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真理篇  作者: 紫乃緒
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 気付くと、見覚えがある場所にいた。

 うすいピンクの壁紙、天井に据えられた照明、やや小さめのテーブル、システムベッドデスク、壁に飾られた賞状。

 見覚えがあるのも当然、そこは理恵子が生活していた家の―娘の部屋だった。


 そこに、ひとりの少女の姿があった。

 ただし、その両足は床についていない。ぶらりぶらりと揺れている。

 そう、その少女は首を吊っていた。

 窓からの風で少女の足が揺れる。それと同じように机に乗せられていた紙がぱたぱたとめくれていた。

 その紙は、ノートのページを無造作に破ったもの。震える字で、ただ一文。


『おかあさん、ごめんなさい』


 理恵子は悲鳴を上げた。その少女はまさしく、亡くした娘と同じ顔をしていた。しかし理恵子の記憶している姿とは少しだけ違う。身長は伸び、やや成長していた。そんなことを理解するよりも早く、理恵子は悲鳴を上げ続けた。


「なんで……どうして!」


 ぶら下がったままの娘に走り寄ろうとして、《それ》に実体がないことにようやく気付く。その姿はほんのり透けていて、これが現実ではないということを理恵子に教えてくれる。けれど、この光景はあまりにも……残酷すぎた。


『女よ、《これ》が起こりうる現実のひとつだった』

「どういう……ことですか」


 声が震える。現実ではないと解っていても、これはきつすぎる。胸を抉られるような痛みだ。


『言葉通りの意味だ。お前の娘は、《お前の知らぬところで凌辱に遭い、およそ考え付くかぎりの恥辱を味わった》。

 そして《それ》を言い出せぬまま、自ら死すことを選んだのだ』


 冥王の言葉は熱というものを帯びていない。冷たい、冷たい声だった。

 見せてやろう、と冥王がその手を挙げる。指さした先、何かがうっすらと浮かび上がってきた。


 理恵子はその光景を知覚するのと同時に、息を飲んだ。

 数人の男たちに、服を破られている少女の姿が見える。白い肌は泥で汚れ、男たちの体液が付着している。男たちは嗤っていた。少女が泣き叫び抵抗するのをまるで愉しむように。


「こん、な……そんな、ひどい……」

『その《ひどい》仕打ちを受けることが決定されていたとしたら?』

『え?』


 理恵子は冥王の顔を見上げた。その瞳はまっすぐに凌辱されている少女に向かっている。


『生きていて欲しい、それは親が持つ当然の感情なのだろう。

 しかし、生きた先にこの《悲劇》が待っていると《識って》いたら?

 この《悲劇》を知り、親が絶望すると《識って》いたら?

 ……お前ならばどうする』


 理恵子は答えなかった。いや、答えられなかった。

 そんなこと……いや、でも。もし哀しむと解っていたのなら、嗚呼、でも。


『……顔を上げよ』


 沈痛な思考に囚われていた理恵子は、冥王の言葉で視線を上げる。と、またひとつの風景が浮かび上がってきた。

 赤いランドセル。

 それを背負って、少女が玄関を出ようとしていたところ。玄関の先には、雨が降っていた。

「お母さん、今日は送っていこうか?」

 声が聞こえる。自分の声だ、と気づくよりも先に、玄関先にその顔が見えた。

「ううん、ひとりで大丈夫だよ」

 答える娘の声も、あの日のまま。不安そうに空を見上げるその瞳も、自分が記憶している娘の姿だった。

「やっぱり、送っていこうか?」

 再度の問いかけに、ようやく娘は笑顔を見せる。

「だいじょうぶ!」

 元気そうに、いつものように。そう、この風景はあの日のもの。自分の記憶ではその次に娘の姿を視るのは冷たくなったあと。

 しかし、風景は続く。

 小さい雨の降るなか、娘は自宅から見えなくなって走るのをやめた。

 静かに空を見上げ、小さく頷く。

「……今日なんだね……うん、私は大丈夫。

 …………おかあさん、哀しまないでいてくれると、いいな」

 願うように、小さくつぶやかれた声。


 靄に飲み込まれるように、また風景が変わる。下校の姿だろうか。娘は赤いランドセルを背負って、静かに歩いていた。友達の姿は見えない。ひとりだった。

 影に気付いて顔を上げると、そこには一人の男。

「……《かわいそうに》」

 男のつぶやきは娘に届いたのか否か。解らないけれど、娘は《《抵抗しなかった》》。

 男の手が自分の首にかかり、力がこめられる、その瞬間まで、一度も。

 ぼぎり、鈍い音がした。娘の瞳から光が消える。糸が切れた人形のように、手足がだらりと垂れた。


「ああああああああああああ!!!!」


 自分の口から洩れているのが絶叫だと、理恵子は気付かなかった。

 しかし、理恵子はどこか冷静に目の前の風景を受け止めている。そう、これこそがあの日、《起こった現実》なのだと。

 男はほとりほとりと涙をこぼしている。その涙は娘の頬にかかって、その曲線を彩るように流れていった。

「せめて……せめて、きれいに。きれいなままで……嗚呼……」

 呻くような男の声だけが響いてくる。人通りのない真夜中、男は土を掘っていた。昼間は交通量の多い、三車線の道路。その中央分離帯、花壇のようになっているそこに、花を敷き詰めて。

 冷たくなった娘を埋めていた。


『女よ』


 冥王の声に理恵子は我に返った。目の前に広がっていた風景が砂が流れるように消えていく。残ったのは、ほんのりとした靄だけ。


『娘を殺した男が、《娘を救った》としたら?

 苦しみが最もない方法で、《起こると確定している悲劇》を《起こさない》ために殺したのだとしたら?』


 冥王の声を聴きながら、理恵子はぼんやりと考える。

 【自分は間違って】いたのか、と。

 目に入れても痛くないと思っていた、自分よりも大切な一人娘。嗚呼、叶うならば自分が代わってやりたい。しかし、その《悲劇》は確実に起こる。起こってしまう。理屈は解らないが、けれど《そう》なのだと解ってしまった。


『―貴様はそれでも、娘を殺した男の死を望むか?』


 冥王の言葉は厳しい。何の感情も感じない、ただただ、彼の言葉は《《正しい》》のだと、それを痛いほどに理解してしまう。


「私、は……」

 

 理恵子はようやく、声を出した。喉が乾いてひりつく。口唇も乾ききっていて、動かすのがひどく億劫に感じた。


『……男は代償を支払った。その精神が崩壊し、生きている間、死ぬまで苦しみを得ている。

 ……女よ、貴様はなにを代償として差し出す? 己の生命か? それとも《人間である》ことか?』


 理恵子はうなだれた。答えは出ない。自分から娘を奪っていったあの憎い憎い男が、結果的に娘を恥辱や凌辱から救った。その《悲劇》を回避したのだ、一番残酷で、けれど一番やさしい方法で。

 ……もう、何が正しくて何が間違っているのかわからない。憎いはずなのに、今すぐにでも苦痛を味わって死んでしまえと思うのも本当。しかし、あの凌辱が起こらなくて良かった、苦しまなくて良かったと思うのも本当。

 どうしたらいいのか。途方にくれたように理恵子は灰色の布を握りしめている自分の両手を見つめた。


『おやおや、冥王様。女性をあまりいじめるものではありませんよ』


 静寂を破るように、静かな声が響く。穏やかな声だったが、やや冥王を非難するかのような響きを持っていた。

 理恵子がその声につられるように顔を上げると、そこには一人の男性が立っていた。





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