幸せと憎しみがほつれる
幸せなんて、1本の糸がほつれてしまうだけで、消えてなくなっていく。
いつからかだろう。この暮らしを幸せと思うようになったのは。
夫の収入は一般の平均よりもやや少なく、住んでいるマンションも室内は昭和感が漂う。いつかは夫が出世して一軒家をなんて夢を描いていた20代はとうに過ぎて、もうお互い50代を目の前にしている。毎日を何とかやり過ごして生きている。30代の頃に心底嫌気のさした昭和感漂う部屋にも、いつの間にか何も感じなくなり、愛着すらわいている。心が広くなったのか、何かを諦めてしまったのか。現状に満足出来ることになることを、成長と呼ぶのか、退化と呼ぶのか。
慣れてしまった生活。それでも幸せを感じで生きていることは確かで、パートに出ながら、時折夫が家事を手伝ってくれる生活にも満足はしている。
子供はできなかった。お互い貧しくなっても子どもは欲しい気持ちでいたが、神様が私達夫婦に与えたのは2人での穏やかな暮らしだった。
喧嘩らしい喧嘩はほとんどしない。友人にはそんな夫婦実在するの?と驚かれるが現実で、私も夫も互い対して不満を抱いても、そこで感情的にはならないから、喧嘩にまでは至らない。大概が話し合いで解決する。
夫婦生活が冷え切ってて、空想でも描いてるんじゃないの?辛辣に妹に言われた時は、果たしてそうなのかもと不安に思って、夫に尋ねたことがある。
私との暮らしは、幸せ?
夫は、誰に何を言われたのか知らないけど、他人に僕らのことはわからないよ、と答えて、すぐに新聞に目を落として会話をやめた。
幸せと思ってくれてると、思っていいんだよね?重ねて聞こうとしたけれど、しつこくされるのを嫌そうな雰囲気を出したので、それ以上は何も言わなかった。
夫の幸せの価値観。今を穏やかに暮らせれば、それ以上は望まない。何が与えられても、奪われても、変わらない穏やかさを心にもって生きていたい。そう言っていたのを覚えている。
ある日、スポーツをあまり見ない夫がサッカーの試合を見ていた。
確か日本代表の試合で対戦相手はそれまで私が聞いたことのなかったアジアの小国だった。
私もルールはよくわらないまま一緒に見て、ただ日本が得点を重ねるのをボーっと見ていた。
すると夫は私に、この国知ってる?と私に聞いてきた。私が知らない、と答えると、夫はこの国は内戦中で母国でサッカーをすることすらままならない。それでも何とか時折兵士として国を守りながら、サッカーを続けている。この大会で国民に夢と希望を与えたいと相当な覚悟を背負って試合にのぞんだんだ。僕の心情的にはね、望美ちゃん。この国に勝ってもらいたいし、こういう国が優勝すべきだと思うんだよ。でも結果をごらん。現実は何の苦労もない裕福な暮らしの中でサッカーをしてきた日本代表の圧勝だ。勝負の世界は実力だとは重々分かっているよ。でも、その世界にどれほどの意味があるのだろうって、今少し落胆していたんだ。
それを当たり前にしてしまった世界が何だか悲しいな。勝敗なんかない世界が、本当の幸せなんじゃないかな。ただ純粋にスポーツを楽しむ。それだけで人は幸せなんじゃないか。それが当たり前にできる環境と穏やかな暮らし。それさえあれば、後は競うことなんて必要ないんじゃないかと思うよ。
私は特に何も思わず、そうだね、と返事をした。子供の運動会の全クラス同時優勝みたいなこと?と思いながら、何だかそれは味気ないなと思って。ただ、夫が心底争いや勝負といったことに興味がないことだけはわかった。
そんな夫だったから。ずっと一緒にいられた。私も穏やかな暮らしを幸せと思えていた。
でも、幸せは1本の糸がほつれるだけで、消えてなくなってしまう。
あれほど穏やかだった夫が、居酒屋で酔った帰り道に喧嘩に巻き込まれて、車道に殴り飛ばされて車に轢かれて死んでしまい、私は途方に暮れている。
喧嘩の仲裁に入ったらしく、夫には何の非もなかった。それなのに暴力で、穏やかな暮らしを何より望んだ夫が暴力によって死んでしまった。
でも、どうして。穏やかな暮らしを望んでいたなら、喧嘩に巻き込まれるようなことをしたのだろう。黙って横を通り過ぎれば良かったのに。
酔っていたから、としか夫のことを警察の人に尋ねられた時、答えることが出来なかった。争いなんて、本当に嫌う人だった。
だから巻き込まれたのかもしれない。磁石が引き寄せ合うように。夫と真逆の争いのエネルギーが夫を引き寄せて、そして私から奪っていった。
私は怒りを押し殺しながら、葬儀をやり過ごして、警察の方にはとにかく与えうる最大限の罰を与えてくださいと訴えている。
夫との穏やかな暮らしは、いとも簡単に消えてなくなった。
いつも穏やかで幸せを感じられた私は、それは夫の存在があったからで、それを失った瞬間に、私の世界は変わってしまった。
夫はきっとあの世から、誰も憎まないで欲しいと私に言っている気がする。
それでも私は、怒りを胸に宿したまま、夫を殴り倒した男を永遠に恨み続ける覚悟でいる。
許しなど与えてたまるか。夫の、私の穏やかな暮らしを奪った人間に、一瞬たりとも穏やかな時間を過ごさせてはいけない。
火葬場で私は心に誓って、家族にもその胸のうちを伝えた。妹は賛同し、両親は何も言わなかった。娘が憎しみに飲まれていく姿を見るのは言葉にできないほど辛いことだろうと思う。
それでも私は、絶対にその男を許さない。
夫の両親は既に他界していて、兄弟もいない夫の為に戦えるのは私だけだった。
私が戦わなければ、夫の死はただ酔って喧嘩に自ら巻き込まれただけの一見して、自業自得のように映ってしまう。
夫がどれだけ穏やかな人間であったか、争いを拒んでいたか。勝負の世界すら、無くしたがっていたか。私は訴えていかなければいけない。
幸せは1本の糸がほつれるだけで、消えてしまう。
ある日見た夢。
夫を病気で亡くす夢。
目覚めた時、私の幸せは夫1人を失うだけで、すべて変わってしまうと胸がひどく痛んだのを覚えている。
ただ病気で失うだけなら、もしかするとそれなら、幸せな私のままでいられたかもしれない。
悲しみは変わらずとも。
私は今、悲しみと怒りがごちゃまぜになって、頭が引き裂かれそうで、心はバラバラに砕けている。私を人間として存在させるのは、憎しみだけだ。
憎しみが私を生かしている。
すぐそこにあった穏やかな暮らしが、もうどこにもない。その面影が私の頭の中で揺らいで浮かび、消える。
夫の穏やかな笑みが、真面目な顔で新聞を読む姿が、2人で並んで歩いた遊歩道の情景が。
遺骨を抱いて家に帰り、ついてきた妹と2人、炬燵に入って黙ったまま、しばらく過ごした。
「許しちゃだめだよ」
ポツリと、妹が言った。
「絶対許さないよ」
私は、怒りを込めて答えた。
口にして、私はずっと夫の影響で穏やかに生きていたのだと、心底わかった。
夫は私のことを、叱るだろうか、笑うだろうか、それとも褒めるだろうか。
褒めていて欲しい。それでこそ、望美ちゃんだよ、と。
そう思った瞬間に、私の中の怒りと憎しみがほつれて、消えた。
夫に許されたい。憎む私を許して欲しい。許されなきゃ、人を憎むことなんて出来ない。
私は涙を流して、泣き出した。
無理だった。私はもう憎しみで心を満たして生きられるような人間にはなれなかった。
夫が、そうさせた。
どうしていいかわからない。
一瞬で憎しみが消えていった。
きっと夫が連れ去っていった。私はそう確信した。
憎んじゃ駄目だよ。
穏やかに笑って、夫が私に言う姿が目に浮かんだ。
怒りと憎しみがあった心は空洞になり、私は無気力に、泣き続けた。
憎めない、穏やかにもなれない。
私はどうやって、この先、自分を存在させればいいのだろう。
「もういい。嫌だ。憎みたくない」
鼻を啜りながら、私は妹に言った。
「は?何言ってるの?」
「穏やかに生きたい。あの人がいなくても、私は、あの人がいるように生きていきたい。穏やかに」
何も考えずに出た言葉、おそらくこれが私の本音だろう。
「駄目だよ、逃げちゃ」
「違うよ。逃げるんじゃないから。許せるわけないでしょ。でも、憎しみに飲まれて生きるのは嫌だから」
「それはそうだろうけど、、、」
妹はそれ以上何も言わなかった。
許せない、今は。私の心はぐちゃぐちゃだ。それでも、夫が私にくれた穏やかな暮らしと心は失いたくない。
それが私の答えだ。
穏やかな心でね、望美ちゃん。何が起きても、そうやって生きていけばいいんだよ。
いつかの夫の言葉が、私の胸に響き、私は泣き止んで、ほんの少し穏やかさを取り戻した。
こうして、私は少しずつ穏やかを取り戻す。必ず。
それがあの男を償いへと導かせると信じて、生きていく。
許しはできなくても、私は穏やかに暮らして、あの男は報いを受けて、私はそれを淡々と受け止めて、生きていく。
そして、いつかすべて許せる日がくるなら、それでいい。そうでなくても、私が穏やかに暮らせれば、もうそれでいい。
疲れた。
私は横になって、瞳を閉じた。
起きたらすべて夢であって、穏やかな夫が隣で寝息をたてていることを、願いながら。
ほつれて消えた幸せを、私はまた紡ぎなおして、生きていかなければ。




