第四章(2)
「お待たせ」
ボートを屋根に着け、女の子の元へと歩み寄る。
「貴方、面白い能力を使うのね」
「ん? ああ、使うって言ってもまだ全然使いこなせないんだ。さっきのもやっと覚えたばっかりだし。っと、そういえばきみのボートは?」
「ないわ」
「へ?」
ないってなんだ? ああそうか、ここから近いから必要ないのか。だったら言ってくれればよかったのに。
「近いんだったらボートはここに置いておこうかな」
「一時間くらいね」
……さっぱりわからない。殆ど水に覆われたこの場所を一時間かかるって……泳いできたって事か?
「きみは……どうやってこの場所に?」
そう問いかけると女の子は聞き取れないくらい小さな声で何かを呟いた。
その瞬間、水面が一瞬で凍りつく。東の方向へ、一本の道が作られる。まるで一匹の龍の背のように。
「歩いて来たわ」
学校の授業で色々能力について教わってはいたが、こんなの見た事も聞いた事もない。
液体を凝固させる能力はあったような気がするが、完全に凍結させているこれとは違うだろう。
いくら考えてもわからないものはわからない。まぁ後で聞いてみればいいか。
「と、とりあえず俺のボートで行こうか。場所の案内お願い」
二人でボートに乗り込むと彼女の指示通りにボートを走らせる。聞いた話によれば東宿にあるらしい。
「えーと、名前聞いてもいいかな?」
女の子は揺れる水面を眺めたまま答えた。
「空。姫宮 空」
「そら……良い名前だね。空って呼んでいいかな?
ちらっと空の方を振り向くと、こくんと頷いた。
「俺の名前は楠 浩人。好きなように呼んでいいよ」
その後は互いに無言のままボートを走らせ続けた。すると東宿の看板が目に入ってくる。
「ここからどう行けばいいかな?」
「もう少し真っすぐ。それから左。そうすると高いビルが見えてくるの。そこにあるわ」
「りょーかい」
言われた通りに進めていくと背の高いビルが見えてくる。根元から半分くらいまでは水の中だが。
少し潮が満ちて来たのか、先程よりも水面が上がっている気がする。俺はそのままボートをビルに寄せた。
「ここで大丈夫かな?」
俺の問いかけにこくりと空は頷く。そしてそのまま……あれ? 空はそのまま中へ入ってしまった。
急いで荷物をまとめ、後を追う。その前に……俺は周囲を見渡した。これだけの巨大なビル群をここまで呑み込んでしまう程の水位の上昇。
この場所も今までは人々が行き交い、中心として機能していたのだろう、でもそんな形跡は今となっては残っていない。
改めてビルを見渡した。もう一つ上の階周辺にシミの様な跡があるのを見つける。恐らく満潮時にはあそこまで水が行くのだろう。
この高さでは碇は意味をなさないであろう。俺は長めに余裕を持ったロープを手に取ると、空の後を追う様にビルの中へ入って行く。
そこは水に浸かり、かつての面影も殆どなくしてしまっているであろうオフィスのフロアだ。
手に持ったロープを比較的頑丈そうな机に結び付ける。これで流されなければいいのだが……。
空の姿を探してみたが、既に別の階へと移動してしまっているのだろう、見つける事が出来ない。
潮の満ち引きを考えると更に上の階である事は間違いない。俺はフロアを抜け、階段で上の階を目指した。
五階程上に上がった所でフロアのドアが開き明かりが漏れている事に気づく。俺は恐る恐る中を覗き込んだ。
「お、お客さんとは珍しいね」
中にはてっきり空が居るものだと思っていた俺は予想外の出来事に、びくっと身体が飛び跳ねた。
「え、ああっ、えと、すいません勝手に入ってきて」
「ああ、大丈夫。空から話を聞いてるよ。とりあえず脱いだらどうだい?」
目の前に現れたのは、背が高く真っ白な白衣に身を包んだ男だった。初めは空の親父さんかと思ったが、年が若すぎる。
俺はあっけに取られ固まっていると、その男は俺に白衣を放り投げてきた。
「乾くまでこれを着てるといい」
「すいません、ありがとうございます」
俺は一緒にスラックスも受け取るとフロアの端の方でいそいそと着替え始める。
替えのパンツは幸いにも濡れておらず、これでノーパンで過ごす事だけは回避出来た。
「荷物濡れてるだろう? これを使って乾かしたまえ」
古いタイプのドライヤーを差し出され、それを受け取ると、リュックから濡れたものを取り出し机に並べていく。
勢いで通電させてしまった端末も、もしもの可能性にかけ丁寧に乾かしていく。
「ハハハ、また偉く派手に濡らしたね」
「あんまり笑いごとじゃないですけどね……」
乾かせるものは乾かし、洗濯が必要な物は洗濯機を貸してもらえた。淡水なら気にしなかったのだが海水だとそうはいかない。
一通り洗濯機の中にぶち込み、ボタンを押して洗濯を始めた。
「コーヒーでいいかな?」
洗濯機の前でぼーっとしてるとフロアから声が聞こえてきた。
「あ、すいません。ありがとうございます」
俺はフロアへ戻ると机の上にコーヒーが置かれる。
「まぁ掛けたまえ」
「はい。頂きます」
引かれた椅子に腰を下ろすとコーヒーをごくっと煽った。
猛暑の中での移動に身体が水分を欲していたのだろう、喉を流れる心地いい刺激に身体が潤っていく気がした。
「しかし、悲惨な目にあったようだね」
「いきなり水にドボンするとは思ってもいませんでした」
「ハハ、まあゆっくりして行くといいよ。場所が場所だけに大したもてなしは出来ないがね」
「いえ、これだけしてもらえたら十分すぎますよ」
「さて……少し話を聞いてもいいかな? あの子が客人を連れてくるなんて今までなかったからね。戻って来たと思ったらいきなり「濡れた男を連れてきた」って言って上の階に行ってしまったんだ」
「な、なるほど……えーと、何から話したらいいのかな。俺が水の中に落ちそうな所を助けていただきました」
「ふむふむ。見たところこっちの人間ではなさそうだね。上から来たのかい?」
「そうなりますね。ちょっとした旅行って言うかなんて言うか」
「ふーむ。何か訳ありって顔してるね。ああそうだ。まだ名前を聞いてなかった。教えてくれるかい?」
「楠、楠 浩人と言います」
「浩人くんね。私は宮下 要。一応ここのラボの主任をしてるよ」
いまいちラボと言う言葉にピンとこなかった俺は辺りを見回してみる。
フロアに並べられたデスクの上にはPCや物が雑多に置かれており、とても何かの研究をしているようには見えない。
今話している宮下さん以外、他に人も居らず本当にラボなのかと疑うように眺めていた。
「ふーむ。まぁ無理もないか。こんな所だが他にも数名、研究者がいるのだよ」
「いえ、別にそんなつもりじゃ」
恐らく顔に出ていたのだろう。思っていた事を見透かされ慌てる俺に、宮下さんはこう続けた。
「ここではね、アクアシードの研究と特殊能力についての研究をしているんだ。まぁ僕は本来人工知能が専門なんだけどね」
「あの、失礼だったらすいません。研究するのならわざわざ不便な下界でしなくてもいいんじゃないですか?」
俺は思った事をそのまま口に出す。それくらい今居るここは、研究には向かないであろう場所に思えた。
「研究だけで見たらそうかもしれないなぁ。でもねこっちはこっちで都合がいい事もあるのだよ」
「そういうものなんですね」
いまいち理解出来なかったが、ここはそういう事にしておこう。