1.不満
あのときから、私の時間は止まったままだ――
今でも、あのときのことはすべて夢だったんじゃないか、そう考えるときがある。でも、そうじゃないことは私自身がはっきりとわかってる。
泣きじゃくる私を、優しくそっと抱きしめてくれたあなたのぬくもりがまだ残っているから。
あなたとすごしたわずかなあいだ。私は間違いなく世界で一番幸せな女だった。
こんな日が永遠に続けばいいと、心の底から願った。それが叶うのなら、私はすべてを捨ててもいいと思っていた。
だからこそ、あなたが最期にあんな行動に出たことを、私は完全に許すことができていない。
たとえ、それが私のことを心から想っての行動だったとしても。
ねぇ、ジーク。あのとき、あなたはなぜあんな笑顔を見せられたの?
残酷な運命の歯車に散々翻弄されたあなたが、あんなにも素敵な笑顔を見せられたのはどうして?
ううん、もうそれはいい。
そんなことよりジーク。私の声はあなたの耳に届いてる?
あなたが、小鳥のさえずりのようだと、澄んだ鈴の音色のようだと言ってくれた私の歌声。
ここにもう一度立つ自信を取り戻せたのは、間違いなくあなたのおかげだよ。
私が生まれて初めて愛おしいと感じた人。私のことを誰よりも愛おしいと言ってくれた人。
あなたの心が少しでも救われるように、この曲を、このメロディーを届けたい。
ねぇ、ジーク。
今も貴方に、私の声は聴こえていますか?
――日本の夏は暑い。
これはよく言われることだ。イギリスからの留学生、キャロラインも覚えたての日本語で「ドウシテ二ホンノナツコンナニアツイノ!?」と発狂していたのを思いだす。
まあ、それでも今はまだマシだ。なぜって? それは夏休み中で学校へ行く必要がないから。
夏の時期は登校するだけで汗だくになるし、とてもまじめに勉強するようなモチベーションにはならない。そう考えると、夏休みというのはとても理にかなったシステムだとは思う。
自室のベッドに寝ころがったままスマホを手にとり、メッセージアプリを起動した。新たなメッセージが届いていることを示す通知が一件。母親からだ。
『やっほー、春香。カリフォルニアはめちゃ暑いけど快適だよー! やっぱり春香も一緒に来ればよかったのに!』
添付されている写真には、青い海をバックにピースサインをキめる母親が写っていた。母は友達とアメリカのカリフォルニアへ絶賛旅行中だ。
「はぁ……」
思わずため息が漏れる。お気楽で自由奔放な母からのメッセージに、何となく心がささくれだった。
夏休み中はできるだけ音楽活動に時間を割きたいって、あれほど言ってたじゃん。それに、友達と一緒に行ってるってことだけど、どうせ新しい恋人でしょ?
そんなところへついていくなんて、気まずいに決まってる。それに、彼氏の前でデレデレする母親の姿なんて見たくない。母親の、女の一面なんて娘からしたら絶対に見たくないものだ。
それにしても……。
昨日、『エキセントリック』でマスターに言われた言葉がずっと引っかかってる。
エキセントリックは、私がよく出演しているライブハウスだ。キャパは二百人ほど、普段はロックバンドやパンクバンドが出演している箱だが、私はソロシンガーとして出演させてもらっていた。
幼いころから、歌うことが大好きだった。歌っているときは、イヤなことも悲しいことも忘れられたし、何よりみんなから「上手!」「すごい!」って褒められてたし。
中学三年のころからライブハウスへ出演するようになり、高校二年生となった今ではワンマンライブも主催できるほどの人気は獲得した。
ただ、ここ最近は動員数が少しずつ減ってきている。昨日のワンマンライブでは、キャパの半分ちょいくらいしか埋まらなかった。
『春香ちゃんはさ、めちゃくちゃ歌うまいと思うよ。声もいいしね。ただ、歌に気持ちというか、感情があまりこもっていないような気がするんだよね』
ショックだった。そんなことを言われるなんて、思ってもいなかったから。しかも――
『春香ちゃんのオリジナル曲さ、恋愛をテーマにした曲がほとんどじゃん? でも、何か響かないというか。もしかして、春香ちゃん恋愛したことないんじゃないの?』
正直、これには相当カチンときた。多分、怒りの感情が顔に現れていたんだと思う。続けざまにマスターは『春香ちゃんの可能性を信じてるから厳しいこと言ったんだから』とフォローを入れた。
いや、そんなフォローいらんし。それに、マスターが言っていることは当たっている。実際、私はこれまでの人生で恋愛と呼べるような経験をしていない。
小中学生のころは、気になる男子がいたこともあった。でも、音楽活動を本格的にスタートさせてからは、恋愛に興味を示すこともなく、彼氏ができることもまったくなかった。
でも、それって関係ある? 『感情を歌声にのせるのよ』『サウンドに感情をぶつけるんだ』なんて言葉はライブハウスで日常的によく耳にする。
いやいや、何そのスピリチュアル。歌は結局のところ声と技術だと思ってる。感情なんてよくわからないもので、歌がよりよくなるとは思えない。
私はもう一度スマホを手にとると、動画投稿サイトを開いた。エキセントリックの公式アカウントにアクセスし、アップロードされている動画をチェックする。
昨日のワンマンライブの様子も、すでにアップロードされていた。が――
「ウソ……閲覧数、たったのこれだけ……?」
表示されている閲覧数は、千二百五十二。プロでもない、アマチュアソロシンガーの再生回数としてはそこまで悪くない数字ではある。
でも、今までは自分のライブ動画が公開されるたびに、すぐ再生回数は五千を超えていた。遠のくオーディエンスの足と減少の一途をたどる動画の再生回数。
思わずスマホを握る手に力が入る。続けて、若者に人気のSNS『glamorous』を開いた。検索フォームに「篠宮春香」と入力し検索ボタンをタップする。
私の名前にヒットした投稿がいくつもリストアップされた。
『春香のライブ、超よかった! やっぱり春香の声好きだな』
『今日はエキセントリックへ! 春香さん、安定の歌姫っぷり!』
ファンの子からの好意的な投稿を目にし、私の口もとがかすかに緩んだ。
ほら、やっぱりファンの子たちはわかってくれてるじゃん!
が、そのままどんどん下へとスクロールしていくと――
『初めて春香のワンマン行ったけど、んー……いまいちだった』
『春香ってJKだしビジュもいいんだけど、歌はそこまでじゃないよね』
『音源聴いたときは「うまっ!」って思ったけど、生で聴いたらそれほどではなかった。心に刺さらないというか、響かないというか』
次々と目に入る辛辣な評価に、思わず手が震えた。エゴサーチなんてした自分を呪いたくなる。
悔しい――
自然と涙がこぼれた。自分の声と歌を完全に否定されたみたいな気がして、大声で叫びたい衝動に駆られた。
『歌に気持ちというか、感情があまりこもっていないような気がするんだよね』
マスターに言われた言葉が、再び耳の奥でこだまする。
何よそれ、気持ちとか感情とか……それって、そんなに大切なことなの? どんなに心を込めたとしても、歌そのものがヘタだったら、声がダミ声だったら意味ないじゃん!
お気に入りのクッションを乱暴に手にとり、顔を埋めた。瞳からこぼれる涙がどんどん頬を伝い、あっという間にクッションには大きなシミができた。
もう、何もかもイヤだ。私の声と歌をちゃんと評価してくれない人たちも、わけのわからないことを言うライブハウスのマスターも、無神経な母親も、何もかもがイヤだ。イヤだ。イヤだ。
クッションに顔を埋め、声を押し殺して泣いていたそのとき――
「……え?」
遠くで何かが聞こえ、私は思わずクッションから顔を離した。ブツブツと呪文を唱えるような、気味の悪い声。
「な、何……?」
ベッドの上に座り、あたりを見まわすが、もちろん何もない。が、声だけはどんどん大きくなっていた。そして――
「え……!?」
それは一瞬の出来事だった。ベッドの上に座っていた私を、眩い光が包み込む。
「きゃあああああ!!? な、何!? 何なの!?」
光に包まれた私は視界を遮られ、何も見えなくなった。慌ててベッドから飛び降りようとするも、まるで重力がなくなったかのように、私の体はフッと軽くなり、そしてそのまま意識が遠のいた。