第75話「中立港なのじゃ」
ノクト海 港町アーレン ──
帝都で皇帝サリマールや宰相レオナルドが、今後の方針を決定し準備を進めているころ、ノクト海の最も西にある港町アーレンでは、クルト帝国北方艦隊が寄港していた。アーレンはシー・ランド海賊連合の支配領域だが、クルト帝国とザイル連邦間の大陸連絡船の航路に、近いこともあり中立港を宣言している。
この港町では、いかなる海賊や軍隊も争いを起こしてはいけない決まりになっており、もし破った場合は補給や修理など港の機能が使えなくなってしまう。
海賊たちがノクト海の西側で海賊活動をするための拠点となる港であり、両国もこの港を拠点にする海賊たちを疎ましく思いながらも、この港を利用できなければ補給を受けれず、大変な航海をしなくてはならなくなってしまうため、中立港として黙認しているのが現状である。
北方艦隊の提督の一人と随伴船の艦長たちは、酒場で今後の話し合いをしていた。中年の提督が酒を煽りながら呟く。
「そろそろザイル連邦から、連絡があるはずだが……」
港町アーレンには、クルト帝国とザイル連邦の連絡員が駐在している。クルト帝国北方艦隊は、ザイル連邦の連絡員にノーマの海賊の受け渡しを要求し、彼らは高速艇を用いて首都ロイカに、それを届けたのである。彼らが待っているのは、その返答だった。
まだ若い艦長の一人が机を叩きながら叫ぶ。
「ザイル連邦の顔色など窺う必要などありませんよ! 一気に攻め入りましょう」
「滅多なことを言うなっ! そんなことをすれば、戦争の口実になるやもしれんぞ!」
提督は首を振って、血気に逸る艦長を諌めていく。もう一人の艦長が暗い顔をして口を開いた。
「しかし……これ以上、ただ待っているわけにもいけません。このままでは、我々は国外に逃亡したことになってしまうかも知れませんよ?」
その言葉に提督は少し考えながら酒を飲む。そして、二人の部下たちに自分の考えを告げた。
「確かに、帝都ではそう言われていても仕方がないな……よし、わかった。お前たちは引き続き、この町に滞在しろ。俺が国に戻り釈明をしてくる。そして、必ず援軍を連れて戻ってきてみせる」
これは最悪自身の処罰だけで、事を治めようという提督なりの配慮だった。部下の艦長たちもそれがわかったのか、それ以上は何も言わず立ち上がると提督に対して敬礼を取るのだった。
「くれぐれも逸って迂闊な行動を取るなよ?」
「はっ!」
こうして提督は、港町アーレンから母港へ戻るための準備を始めるのだった。
◇◇◆◇◇
リスタ王国 王都 大通り ──
リリベットが視察のために、ヘレンを連れて歩いていた。護衛にはサギリ、マリーが同行している。
大通りの中心地にある『狐堂』の前に通り掛かると、店内に飾ってある商品が気になったのか、ヘレンが興味深々に店の方を見つめている。
「どうしたのじゃ?」
「ねこにゃー!」
どうやら黒猫の置物が気になったらしく、ヘレンは狐堂に向かって手を伸ばしている。リリベットはクスッと笑うと、ヘレンを連れて狐堂に近付いた。
ディスプレイに飾ってある黒猫を見て、ヘレンは目をキラキラと輝かせている。リリベットは彼女の頭を優しくなでながら尋ねる。
「ヘレンが、いい子にしているなら買ってあげるのじゃ」
「いい子にするのじゃ~」
ヘレンは二パーと笑ってリリベットに抱きついた。リリベットはそのまま抱き上げると、店に入ろうと入り口を一瞥して眉を少し吊り上げた。
「この扉は、また壊れているのじゃな?」
「……今回は私ではありませんよ」
リリベットの呟きに、マリーが静かに答えた。
「まぁよいのじゃ……とにかく入るのじゃ」
リリベットが一歩入り口に近付くと、店の中から何者かが飛び出してきた。その瞬間、風を斬るような音がリリベットの前を掠めるように聞こえた。
「ひゃぁぁぁ!」
叫び声と共に飛び出してきた人物は、頭を押さえてしゃがみこんでいる。そして、その少し上にサギリの剣がキラリと輝いていた。リリベットはその人物を見下ろしながら尋ねた。
「ファムよ、どうしのたじゃ?」
ファムはガバッと起き上がると、自分の狐耳を押さえながら涙目で訴えた。
「どうしたのじゃじゃないわー! うちのラブリィな耳が危うくふっとぶところやったわー!」
「急に飛び出してくるのが悪い……しかし、よく躱したわね」
サギリは剣を鞘に収めながらボソリと呟いた。ファムは尻尾を逆立たせてサギリに向かって牙を剥いている。
「モフモフがツンツンなのじゃ~」
逆立ったファムの尻尾を興味深々に手を伸ばしたヘレンに、ファムは慌てて自身の尻尾を隠した。
「あかん! 尻尾はやめてなー!」
「まったく、相変わらず騒がしい奴なのじゃ」
リリベットが面倒そうに呟くと、ファムは営業スマイルを浮かべる。
「そんな冷たいこと言わんといてぇ、ウチと陛下の仲やないのぉ~。あっ、ちゃうちゃう! ウチ、陛下に話があるんや」
「うむ? 聞いてやってもよいのじゃが、その前に買い物なのじゃ。ヘレンがそこの猫の置物が欲しいらしいのじゃ」
ファムはリリベットが、指差した方を一瞥すると頷いた。
「あぁ幸福の黒猫の置物やな。持っていると幸福を呼び込むとかいう置物や! あっ、効果がないと言って返品はなしやで~?」
リリベットを含む大人たちは、あきらかに胡散臭いと思っていたが、ヘレンが嬉しそうに笑っていたため、特に何も言わなかった。
リリベットはマリーを一瞥すると頷いた。マリーは硬貨が入った布袋を出しながら、ファムに近付くと値段を尋ねた。
「それで、おいくらですか?」
「ええっと……確か……」
「適正価格でお願いしますね?」
マリーがニコッと微笑むと、ファムはキョロキョロと目を泳がせながら慌てて答えた。
「嫌やな~、ウチがあんたからボッタくるわけないやないのぉ~。お安くしときますわ~」
ファムはそう言うと値段を伝え、その金額をマリーから受け取ったあと、店から幸福の黒猫の置物を持ってきてヘレンに手渡した。
「ありがとなのじゃ~」
ヘレンはそれを抱きしめると、ニコニコとした笑顔を浮かべている。リリベットはそんな娘の頭を撫でると優しく微笑みかける。
「ふむ……では、そろそろ行くのじゃ」
リリベットがそう言うと、一行は狐堂から背を向ける。ファムは営業スマイルでそれを見送る。
「おおきに~また来たって~……やないっ! 陛下~話があるって言うたやろ~」
「む……覚えておったのじゃ」
リリベットはそう呟くと、ため息を付くと踵を返してファムの前まで歩く。
「いったい何の用なのじゃ?」
「聞いたってや~、帝国に出店したウチの店が賊に襲われたんや!」
叫ぶように訴えるファムに、リリベットはきょとんとした表情で首を傾げる。
「う~む……残念じゃが他国の出来事なのじゃ。私が力になれることはないと思うのじゃが……」
「いいや、そんなことないはずや! 陛下はん、帝都のお偉方ちも知り合いやろ? ちょっと警護するように頼んでぇなぁ~」
甘えるように言ってくるファムに、リリベットは少し考えたあと小さく頷いて答えた。
「わかったのじゃ。レオナルド殿に手紙を送ってみることにするのじゃ」
「おぉ、さすが陛下や!」
リリベットはあまり乗り気ではなかったが、自国民の保護も大事な役目なので渋々ながら了承したのだった。
◆◆◆◆◆
『消えた軍艦』
港町アーレンを出航したクルト帝国の軍艦は、海流の関係でノクト海を迂回する航路をとっていた。海流の問題がなくとも、軍艦ですら単艦でノクト海を航行するのは自殺行為であり、襲ってくれと言っているのと同じである。
その日は見晴らしがいい、よく晴れた日だった。風の影響でやや北寄りに流されていたが、比較的順調に航海していた軍艦だったが、メインマスト上の見張りが北側に船影を確認した。
「提督、北北西に船影! 十隻ほどです」
「所属は?」
「黒地に金の獅子! ザイル連邦の艦隊です」
報告を聞いた提督は唸りながら首を傾げた。
「ザイル連邦からの援軍か? よし、出来れば話がしたい。『当方に交戦の意思なし、接舷を希望する』、信号旗と手旗で送れ!」
「はっ!」
しかし……その信号を最後に、この軍艦は消息を断ったのだった。