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一話 といかけ

 夏休みに必要なのは、昼夜を問わず過ごしやすい気温に保たれた部屋だ。

 あとは十分な水分と、わずかな娯楽。


 日本では、子どもは体力と気力で暑さを乗り切れるという風潮が長いことあったが、現実的には年若いほど暑さに弱い。


 日差しに目眩めまいがして、よくない方向にふらついた場合を考えれば、夏休みの悪戯わるあそびなんてかわいいもの。

 ちょっとだけ大人びた恋や、新作ゲームにのめり込むくらいは多めに見よう。


 ただし、命の危険にかかわる事態はのぞく――。



「どうして旅行に行きたいのですか?」

「食べたいものがあるから」

「調べて取り寄せましょうか?」

「現地でしか食べられない。それに新鮮な方がおいしい」

「……ですが」


 素っ気ない白シャツを着た桜は、ためらいがちに言葉を切った。

 話相手が謎かけしてくる蟹のように達者な口の持ち主なので、押した分だけ返されるだろうことは想像にかたくない。


 無言の空気に、居心地の悪さを感じて視線を流す。


 開け放った障子の向こう。

 濡れ縁のさきに、桔梗のむらさきや立葵の白朱しろあけが、鮮やかに咲く夏庭が見える。


 木戸塀のうえには、黄昏を過ぎた空が広がる。

 桃色から淡い紫、そして紺へと、急激に彩度を失っていくグラデーションは夜への布石だ。


 この空模様ならば、明日も晴れ。

 暑く過ごしにくい一日となるだろう。


 雨気は全くない。

 けれど、桜の耳には、ぽたり、ぽたり、と水滴の音がする。


 音の出所は、樫でできた低い卓に正座でついた一人の子ども。

 風呂上がりの濡れた素直な髪から落ちる雫が、しぼのある生地で作った浴衣を濡らしている。


 わずかに眉をひそめた憂い顔は、有名な窯で焼かれた西洋人形のよう。

 薄い色の髪は、蚕が生む絹の細のように艶やかで、空色の兵児帯をしめた腰は驚くほど細い。


 再来年には中学に上がるというのに、ずいぶん前にあつらえた召し物をたゆませている。体つきが華奢なのだ。

 その時が来たらあっけなく伸びるのかも知れないが、今は予兆さえ感じさせない。

 むしろ、成長過程の現在こそ完成形であるかのように整っている。


 さらに驚くことに、これだけ可憐な容貌をしていても少女ではない。

 子どもは少年なのである。


 名をれんという。

 名字は伏せる。


 桜の姓である『青染』を使いたいと常日頃から主張してはいるが、彼の親権者は他いるので、体が桜のもとにあっても勝手は許されない。


「蓮。一人旅は許可できません。あなたの身に何かあれば、悲しむ人がいます」

「その悲しみは、僕の身を案じてじゃない。跡取りがいなくなる事態を考えてだよ」


 透き通った声に悲哀はなかった。

 ビジネス文書を読み上げるように、事実を述べたつもりでいるのだろう。


 蓮は、駄々をこねて悪態をつくとか、寂しくて泣きじゃくるとか、わかりやすい感情を表にしない子どもだ。

 時として、大人より雄弁で、理知に富んだ助言をほどこされることもある。


 そのたびに桜は困る。

 こういった場合、どういった態度をとるのが正解なのか――もしも対応を誤って、成長途中の自尊心を傷つけはしないか、そればかりが心配だ。


 こんなにも慎重になるのは、何を隠そう、桜が彼の父親ではないからだ。


 兄弟でもない。

 血のつながりはなく、ただえにしだけがある。


 桜が蓮を生来育ってきた『世間ずれした家』から、身一つで連れ出したのは数年前のこと。

 各地を転々と連れ合って、静かな街の古い屋敷を買い上げて、二人で住み始めてからはおよそ半年。


 しかし、蓮は、街にも安住の暮らしにも慣れる気配がない。

 通いの使用人が二人いるが、あまり打ち解けない。


 話しやすいかと思って、年が近い酒屋の息子に御用聞きを頼んでいるが、そちらもそっけない挨拶あいさつから進展しない。


 これまでの人生で、友と遊ぶという経験をしてこなかったのだから無理もない。


 普段の蓮は。


 気がつけば、日の陰った縁側に出て、花咲く庭や空、晴れた日に遊びに来る蝶や鳥を愛でている。

 白い衣から白い腕を伸ばして、何か大切な物を探すように、掴むように、宙をかく。


 その仕草は、神に奉じる舞のように清らけくもあり、人外化生のようにおぞましくもあった。

 

 そもそも蓮は、ただの子どもではない。

 普通の人間には視えないものが視える。


 異形やあやかし、呪詛じゅそに亡霊。

 危険で滑稽こっけいな『あちら側』を、蓮は時おり、目を凝らしてうかがっている。


 見ると吸い込まれそうな琥珀色の瞳は、捕らえているようで囚われている。

 彼が生きるのは『現実』だというのに。


「それなら、私も同行します」

「だめ。桜は大学と仕事がある」

「そんなものは後回しで十分で――」

「ねえ、桜」


 名を呼ぶ水鈴のごとき声に、桜は思わず口を閉じた。

 蓮は、間をおかずに畳みかける。


「約束を覚えてる?」

「約束?」


 桜は小首を傾げた。


 ここに住み始める前に、桜は蓮と同居のルールを決めた。


 学校帰りには必ずチャイルドフォンから連絡を入れること。

 お小遣いは必要なつど申告すること。

 朝と出掛けぎわ、食事の前後、帰りついてと寝る前には挨拶を欠かさないようにすること――。


 優等生である蓮は、ルールを違えたことなど一度もない。

 であるからして、わざわざ約束を取り付けることなど無かったはずだ。

 今までは。


(私が、なにか忘れているのでしょうか)


 悩む大人を置き去りにして、子どもは音も立てずに片足を引き、立ち上がる。


「明日の早朝にここを発つ。もう決めたから、帰ってくるまで待っていて欲しい」

「そんなに思い詰めて。いったい、何を食べたいんです?」

「……」


 蓮は、襖を開けたまま、桜をじいと見下ろして、


「ないしょ」


 と、わくわくをにじませた顔で、うつくしく微笑んだのだった。

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