-2-
こういうことは、両親にも話しておかないと。
そう思ったあたしは、夕飯の席で話題にしてみたのだけど。
「夕方、木乃々さんって人が来て、詳しく話していったわよ?」
「えっ?」
お母さんの言葉に驚く。
あっ、そうか。仕事があるって言って研究所を出ていったのは、あたしの家に事情を説明しに来るためだったのか。
「お父さんも、すでに了承済みよ。会社まで電話したのなんて初めてだったから、すごく緊張しちゃった。理葉、頑張ってね!」
「お母さん! ありがとう!」
ひしっと抱き合うあたしとお母さん。感動の場面だ。
「どうしてうちの家族って、みんなこうなんだよ! あんな怪しげな人たちにわざわざ協力するなんて……」
留架はやっぱり素直じゃない。
「あたしもミルちゃんも、やりたいって思ってるんだから、いいじゃない!」
「そうよそうよ! 留架くんったら、心配性ね~。ほんとにお姉ちゃんのことが大好きなのね~」
「べ……べつにそんなんじゃないから!」
慌てて否定する留架も可愛い。いわゆる、ツンデレってやつよね。
まったくもう、愛い奴だ!
こうして、家族全員の了承を得たあたしは、週末のたびにムースバターの研究施設へと赴く生活を開始した。
当然、留架も一緒だ。快く同行してくれる留架には、なにかご褒美でもあげなきゃダメかな。
実際にはあたしが無理矢理引っ張って行く形ではあるけど、本心では来たいと思ってるはずだから、納得してくれているに違いない。
あたしには萌波さんがトレーナーとしてつきっきりで指導してくれた。
もっとも、萌波さんは当初、明らかに不満そうな顔をしていた。でも木乃々さんから、
「あなたはうちのエースだから、新人をしっかり指導できると踏んだのよ。萌波、期待してるからね!」
と言われ、一転して乗り気になっていた。
「ウチがエース……。所長さんにも認められてる、未来のホープ……」
所長さんとか未来のホープとかなんて話はまったく出ていなかったと思うけど、萌波さんの頭の中では勝手な妄想が膨らんでいたのだろう。
なんというか、とても扱いやすい人なのかもしれない。
そんなこんなで、萌波さんによるトレーニングが本格的に始まった。
もちろん、蚊の着ぐるみを着ながらのトレーニングとなる。
木乃々さんのエース発言で必要以上に燃えている萌波さんは、かなり過酷なトレーニングを課してきた。
完全にスパルタだ。体力づくりが基本のトレーニングだから、あたしには厳しいことこの上ない。
蚊の着ぐるみに身を包んで、ほわ~~~んと嬉しい気分になっていてもなお、つらくて泣きそうだった。
違うの、これは涙じゃなくて、心の汗なの。
というか、本当の汗だけど。塩分で目が痛いし。
「理葉さん、弱音を吐いちゃダメ! 一に気合い、二に気合い、三四がなくて五里霧中よ!」
「いや、それじゃダメなんじゃ……」
「だったら、三四がなくご臨終よ!」
「死んじゃってるし!」
萌波さんにツッコミを入れるのは、留架の役目だった。
なにせあたし自身は、疲れ果てて声も出せない状態に陥っている場合がほとんどだから。
ただ、そういった留架のツッコミが飛んでくるのも、最初のうちだけだった。
諦めた……わけではない。
留架は木乃々さんに招かれる形で、どこかへと連れていかれることが多くなっていたのだ。
留架を異常に可愛がってくれているみたいだったから、前にも言っていたように、自分の部屋に連れ込んでる?
留架はそういうのだと、絶対に拒絶すると思うけど。
まぁ、留架がどこでなにをしているかなんて、あたしはさほど気にならなかった。
大切な弟ではあるけど、べつに独り占めしたいわけでも束縛したいわけでもない。
トレーニングを終えて汗びっしょりになったときにそばにいてさえくれれば、それでいい。
つらいトレーニングのあとには、抱きついて頬ずりしたい。そこだけは譲れない。
留架はあまのじゃくだから嫌がるフリをするけど、ほんとは嬉しく思っているはずだ。だって大好きなお姉ちゃんが可愛がってあげるのだから。
そのわりに、ばっちぃとか汗臭いとか言って、頬についたあたしの汗を嫌そうな顔で拭ったりするけど。
それだって言うまでもなく、素直になれないだけだと断言できる。しつこいようだけど、留架はほんとに愛い奴だ!
萌波さんのトレーニングは続く。
スパルタというか、スポ根アニメばりの特訓。
体にロープを巻いてタイヤをくくりつけ、砂地の上を走ったり――、
ムスティーク・バタイユで受ける打撃の痛みを理解するためと称して、バレーボールを散々ぶつけられたり――、
うさぎ跳びで研究所付近を何周も回ったり――、
スーパーエルヴァー養成ギプスなる怪しげな器具を装着させられたり――。
様々な特訓を、蚊の着ぐるみを着たままでこなす日々。
萌波さんの気迫は、異常なほど凄まじい。
「この程度で音を上げるんじゃないわ! あなたはドジでノロマなカメムシなの!?」
「え……? ちょっと違わないですか?」
「いいのよ! そう言われて悔しい? だったら……」
「いえ、嬉しいです!」
「……は?」
「だって、カメムシって可愛いじゃないですか! あたし、嬉しいです!」
「で……でも、臭いでしょ?」
「ふぇ? あたしは結構好きなニオイですけど……」
「む~、この変人め! とにかく、気合で頑張るのよ! あなたの未来のために!」
「はい、わかりました、教官!」
なんだか異様なノリになっていく。
留架がいたら絶対にツッコミを入れてくる場面だ。
いたらいたで鬱陶しいとは思うけど、いないと妙に寂しい気もするな。
どうしてここまで激しいトレーニングをしないといけないのか。
疑問に思う部分がなくもない。
それでも、あたしは頑張るつもりだ。
――ぶぅぅ~~~~~ん!
ミルちゃんだって、こんなに応援してくれているのだから。
「いや、ミルちゃんは特訓後の汗に反応してるだけだと思うけど……」
「あ、留架。今日も木乃々さんの部屋で遊んでたの?」
「ちょ……っ!? 姉ちゃん、違うからね!? 僕は……」
そこでなぜか口ごもる留架。
「ん? どうしたの?」
「えっと……なんでもないよ!」
「ふむ……。じゃあやっぱり、木乃々さんとあんなことやこんなことをしてたんでしょ?」
「断じて違うから!」
留架が素直じゃないのはいつものことだけど、なんだかちょっと怪しい。
せっかくだし、必殺くすぐりの刑とかで尋問しちゃおうか、なんて考えていたそのとき。
「おやおや、姉弟ゲンカですかな? おふたりはかけがえのない家族なんですから、仲よくしなくてはいけませんよ?」
とても落ち着いた印象を受ける男性の声が響いてきた。
振り返ってみると、そこに立っていたのはサングラスをかけた大男だった。
顔には縫った痕跡なのか、大きな傷が左の額から頬にかけて伸びている。
初対面の人に対して失礼かもしれないけど、見るからに恐ろしい雰囲気をかもし出していた。
「一寸の虫にも五分の魂。蚊であろうと弟であろうと、あなたたちと同じ命なのですから」
だというのに、こんなにも優しげな声。
「はう……所長さん……」
萌波さんに至っては、両目がハートマークになっていそうな表情で見つめている。
ギャップ萌えというやつなのだろうか。
それにしてもこの人、蚊と弟を同列に扱っているあたり、普通ではない感覚を持っていると言わざるを得ない。
ミルちゃんと留架だったら、確実にミルちゃんのほうが格上なのに。
「姉ちゃん……僕よりミルちゃんのほうが上だ、みたいな表情をしてる……」
「留架……。あんた、読心術でも使えるの?」
「やっぱりか!」
どういうわけか留架は不満そうな顔をしていたけど、あたしには意味がわからない。
そんなの、当たり前のことなのに。
「まぁまぁ。姉弟仲よく、ですよ? 留架くんだって、お姉さんのことは嫌いじゃないでしょう?」
「え……いや、そりゃあべつに、嫌いじゃないですけど……」
「だったら好きってことですよ。大好きなお姉さんの前では、素直になるべきです」
「う……。はい……」
会話だけ聞いていると、留架が優しく諭されているようにしか思えないけど。
所長さんがいかつい顔をこれでもかと近づけている状況は、はたから見れば脅している以外の何物でもなかった。
留架ったら、涙目になってるし。
「理葉さんと萌波さんも、お疲れ様。トレーニング、頑張っているみたいですね」
「あっ、はい!」「もちろんです!」
所長さんは、今度はあたしと萌波さんに話しかけてきた。
真正面に立たれると、笑顔であってもものすごい威圧感がある。
「これからもふたりで協力して、ムスティーク・バタイユを盛り上げていってください。世界的な競技になれるように」
「え……そこまでは絶対無理かと……痛っ!」
「はい、所長の仰せのままに! 理葉さん、あなたも敬礼よ!」
「は……はぁ……」
萌波さんによって思いっきり背中をつねられたあたしは、留架に続いて涙目になっていた。
仕方なく、言われたとおりに敬礼する。
どうでもいいけど、これじゃあなんだか、所長さんを教祖とした宗教みたいだ。
なんて感想は、さすがに口には出さなかった。
☆☆☆☆☆
萌波さんのスパルタトレーニングを、三週間ほど続けただろうか。
期末テストの期間中も、土日には研究施設でのトレーニングに励んだ。
週末だけとはいえ、スパルタ特訓の影響は体にも確実に出てしまう。激しく疲れ、帰ったらご飯を食べてお風呂に入って寝る以外、なにもできやしなかった。
そんな状態でも、あたしはもともと成績が悪くないので、問題なく期末テストを乗り越えることができた。
一方、萌波さんは全教科赤点ギリギリで大変だったのだとか。
「それもこれも、あなたのせいよ!」
文句の言葉が飛んでくる。
「あたしは大丈夫でしたけど」
「むき~~~~っ! その余裕な顔がムカつく! 理葉さんはまだ中学生だから、勉強だって簡単なだけよ!」
「それは否定しませんけど……。でもテストなんて、授業をちゃんと聞いていればある程度の点数は取れますよね?」
「取れない人間だっているのよ~~~~!」
「あっ、自分が無能だって認めた」
「エースであり先輩でありトレーナーであるウチを無能呼ばわりするのは、この口か!?」
「もがががが、やめふぇくらふぁい、口をひっふぁららいで~!」
といったやり取りができるのも、ここしばらくの特訓で距離を縮め、遠慮なく言い合える間柄になれているからと言えるだろう。
……最初からお互いに遠慮なんてほとんどなかったような気もするけど。
とりあえず、今日の特訓を終え、萌波さんが口を開く。
「やるわね、理葉さん。正直驚いてるわ。ウチの特訓にここまでついてこられるなんて」
「はいっ! それもこれも、教官の指導がよかったからです!」
こういうノリにも、随分と慣れてきた。
……最初から完全に受け入れていたような気もするけど。
「ふふっ、そうね。だけど、まだまだよ! 今までのトレーニングは、あくまでもムスティーク・バタイユに必要な基礎体力をつけるだけでしかない!」
「基礎体力とは関係なさそうな特訓も、ちらほらと混ざってませんでしたっけ?」
たとえば、ゴキブリの着ぐるみを着て、嫌悪感に耐えるトレーニングとか――、
たとえば、足の裏と脇の下を同時にくすぐって、笑い疲れに対する耐性をつけるトレーニングとか――、
たとえば、鼻の穴に水を流し込んで、苦しみに耐えるトレーニングとか――、
たとえば、お父さんの履き古した靴下を鼻に押しつけて、強烈な悪臭に耐えるトレーニングとか――。
よくよく考えてみたら、単なるいじめ? と思えるものまで含まれていたような……。
「こ……細かいことは言いっこなし! 理葉さんの反応が面白くてつい、とか、そんなんじゃないんだからね!?」
「そんな理由であんなことをさせられてたんだ、あたし……」
「とにかく! あなたは数々のトレーニングを無事にこなしてきた! 免許皆伝よ!」
「はぁ……ありがとうございます」
免許皆伝とか言われても、いまいちピンと来なかったけど。
素直にお礼は述べておく。
「というわけで、あとは実践あるのみ! ウチが自ら相手をしてあげるわ! 理葉さん、命をかけて決闘よ!」
やる気満々、気合い充分、勢いは空回り。
そんな萌波さんとの決闘が、今ここに実現する運びとなった。
……ってちょっと!? 命をかけてって、どういうこと!?