令嬢と春息吹く登校
いつもより、ほんの少し、良い目覚めだった。
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朝。
ケンジにとって約6000回目のそれは、瞼が重いものだった。
部屋に鳴り響くアラームに起こされ、ゆっくりと自分の部屋から出る。
リビングには父と母が既にテーブルで朝食をとっていた。
ケンジも座り、頂きますと言う。
お椀に満ちた味噌汁を空気と一緒に吸えば、ずずず、と啜る音が出る。
じゃが芋とワカメ、白味噌と玉ねぎの味噌汁は温かく、
春の快適な気温の中でさえ、落ち着く塩気と食感だった。
ジャムとバターが贅沢に塗られたトーストをモグモグと食べ、
マグカップにたっぷりとあるコーヒー牛乳を飲んだ。
ごちそうさま。その言葉と共に自分の部屋に戻り制服を十数秒で着る。
廊下に出る扉前の壁にはフックが備えつけてある。
そのフックに、家の玄関の鍵がかかっていた。
ひょいと鍵をフックから外し、ポケットにしまいこんで、
行ってきます。と玄関を出た。
その玄関先には、黒髪の少女、チヒロがいた。
「おはよう、ございます?」
なんて挨拶すればいいのか分からず、焦るケンジ。
「おはようございます」
にっこりと、彼女は同じ言葉で返した。
「待っていてくれたんだ」
住所は伝えてないハズだ。と内心戸惑う。
「良い場所に住んでいるんですね」
「そうなんだ?よく分からないけど……確かにそうかも知れないね」
ケンジには自分の家そのものよりも、その立地の好さの自覚は無い。
チヒロが事前に己の家を把握していることに対して、
ケンジは僅かな怖さと同時に安心していた。
「チヒロさん、今日も……」
「ええ、崩界ですね」
彼にとっての恐怖は、帰り際の異世界なのだから。
「助かるよ」
立ち向かう術を、彼女から得る必要がある。
その機会を、彼女から歩み寄って、手を差し伸べてくれている。
彼は、この状況と己の心理を言語にすることは難しいだろう。
しかし、
「どうしたんですか」
「え?」
「嬉しそうな顔をしていますよ」
「そりゃ、嬉しくない男子は、いないと思う、かな」
彼女の一言で、実感する。言語化出来なかった自分の心境。
建前と、本音の違い。
彼が真に言いたいことは、美少女との登校する時間の幸福さではなく……。
「チヒロさんの方こそ、なんだか嬉しそうだよ」
自分の内心を見破られていそうな事が少しだけ面白くなかったのか、彼も言ってみた。
「勿論、私はとても嬉しいです」
「あはは」
彼女の言葉に、不意に笑ってしまう。
交差点に近づけば、暖かい風が二人に吹いたのだった
ただ単に書きたかっただけですね