第5話「女主人なのじゃ」
リスタ王国 王城 女王寝室 ──
正午過ぎ、女王付きメイドのマーガレットがノックをしても返事のない部屋に入ってきた。この部屋に許可なく入室が許されているのは、彼女とマリー、そして家族以外では宰相だけである。
「陛下、そろそろ起きてください。もうお昼が過ぎましたよ」
「むぅ~……もう少し……朝方寝たばかりなのじゃ……」
リリベットは、そう言いながら乱れたシーツの上を転がっている。マーガレットはベッドサイドに立つと、呆れた顔でため息をつく。
「ほら、フェルト様はとっくに起きて、レオン殿下と剣の稽古に行かれましたよ」
「ん~……?」
リリベットは自分の隣辺りをペタペタと触って、フェルトがいないことを確認すると仕方がなく身を起こした。
その拍子に身に纏っていた布がスルリと滑り落ちると、マーガレットはさらに深いため息をつく。そして、気だるげにボーっとしているリリベットに対して
「陛下、服を着てくださいな……いつまで裸でいるおつもりですか?」
と窘めるのだった。
◇◇◆◇◇
リスタ王国 王城 修練場 ──
数年前に王城の一角に増築された修練場は、通常は近衛隊が訓練に使用している場所だ。石造りの頑丈な部屋で壁には剣が飾られている。この修練場には、リリベットやレオンなどの王族も嗜みとして、剣術の訓練を受けに訪れている。
現在は近衛隊はおらず、フェルトとレオンが剣術の鍛錬のために訪れていた。フェルトはレオンと共に、木剣を構え素振りをしている。
「剣を振るときは、常に重心を意識するんだ」
「はぁ、はぁ……はいっ!」
レオンの体型にしてはやや大きな木剣なので、やや振りまわされ気味だったが、笑顔で返事をしてひたすら素振りを繰り返している。
しばらくして基礎訓練が終り、しゃがみこんで肩で息をしているレオンを見てフェルトが笑っていると、レオンは首を傾げながら尋ねてきた。
「父様? どうしたのですか、何かおかしいことでも?」
「ん? あぁ、大したことではないさ。僕もこんな風に、父上に教えてもらっていたなっと思い出してね」
フェルトは体型も細く物腰が柔らかいので分かり難いが、大陸一の豪傑と噂される剛剣公フェザー公爵の子供であり自身もかなり剣の腕が立つ。こうして子供と訓練をしていると昔のことを思い出すのか、つい笑みがこぼれてしまうのだった。
「ヨハンお爺様ですか? 僕もお会いしたことはあるらしいのですが……覚えてないです」
「あれはレオンがまだ小さい頃だったからね。相変わらず忙しいらしくて、なかなか来れないようなんだ。今でも時々孫に会わせろ! 早く連れて来い! と手紙を送ってくるよ」
フェルトはクスッと笑うと、少し前に歩いてから木剣をレオンに向けて
「それじゃ、レオン。ちょっと手合わせしようか?」
と微笑みかけて稽古を再開するのだった。
◇◇◆◇◇
リスタ王国 王都 大通り ──
レオンたちが修練場で剣の稽古に励んでいる時、ヘレンはラリーと一緒に散歩に出かけていた。ヘレンはラリーと手を繋ぎながら歩き、マリーがその後ろを微笑みながら付いて行っている。さらに後には近衛二名が護衛として同行している。
リリベットの子供たちは、子供の頃のリリベットと同じく国民たちに大人気で、ヘレンたちを見かけると国民たちが話しかけてくる。
「ヘレンちゃん、こんにちは~」
「こんにちはなのじゃ~」
話しかけてきた主婦にヘレンは手を振りながら答える。主婦はからかうような口調で
「あら~今日はラリー君とデートかい?」
「デート~?」
ラリーは照れながら慌てていたが、ヘレンはよくわからない様子で首を傾けた。その様子に主婦は笑いながらカバンから、お菓子を取り出して二人に差し出す。
「あはは、冗談だよ。ほら、二人ともこれ持ってきなっ! ……あぁ、食べ物はダメだったかねぇ?」
後にマリーがいることに気が付いた主婦は、お菓子を引っ込めてしまった。
「あぁ、おかし~、おかし~」
ヘレンは頬を膨らませながら、ピョンピョンと飛び跳ねている。マリーは主婦に微笑みながら答える。
「いいえ、ありがとうございます。マダム」
「おっ、いいのかい? それじゃ、ほら」
と改めてお菓子を差し出すと、ヘレンとラリーは笑顔で受け取り、さっそく包みからお菓子を取り出して口の中に放り込む。
「あっま~いのじゃ~」
「うん、美味しいっ!」
歳を重ねたからなのか、復讐を果たしたからなのかはわからないが、マリーはリリベットの時ほど毒に対して過敏に反応しなくなっていた。
そんなやりとりをしながら散歩を終えたヘレンたちだったが、そろそろ帰ろうかという時にマリーがヘレンに対して尋ねる。
「ヘレン様、帰る前に一箇所寄りたいところがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「いいよ~」
ヘレンはニパッと笑って答えた。
「ありがとうございます。では、行きましょう」
マリーはそう言いながら、ヘレンを片手で抱きあげるとラリーと手を繋ぎ路地裏を歩き始めた。
◇◇◆◇◇
リスタ王国 王都 宿屋『枯れ尾花』 ──
路地裏を抜けてマリーたちが訪れたのは、お世辞にも綺麗だとは言えない建物で、看板には枯れ尾花と書かれていた。枯れ尾花は、大通りから外れたところにある安宿である。近衛は外に残しマリーたちだけが宿屋の中に入って行く。
宿の中に入るとカウンターがあり、その向かいには簡単なテーブルと椅子が置いてある。そして、いつものようにコーヒーのいい香りが漂っていた。マリーはヘレンをテーブルの椅子に座らせると、ラリーに向かって
「ラリー、ヘレン様をお願いね。私はちょっと主人とお話がありますから」
と言いつけて、カウンターに向かった。
カウンターには、コーヒーカップを片手にメイド服を着た若い女性が座っていた。マリーはその女性に微笑みかけながら、カウンターの上に銀貨を一枚置く。
「こんにちは、いつものをいただけるかしら?」
その女性はジロリと睨むようにマリーを一瞥すると、奥の棚まで歩き袋を取るとカウンターまで戻ってきた。
「……ほら、これだろ」
と言ってカウンターの上に置く。マリーは苦笑いをしながら尋ねる。
「相変わらずね。そんな感じで商売はできているの? 沈黙」
「……問題ない、血染め」
彼女の名前はリュウレ、かつてはマリーと共に暗殺者ギルドに所属していた暗殺者で、沈黙のリュウレを名乗っていた女性だ。
後にフェザー家に召抱えられフェルトの侍女として仕えていたが、彼が正式にリスタ王家に婿入りした際に、フェザー家への義理からリスタ王家に仕えるのを拒否し、マリーの勧めにより枯れ尾花の前の主人ロバートにお世話になっていた。
数年前この宿の主人であり、リスタ王国の裏の情報網を司っていたロバートが、老齢を理由に引退した際に後継者がいなかったため、リュウレがなし崩し的に押し付けられて現在に至る。
その後、しばらく国内や周辺諸国の表裏合わせた情報交換を済ませると、マリーはカウンターに置かれた袋を手にしてお辞儀をする。
「それでは、リュウレ。また来ますね」
リュウレは興味なさそうにそっぽを向くとコーヒーを再び口にした。そして、マリーはヘレンたちが待つテーブルまで行き
「おまたせしました。では、行きましょうか」
とヘレンを抱き上げる。抱き上げられたヘレンは、マリーが持っていた不思議な香りがする袋が気になるのか、袋を掴んで興味津々に尋ねる。
「これ、なぁに?」
「これはコーヒーの豆ですよ。コーヒーはとても香りがよい飲み物です。ここのはとても美味しいんですよ」
「ヘレンも、のんでみたいのじゃ~」
ヘレンは目を輝かせながら言うが、マリーは少し考えてからクスッと笑って答えた。
「殿下にはまだ早いと思いますが……そうですね、今度ミルク多めで作って差し上げます」
「わぁい!」
そして、マリーたちは枯れ尾花を後にするのだった。
◆◆◆◆◆
『剛剣公の素振り』
クルト帝国東方に位置するフェザー公爵領にある屋敷で、一人の男性が素振りをしていた。筋肉隆々の男性は、片手で自分の身体の数倍もある太い石柱を振っている。
「ふんっ、レオの奴もフェルトの奴も、孫をまったく連れて来ぬっ! 末のヘレンなど、もう三歳になったと聞いたぞ?」
この文句を言いながら素振りをしている熊のような男性こそが、フェルトの父であるヨハン・フォン・フェザー公爵だ。そのまま素振りを終えると、石柱を投げ捨て布で汗を拭き始めた。
「まったく! 万が一、私が孫に会えずにぽっくり死んだら、どうするつもりなのだ!」
そう言いながら筋肉の調子を確かめている姿には、死神すら裸足で逃げ出す気力に満ち溢れていた。