる光景は圧巻の一言だ。
なお、ステージのそばまで馬車で直接行けるように、一本の道が作られていた。馬車一台がやっと通れるくらいの細い道の両サイドには、人が入らないようロープが張られ、一定の間隔で兵隊さんが配置されている。
「おお! あれがお務め様の乗った馬車かな!?」
「お務め様ー!」
「春香様ー!」
会場に入ってきた王族専用の馬車を見て、歓声をあげ始める観客たち。
すご……ちょっとだけ、トップアーティストになったような気分。そんなバカなことを考えている間に、専用に設けられた細い道を通り、馬車がステージのそばについた。
そのまま外へ出ていいのかな、と戸惑っていると――
「失礼します、お務め様」
外から馬車の扉が開かれた。扉を開けたのは、鎧をまとった初老の男性。
「お初にお目にかかります、お務め様。私、衛兵隊長を務めているフーゴと申します。今回のイベントでは、お務め様の警護および運営補助を務めております」
「あ、はい。どうも、ありがとうございます」
「陛下や王妃様からは、いつでもお務め様のタイミングで始めてかまわないとのことです。よろしくお願いいたします」
「わ、わかりました。こちらこそよろしくお願いします」
腰を折ったまま丁寧に説明してくれたフーゴさんは、再び扉を閉めその場を立ち去った。
「いよいよですねっ。春香様!」
「うう……緊張してきたぁ」
自分で言いだしておきながら、緊張とプレッシャーで押しつぶされそうになる。
ジークやマリアンヌさん、孤児院のみんなはあんなに感動してくれたけど、もし誰にも響かなかったら。がっかりさせちゃったら。
そんな私の不安を察したのか、向かいに座っていたマーヤちゃんが、私の手をぎゅっと握ってくれた。
「春香様! 大丈夫ですよ! 春香様のお気持ちは、きっと伝わりますから!」
「マ、マーヤちゃん……」
にぱっと笑うマーヤちゃんを見て、思わず私の口もとも綻んだ。
「ありがとう、マーヤちゃん。私……頑張ってくるね」
コクン、と力強く頷いたマーヤちゃんは、扉を開けて馬車から降りると、私に向けてそっと手を差し出した。どうやら、エスコートまでしてくれるようだ。
両手で頬をパンパンッ、と叩く。気合いを入れろ、春香。頑張るんだ。
大きく深呼吸をした私は、マーヤちゃんの白くしなやかな手をとり、静かに馬車を降りた。