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真理篇  作者: 紫乃緒
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 《それ》は、突然襲った悲劇だった。


 平凡な家庭に生まれ育ち、中高と公立を進学し、大しておおきくもない一般企業の事務として仕事をしていた。

 そうして縁あって取引先の男性と結婚し、2年後には子供を授かった。

 色の白い、女の子だった。


 眼に入れても痛くないというのはこういうことだろう、と理恵子はおもった。 おとなしい性格と5歳児にはみえないやわらかな物腰。

 本を読むのがすきで、こまっている人がいると自分から声をかける……やさしい子だった。


 来年は小学校だね、と話しながら笑っていたのは、いつだったか。

 ピンクや灰色などバリエーションが豊かになったランドセルを見て、「わたし、これがいいな」と遠慮がちに娘が指差したのはいたってふつうの、赤いランドセルだった。

 キャラクターが刺繍されたものやデザインに凝っているものもあるのに、それでいいの?と尋ねると、「だって、ランドセルって、こういうのでしょう?」と不思議そうに見上げてくる瞳が、とても愛おしかった。










 小雨の降る、薄暗い日。

 お母さん今日は送っていこうか? と言うと、「ううん、ひとりで大丈夫だよ」と笑って手を振った娘。やや不安そうな眼で空を見上げていたから、やっぱり送って行こうか? と声を掛けると「だいじょうぶ!」と元気そうに笑って、走って行った、その後ろ姿。


 異変に気づいたのは、仕事が終わって帰宅してすぐ。

 特に習い事もさせていないから、娘が先に帰っているはずなのに。

 けれど、もう天気も良くなっていて友達と遊んでいるのだろうとその時はおもった。


 そして、一時間たち、二時間たち……陽もおちて辺りが暗くなってきた頃。

 理恵子は娘の友達の家に片っ端から電話をしていた。

 そして、どの家も来ていない、と言う。

 夫の携帯に連絡し、娘が帰ってこないの! と泣く理恵子に、夫は努めて冷静に「警察へ連絡して、俺もすぐ帰ってくるから」とだけ言った。 震える手で警察へ電話し、上手く説明できない口を呪いながらあふれてくる涙をぬぐい、「娘が、帰ってこないんです」とだけようやく言えた。


 夫が帰ってくる、ほんの数十分が待てなくて、携帯だけをにぎりしめて家を飛び出した。もしかしたら、「お母さん、遅くなってごめんね」と言いながら娘が帰ってくるような気がして。



 ………………そして、娘は帰ってこなかった。



 近所のひとも、友人も、娘の学校の先生も、職場の同僚や上司も、ひどく心配してくれた。 警察のひとも、がんばってくれた、とおもう。



 ―けれど。



 結果的に、娘は見つかった。

 隣県の交通量の多い三車線の道路、その中央分離帯、植え込みになっているそこに、《娘は埋められて》いた。

 猛暑だとテレビで散々取りざたされているのに、なぜか寒かった。

 薄暗い安置室で確認のために、と言われて《娘だったモノ》を見せられた。

 土で汚れてはいたけれど、白い肌も、黒い髪もそのままだった。


「あ、あ、あ、ああああああ!」


 その時に理恵子の口から出たのは嗚咽とも叫びともつかない音だった。

 夫が肩を支えたような気がしたけれど、もう身体に力なんて入らなくて、冷たく濡れた床に崩れ落ちて、それでも理恵子は泣き続けた。

 警察のひとが、まるで痛ましいものでも見るかのように目を伏せていた、それだけを覚えている。











 娘は、ころされたのだと言う。

 細い首には絞められた痕があって、窒息する前に首の骨が折れて、即死に近かったのだと。


 嗚呼、どれだけ怖かっただろう。

 どれだけ痛かっただろう。


 泣いて、泣いて、火葬場から上がる煙を見ながら理恵子は心から悔んだ。

 あの時、自分が無理にでも送っていけば、もしかしたら。

 あの時、すぐに学校に連絡していれば、もしかしたら。

 けれど、どれだけ悔んだとしても、もう娘は帰ってこない。


 ほどなくして、娘を殺害した犯人が捕まった。

 証拠も残っており、真犯人だと言われていた。

 そして、裁判の判決が出る日。


『主文、被告人を無罪とする』


 理恵子は、世界が足元から崩れおちていくような感覚をあじわった。

 犯人は、精神疾患を患っていたという。

 責任能力はなく、以後は病院で治療をするのだと。


 世界は暗転し、理恵子は喪失の海を漂っていた。

 夫とは、あの裁判以来、顔を合わせないようにしていた。

 夫が理恵子を扱いかねていることは、その表情でわかっていたから。


 職場を辞め、家に居ることもつらくて、ふらりふらりと入った、公共の図書館。

 本を読むでもなく、ただ座っている。

 ふと視線をあげると、そこに一冊の本。


 『悪魔の召喚』


 黒い表紙に銀色の刺繍、ずっしりと重いその本を、理恵子は手に取った。






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