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真理篇  作者: 紫乃緒
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 魔女王は理恵子のこけてしまった頬を撫でる。その仕草は慈愛に満ちているようにも見えた。


『……さようなら、《おかあさん》』


 別れを告げる声は、哀しみに満ちているように響く。が、流れるような仕草は澱まない。


「お別れは済みましたかね」


 黄桜の声と同時に、魔女王と理恵子の間にあるものが置かれる。

 黄金色にも近い黄色の花弁を豊かに称えた黄色い桜の一枝。


「…………真理まり………」


 理恵子がつぶやいたのは、娘の名前だった。

 しかし、その声もまた夢幻に沈んでいく。理恵子は無限という夢幻に囚われた。

 すべては理恵子が望んだとおり。理恵子は夢のなかで娘と夫が居た、あの幸せな時間を永遠に繰り返す。

《奪われた時間》は其処になく、ただただ幸せだった時間を繰り返す。


「しかしまぁ……皮肉なお名前でしたね。

 理に恵まれた女性と、真理をその名に冠しながら、それでも其処へ《到達》することはできなかった」

『……そうですね。

 でも、この女性ひとなりに一生懸命考えてくださった名前だったのですよ……』


 黄色い桜の花弁をひとつ、魔女王は指で摘むと理恵子の額に乗せた。その花弁は吸い込まれるように理恵子に沈んでいった。


『おやすみなさい、《おかあさん》。

 其処にはもう、貴女が望むものしか映らない。

 貴女が望んだ幸せを……貴女が沈めるようになるまで』


 魔女王がそのしなやかな指先をすい、と上げると理恵子を泡が包んだ。まるでシャボン玉のようにふわふわとしたそれが、理恵子を包んで掬い上げる。

 ふよふよと浮かぶそれが、黄桜の元へ近づいていく。


「では陛下、この方はこちらでお預かりいたしますね。

 ……《沈むまで》、でよろしいので?」


 黄桜の問いに魔女王は静かに、けれど毅然とした表情で応える。

 彼女の右手には、錫杖が握られていた。その錫杖がりぃん、と鈴に似た音を立てる。


『……此処は少し時間の流れが遅いですが……それもハーデスの考えには入っているでしょうね。

 その女性ひとが沈めるようになるまでは、どうかお願いします』

「お願いなど。私は貴女の願いならいくらでも叶えますよ。

 ええ、《いくらでも》、ね」


 くつくつ、と喉を鳴らし黄桜は笑んだ。

 その笑みからにじみ出る狂気にも似た感情に、魔女王は気付いていたが沈黙を保った。

 理恵子は、確かに代償を支払った。彼女はもう、目覚めることはない。その生命が尽き、存在が消えるまで。

 永い時間だろう。しかし彼女が包まれているのは幸せな時間だ。その幸せを得るには十分な対価だったのでないか、黄桜はそう思った。


 黄桜は店を出て、外へ向かった。

 ほんの数メートルを歩く間に思いを馳せる。


 今回、目立たないうちに様々なことが起こった。起こった悲劇と、起こらなかった悲劇。

 理恵子は生身で冥府へ降りた代償としてこの隔絶された世界樹に囚われ、更に願いを叶える代償として無限という夢幻に囚われた。

 魔女王はその存在を保つための代償として欠片の悲劇を味わい、更にその欠片を産んだ母を自らその檻に捕らえることになった。


「嗚呼、悲劇は繰り返す……それが世界のことわりだとしても」


 泡に包まれた理恵子を、黄色い桜の根元へ横たえる。彼女の時が尽きるまで、彼女はこのまま。永遠にも近い時間囚われたままだろう。それが彼女の望みだったから。


「しかし……真理しんりは彼女に微笑まなかった。

 皮肉なことですね、もう少しだったというのに。

 ……貴女も鬼になれれば良かったのに。そうすれば、くだらない夢に囚われることなく、復讐を完遂することができたのに」


 黄桜のつぶやきはもう、理恵子には届かない。


「さようなら、愚かな母。

 貴女が《沈める》ようになるまで、その檻は解かれない。

 思う存分、幸せな時間を繰り返すといい」


 黄桜の声に応えるように黄色い桜が洞を開き、理恵子を飲み込んでいく。

 時間にしてほんの数秒。

 完全にそれを見届けて、黄桜が踵を返し店に戻るころにはもう、黄桜は理恵子のことを忘れていた。

















 ……人は真理に辿り着けない。なぜならば、人はヒトであるからだ。

 人がヒトであるという鎖を自ら引きちぎらない限り、人は真理に辿り着くことはできないのだ。

 世界を心から憎み、そのことわりを踏み躙らない限り、絶対的に。

 世界は狭く、同時にひどく広大だ。

 嗚呼、また世界の何処かで、【悲劇】が幕を開けようとしている――






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