第五章(3)
「着いたわ」
「へ……? ここが目的の場所?」
俺は一瞬目を疑った。目の前に見えるのはさっきまで立ち並んでいた高層ビル群がないだけの、ただの水面にしか見えなかったからだ。一体何でこんな所が空の好きな場所なのだろうか。
「貴方言ったでしょう? 私の好きな場所って。ここがそうよ」
そう言われても納得いかず、俺は空と同じ先端に立ち周りをよく見渡して見る。けれどもやはりそこには水。どこを見ても水。
水水水!!!
どこを見ても水しか目に入ってこないじゃないか。
「はぁ……貴方本当にわからないの?」と空が呆れながら溜め息をついた。わからないのと言われましても……。俺はもう一度目を凝らしてよーく眺めてみる。するとどうだろうか。ただの水にしか見えなかった水の中、そう水中だ。薄らと見えるそこには、木々が立ち並び、何やら家の様なものまで見えるではないか。
「ここが空の好きな場所なのかい?」
「半分だけ正解ね」
再び頭の上に【?】マークを出現させながら目をぱちくりさせる俺。実に情けない。俺は辺りをきょろきょろと見渡しながら、次に空にかける言葉を探していると……。
「少し下がって。危ないわ」
言われた通りに空の後方へと下がる俺。空は一体何をするつもりなんだろうか。
「……Aaron's rod」
そう唱えた空の右手には何やら氷で出来た杖のような物が出現した。それをどうするのかと見ていたら……ひょいっと水面に放り投げたではないか。そのままゆっくり沈んでいく杖を目で追っていくが次第に見えなくなっていく。
「あ、あの……空?」
俺が空に呼びかけた瞬間、ドゴオォォォォン!!! と凄まじい音がすると共に、水面が真っ二つに割れ、そこに存在していた海水が一気に天高く舞い上がった。俺はその光景を開いた口が塞がらない間抜け面でただ見つめているしかなかった。
「少し滑るわ。気を付けて」
目前で終わっていると思った氷の道は緩やかな傾斜の階段となり、先へと続いていた。空はちらりとこちらを振り向くと俺の手を取り歩き出す。
「あ、ああ、うん」
ぎゅっと手を握られ先を歩く空に、少しバランスを崩しそうになるが、慌てて立ちなおしついていく。歩いて行く内に水のカーテンは広がり、底に着くころには何かの形に合わせぽっかりと水の中に空間が出来ていた。
「すげぇ……」
俺はその光景にそう漏らす事しか出来なかった。だってそうだろう、水没してしまった世界にぽっかりと開けられた空間、今そこに俺は立っているのだから。
「ここが私の好きな場所よ。名前は……東宿御苑」
東宿御苑……その名はどこかで聞いた事がある。ああ、そうか……。
「新世界にある、新宿御苑……あそこはここが元だったのかあ……」
何回か行った事のある新宿御苑。物静かな雰囲気の中に洋館のレプリカや旧御涼亭があった所だ。都会のど真ん中に何でそんなものがあるのかと思っていたけれど、実際にあった場所なら納得がいく。
「……私はここが好きなの。特に何かあるわけじゃないけれど、ここに居ると落ちつくわ」
「新世界にもここが元になった場所があるんだけど、こっちのが好きになれそうだ」
海水の中に沈んでしまった木々は枯れていて、見た目だけで言ったら遥かに劣っているであろうこの場所は、それで居て尚何とも言えない雰囲気を醸し出している。もしここが水に沈む前だったら……どんなに美しかっただろうか。それだけが少し残念でならない。
「少し歩きましょ」
俺たちはまず、池の周りを歩き始めた。水中に池が存在するのもなんとも不思議な光景だ。これは敢えて空が水面を割る時に残しているのだろうか。きちんと池の形に水が張られている。
「そんな所に立っているとまた落ちるわよ」
「いやさすがにそれはもう勘弁かなあ……はは……」
そうさすがに何度も水面ダイブはしたくはない。まぁ恥ずかしい所を見られてしまったわけだから何とも言えないけど……。
それから洋館や旧御涼亭の近くまで行き外から眺めるが、今にも朽ち落ちてきそうなその外見に中に入るのは躊躇った。思っていた以上に中は広く大分ゆっくりなペースではあるが中を見て回るにはかなり時間が立っていた。
「少し休みましょうか」
そう言うと空は、比較的新しめな休憩所のような所へと歩いて行く。そこは作りも頑丈で屋根もあり少しは暑さを紛らわせそうだ。
「そいえば、ここの水はいつになったら戻るのかな?」
「私が戻そうと思えばいつでも戻るわ。私たちが居るこの瞬間でもね」
「あ、あんま怖い事言わないでほしいな……」
「冗談よ」
くすっと空が微笑んだ気がした。初めて見たその表情に、少しドキッとさせられる。初めて見たときの雰囲気とは違うその様子に、こんな表情もするんだなと俺は思った。
「お昼にしましょ」
空はさっきからずっと左手に持っていたバケットを開けると、小さなクロスを取りだし椅子に広げ、器を並べていく。見る見る内にサンドイッチとお茶が並べられランチの用意が整った。
この炎天下で傷まないのかなとか考えていると、バスケットの中には硬く冷たそうな全く溶けた気配の見えない氷が並べてあるのが見えた。さすが用意いいなぁ。
「さっきからずっとそれ抱えてたから昼飯なのかなーって思ったけど、まさか空が用意していてくれたの?」
「一人分が二人分に増えた所で対して変わらないわ。それとも私の作ったお昼じゃ嫌かしら」
「いやいや! 嫌なわけないよ。下界にいる間はずっと携帯食と付き合う覚悟してたからさ、ほんと嬉しいよ」
サンドイッチのバリエーションも豊かで、タマゴ、ツナ、ハムチーズ、そして俺の大好きなコロッケサンドまであるじゃないか!
「おお、コロッケサンドだ! 俺コロッケサンド大好きなんだよ。いただきまーす」
「口に合えばいいのだけど」
しっとりとしたパンの生地にさっくり揚ったコロッケ。それを引き立てるキャベツに、程よい味付けのソース。これだよこれ。やっぱコロッケサンドはこうですよ。
「はむっ……はむはむはむ! はぐっ! むぐむぐっ! ん! んーっん!!」
「慌てて食べるからよ……ほら、お茶飲んで」
「んぐうっ! ん、ごく、ごくっ……はっぁぁ、死ぬかと思った……」
「そんなに慌てて食べなくても逃げたりしないわ」
喉に詰まったサンドイッチをお茶で流し込むと、俺は思い切り息を吸い込む。ふぅぅ……生きた心地がしなかったぜ。
「いや、あんまり美味くてさ、夢中で食べたら喉に……」
「全くもう……私のあげるから落ちついて食べなさいよ」
そんな具合に俺たちは楽しく(?)昼ご飯を食べた。それを含めて俺は空の好きなこの場所を好きになれた気がする。
一通り食べ終わりお茶を飲み干すと、改めて空に話しかけた。
「空はよくここにくるの?」
「そうね、ここの雰囲気がとても好きなの。一度でいいから見てみたかったわ。元の姿を」
そう語る空はどこか切なそうで、寂しそうな顔をしていた。
「いつか……いつかきっと、元通りになるさ」
「……ええ。そうなるといいわね」
そうなる保証もない、気休めにしかならないだろうけど、俺は言わずにいられなかった。例え夢物語だとしても。
……少し空気が重たくなってしまったな。俺はなんとか話を別の方向に持っていこうとデバイスに目やる。時刻は丁度お昼を回った所だった。
「もうこんな時間か……着いてから結構経ってたんだね。どこまで行くか要さんに言ってなかったし、そろそろ戻ろうか」
俺たちはサンドイッチの入っていた器を片付け、歩いてきた道を歩いて行く。少し歩いた所で前方に黒い影が動くのが見える。それとの距離はゆっくりと縮まり、目視出来る所まで来ると、はっきりとそれが人だと認識する事が出来た。
――黒いトラベラーズハットを深めに被り、全身を真っ黒のマントで覆っている男が一人、こちらへ歩いてきていた。