第四話 「力の覚醒」
次の日の朝、目が覚めた徹矢は上機嫌であったと言えた。
理由は当然夢を見なかったこと、それは何よりも徹矢にとって嬉しいことであった。
どうやら徹矢の首に下げられたペンダントは確かにその効果を発揮しているようだった。
「徹矢兄、今日は朝からご機嫌だね」
「……そうだな、結構気分はいいぞ」
理子と並んで朝食を食べながら話を続ける。
何気ない会話、今まではそんな会話でさえ全てが夢で見ていた通りのものであったのだ……だから夢と同じ話だと多少辟易とした感覚があった。
しかし今朝に限ってはそれがない。
それは喜ばしく、徹矢は確かに浮かれていて理子にはそれが筒抜けであったようだった。
言い当てられた徹矢としても理子に隠し事をするのは難しいと理解し、また特に否定することでもなかったため素直に頷くのだった。
「そっか、それなら私も嬉しいかな」
「……変な奴だな」
「わ、そういうこと言う!?」
憎まれ口を叩き、口をとがらせる。
そんな会話をしながら食事は終わり、徹矢と理子は朝の支度を終えて自分たちの通う高校に向かって歩き出すのであった。
歩きながらでも、理子の口からは様々な話が飛び出し、徹矢はそれに対して相槌を打っていく。
それを繰り返しながら、徹矢は理子に言葉を漏らす。
「朝も嬉しいとか言ってたけど……今日の理子はえらく楽しそうに話すんだな」
「ふへ?」
歩きながら話すこと、それ自体はいつもと変わらないもの。
だけど、話す理子の声のトーンや、話し方そのものがいつもよりも楽しそうだと、徹矢には見えていた。
理子が徹矢のことをわかるように、徹矢もまた理子のちょっとした変化がなんとなくではあるが気づくことができていた。
言われた理子はと言えば驚いたように目を丸くして、それから自覚したかのように声を漏らして頷いた。
「うん、今日の徹矢兄との話はいつもよりも楽しいから」
「あ? いつもと同じだろ?」
「全然違うよ、徹矢兄だってそれくらいわかってるでしょ?」
「む……それは」
問われた徹矢としても思い当たる節がないわけではなかった。
いつもの徹矢であれば会話の内容がわかっているから、返答も用意しているものになる。
極論、理子の話を一切聞いていなくてもその話の内容に合わせることができているのだ。
それはもう会話とは言わないだろう、徹矢としても反応がわかりきっているから特に感慨もない……そもそもが会話を楽しむことができなかった。
けれど今はそうじゃない、だからこそ徹矢は楽しいと思うし、片方が楽しそうであればもう片方も楽しく感じる……つまりはそういうことなのだ。
「色々と反省しないとな……ま、それは置いておこう」
今はただこんななんでもない平和な会話を楽しみたいと徹矢は思い、そんな徹矢の姿を見て理子もまた内心で喜ぶのであった。
他愛のない話をしながら二人歩く道、そんな中でふと理子が徹矢に問う。
「そういえば徹矢兄、今日の放課後大丈夫かな?」
「へ? ……って、そういえば買い物につき合う約束していたな」
昨日の昼食の直前にそのような約束をしてしまったことを徹矢は今になって思い出す。
深く考えず二つ返事に了承してしまっていた。
しかし、非常に時間が惜しいこの現状で買い物につき合うほどの余裕があるのだろうか? そんな徹矢の内心を読み取ったのか、理子が表情を曇らせた。
「あ……ひょっとして都合悪いの?」
「……う」
表情の曇った理子を徹矢は気まずい表情でしか見ることができない。
「……悪い」
それでも答えを出すのであれば、やはり優先順位というものがある。
自分の中にある神の欠片、それを制御できるようになるためにも時間を費やさなければならなかった。
「……そっか、残念」
口調は軽いものではあったが、理子の表情は暗くなってしまっていた。
完全に徹矢の自業自得である以上徹矢としては謝るほかない。
「うん、徹矢兄にも用事とかあるもんね、仕方ない……か」
そう言って笑う理子の表情は、先ほどとは違って淋しそうな笑みだった。
それがわかっていても徹矢にはどうすることもできなくて、人知れず小さなため息を吐き出すのだった。
「自業自得とはいえ……色々駄目だろ、俺」
ぼやき、沈み込んでしまう徹矢だが、それを理子に見られていると気づいてさらに気分が落ち込んでしまう。
さらに理子が慰めようと声をかけるものの、現状の徹矢にとっては逆効果にしかならず、学校に到着するまでその悪循環が続くのであった。
到着してからは精神的に持ち直し、普通の受け答えができる程度には回復していた。
「それじゃあまた後でね、徹矢兄」
「ああ、後でな」
互いになんとか笑顔を浮かべて二人はそれぞれの教室に向かった。
教室へ入り、クラスメイトに挨拶をしながら自分の席に着き、そこで徹矢は大きくため息をついたのだった。
「やっちまった」
精神的に回復したとはいえ起こってしまったことは変えられない。
しかし、先が読めなくてままならない……それは徹矢の望んだものでもある。
未来を知っていて、それを変えることができないままならなさとはまた違ったもの……徹矢が求めていたものの一つでもある。
何にせよ徹矢の失敗はすでに起きてしまったことであり、変えることはできない……ならば大切なのはこれからの行動なのだと、徹矢は自分に喝を入れる。
とにかく自分の力の制御を覚えて、それから今日のことを含めて理子に埋め合わせをしよう……そう徹矢は決めたのだった。
気力を完全に取り戻した後は、教室内の友人と他愛のない話をしながら学校での時間を過ごしていく。
途中抜き打ちテストというありがたくないイベントがあったものの、徹矢にとっては今朝と同じくままならない日常で、それはそれでありだと前向きに考えるのだった。
昼休みは理子と合流して透子の用意した弁当を二人で食べ始めるのだった。
「なあ、理子」
「ん、なーに?」
食事をしながら、徹矢が理子に話しかける。
徹矢としてはまだ少し複雑な思いを持っていたものの、対する理子は既に気にしていないといったように見えた。
「今朝の話だけどさ……たぶん、今日だけじゃなくてこれから二、三日はちょっと忙しいと思うんだ」
「そうなの?」
「ああ、だからそれが終わってから埋め合わせはする……荷物持ちだろうが財布役だろうがなってやるから」
「別にそこまで気にしてないのに……でも、ありがと」
徹矢の言葉に理子は苦笑。
だけど、言葉の最後に見せたのは嬉しさを隠せない綺麗な笑顔であった。
「けど、そんなに大事な用事なの?」
「そうだな……俺にとっては今後の将来に左右するくらいに重要だよ」
「そんなに!?」
実際、徹矢の言っていることは的を外していない。
それは単純な未来の話だけでなく、死後にまで続くほどの話であるという点を伏せてであるが。
「……うん、わかった、徹矢兄がそんなに言うんだったらきっとそうなんだって思う」
でも、と理子は言葉を続ける。
「途中まで一緒に帰るくらいはいいよね?」
「ん? まあ、それくらいなら構わないよ」
そんな約束をしながら二人は昼食を終え、放課後までの時間を過ごすのであった。
そして放課後、徹矢と理子は下駄箱で合流して靴を履きかえる。
徹矢は例の公園へ、そして理子は買い物のためにそれぞれ同じ道を歩いて行く。
「ていうかさ、理子」
「なに?」
「お前、彼氏とかいないのか? ……というよりは作ろうとしないのか?」
彼氏の有無に関して言えば、同じ家に暮らしている以上聞くまでもないことだと考え、問いかけなおす。
それに対する理子の返答は、徹矢に対するジト目であった。
「それ、そのまま徹矢兄にも返すよ」
「むぐ……藪蛇だったか」
恋人がいないのは徹矢も同じことで、作ろうといった行動を見せなかったのは理子と一緒である。
徹矢としては、恋人がどうのというよりもまず自分の能力の件で頭がいっぱいであったことが何よりも原因なのであろうが、当然それを理子に言うことはできない。
「そういうことに目を向けてなかったのは確かだけどな……改めて考えてみても、そういう対象がいないってのが正直なところだ」
「私も似たようなものだよ……同じクラスで気にしてる人くらいはいるけど、それだって恋愛とは程遠いからね」
「ふぅん……ま、兄としては妹にいい人ができるかは気になるところだし、心配するところなわけだよ」
「それは妹からしても同じだよ」
互いに苦笑をしながらの軽口。
その後も特に意味のないような会話をしながら、ふと徹矢の姿を見ていた理子が目を見開いたような表情を見せて徹矢は眉をひそめた。
「どうかしたか?」
「いや、徹矢兄がおしゃれしてたからちょっと驚いて」
「へ? ……ああ、これのことか」
一瞬理子の言葉の意味を分かりかねた徹矢であったが、レンにもらったペンダントを首から下げていたことを思い出す。
制服の襟に隠れていて目立つことは無いが、ペンダントのチェーンを目ざとく理子は見つけたようだった。
「別におしゃれのためにつけているわけじゃないんだけどな」
服の下に隠れていた部分を取り出しながら徹矢が呟く。
精巧な作りをした本体を目にして理子は少し目を輝かせた。
こういうものが好きなあたりは理子もしっかりと女の子をしているんだけどななどと内心で思いながら理子にそれを見せる。
「うわ、凄い……これどうしたの?」
「ああ……昨日ある人からもらったんだよ」
「もらったって……これ絶対結構な値段するよ、ふつう貰えない」
徹矢よりもこういったものに対しての関心が強いであろう理子が断言する。
おそらくはそうなのだろうと徹矢も思うのだが、渡された理由はやはり言うことができなくて、適当にぼかして答えるしかない。
「御守りみたいなもんだって渡されたんだよ……個人的には効いてる気がするよ」
間違いではない言い方をしながら徹矢は答える。
実際徹矢にとっては御守りのようなもので、効果もはっきりと出ているのであるから嘘ではないだろう。
「もしかして……女の人? さっきの彼氏とかの話ってこのための伏線? フラグ?」
「フラグってお前……というか、貰ったのは男からだよ」
「男の人からこんなものを? ……もしかして、徹矢兄に彼女がいないのはそういう趣味なの?」
「断固としてそれは違うと言わせてもらうぞ……おぞましいこと言ってるんじゃねえ」
「……うん、私もできれば兄にはノーマルでいてほしいかな」
想像するのも想像されるのも嫌であったのだろう、二人とも疲れたような表情で呟くのだった。
想像を払い捨てるように理子が首から下がる徹矢のペンダントを引っ張り、観察する。
身長の関係上ペンダントを引っ張られたことで徹矢の首も下がってくる。
「ちょ、理子お前」
「あ、ごめん徹矢兄……よく見てみたかったから、駄目かな?」
「いや、見る分には構わないんだけどな……一言言ってくれ」
「あはは……ごめん」
さすがにもう一度同じようなことはされたくないため、徹矢は特に抵抗せずにペンダントを自分の首から外した……そう、外してしまった。
それが決定的な……いや、致命的な事態を引き起こすことになってしまう。
「っ!?」
その事態、誰に落ち度があったのかと問えば、レンと徹矢の両方であったといえるだろう。
レンはその首飾りを指示なく外すなと徹矢に伝えることをしなかったし、徹矢もまたペンダントの能力を知っていて容易に外してしまった。
伝えてなかったことはレンのミスだが、効果を発揮したものを早々に外したりせず常に身に着けておくだろう、徹矢の性格を考えれば外すことは無いだろう、という予測を立てていた。
その公算は決して低いものではなく、徹矢にしても普通であれば外すことなどしなかったはずである。
だけど、この場には事態を引き起こす誤算が二つ存在していたのだった。
一つは理子の存在、理子に頼まれれば徹矢としても少しの間ならばと抵抗なくペンダントを外させることが可能だった。
そしてもう一つの誤算は、徹矢に眠っていた神の欠片の力を過小評価してしまっていたこと。
もちろんレンはその能力が非常に強力なものであり、人の身に余ることも十分に理解していた……だけどそれはある意味では仕方のないことかもしれないが未来確定という能力の性質に向けられたものであった。
強すぎる性質を持っていたために、それを起こすためにどれだけの力が使われているのか、その単純な力の総量を見誤っていた。
力の発生を制御できていない現在、徹矢の中でその力は常に渦巻いてる状態であり、それをペンダントで一時的に抑えていた……いや、この場合は堰き止めていたと表現した方が適当であろう。
そして当然、堰き止められていたものを何の覚悟もなしに外してしまったとしたら……その答えがこの事態であった。
「あ……」
その状況を一言で表すとすれば、白昼夢という言葉が正しいだろう。
いつもと少し違う、徹矢の主観ではなく第三視点で夢を見ているような状態であった。
徹矢の視線の先にいるのは、少し前を歩く自分と理子の姿。
そんな二人、そして見ている徹矢自身の後ろから聞こえてきたのは何かの激突するような大音響、それに次ぐ女性の悲鳴。
振り向いた視線の先、そこにはよそ見か居眠りか理由は不明だが歩道へと飛び出したトラック、その近くで膝をついている女性……そして、轢かれたのであろう小さな子どもの姿。
誰が見ても手遅れな光景……その瞬間を見て、徹矢は白昼夢から目覚めたのだった。
「ちょ……徹矢兄!?」
目が覚めた瞬間には、ペンダントを受け取った理子を置いて後ろに向かって駆け出していた。
背後から理子が呼びかける声を徹矢は聞いていたが、それを全て無視してただ今まで歩いていた道を駆け抜ける。
断じて眠っていたわけではないと徹矢は思う、いつもと違い主観がずれていたなどおかしい点はいくつかあった……だけど、それがいつもの夢と同質のものであることだけは理屈を抜きに理解してしまう。
そしてそれが本当であるとすれば、今見た光景は未来の光景である……それも極々近い未来を示した光景。
確実に今の事故は起こる……その犠牲になるのは小さな男の子、そんなことを徹矢は赦せるわけがなかった。
「クソッ!」
徹矢の口から悪態が漏れる。
視線の先に見えた女性と子どもは思いのほか遠い場所にいた、普段の徹矢であれば特に気にする必要のない距離……しかし、今の状況ではそれが途方もなく遠くに感じてしまった。
それが起きてしまうまであと何秒なのだろうか……駆ける徹矢の視界の先、女性の隣を歩いていた男の子が唐突に前へと走り出してしまう……その光景に徹矢の頭が果てしなくマズイと警鐘を鳴らしていた。
夢で見た被害者はあの男の子一人だけ……そうであるならば、母親と距離が離れた今いつトラックが現れても不思議ではない状態となってしまっている。
「止めろっ!」
叫んだところでどうにもならないのは徹矢も理解していた……それでもなお叫ばずにはいられなかった。
白昼夢で見たような光景など絶対に見たくはない。
自分が持っているのは未だに制御のできていない能力、レンはそれを未来確定と呼び、夢を見た時点で避ける道には行けないと語っていた。
そしてそれを回避することができるとしたら、それは本人か同質の能力を持ったものしかあり得ない。
後者はそんな都合の良い人物などこの場にいるはずもない、ならばそれを為すことができるとしたらそれは徹矢自身だけである。
だからこそ徹矢は確定した未来を否定する……そして同時に、男の子が助かる未来を願った。
あの時自分が生き残る未来を願った時と同じように、男の子が助かるという未来を。
自分の能力が望んだ未来を掴み取る能力であるとするならば確定した未来を否定するだけでは駄目なのだ、その能力の性質上掴み取りたい未来を選ばなければならない。
だからこそ、未来の否定と同時に、新たな未来を願わなければならない……そのことを徹矢は直感で理解していた。
「ふざ……」
だけど、祈りは届かない。
徹矢の視界の端にトラックの姿が映ったように感じた……それは速く、徹矢が今の場所からどう動いたとしても間に合うような距離ではない。
届かない、どれだけ急いだとしてもあと少しの距離が……絶対的に埋まることのない溝として存在している。
数瞬先の未来、あの白昼夢と変わらない光景が広がることは避けようがない……そう思えるほど絶望的な光景であった。
もう何をしても無駄なのだと、徹矢には世界が嗤っているように感じた。
「けるなぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
それでも、徹矢は認めない。
こんな未来など認めるものかと声を張り上げる。
終わる未来を否定し、新たな未来を祈り続ける……今の自分にできることはそれのみであったから、それだけを狂わんばかりに願い、祈る。
その願いは、自分が死に瀕した時よりもさらに深く、病的と評するまでのもの。
神の欠片は宿主の影響を受ける……ならばそれほどの願いと祈りを受けた欠片はどうなるか? そう、起こされたのは小さな奇跡。
「え……」
徹矢の中で何かがカチリと嵌るような感覚を覚え、その瞬間視界が激変した。
景色がモノクロへと変化し、世界が停止した。
「これ……は……」
不可思議な現象、何が起こっているのか徹矢には理解ができない。
いや、どうしてこうなっているのかはわかる……自分の中にある力以外にあり得ない。
同時にそれを理解してこの能力がどれほど恐ろしいものなのか改めて体感してしまった。
望んだ未来を掴み取る……そのためであったらここまであり得ない現象さえも起こしてしまうのかと。
しかしそれらのことを考えるのは後でいい、今はとにかく男の子を助けるのだとモノクロの世界を駆け抜ける。
絶対に埋まらなかったはずの距離を埋め、男の子の元へと辿り着く。
「届……いた!」
祈りが届いた小さな奇跡。
それを成し遂げたことに徹矢は誇ってもいいだろう。
だけど、そんな都合のいい奇跡はそこまでしか続かなかった。
ミシリ、と何かが軋むような不吉な音が世界に鳴り響いた。
「っ……!?」
世界が色を取り戻しかけ、そして徹矢の身体から力が抜ける。
膝をつき、男の子と一緒にトラックの前で止まってしまう。
ある意味では当然とも言っていい状態である……時間を静止させるような能力を使用して、なんの対価も必要ないということなど有り得ない。
現状の徹矢であれば、むしろ男の子のもとまでたどり着くことができたことさえ奇跡なのだ。
「そん……な」
徹矢の起こしたことは偉業と言っていい。
だけど結果としては事態を悪化させている、犠牲者が二人という状態へと。
「クソッ!? こんなこと、ふざけんなよ!」
ほんの少しの希望、そして大きな絶望。
地獄を見せられた徹矢は自分しか動けない壊れかけた世界の中でただ吼える。
「終わって……たまるか」
そしてどこまでも足掻くというように徹矢は動き出す。
すぐそばに迫るトラックを支えに徹矢は立ち、男の子の位置を少しずつ動かし、安全圏へと移動させていく。
世界が悲鳴を上げている……止められていられるのはあとわずかだろう。
さらにこれが終わった後には現在の状況よりも大きな反動があることも想像に容易かった。
「それ……でも」
世界が色づいて行く、静止していた世界がゆっくりと動き出していく。
真っ先に動き出したのは当然トラック、それでもその動きは未だ緩慢だった。
元の速度に戻るまで、その最後の一瞬まで徹矢は動き続け、倒れた……必死に、怪我をすることがないように男の子を抱きしめながら。
そして、トラックが通過する暴力的な音と圧力が徹矢の背に響いた。
それは同時に、徹矢と男の子がトラックのルートから外れ、生還したということでもあった。
この時、徹矢は確かに自分の確定させていた未来を、自分の意志で変えたのだった。
しかし、その代償は決して軽くない……トラックの音や衝撃、悲鳴などが響く中、徹矢の意識は何の抵抗もできないまま落ちていく。
事故、そして徹矢の状況から慌ただしくなるその現場……そこに彼がやって来る。
「畜生……馬鹿野郎が」
この場で遅れた正義の味方にできることなど既にない。
間に合わなかったことへの憤り、徹矢が能力を制御したことの喜び、無謀な行動をした徹矢への怒り、これから先のことへの焦り。
様々な感情を抱えながら、レンはただその場で徹矢が救急車に運ばれていく光景を見ていることしかできなかった……。
予定外のそんな一連は、これから先の予定だったものを見事なまでに打ち崩した……結果、次に目が覚めた時に徹矢は最後の選択を迫られることになる。