第116話「門外不出なのじゃ」
リスタ王国 南の城砦 隊長室 ──
ヨハンとジンリィの練習試合の翌日、ミュゼが隊長室に入ると大きなタンコブをこさえ、頭のお団子が二つになっているマオリィが、涙目になりながら紙に何かを書いていた。普段見られない光景にミュゼが驚いて問いただす。
「マオが勉強!? どういう風の吹き回し?」
「べ……勉強ではないのだ」
ミュゼはマオリィが書いているものを覗き込むと微妙な表情を浮かべた。同じ文字を何度も書き続けているのである。しかし、ジオロ共和国の文字で書かれていたため、ミュゼが首を傾げながら尋ねる。
「これなんて読むの?」
「『門外不出』なのだ……」
使用する際は許可を取るように言われていた技を、ヨハンに使用したことがバレたマオリィはジンリィに怒られ、『門外不出』の意味がわかるまで書き取りをするように命じられていた。これはマオリィがそろそろ学園に入学すると聞いたジンリィが、勉強をさせるついでに与えた罰である。
マオリィの説明に、ミュゼは笑いながら頷く。
「なるほどジンリィさんがね……私、ちょっとジンリィさんに会いに行ってくるけど、マオはどうする?」
「今夜中に書き上げないと殺されるのだ」
「あら、そう? ところでマオ」
ミュゼの言葉に、マオリィは顔を上げて言葉の続きを待つ。
「学園の勉強ってことなら、共通語で書かないといけないと思うわよ? それじゃ行ってくるわ」
ミュゼはそう言い残すと、そのまま部屋から出て行ってしまう。しばらくして閉められた扉の奥から、マオリィの悲痛の叫び声が響き渡った。
◇◇◆◇◇
リスタ王国 王城 医務室 ──
ミュゼが王城を訪れると、ジンリィがいる医務室に案内された。医務室に入るとジンリィと侍医のルネがなにやら言い争いをしている。ミュゼの顔を発見したジンリィは、弱った顔で助けを求める。
「ミュゼ、丁度いいところにきた。この先生に言ってやってくれ、私はこの程度の怪我は平気だって」
「バカを言わないでっ! 肋骨が三本折れているし、切創だって深かったのよ」
「もう縫ったし、治癒術も掛けてもらっただろう? それにフェザー公だって重傷だったのに、すぐに退室を許したじゃないか」
ジンリィの抗議だったが、ルネは呆れた顔で首を横に振る。
「あの重傷を筋肉だけで止血しちゃうような超人を思い出させないで、あれには医療の敗北を感じたわ」
ジンリィと共に医務室に訪れたヨハンは、先にジンリィの治療をするように告げると、筋肉を膨張させて肩の怪我を止血、そのまま治癒術だけ受けて回復してしまっていた。
「とにかく貴女は女性なのだから、傷が消えるまでちゃんと治療します。大人しくしてなさいっ!」
ジンリィは納得したわけではなかったが、ルネの指示に従うようにリリベットから命じられていることもあり、大人しくベッドに戻った。ミュゼは呆れた様子でベッドに近付く。
「まぁ大人しくしていてください、ジンリィさん」
「ちっ、仕方がないねぇ……それでミュゼ、今日はどうしたんだい?」
「お見舞いというものありますが、ジンリィさんは今後どうするつもりなのかを聞いておこうかと思いまして」
ミュゼの言葉にジンリィは首を傾げる。
「……どうすると言うと?」
「このままリスタ王国にお留まりになりますか? もしそうであれば、再び隊長の座に……」
「あぁ、そういう話かい? 今回、フェザー公に勝てたらそれでも良かったんだが、私もまだまだってことがわかったからねぇ。主上には悪いけど、このままジオロに戻って修行を続けさせて貰うよ」
楽しそうに言うジンリィに、ミュゼは小さくため息をつく。
「そうですか……残念です」
「そう言えば、マオは来てないんだな? ちょっと怒りすぎたかねぇ?」
「出かけてくる時に、書き取りをしてましたよ」
「あははは、マオが学園に通うって聞いてね。丁度いいからやらせたんだよ、ちゃんとやってたかい?」
それに対して、ミュゼは苦笑いを浮かべながら答える。
「随分と苦戦してましたよ。でも学園に通わせるってことは……マオリィは連れて行かないつもりなんですか?」
「あぁ、あの子はこの国にいたほうが、良い影響がありそうだからねぇ。そもそもジオロに連れて帰ると、たぶんあいつの父親に殺されちまうよ。あの矛捌きはやばいからねぇ」
マオリィの父親は、コウ家五天の矛の当主である、強烈なのは聞かなくてもわかることだった。
その後しばらく歓談していた二人だったが、ルネが怪我人を休ませるように言われ、ミュゼは頭を下げて医務室をあとにするのだった。
◇◇◆◇◇
リスタ王国 王城 女王執務室 ──
リリベットは執務机の席に座り、財務から提出された書類に目を通していた。この数ヶ月におけるザイル連邦とクルト帝国の戦争の影響で交易が滞り、リスタ王国の全体の収益は芳しくない様子だった。
「ふむ……やはり厳しいのじゃ」
クルト帝国からは、ノーマの海賊を捕らえた褒賞を受け取る約束になっているが、それ以上に予想してなかった戦費などがかさんでいた。ジオロ共和国との補填交渉はヘルミナに一任しているが、当初の予定通り六割強で話が付きそうだと報告を受けている。
「この事態になると、やはり海運に頼っている部分の大きさがわかるのじゃ。何か別の安定した収入源があれば良いのじゃが……」
リリベット少し考え込んでいると、扉をノックする音が聞こえてくる。
「誰なのじゃ?」
「はい、バートラム卿とドロシアさんが御目通りをご希望しております」
「ふむ、なんじゃろうか……とりあえず会うのじゃ」
リリベットがそう答えると、マーガレットに連れられて国務大臣エイルマー・バートラムとドロシアが入ってきた。エイルマー大臣とドロシアが、リリベットに丁寧にお辞儀をするとリリベットは右手を軽く上げた。
「今日は何の用なのじゃ? まさか、またウリちゃんが迷惑をかけたのじゃろうか?」
エイルマーは小さく首を横に振る。
「いいえ、陛下。今日は報告とお誘いに来たのです」
「ふむ、何か催しでもあったじゃろうか?」
リリベットが首を傾げながら尋ねると、ドロシアが一歩前に出て嬉しそうに口を開いた。
「まだ仮設になりますが、温泉施設の準備が出来たんです。水質も温度調節もバッチリです、陛下は温泉の経験がないと聞いておりましたから、是非体験していただきたいと思いまして」
「ほぅ、もうそこまで進んでおるのじゃな、ご苦労なのじゃ。それで温泉を体験じゃったか? 温泉とは入浴のことじゃろう? 入浴ならいつもしているのじゃ、体験するまでもないと思うのじゃが?」
リスタ王城にはリリベット専用のバスタブがあり、彼女はそこでいつも入浴している。そのせいもあってか、彼女は今まであまり温泉に興味を示してこなかったのだ。
「温泉には普通の入浴とはまた違う風情がありますよ。陛下に入浴いただければ、温泉に馴染みがない国民たちも入浴にくるでしょう?」
ドロシアの提案に、リリベットは少し唸ると小さく頷いた。
「ふ~む……まぁよいじゃろう。明日でよいじゃろうか?」
「あ、ありがとうございます! フェルト閣下もお誘いいただければ幸いです」
フェルトの名前が出たことを疑問に思った、リリベットは少し首を傾げる。
「フェルトも? 別に構わぬが……どうしてなのじゃ?」
「はい、フェルト閣下はクルト帝国の温泉に行ったことがあるそうなので、参考意見がいただきたいのです」
「なるほどのぉ、わかったのじゃ。フェルトにも聞いてみるのじゃ」
「ありがとうございます。では、明日のご来場お待ちしております」
エイルマー大臣とドロシアは、再び丁寧にお辞儀をすると部屋を後にするのだった。
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『リスタ王国の入浴事情』
リスタ王国はガルド山脈から流れる豊富な水源があることもあり、王族や貴族それに富豪などは自宅に風呂場を所持し、毎日入浴する習慣がある。
一般的な国民も大きなタライで入浴したり、蒸し風呂のような施設が王都内にいくつかあり、それを利用したりするが、船乗りに関しては船上では水が確保できないため、あまり入浴する習慣がない。しかし、陸上にいるときは清潔にするようにと、定期的に王国から指導されている。