~木田浩次の場合~
─半額でも六百円か…
冷蔵ショーケースをのぞき込みひとりごちた。
ブリの旬など知らなないが、最近は「天然ブリ」の表示が並ぶことが多くなった。
一人暮らしの木田にとって、六百円のブリは大した出費ではないのだが、かといって六百円を払ってまで欲しいほどのものでもなかった。
冷蔵ショーケースを離れた木田は、作業服のポケットに手を突っ込んだままで作業ズボンを引き上げた。痩せたり太ったりを繰り返しているうちに、気づけばちょうどいいウエストサイズがわからなくなっていた。今履いている作業ズボンも、もうかれこれ2年以上もこうして合わないウエストをガチャベルトで無理矢理固定しているのだが、夕暮れを過ぎたこの時間になると、その固定もおぼつかなくなってくる。
175センチの身長に80キロの体、だぶついた水色の作業服に紺色の褪せたジャンパー。お勤め品が並ぶスーパーをめぐる何の変哲もない週末の風景。
生まれてこの方特段人に話せるような人生は送ってきていない。勉強は嫌いだった。スポーツは好きでも嫌いでもなかった。近所に同学年の友達は数名いたが、高校を出るころには「友達」だと胸を張って言える関係の人間はいなくなっていた。大きな病気もケガもしなかったが、専業主婦の母親は長男である自分に対し、かなりおおらかに接した。反抗期らしい反抗期はなかったが、かといって家族で和気あいあいと団欒を囲む風景もなかった。木田の父親は地方公務員の末端に籍を置く男で、酒以外の楽しみもなく、そのせいで母親と口論になることも少なくなかったが、気も心も体も小さい母親は数刻と持たず泣き出すものだから、決まって父親が外に出てそのまま朝まで呑んでくるといった構図が常態化していた。
その父親もおととしの冬、すい臓がんであっけなくこの世を去った。
父親が亡くなってから、母親はすぐに長女夫婦を呼び寄せ二世帯で暮らすようになった。出て行けと言われたわけではないが、当然木田の身の置き場はなくなり、かれこれ1年以上実家には足を向けていない。
結局、いつもの半額表示が貼られた「のり弁」をかごの中に入れ、発泡酒とワンカップを手にレジに向かった。この時間でも週末ともなればレジには多少の列ができ、三本指で支えたアルコールの容器が小刻みに揺れカタカタと互いの材質を確かめるように小さな音を立てた。
─3点で合計680円になります。
ジャンパーのポケットからスマートフォンを取り出し電子決済のアプリを起動した。
─ピッ
軽快な音と恥ずかしくなる電子音声が流れ、支払いは完了する。
木田はカゴから商品をつかみだすと、そのまま店を出た。外扉の自動ドアをくぐると春の足音など聞こえもしない、凍てつき乾ききった空気が鼻孔を刺した。
─明後日の集合は何時だったか
三連休の中日だというのに、木田のシフトは無情にも「朝から現場」の文字で埋められていた。と言っても特に予定があるわけではない木田にとって、持て余す3日間の中日に仕事が入ったからと言っても、代休が一つ増えてラッキーというくらいのもので、何の感慨もなく車の扉を開け、助手席に買ったばかりの荷物を無造作に放り込み、木田はハイエースに乗り込んだ。木田が乗り込むとハイエースは大きく右に車体を傾けて主人の搭乗を受け入れているようにも見えた。
運転席に乗り込んだ木田は、バックミラーを傾け自分自身と目線を合わせる。ソバージュと言えば聞こえがいい、癖の強い天然パーマをかき上げミラーを戻す。やわらかい頭髪はそのまま後ろになびき、メガネの下の切れ長の眼光をあらわにした。生まれて此の方、自分自身に対して価値を見出せないでいる木田の、唯一と言っていい「お気に入り」が、この「天然パーマ」であった。
いつものチェックを終えると、カチャリとシートベルトをかけエンジンボタンをONにする。タイヤハウスの上の座席は大きく振動し、木田の夕飯たちはそれぞれせわしなく震え始めた。必要以上に大きなステアリングさばきで駐車場を一周すると、出口から上体を出し、車道に合流するためのウインカーをたたく。ふと、かすかなサイレン音をとらえ、窓ガラスを下げる。複数の種類のサイレン音は重なり合い、確かに近づいてくる気配がする。合流のための対向車に気を付けつつ、赤色灯が見える前に合流したい気持ちが、木田をほんの少し前のめりにさせる。
合流に成功し、しばらく走行すると、サイレンは木田の少し前を同じ方面に向かって走っていることが分かった。木田の家まであと数百メートル、けたたましいサイレンの音に木田は少しだけ眉を寄せた。特に関わり合いがあるわけではないが、あの音が好きな人間はいない。あれは、喧騒と災いを運ぶための乗り物であり、変哲もない日常を人生の旨とする木田にとっては、出会いに喜びは感じられない。
─せめて、楽しみにしている深夜のマージャンリーグ戦だけは邪魔しないでほしい。
そう胸の中でつぶやき、今にも足元に落ちそうなワンカップを左手で押さえながら最後の角を左に曲がった。