二話 たびだち
夏休みに必要なのは、できる限り遠くへ行くための旅券。それだけだ。
黒いリボンを巻いたストローハットを被って、ドロップショルダーのシャツに、裾をロールアップしたラップパンツを合わせた蓮は、緊張した面持ちで揺れる座席に座っていた。
車窓の景色は、都会的なレンガパネルのビルから、ゆるい曲線をえがく川を隔てて、青い草原へと変わっていく。
人工物といえば、巨人のように両足を地面につっぱる高架鉄塔のみ。
その間に渡された送電線には黒い鳥が止まっている。
鴉だろうか。
蟻の行列のように並ぶ黒点を目で追うと、途中にひとつだけ歪な突起がある。
大人の切り絵みたいなシルエットが、中空に吊られた電線に立っていた。
夏の陽炎みたいにゆらゆら揺れて、頭の天辺から工場の排気のような黒煙をたなびかせている。
転げ落ちないように電線に掴まる手が、身長と同じくらい長い。
あれは、人の形をしていても人ではないのだ。
「……いちゃいけない人」
ぞくりとした蓮は、窓から視線を外して、膝にのせたリュックに手を伸ばした。
金属ホルダーで吊した狐のぬいぐるみを撫でると、粟立った心が鎮まっていく。
これは桜のお手製のもの。
彼が一針一針心をこめて縫ったこれを肌身離さずいることが、一人で旅に出るための条件だった。
ハンドメイドには、手作りの温かみを感じられる他、呪術的にも大きな意味がある。
手で一つ一つ形作る全てには作り手の魂が宿る。
つまり、一種の『呪』だ。
呪い――相手を不幸に追いやるものだと思われがちなそれは、思い入れさえ間違えなければ相手を護る力を持つ。
今、蓮は一人でいるように見えて、常に桜に守護されているのだ。
柔らかな面影を思い出しているうちに、電車は終着駅に辿り着いた。
人もまばらなホームに降りて、改札を出ることなく次の鈍行に乗り換える。
目的地である小さな無人駅で下りると、パラパラと雨が降り出した。
蓮は、駅舎の中から表をうかがう。
小雨は本降りに変わり、大きな雨音が屋根や路面から響きだした。
まるで暑い夜に大合唱するカエルの鳴き声のようだ。
空を見上げると、黒い雲が隙間なく広がっている。
やむ気配はない。時間も、あまりない。
蓮はリュックから出した折りたたみ傘を広げると、サンダルが濡れるのを覚悟して表へ飛び出した。
地図を思い出しながら、線路にそった小道を歩く。
パタパタと撥水布をうつ水音は、不調律なリズムとなって足を急かす。
差しかかった踏切が下りたので、リュックの肩当てを掴んで待つ。
ディーゼル式の古式めいた電車が通り抜けると、巻きおこった風に髪を吹き上げられた。
思わず顔をふせる。すると、遮断機の足下に置かれた花束が目についた。
いつかの犠牲者に手向けられた献花は、乾いて茶褐色のブーケへと変貌している。
――命は乾くのだ。