第8話「山神なのじゃ」
リスタ王国には東西の国境に大きな城砦都市があり、それぞれ人口四千程度の人々が住んでいる。リスタの騎士と呼ばれる騎士団が常駐しており、国境を監視と出入国の管理を行っている。
しかし、かの大戦から十二年……リスタ王国の国境は平和そのものであり、時々密入国者や賊を捕らえるぐらいの事件しか起きていなかった。
リスタ王国 東の城砦 団長執務室 ──
中年というのは美しすぎる銀髪の女性が、執務机に座り報告書を確認していた。
「本日も異常なしか……まぁいつものことだが」
この女性こそが現騎士団団長のミュルン・フォン・アイオである。大戦時は副団長として騎士団を纏め上げ勝利に貢献した。大戦後は夫との間に一子を授かったが、大戦で多くの騎士を失った騎士団には、他に団長職を継げる者がなく出産後も団長を続けることになった。
ミュルンは立てかけてあった剣を、鞘ごと持ち上げると一息で抜き放った。ヒュンッという空気が切れる音がする。彼女はその鈍く光る切っ先を見つめながら
「こうもやることがないと、腕が錆付いてしまうな」
と呟いた。それと時を同じくしてドアをノックする音が聞こえてくる。
「開いている、入れ!」
ミュルンが剣を鞘に収めながらドアに向かって声を掛けると、ドアが開き一人の封筒を持った青年が入ってきた。どことなくミュルンに似た雰囲気の青年は敬礼をする。
「コンラートか、どうした?」
「団長、王都から軍務大臣名義の封筒です」
コンラートと呼ばれた青年は、名をコンラート・アイオといい、ミュルンの従弟にあたり彼女の従士かつ副官でもある。コンラートはミュルンに持っていた封筒をミュルンに差し出した。
「ご苦労……ふむ? 命令書の型式ではないようだが」
ミュルンはそれを受け取ると執務机まで歩き、ナイフを取り出して封を切った。中には三枚ほどの手紙が入っており、その手紙を一通り読み終わるとミュルンは苦笑いを浮かべた。
「なるほど……確かに最近士気の低下が見られるからな、どこの隊も大変なようだ」
ミュルンはそう呟くと執務机の席に座り、紙を取り出すとペンを持って何か書き始めた。そして、それが書き終わると封筒に入れて、封蝋をするとコンラートに手渡す。
「それほど急ぎではない、軍務大臣殿に届けてくれ」
「はっ、わかりました!」
手紙を受け取ったコンラートは敬礼をすると、踵を返して団長室を後にするのだった。
◇◇◆◇◇
リスタ王国 ガルド山脈の麓にある牧場 ──
数日後、久しぶりに休暇を取ったリリベットは、家族と共にガルド山脈の麓にある牧場に来ていた。同行しているのは、マーガレットとマリー、それには近衛隊からはラッツとサギリが護衛として付いている。リスタ王国ではあまり盛んではないが、この牧場では畜産などが行われており軍馬などの放牧地でもある。
フェルトはレオンに乗馬を教えており、リリベットとヘレンは木陰でシートに座り、それを眺めながらお茶を飲んでいた。
「むむむ……レオンは六歳だと言うのに、もう乗れるのじゃな。私は十歳で教えて貰って、十二歳でようやく様になってきたのじゃが……」
「ふふふ、陛下は運動が苦手ですからね」
リリベットの呟きにマリーが笑いながら答えた。ヘレンは目を輝かせながらリリベットに抱きつく。
「かぁさま、お馬さんに乗れるのぉ~?」
「う~む……どうじゃろう? ここ数年は乗れておらぬしのぉ」
リリベットの曖昧な返事に、ヘレンは頬を膨らませて足をジタバタさせながら駄々をこね始めた。
「ヘレンも乗ってみたい~」
「ヘレンにはまだ早いのじゃ。ここで大人しく母様と一緒に見ていような?」
「やだぁ! やだぁ! やだぁ!」
リリベットもマリーも宥めようとするが、ヘレンの癇癪は収まらなかった。その様子に気が付いたのか、白馬に乗ったフェルトがリリベットたちの元に近付いてきた。
「大丈夫? どうしたんだい?」
「へレンが馬に乗りたいって駄々をこねておるのじゃ」
「とぅさま、わたしも乗りたいのじゃ~」
リリベットに抱き上げられていたヘレンは、泣きながら助けを求めてフェルトに両手を伸ばす。これにはフェルトも弱った顔をして窘める。
「ヘレン、馬は結構危ないんだよ」
「やぁ、やぁ~」
それに対してヘレンは必死に首を振って抵抗する。ため息をついたフェルトは、泣き止まないヘレンに
「仕方がないな……わかった。では父様と一緒に乗ろう。でも、これから言うことは守るんだよ?」
と告げた。その途端ヘレンはピタリと泣きやみ首を傾げている。
「まずお馬さんの上では暴れない。次にちゃんと鞍に捕まっている。最後にお馬さんを叩いたり大声で驚かせたりしない。いいね?」
「はいなのじゃ~!」
さっきまで泣いていたのが嘘のように満面の笑みを浮かべるヘレンに、フェルトは両手を差し出した。リリベットは釈然としない表情を浮かべながらもフェルトにヘレンを手渡す。
「お主はヘレンに甘すぎるのじゃ」
「あはは、ごめんよ。娘はやっぱり可愛くてね……じゃちょっと行って来るよ」
ヘレンを受け取ったフェルトは、自分の前にヘレンを乗せると馬の腹を軽く蹴って、ゆっくりと進み始める。
「わぁ~い、高いのじゃ~」
ヘレンの大喜びの声を聞きながらリリベットは、それを羨ましそうに眺めていた。
それから二時間ほど経過した昼下がり、一行がロッジで休憩をしていると地鳴りのような音が聞こえ始めた。
「何の音だろう?」
フェルトは首を傾げると周りを見渡す。近衛隊の二人も剣に手を掛けながら周辺を窺っている。唯一リリベットだけが平然と紅茶を飲んでいた。
「何を慌てておる? あれはウリちゃんなのじゃ。私が近くに来たので会いにきてくれたのじゃろう」
「ウリちゃんって、だ~れ?」
ヘレンが首を傾げて尋ねてくると、リリベットはクスッと笑って答える。
「ウリちゃんは、母様のお友達なのじゃ。ヘレンも会ってみたいか?」
「うんっ!」
リリベットは、ヘレンを抱きかかえるとレオンの方を見る。
「せっかくじゃ、レオンも来るとよいのじゃ。未来の王として、ウリちゃんを知っておくとよいじゃろう」
「はいっ!」
そしてリリベット、ヘレン、レオンの三人が牧場の北側にある丘の上まで登ると、そこは一面が茶色が広がっていた……ヘレンもレオンも、それが何のか理解できずに目を丸くして固まっている。
巨大な茶色い何かズズズと振り向くと、巨大な豚の鼻のようなものと、つぶらな瞳が見えてきた。
「久しいな、ウリちゃん。元気じゃったか?」
「プフォ」
リリベットがウリちゃんの身体に触れながら尋ねると、口が微かに開いて空気が洩れるような返事が聞こえた。ウリちゃんの身体は、かなり巨大ではあったが小さい頃のまん丸の猪が、そのまま巨大化したような姿をしており、あまり威圧感はなかった。
それでもレオンは若干震えながら、リリベットに尋ねる。
「か……母様、これはいったい?」
「この者がウリちゃんなのじゃ。代々王家の者と契約して、リスタ王国のガルド山脈を護ってくれている山の神さまなのじゃ」
リリベットに抱かかえられているヘレンは、ぎゅっとリリベットを抱きしめて、ウリちゃんを見ないようにしている。リリベットはヘレンの背中を優しくなでながら
「そんなに怖がらなくても大丈夫じゃ。ウリちゃんは優しいからな。う~む……ウリちゃん、すまぬが子供たちが怯えておるので、もう少し小さくなってくれぬじゃろうか?」
頷いたのか鼻がピクッと動くと、ウリちゃんの身体は徐々に縮んでいき、最終的にはリリベットと同じぐらいのサイズになった。それを見たヘレンは目を輝かせ、地面に降りようとジタバタと動き始めた。
「なんじゃ、降りたいのか?」
リリベットがヘレンを下ろすと、一目散にウリちゃんに抱きついた。
「もふ~」
ウリちゃんも嬉しそうに身体を寄せている。レオンはリリベットに首を傾げながら尋ねた。
「母様、ウリちゃんは精霊種なのですか?」
「そうじゃな、よく知っているのじゃ。レオンは、よく勉強しているようじゃな」
リリベットは嬉しそうにレオンの頭を撫でる。それを見たヘレンとウリちゃんは、同じように構って貰おうとリリベットに駆け寄ってきた。リリベットは慌てながらヘレンたちも撫でてあげる。
「お前たち、私の手は二本しかないのじゃぞ?」
しばらく撫でられて満足したのか、ウリちゃんは身体を揺らすとガルド山脈に向かって移動を始めた。
「もう行ってしまうのか? それではまたなのじゃ~」
「またなのじゃ~」
リリベットと子供たちは、遠ざかっていくウリちゃんに手を振りながら見送った。
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『山神様』
海洋国家であるリスタ王国全体では海神信仰の方が規模は大きいが、木工ギルドなどを中心にガルド山脈の山神信仰も行われている。
木工ギルドの木こりが崖に転落して足を怪我してしまった時、一匹の巨大な茶色い毛玉が彼を乗せ、山の麓まで連れて行ってくれたり、怒り狂った熊に襲われた狩人が食われると思った瞬間、半透明の何かが熊を飲み込み、そのまま熊を沈静化してくれたりと、ガルド山脈にはいくつかの山神伝説の逸話があるのだ。