傷
エルは、乗合馬車から降りると、ダウンタウンの奥にあるらしい研師の店に向かって歩き出した。
馬車が通ってきた大きい通りを一本外れ、ダウンタウン、いわゆる娼婦街へ足を一歩踏み入れると、そこは全く別の世界に感じた。
路地はなんとなく薄暗く、真昼間から酔っぱらいが道端で寝ていたり喧嘩していたりと、明らかに治安が悪い。
また、数店舗ある赤いランプの店の入り口では、それぞれ女性達が気だるそうしていたり、お喋りしながら立っており、そして女性達は往々にして露出度が高い服や、だいぶ派手な色のドレスを着用している。
「坊や、おネエさんとイイ事しましょうよー」
店先に立っていた女性はニヤニヤとエルに手を招いていたが、エルはペコリと会釈をすると足早に通りすぎた。
「照れちゃってーキャハハ…」
エルの背中越しに女性の声が聞こえたが、振り返らなかった。
『さすがに不気味だなぁ…』
エルは周りの雰囲気に呑まれそうになりながらも、小走りで道を急ぐ。
────
しばらく歩くと、ふとエルは足を止めた。先程から、どうもつけられているらしい気配がしている。エルが後ろを振り向くと、痩せてガリガリのニヤついた男が同じ歩調でついてきていた。
男を不気味に感じ、歩く速度を上げようと前を向き直ったが、強制的に止まらざる得なくなってしまった。
目の前にいつの間にか2メートルはあるかという大男が立っていたのだ。逞しく引き締まった筋肉に包まれているガルカンとは違い、この男は沢山の脂肪を纏っており、いかにも愚鈍そう。だが、それでも、エルとの体格差を見れば大男の方が明らかに有利なのは一目瞭然だった。
「よぉ、坊主。悪いようにはしねぇから、大人しく付いてこい。」
大男はエルを捕まえようと手を伸ばしてきた。
「ヒェッ!!」
エルは思わず悲鳴をあげ、一目散に走り出した。
「くっそ!逃げやがった!」
「追うぞ!!!!!」
『人拐いだ!!』
エルは直感的にそう感じた。人拐いに捕まったら命など捨てた方がまだマシだと言われる世界だと、以前聞いたことがある。エルは走りながら脳内で警鐘が鳴り響いていた。
「まてぇ!!コラァ!!!!!」
男達の怒号を背にエルは全速力だ。
ハァ…ハァ…
普通に人拐いがいるじゃないか!!あの客の嘘つき!!
エルは理髪店にいた客を恨んだが、今更遅い。
そもそも、この人拐いだって、その客の仕業ではないので、恨んだところでお門違いなのだが、そんな事にエルは一人納得できず、八つ当たり気味に必死に逃げた。
ガシャン!!!!!
足がもつれ、近くにあったゴミ箱を倒してしまったが、なりふり構わず走った。捕まったら何をされるかわかったもんじゃない。無我夢中だった。
何回もの曲がり角を曲がったか既にわからなくなっていた。今はどの辺りを走っているのだろうか。地理的に不利なエルが袋小路に追い込まれてしまうのは時間の問題となった。
「くっ!行き止まりか…」
エルは前面に広がる壁を見上げた。壁は高く、決して登れるものではない。後ろを振り向くと、息を切らしながら追い付いた男達が既に距離を詰めてきていた。
「手こずらせるんじゃねぇぞ、糞ガキが!ハァ…ハァ…金持ちんとこにうんと高く売ってやるからな」
「金持ちがどんな変態かは知らねぇけどな!へっへっへ…」
走ってきた男達は下衆な笑いを浮かべながらジリジリ近づいてきて…。
エルは肩で息をしながら右手に護身用に持ってきた髭剃りナイフを握りしめ男達に向かって構えた。
「へへっ、そんな玩具みたいなナイフで俺達を脅してるつもりか?」
大男は、エルが握っているナイフを一瞥すると、鼻で嗤った。
確かにエルの小さな手でもすっぽり収まるような小振りのナイフだが、エルの唯一の対抗手段であり、今の状況を鑑みるに命綱と言える代物に違いない。
「玩具かどうかは使い方次第だよっ!!」
エルは思い切り踏み切り大男へ飛び込んだ。
カシャーン!!!!!
大男も懐から大きめのナイフで応戦した。
もう一人の痩せ男は、大男のナイフ捌きに巻き込まれないよう少し離れた所で様子を見ている。
「オラオラオラ!糞ガキ!さっきの威勢はどうした!?」
「うぅっ…くそっ…!!」
最初は油断しエルが出したナイフに圧倒されていた大男も、体勢を立て直し応戦している。そして大男の力は強く、やはり、圧倒的な体格差からエルは徐々に後ろに追いやられていく。
トンっ…
エルの背中が後ろの壁に当たった。いつの間にか壁際まで追いやられていたことに全く気づけなかった。
「やっば!!」
エルは思わず呟いた。逃げ場などどこにも無い。
冷や汗がエルの背中を伝った。
「残念だったな糞ガキィ!!」
大男は薄ら笑いを浮かべトドメを刺す為にナイフを振り上げた。
ザクッ!!!!!
「うぅっ…!!」
呻き声をあげたのは大男だった。エルは大男が振りかぶった瞬間の隙をついて左脇腹にナイフを突き立てていた。
「こンの…クソがぁ…」
大男は痛みから顔をしかめながらヨロリとふらつきながら後ろへ下がった。
そのままエルがナイフを引き抜くと、大男の左脇腹からは鮮血が滲んでいる。そしてそのは血がヌラヌラとエルの右手にもこびりついていた。エルは右手に目をやると、顔から血の気が引き、震える体を抑える事が出来なくなっていた。
「!?」
エルは人を傷つけるということは、どういう事かわかっていた、つもりになっていた。
しかし、いざ、初めて人を傷つけ、鮮血を目の当たりにしてエルの思考回路は停止してしまった。
動揺したと言った方が良いかもしれない。
ナイフを突き立てた感触は受け入れ難く、だが鮮血に染まった右手を認めると、たった今、エルがやった事は嫌でも鮮明に記憶に焼き付いていく。
人を傷つけた瞬間の感触は生々しくエルの右手に残った。
小さな髭剃りナイフとはいえ、使い方を変えればそれは人を傷つける凶器である。
もちろん、そのつもりで護身用にナイフを持ってきた。
大男は傷の痛みから、呻きながらも改めてナイフを握りしめエルに向かって襲ってきた。
いつものエルなら脇腹に傷を受けた大男の攻撃などいとも容易く避けられただろう。だが、エルは避けることが出来なかった。
動揺しているエルの膝はガクガクと震え、一歩も動けない。
エルはギュッと目を瞑り衝撃を受け入れる覚悟をした。
バキンッ!!!!!
痛々しい音はしたものの、覚悟した衝撃はいつまでもエルに届かない。疑問に思ったエルは恐る恐る目を開いた。
すると、目の前の地面では、先程までナイフでやりあっていた大男が倒れており、エルは呆然とその光景を眺めている。
「動きは良かったが、実践は初めてか?」
いきなり図星をつかれ、エルは慌てて声の主の方向を向いた。
声の主は先程まで大男が立っていた場所にいた。
そして、その後方では痩せ男がのびているのが見てとれる。
「貴方は?誰?」
エルより少し年上の少年なのだろう、その少年は角材を木刀のように握っており、大男から助けてくれた主なのだとすぐに予想がついた。黒髪に端正な顔付き、そしてアメジストのような菫色の二つの瞳がエルを射ぬく。
少年は予想していた言葉とは違う言葉をエルから掛けられたので顔をしかめ不機嫌そうにした。
「まず、助けてもらったら『ありがとう』じゃないのか?じゃないと、俺が助けに入って正解だったのか、それともただの茶番に俺は付き合わされたのか判断つかない。」
少年はクルッと踵を返し立ち去ろうとした。
「ままま待ってください。助けて頂きありがとうございます!助けて貰えると思っていなくて!礼儀を欠いたことをお詫びします。」
エルは慌てて少年の袖を掴んで礼を言った。
少年は微かに口角を上げたように見えた。エルはその表情を見て少年が満足したと感じ安堵する。
「こいつらを騎士団に通報しに行くが、付いてくるか?」
エルは菫色の瞳を見つめ黙って頷いた。
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