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真理篇  作者: 紫乃緒
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 黄桜に促されるまま、理恵子は静かに歩んでいく。気付けばいつの間にか身体を護るように纏っていた灰色の布がない。けれど身体は重さを感じず、なんの違和もなく動いている。

 丘と呼ぶにはなだらかな、短い傾斜を上ると桜が見えた。八重桜のような豊かな花弁は、けれどなじみの深い薄紅色をしていなかった。

 黄金色にも近い黄色、その花弁は房のように咲き誇りひらひらと舞い落ちていく。


「……きれい……」


 おもわず、理恵子はつぶやいた。


「左様ですか、気に入っていただけて幸いです。

 さ、もう着きますよ」


 柔和な笑みを深くして、黄桜が更に促す。黄色い桜の花弁が、黒い着流しにとても映えていた。


「ただいま戻りました」


 がらりと引き戸を開けながら、黄桜が室内へ声をかける。

 磨き抜かれた飴色のカウンターと、左手の奥の方には小さなテーブル席があった。さ、と促されテーブルにつく。

 気付けば黄桜は前掛けを締めていた。白い前掛けだが真新しいものではなく、ずっと使い続けているような印象を受ける。


「……あの、」


 理恵子は目の前のテーブルに置かれたグラスを見つめて唇を開いた。

 ようやく、という気持ちが多い。自分では理解できないことが多すぎた。こうやってテーブルに着き、当たり前のように水の入ったグラスをサーブされ、ようやく理解できる場所に戻ってきた、と感じたのだ。


「私……何か間違っていたんでしょうか」


 自問にも近い響きだった。

 娘が大切だった。平凡な幸せの象徴だった。その些細な幸せを踏み躙られ、踏み躙った対象を憎んだ。その死を願った。

 けれど憎んでいた対象は、娘を救った。残酷だけれど一番苦しみのない方法で。

 それでもなお憎んでしまえれば或いはもっと楽だっただろうに。けれど悲劇の裏側を見てしまったことで、その感情を持ち続けることに疑問を感じてしまっている。

《悲劇は決定されていた》。覆せるものではなかった。その悲劇の度合いが違うだけで。


「《人の持つ感情》としては至極当然だったと私は思いますがねぇ」


 顎先をしなやかな指先で掴む仕草で黄桜が答える。


「しかし、貴女はその先に《到達できなかった》。

 迷いを抱え、行くことも戻ることもできない。ましてや《沈む》など」

『黄桜さん』


 黄桜の声を遮るように女性の声が響いた。少しだけ低い、艶のある声だった。


「おっと、これは失礼いたしました。……陛下」


 滑らかに一礼し、一歩下がる。その黄桜の仕草と言葉に顔を上げる、と。

 テーブルの向かい側の席に、誰かが座っていた。

 白い肌、さらさらと流れる黒髪、やや伏せられた瞳は神秘的な紫色の光を称え、長い睫毛で縁取られている。

 人間、本当に美しい人を目の前にすると咄嗟に言葉が出ないものだ、と理恵子は思った。

 冥王も黄桜も、整った顔立ちをしているが、目の前の彼女はなんというか、桁が違う。

 黄桜が【陛下】と賞するのも解る気がする。


『……理恵子さん』


 彼女の伏せられていた瞳がゆっくりと持ち上がり、直視される。理恵子は、一瞬呼吸の方法を忘れた。

蠱惑的な瞳の色。紫の瞳。優しいその色彩は包み込まれるような錯覚を覚え、嗚呼、夢のようだと理恵子はぼんやりと思った。


『わたくしは魔女王と呼ばれています。

 魔女の王として、貴女が望むことを叶えようと。

 けれど、願いを叶えるにはその対価が必要です。

 ……貴女が《本当に望んでいる》ことは、一体なんですか?』


 優しい声だった。理恵子は、彼女の瞳から目をそらせない。囚えられたかのように釘付けになっていた。


「私……私が望んでいること、は……」


 ぼんやりとした思考のまま、口唇は言葉を紡ぎだす。

 本当に望んでいること。願っていること。嗚呼、そうだ、私は。


「娘がいて……夫がいて……幸せだったころに、戻りたい……」


 奪われる前。《悲劇が起こる前》に。

 戻りたい。あの時は確かに幸せだった。

 ふつうの、特筆すべきことはなにもない、ただただ平凡で幸せだった毎日に。


『……そう、ですか』


 ゆらりと彼女の瞳が揺れた気がした。嗚呼、なんてきれいな瞳だろう。

 そういえば、娘の瞳もきれいないろをしていた。


『では……貴女が望むように』


 彼女の白い両手が持ち上がり、理恵子の頬を包む。触れた柔らかさとぬくもりに心から安堵を感じながら、理恵子は目を閉じた。閉じた拍子に涙がこぼれたような気がしたが、もう、気にならなかった。


 ふぅ、彼女は静かに息を吐いた。


「……これでよかったのですか?陛下」


 同じように静かに、黄桜が問いかけてくる。彼女―魔女王は目を伏せるように少しだけうつむいた。

 いま、黄桜の顔を見てしまっては、何かが零れ落ちてしまいそうになるとおもったからだ。


『……これもわたくしが支払う《代償》のひとつ、なのでしょうね……』


 柔らかい声音だったが、その響きは悲痛に彩られていた。


「……まぁ……冥王様が私にその女性を渡したことでそれが確定した、と言っても過言ではありませんがねぇ」


 黄桜の声には苦笑が混じっている。

 そうなのだ。魂の管理者たる冥王が【鬼である黄桜に理恵子を渡した】ということ自体が異常なのだ。

 黄桜はテーブルに突っ伏してすやすやと眠る理恵子の顔をちらりと見た。

 やつれた頬はこけ、涙の痕がなんとも痛ましい。常人ならばそう思うだろう。


「ですが、今の状態では理恵子さんは沈むこともできない……冥王様なりのやさしさでしょうかねぇ」


 この世界ではありとあらゆる生命は死を迎えた後冥王の裁きを受けてその後が決定する。しかし、その裁きというのは実は《魂の重さ》で決まる。

 限りなく純粋なものは軽く、不純物が混じれば重くなり、混沌の海に沈みやすい。混沌の海に沈むにつれ不純物はなくなり、また軽くなる。

 沈み切って不純物を全くなくし、軽くなり浮上する。浮上したものはまた混沌の海から生まれ、魂として物質を構築していくのだ。

 混沌の海に沈むか沈まないかを決めるのが冥王。しかし、理恵子は肉体を持ったまま冥府へ来た。

 その時点で世界からイレギュラーと判断されてもおかしくない。

 けれど冥王は理恵子を【世界から隔絶した到達者の鬼桜へ】渡した。


『《ハーデスは優しい》のですよ、ああ見えて、ですけれど。

 ……この人の願いを叶えるには自分では不適だと判断したのでしょう』


 魔女王は理恵子の頬を撫でる。かさついた肌。それが哀しい。


『……こうやってよく、撫でてくれましたね』


 つぶやく魔女王の声は哀しみに満ちている。


「……生身で冥府に来られたことと言い……この方は非常に情の深い女性だったのですね、陛下」

『ええ……欠片とはいえ、とても慈しんでくださっていました。

 このような形で再会するとは、思ってもみませんでしたが……』

「それも、冥王様のやさしさでしょうかねぇ」


 黄桜は苦笑する。いま、彼の目の前にある光景は、《あってはならない》ものだったからだ。

 魔女王と呼ばれる彼女は、基本的に【世界から隔絶されていなければならない】、つまり、世界への干渉はできないとされている。

 しかし、その存在は禁忌とされながらも《存在し続けている》。

 この世界の絶対的なルールは、等価交換。彼女は、存在し続けるために対価を支払い続けている。

 理恵子のやつれた頬や、傷んでしまっている黒髪を眺めつつ、黄桜はぼんやりと思い出していた。


 異端の象徴でもある彼女が世界から拒絶されたこと。しかし、彼女を生み出したのは混沌の海だったことからそのまま沈むことができなかったこと。そして、彼女が世界に代償を支払いながらも存在を続けるようになったこと。

 その代償が、彼女の存在の一部が人間界や或いは魔界、或いは神仙界に生まれ、《非業の死を遂げる》こと。

 冥王が告げたのはこのことだった。

《悲劇は確定されていた》。それを回避しても回避しても、絶対的に。ありとあらゆる苦痛が既に用意されていたのだ。


 ―理恵子さんにとって一番の悲劇は、陛下の欠片を身籠ったことでしょうかねぇ。


 黄桜は口にすることなく、そんなことをぼんやりと考えた。






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